All Chapters of 秘書と愛し合う元婚約者、私の結婚式で土下座!?: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

買い物を終えて家に帰ると、すでに夕方だった。寝室に戻り、買ってきたばかりのジュエリーを服に合わせようとしたその時、スマホが突然鳴った。相手が拓也だと分かると、茜の顔に喜びの色が浮かび慌てて通話に出た。「拓也様、どうして……」拓也は冷たい声で彼女の言葉を遮った。「約束した件は片付けた。君も言った通り、あの件はなかったことにしてくれ。さもないと、どうなっても知らないぞ」相手の口調に潜む脅しを感じ取り、茜は心をこわばらせて低い声で言った。「拓也様、ご心配なく。必ずお約束は守りますわ」話が終わらないうちに、電話は切れた。茜はスマホをベッドに叩きつけ、顔を青ざめたり赤くしたりしていた。拓也が相田家の跡継ぎでなければ、あんな男見向きもしないのに!自分を振り払おうなんて、そう簡単にはいかないわよ!それから数日間結衣は法律事務所の設立準備と大学院入試の資料作成に追われていた。金曜の夜彼女が本を読んでいると、突然父の明輝から電話がかかってきた。「結衣、おばあちゃんが昨日階段から転落してさ。今ちょうど手術が終わったところなんだ。時間がある時でいいから、見舞いに行ってやってくれないか」それを聞いた結衣は顔色を変え、時子の入院先を確認すると急いで着替えて病院へ駆けつけた。病室に駆けつけたのは三十分以上経ってからだった。ドアをノックするとすぐに中から開けられた。ドアを開けたのは五十代半ばの女性だった。結衣の姿を認めると、一瞬驚いたようだったがすぐにその目に喜びの色を浮かべた。「お嬢様!いらっしゃったのですね!」「和枝さん、おばあちゃんが骨折したと聞いて、お見舞いに来ました」内田和枝(うちだ かずえ)は汐見本家の使用人で、二十歳の頃からずっと本家で働いている。汐見家にとっては古株であり若い世代からも慕われていた。「奥様はたった今、お目覚めになったところです。どうぞ、お入りください」結衣は頷き、病室へと足を踏み入れた。時子は彼女の姿を見るとその目に喜びの色を浮かべたがすぐにそっぽを向いて言った。「いっそのこと、わたくしが死んでから弔問に来てほしかったよ」結衣が自分の言うことを聞かずに汐見家に戻ろうとしないことを思うと、時子の心には怒りが込み上げてくるのだった。結衣はベッドのそばに腰を下ろし
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第112話

それに以前、静江が結衣はろくでなしで毎日不良仲間とつるんで問題ばかり起こしていると愚痴をこぼしていた。しかし大学受験の結果が出ると、静江が日頃から褒めそやしていた優等生の満の点数は、中堅国立大学にようやく届く程度だった。一方、結衣の点数は県内トップクラスで成績優秀者として名前が公表されるほどの高得点をたたき出していた。静江は自分の偏った愛情を反省するどころか、「満は本番で実力を発揮できなかっただけ」「結衣はただ運が良かっただけ」と強引に言い張った。時子は大勢の前でわざと静江の面目を潰すように、「では、どうして満はその幸運に恵まれなかったの?」と鋭く詰め寄った。二人は気まずい空気のまま別れ、それ以降静江が時子を訪ねることはほとんどなくなった。大学の志望校を決める際も、汐見家の三人は誰一人として結衣の相談に乗ろうとせず、むしろ満を連れて旅行に出かけ「彼女の気分転換が必要だ」と言い放っていた。結局結衣は一人で帝都大学を志願した。一方、満は多くの教師に相談した末に明らかに学力不足の大学ばかりを受験し、結局全て不合格に終わった。「浪人は嫌だ」と言うと、静江と明輝は再び多額の金を払って留学業者に頼み彼女を海外の大学に送り込んだ。結衣が受けてきたこうした扱いを思い出す度、時子は怒りと悔しさで胸が締め付けられるようだった。それなのに当の結衣は芯の強い子で、「縁を切る」と言ったら本当に汐見家との関係を断ち、ここ数年一度も顔を見せようとしなかった。