All Chapters of 今さら私を愛しているなんてもう遅い: Chapter 791 - Chapter 800

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第791話

この家には、この瞬間初めて、しっかりと頼りになる存在が出てきたのだ。「ほら、ご飯を食べろ。お粥が冷めっちゃうぞ」宗一郎は博人を見ずに、スプーンでハート形の目玉焼きの入った皿をコンコンと叩き、ぶつぶつと呟いた。「目玉焼き一つにわざわざこんな形にするなんて、幼稚だな」博人は笑った。それは心の底から湧き上がる安堵だった。彼は再び未央の隣に座り直すと、大きな手でテーブルの下から彼女の手をぎゅっと握った。朝食は、全く新しい、生活の匂いが漂うような雰囲気の中で終わりに近づいた。愛理はついにその卵白を口に入れ、嬉しそうに小さな手をパチパチと叩いた。理玖も元気を取り戻し、博人の耳元に寄って、夜にあの「すごくかっこいいレーシングカーの模型」を持って帰ってこられるかと尋ねた。博人は頷いた。その眼差しはずっと優しかった。食事の後、博人はスーツに着替えた。最後のボタンを留め、濃いグレーのジャケットを羽織る時、さっきまでの食卓での優しさは、一瞬にして成熟したしっかりとした社会人の雰囲気に塗り替えられた。それが彼の鎧なのだ。未央がネクタイを持って近づき、彼の襟元に巻いた。二人の距離がとても近く、博人は彼女の身体から漂うほのかな花の香りを感じた。さっきシャワーしたばかりで、残った爽やかで清潔な香りだ。「早く帰ってきてね」未央は声を潜め、指先で器用にウィンザーノットを結んだ。彼女は大げさなことは語らず、ただ簡単な言葉をかけた。博人はうつむき、突然身を乗り出して、彼女の額にキスを一つ残した。「家で待っていてくれ」彼は彼女を離すと、一歩下がり、ソファで遊ぶ子供たちと隣の宗一郎に少し視線を止めた。そして、彼は背を向け、玄関へと大股で歩き出した。彼の歩みは重く、一歩一歩から戦場へ赴くような決意が感じられる。ドアの外では、高橋がすでに車の傍で長いこと待っていた。博人は車まで歩み寄った。高橋が先にドアを開けてくれると、博人は乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間、外のすべての雑音は遮断された。車内の光は少し暗かった。博人はシートに寄りかかり、目を閉じてこめかみをもみほぐした。再び目を開ける時、その瞳の奥にある優しさは完全に封印されていた。「行こう、会社へ」彼はひと言、氷のように冷たく言い放った。四駆車が低い唸りを上げ、黒い稲
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第792話

ブラインドは半分しか開いていなかった。少し冷たい朝の光が、広々とした部屋を斜めに切り裂き、空気中に漂う塵を容赦なく照らし出している。デスクの上のコーヒーカップはすでに空になり、カップの内側には乾いた褐色の跡が残っていた。博人は長い脚を組んでチェアに座り、手にした万年筆で書類の最後に「西嶋」という苗字をサインした。筆跡は鋭く、ほとんど紙の裏側まで切り裂かんばかりだ。彼は手を上げて腕時計を一瞥した。針は九時半を過ぎたところだった。彼の視線は、向かい側の誰も座っていない革張りのソファで二秒間留まった。眉は深くひそめられ、目には焦燥感が漂っている。「高橋」博人は顔も上げずに、人を凍り付かせるほど冷たい声で尋ねた。「敦はどこだ?」ドアのそばで控えていた高橋は首をすくめて、ありのままに報告した。「角山さんは……まだ到着しておりません。さっき電話をしましたが、出ませんでした。おそらくまだお目覚めになっていないのだと思います」博人は冷ややかに笑い、さっさとデスク上の私用の携帯をつかむと、よく知った番号にかけた。電話は長い間鳴り続けた。もうすぐ無応答切断になるところで、ようやく相手が出た。「もしもし……誰だよ……」敦の声がまだぼんやりしていて、眠気に満ちていた。それに、寝返りを打つガサガサ音や不満そうな呟きも混じっている。「朝っぱらから、どういうつもりだ?急ぎの用でもないならさっさと切れよ。俺はまだまだ眠い」博人は余計な話は一切せず、いたって冷静な口調で言った。「三十分。一秒でも遅れたら、辺鄙な鉱山で監視役をやってもらう」電話の向こうは三秒間、死んだような沈黙に包まれた。そして続けて、重い物が床に落ちる鈍い音が聞こえた。おそらく敦がベッドから転げ落ちたのだろう。「博人!お前は鬼かよ!」敦の声は一瞬にして鋭くなり、寝起きの不機嫌さが電話越しにも伝わってきて、不満をはっきりとぶつけてきた。「俺は昨夜人をつれて、海外のあのサーバーを監視していて、夜明けの四時まで起きていたんだぞ!今すぐ行けだと?俺を仕事をし続けるロバか、お前が雇った特殊部隊の兵士かなんかだと思ってるのか?」「残り二十九分」博人は時計を一瞥すると、さっさと通話を切った。数十キロ離れていても、彼は敦がイライラしながら悪態をついている姿を想像することができた。博人は携帯を置き、
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第793話