時子にはわかっていた。結衣はもう明輝と静江に何も期待しておらず、だからこそ汐見家に戻る気などさらさらないのだと。だが時子としても結衣のものがすべて満の手に渡るのをただ黙って見ているわけにはいかない!結衣が争わないのならこの老婆が代わりに戦ってやる!結衣のものは結衣のものだ。誰にも渡さん!時子の肩が激しく上下し、明らかに本気で怒っているのがわかる。結衣は慌ててその背中をさすった。「おばあちゃん、手術したばかりなんだから、そんなに気持ちを昂らせないでください」時子は深く息を吸い、結衣を見つめて言った。「見ての通り、このおばあちゃんは今ベッドから動けん。お前が戻ってきて、面倒を見てくれないのか?」時子の真剣な眼差しに結衣は一瞬躊躇ったが、やがてうなずいた。「わかりました。お
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第113話

「ええ。おばあちゃんはどの病室に?」「802号室です」ほむらは頷いた。「覚えてるよ。手術は僕が担当したからな」「こんな偶然があるなんて。ほむらさんが祖母の担当医だったんですね」ほむらは思わず唇の端を上げた。「僕も驚いた。おばあちゃんの容態はどうだ?」「元気ですよ。さっきまで私を叱る元気もありましたし、数日もすれば退院できると思います」先ほどの時子の元気な叱責ぶりを思い出し、結衣も思わず笑みをこぼした。ほむらは彼女の隣に立ち、その口元が綻ぶのを見ていた。普段はどこか冷たい印象の横顔が、その瞬間ふわりと柔らかな表情に変わる。彼の視線は、知らず知らずのうちに彼女に引きつけられていた。数秒が経ってようやく彼が口を開いた。「これから帰るのか?」「はい」「下まで送ろう」結衣は慌てて断った。「いえ、大丈夫です。車は入院病棟のすぐ前に停めてありますから。ほむらさんもお忙しいでしょうし、お邪魔はしません」ほむらも無理強いはしなかった。「分かった。帰りは気をつけろよ」「はい、ありがとうございます」エレベーターがすぐに到着し、結衣はほむらに別れを告げて乗り込んだ。目の前でエレベーターのドアが閉まるまで見送ってから、ほむらはようやく視線を外して踵を返した。翌朝早く、結衣は朝食の支度を終えると時子の病室にキッチンがあったことを思い出し、市場で食材を買い込んでから車で病院へ向かった。病室に着くとちょうど医師が回診に来ているところだった。ほむらは大荷物を抱えた結衣の姿を認めると、彼女に歩み寄りその手から買い物袋を受け取った。「持つよ。すごい量だな、どうしたんだ?」「おばあちゃんの病室にキッチンがあるので、これからはここで三食作ってあげようと思いまして」二人が話している間に、ほむらはすでに結衣から食材を受け取りキッチンへと運んでいた。病室に残された、ほむらに同行していた数人の研修医と看護師たちは信じられないといった表情で顔を見合わせた。朝が早すぎて幻覚でも見ているのだろうか?あのほむら先生が自分から女性の荷物を持つなんて?あれがあの、いつも仏頂面で女性には目もくれないはずのほむら先生だというのか?食材を調理台に置きながらほむらが口を開いた。「おばあちゃんは、しばらくは油っこい
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第114話

結衣はほむらの顔に少し興味はあったが、彼と付き合いたいと思うほどではなかった。時子は粥を一口啜って落ち着き払った様子で口を開いた。「あんたが興味ないんなら、まだ彼氏いない従姉妹さん、何人かいるだろう?今度、ほむら先生を紹介したら、誰か気に入る子おるかもよ」結衣は言葉を失った。結衣が何も言わないのを見て時子もそれ以上は追及せず、のんびりとお粥を啜り続けた。やはり孫娘がそばで世話をしてくれるのは違う。このお粥の味は外の料理人が作ったものにも引けを取らない。お粥を飲み終えて時子がひと休みしようとしたその時、病室のドアが開けられた。静江と明輝が見舞いの品を手に病室へ入ってきた。結衣の姿を認めると、静江は無意識に眉をひそめてその目には嫌悪の色を浮かべた。「どうしてあんたがここにいるの?」先日の、結衣の法律事務所の前で言われた言葉を思い出すと静江は今でも怒りが込み上げてくるのだった。結衣を見るその眼差しにも怒りが宿っていた。結衣は冷淡な表情で言った。「おばあちゃんの面倒を見に来ただけですわ」彼女は椀を手に、静江のそばを通り過ぎてキッチンへ向かおうとした。すると相手が冷笑を浮かべた。「この前、汐見家で食事に誘った時、『もう汐見家とは縁切りだ』って言ったくせに。今さら猫かぶって、何のつもりなのよ?」言葉が終わらないうちに、時子に苛立たしげに遮られた。「わたくしが結衣に来て面倒を見るように言ったのだ。何か文句があるなら、このわたくしに直接言いなさい」静江の顔が曇り時子を見て言った。「お義母様、もし介護人が必要でしたら、私たちが探しますわ。どうしてわざわざ彼女を呼ぶ必要があるのですか?あの子に人の面倒が見られるとでも?」時子は冷ややかに彼女を見つめた。「結衣が見られないなら、お前が見るとでも言うのか?結衣を帰らせてもいい。代わりにお前がわたくしの身の回りの世話を全部しろ。どうせお前はうちの嫁なんだから、面倒を見るのは当たり前だろうが」静江は言葉に詰まった。彼女の顔がこわばり、やがて無理やり硬い笑みを浮かべた。「お義母様、ご存じでしょう?私、人の面倒を見るなんてとてもできませんわ」「できないなら黙っていなさい。わたくしのことに、お前が口を出すな」静江は下唇を噛み、その顔は青くなったり白くなった
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第115話

静江の眉間に、一瞬嫌悪の色がよぎった。彼女が最も嫌うのは誰かが結衣を自分の実の娘だと言うことだった。いっそこの娘がいなければいいとさえ思っていた。心の中の苛立ちを抑え込み静江は冷たく鼻を鳴らした。「あの子は今や汐見家なんて目もくれませんわ。この間会いに行ったら、偉そうに汐見家とは縁を切ったなんて言って、家に食事に来なさいと誘っても、嫌だと言うんですもの」要するに結衣のためにパーティーなど開くつもりはない、ということだ。時子は頷いた。「そう。満のパーティーは、いつやるつもりだね?」時子が和光苑を貸すことに同意したのだと思い、静江の顔がぱっと明るくなった。「来週の日曜の夜ですわ」和光苑は時子の先祖代々の屋敷で、敷地面積は数千平方メートルにも及ぶ。清澄市郊外の高級住宅地に隣接する立地だ。その住宅街を開発する際、デベロッパーが和光苑を20億円で買い取りたいと打診してきたが時子は首を縦に振らなかった。結局、住宅街は和光苑を避ける形で隣接地に建設されることになった。和光苑の最も有名な点は、館内に数多くの骨董品が収蔵されていることだ。いずれも時子の先祖代々から伝わる品々で、一点数億円の価値があると言われている。和光苑に一体どれほどの骨董品が存在するのか、汐見家の者ですらその全容を把握していない。おそらく、時子ただ一人だけが知る秘密だろう。時子は現在一年の大半を和光苑で過ごし、残りの期間を汐見家の本家で過ごしている。和光苑にいる間彼女は基本的に誰とも会おうとせず、汐見家の者でさえ祝日などの際に「見舞い」と称して訪れるのを許されるだけだった。静江も明輝と共に何度か足を運んだことがある。その度に和光苑の壮麗さに息を呑み、今なおその光景が脳裏に焼き付いている。もし満の帰国パーティーを和光苑で開催できれば清澄市の名士や富豪を一堂に集めることができるに違いない。そうなれば満だけでなく自分と明輝の面目も立つことだろう。「分かった」時子が承諾したと思い込んだ静江は慌てて口を開いた。「お義母様、パーティーの準備には数日かかりますゆえ、今すぐ和光苑の鍵を頂戴できませんでしょうか?戻り次第、すぐに準備に取りかかりますので」その浮かれ様を見て、時子は冷や水を浴びせるように言い放った。「わたくしも来週の日曜、結衣の