彼は持ち歩いている薄型ノートパソコンを開き、指先をキーボード上で素早く動かした。「本題に入ろう」敦は画面を見つめながら、プロな口調で言った。「君が監視を依頼したいくつかの場所は、今のところ全部静かなもんだ。ニックスは偵察に対する意識が非常に強く、今は全部一方的な連絡を取っている。しかも最も古いやり方だ。暗号化する方法が古ければ古いほど、そのデータを取るのに難しい」彼は世界地図を開き、その上に点滅するいくつかの赤い点を示した。「でも、その尻尾はどんなに上手に隠していても、必ず餌を探しに出てくるものだ。追跡したところ、三件の巨額の資金が、ある島のペーパーカンパニーを通じて、過去48時間以内に虹陽周辺のいくつかの個人口座に流れた。処理はうまかったが、この『裏取引』の頻度が高すぎて、通常のマネーロンダリングには合わないな」博人の目が鋭くなり、体をわずかに前に乗り出した。「虹陽だと?」「ああ」敦はうなずき、顔を引き締めた。「これは、ニックスの手下がすでにここに入っているってことだ。言い換えれば、彼女が元々虹陽に深く潜んでいる手下を持っていることを意味する。彼女は攻撃のチャンスを探しているのではなく、包囲網を張っているんだ」オフィス内には短い沈黙が流れた。ただ、パソコンの冷却台の微かな唸り声だけが聞こえる。敦は報告を終えると、まるで骨が抜けたように後ろにもたれかかり、またあのだらしない様子に戻った。「よし、仕事は終わったし、情報も伝えた」彼は疲れた目をこすりながら、博人に手を差し出し、指をこすり合わせて、すっかり俗物じみた表情で言った。「西嶋社長様、この一戦に勝ったら、残業代はどうなる?俺の酒蔵には空いたスペースがいくつもあるんだ。君が年末に仕入れたあの数箱のロマネコンティは……」博人は彼を見つめ、引き出しから金色の字で飾られた書類を一枚取り出すと、彼の胸元に放り投げた。「東通りにある『ヤヨイ』の経営権は、お前にやる」敦は書類を受け取ると、ちらりと目を通し、ソファから飛び上がりそうになった。目に潜めた光は外の太陽よりも輝いている。「おいおい!『ヤヨイ』だって?本当にくれるのか?あれは今虹陽で最高級のバーだぞ。一晩の売上でも小さな会社が買えるっていうのに!前にあれをプライベートクラブとして自分で使うって言ってたじゃないか!」それは西
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第794話