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第116話

時子は嘲笑うように言った。「つまり、養い子一人を虐められないように、実の娘を虐めろとでも言うのか?静江、結衣はお前たち夫婦に何一つ悪いことをしていない。お前たちこそあの子にひどい仕打ちをしたのだ!」時子が本気で怒りを露わにしているのを見て明輝は慌てて割り込んだ。「母さん、どうか怒らないでください。結衣の件は必ず汐見家に迎え入れます。実は最近、静江とその件で話し合っていたところでして……「ずいぶん長く相談しているようだが、何一つ結果が出ておらんではないか。満のこととなると随分と熱心らしいではないか。ただの帰国というのに、わざわざ宴まで催すとはな。しかも和光苑でだと?覚えておくがいい、お前が結婚した時でさえ、和光苑で式を挙げることは許されなかったのだぞ」時子の言葉はあまりに辛辣で、満を溺愛する静江は途端に黙っていられなくなった。「お義母様、それはどういうおつもりですか?私にすれば満こそが実の娘です。あの子には最高の待遇を与えて当然でしょう!今日お伺いしたのもあくまでご相談のつもりでしたのに。お貸しくださるお気持ちがなければ結構です、わざわざ満を貶めるようなことをおっしゃる必要はありませんわ!満が養女だからとお嫌いなら、これ以上申し上げることはございません。ご安心なさいませ、二度とこんなお願いに伺ったりいたしませんこと!」そう言うと静江は怒りに任せて踵を返し部屋を出て行った。明輝が時子の方を向き何か言おうとしたが、時子の方が先に口を開いた。「わたくしを怒らせるようなことを言う気なら、黙っていなさい。それと、自分の妻をきちんと躾けておきなさい。それができないなら、家から一歩も出さぬように。外で恥をかかせるようなことがあってはならん」「分かりました、母さん。では、どうぞごゆっくりお休みください。これにて失礼いたします。改めてお伺いさせていただきます」時子は嫌そうに手を振った。「早く帰れ。顔を見るだけで癪に障る」明輝は結衣の方に向き直り諭すように言った。「おばあちゃんのことをよろしく頼む。何かあればすぐ電話するんだぞ」結衣は頷いた。「はい」彼女が自ら明輝に連絡することはまずないだろうが、時子の前で彼の面子を潰したくはなかった。明輝が去った後時子は結衣を見た。「結衣、さっきわたくしがお
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第117話

「ええっ、本当?!信じられない!」「だって、ほむら先生と同僚になって何年にもなるけど、彼が特定の女性を特別扱いするなんて見たことないし、ましてや荷物を持ってあげるなんて、想像もつかないわ」「騙してどうするのよ!でもあの女の人、本当に綺麗だったわ。私が男だったら、私も好きになる」「そう言われると、ますます気になるわね。明日の朝の回診の時、私も見に行ってみようっと!」「私も見たいけど、明日は休みなんだ。もし見たら、こっそり写真撮ってよ。ほむら先生が女の人に笑いかける顔、どんなのか見てみたいわ!」皆が噂話に花を咲かせていると、ナースステーションのカウンターが突然、数回ノックされた。「すみません、汐見時子さんはどの病室にいらっしゃいますか?」皆が振り返るとまず目に飛び込んできたのは息をのむほど整った顔立ち、そして体にぴったりと合ったスーツだった。ブランドのロゴはなかったが一目で高価なものだと分かった。数秒も経たないうちに、皆の心に同じ結論が浮かんだ。目の前のこの男性は、ただ者ではない。一人の看護師が我に返り、慌てて言った。「802号室です」「ありがとう」男は踵を返して去っていった。数人の看護師はまた話し始めた。「802号室!さっきあの子が言ってた、あの美人さんのおばあちゃんの病室じゃない?!やっぱり美人の周りにはイケメンが集まるのね。それにしても、かっこよすぎでしょ!」「待って……さっきの男性、どこかで見たことない?なんだか見覚えがあるような……」「そう言われてみれば、私も……ついこの間、テレビで見たような……」皆が噂話をしている間に、涼介はすでに病室の前に着いていた。ドアをノックし、中から「どうぞ」という声が聞こえると、涼介はドアを開けて入った。涼介の姿を見て、結衣は眉をひそめ、何か言おうとしたが、涼介は手にした見舞いの品を置き、時子を見て言った。「おばあちゃん、入院されたと伺って、お見舞いに参りました」時子の口元に笑みが浮かんだ。「涼介くん、来てくれたのね。さあ、座って」そう言うと、彼女は結衣を見た。「結衣、涼介くんにお茶を淹れてあげなさい」結衣は唇を引き結び、不承不承立ち上がってキッチンへ向かった。涼介は来る前は不安だったが、時子の自分に対する態度が以前と変わらない
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第118話

涼介は結衣を見上げた。その顔に浮かぶ不耐を見て彼の心は沈んだ。手を伸ばして湯呑みを受け取ると彼は結衣を見て言った。「ありがとう」結衣は何も言わず無表情で彼の向かいに腰を下ろした。涼介は気持ちを落ち着かせて時子を見て言った。「おばあちゃん、高麗人参がお好きだと伺いました。ちょうど最近、友人がマレーシアから最高級のものを持ち帰ってくれまして。届き次第、私が直接お持ちします」それを聞いて時子はため息をつき、口を開いた。「お心遣い、嬉しいわ」「結衣のおばあちゃんは、俺にとってもおばあちゃんみたいなものです。年下の者が年長の方を敬うのは、当然のことですよ」話しながら涼介は結衣の方を一瞥した。彼女の冷淡な表情は、まるで彼の言葉が全く聞こえていないかのようだった。湯呑みを握る彼の手が無意識に固く握られた。時子の前では結衣も少しは自分に良い顔をするだろうと思っていたが、今になってようやくそれが自分の思い上がりだったと気づいた。時子は涼介のその仕草に気づかないふりをし、顔には依然として笑みを浮かべていた。「涼介くん、では、先にお礼を言っておくわね」「おばあちゃん、とんでもないです」それから数分間、涼介はずっと時子の病状を気遣っていた。何度か口を開きかけたが、結衣の無関心な表情を見て喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。涼介に何か言いたいことがあるのを見て取り時子は結衣を一瞥し、笑顔で言った。「結衣、急にみかんが食べたくなったわ。ちょっと外で買ってきてくれないかしら。病院の入口の左側にある果物屋さんのがいいわ」結衣は頷いた。「はい」彼女はすぐに立ち上がり涼介の方へは一瞥もくれなかった。涼介の心に苛立ちがこみ上げたが、彼はそれをうまく隠した。結衣が去った後時子は涼介を見た。「涼介くん、何か私に話したいことがあるんじゃないのかしら?」一瞬ためらった後、涼介は手の中の湯呑みを置き時子を見て言った。「おばあちゃん、申し訳ありません。俺は、結衣を裏切りました」来る前は色々と策を練ったが最終的には正直に話すことに決めたのだ。時子ほどの年になれば人の心などお見通しだ。ここで嘘をつけば、本当に結衣を取り戻す最後の機会を失うことになるだろう。その言葉を聞いても、時子は驚かなかった。まるでとっくに知って
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第119話

時子の淡々とした口調は涼介の顔面を殴り、その自尊心を地面に叩きつけるほどの衝撃を持っていた。彼が今や起業に成功し大企業の社長になったとはいえ、長谷川グループ社長の隠し子であるという事実は彼にとって人生の汚点のようにどうしても拭い去れないものだった。体の脇に垂らした手は強く握りしめられ、その眼差しも陰鬱なものへと変わった。涼介は目を伏せ数秒経ってからようやく口を開いた。「分かりました」病棟の建物まで来たところで、みかんを買って戻ってくる結衣とばったり出会った。結衣はまるで彼が見えていないかのように挨拶さえするつもりはないようだった。擦れ違う瞬間涼介はやはり耐えきれずに彼女を呼び止めた。「結衣」結衣は彼の方を向きその眼差しは冷淡だった。「何か用?」「以前、俺たちが付き合っていた時、お前も俺が長谷川グループ社長の隠し子だからって、見下していたことがあったか?」涼介の真剣な表情に結衣は思わず眉をひそめた。もし彼を見下していたならそもそも付き合ったりはしなかっただろう。涼介が隠し子であることに敏感になっていることは結衣も知っていた。しかし彼が起業に成功してからは、涼介は彼女の前で劣等感を見せることはなくなった。彼が今日どうして突然そんな質問をしてきたのか結衣には分からなかったし、深く探る気にもなれなかった。「もう別れたの。そんなこと、今さら答えても仕方ないでしょ」いつか彼にもわかる時が来るわ。他人がどう思うかなんて、どうだっていいの。本当に大事なのは自分で自分を認められるかどうかよ。自分で自分を卑下するようになったら、それが一番悲しいことだわ。病室に戻ると結衣はみかんをベッドサイドのテーブルに置き、一つ剥いて時子に手渡した。時子は手を振った。「わたくしはいい。酸っぱすぎるから、お前がお食べ」結衣も無理強いはせず、一房を口に入れ時子を見て言った。「私が出て行った後、長谷川さんと何を話しましたか?」「何も。ただ、あの子がお前とよりを戻せるように、わたくしに説得してほしいと言ってきただけよ」結衣のみかんを食べる手が止まった。「それで、なんて答えました?」「当ててごらん」「……」結衣が黙って無表情でいるのを見て、時子の方が先に耐えきれずに口を開いた。「断っておい
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第120話

「おばあちゃん、私、見せかけの名声なんていりません」どんなに盛大にやったところで何になるというの?汐見家の人間が自分のことを好いていないという事実は変わらないのに。「お前が好まなくとも、なくてはならんのだ。お前こそが汐見家の本当のお嬢様だと、皆に知らしめなければならん」結衣がさらに何か言おうとしたが、時子はその考えを見抜いたようにくるりと背を向けた。「眠いから、少し寝るよ」時子の決意が固いことを見て取り、結衣は仕方なく首を横に振って立ち上がって言った。「では、お昼ご飯の支度をしてきますね」キッチンの入口まで来た時、背後から時子の声がした。「マーボー豆腐が食べたいわ」時子は辛い物が大好きで、特に麻婆豆腐には目がない。しかし高脂血症の治療中である今、そんな脂っこくて辛い料理を汐見家の者が食べさせようとするはずもなかった。結衣は振り返りきっぱりと断った。「いけません。今はご養生が第一です。お薄味のものしかお出しできません。後ほど豚の骨付きスープを仕立てますので」時子は言葉を失った。キッチンに入ると結衣は骨付き豚肉を洗い、調味料とともに鍋に入れて火にかけ他の食材の準備に取りかかった。結衣は出前も病院食も好まない。昼食は自分と時子の分だけ手作りするつもりだった。一時間ほどして、結衣はベッドテーブルを広げ時子のために一汁二菜を並べた。骨付き肉のスープに加え青菜炒めと肉そぼろの茶碗蒸しである。結衣は椀にスープを注ぎながら、「おばあちゃん、まずスープを少しお飲みになってから、ご飯にしてください」と声をかけた。時子が匙を手に取り、スープを一口飲んだ、まさにその時。結衣が牛肉のピリ辛炒めと白身魚のピリ辛煮込みを盆に載せてキッチンから出てくるのが見えた。途端に目の前のスープが味気なく感じられた。牛肉のピリ辛炒めと白身魚のピリ辛煮の香ばしい匂いが病室に広がり、時子はくんと匂いを吸い込み、結衣の手の中の料理を食い入るように見つめた。「結衣、一口おくれ」結衣は料理をテーブルに置き、時子の方を向いて言った。「だめです」「そんなにたくさん作って、一人で食べきれずに無駄にするくらいなら、一口だけ味見させておくれ。本当に一口だけだから」結衣はやはり首を横に振った。「だめです。今朝、お医者様からも言わ
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