博人の声はとても低くて感情が押さえられていた。「今回の西嶋家の実家の邸宅に戻って、表向きの警備はともかく、その裏に張り巡らされた警備の監視綱は、お前にしか任せられない。未央と理玖の命、そして愛理の命も、全てこの監視ネットワークにかかっている。もし万に一つでも手違いがあれば……」彼は一瞬言葉を詰まらせ、あまりの緊張で目がわずかに赤くなり、声はかすれていた。「俺はお前とは長い間の親友とかそういう言い訳を理由にするつもりはない。そんな余裕も命もない。もしその時が来れば、俺も彼らと共に逝く。だがその前に、俺のこの手でお前を先に始末する」敦は、もともとだらしなく崩していた座り姿勢をやめた。伝わってくる力が強く、肩が痛かったが、彼は全く気にしなかった。彼は博人をよく理解していた。この男は未央を自分の命以上に大切にし、今では二人の子供もその対象になっている。博人は今、家族全員の命運を握る命綱を彼に託そうとしているのだ。敦は普段の放蕩息子のような笑顔を収め、目つきはかつてないほどの真剣さを帯びた。博人の手を払いのける代わりに、自ら手を上げて博人の手首を掴み返した。その力もまた、容赦ないものだった。「博人、落ち着けよ」敦は一言一句、まるで生死をかけた誓いを立てるかのようにゆっくりと言った。「俺はこの人生で真面目になったことなんて数えるほどしかないけど、今回ばかりは違う。この首が相手に取られるようなことでもない限り、誰にもあの邸宅に一歩も近づかせはしないよ。連中が遊びたいなら、俺は命を懸けて相手になってやる」二人の男はオフィスの中で音もなく対峙し、空気は非常に淀んでいた。博人はゆっくりと手を離し、重い息を吐いた。彼は敦の肩をポンと叩き、感謝の言葉は口にしなかった。彼らがここまで来れば、命の重みに対しては、この「ありがとう」という言葉は軽すぎるのだ。……その頃。完全に密閉された、未来的なテクノロジー感に満ちた地下室にて。巨大な環状のスクリーンウォールがぼんやりとした青白い光を放ち、高い位置にある席に座る人の顔を照らし出していた。ニックスは相変わらずすっきりとしたスーツ姿で、深い赤い液体を注いだグラスを手に、その座り姿はまるでオペラハウスで観劇しているかのように優雅だったが、目は毒蛇のように冷たかった。金髪のエンジニアが振り向き、隠しきれない
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第795話

部下が報告を終えると、やや不安げにニックスをちらりと見た。ボスが怒るだろうと思っていたが、ニックスは意外にも軽く笑い声を漏らした。その笑い声は静まり返った実験室内で、さらに恐ろしい声に聞こえる。「正面突破って?」ニックスは振り返り、目には嘲りの色が満ちていた。「あれは野蛮人のやることよ。私は弾丸など信じない、人の心だけは信じるよ。人の心というものは、一度ヒビが入れば、神様でさえ繕うことはできないの」彼女は巨大なプロジェクションの前に歩み寄った。画面には西嶋家の邸宅の俯瞰図が映し出されていた。「西嶋家の屋敷は確かに守りは固いでしょう。でも、外からの敵は防げても、内部は防げるのかしら?」ニックスの指が映像に適当に突き、一見難攻不落の防衛ラインをなぞるように滑った。「私が苦心して二十年前の『真実』を藤崎の手に渡したのは、彼がハッカーごっこをするのを見たいためじゃないわ。あれは猛毒を含む、疑いの種なのよ」彼女はメールに記された、偽物でありながら真実らしい内容を思い返した。悠生のような礼儀正しい君子を狂わせるに十分なものだ。それは彼の父親が西嶋家に裏切られ、利用され、さらには辱められたとする「証拠」だ。そういったものは、悠生が一度目にしたら、もう後戻りはできない。「藤崎は今、さぞかし苦しんでいることでしょ?」ニックスの瞳の奥に、狂気じみた痛快の色が一瞬走った。「彼が白鳥を見れば、それは敵の息子の嫁だと思い出す。西嶋を見れば、父親の一生を台無しにした悪魔だと思い出す。だけど、彼はその心の中に潜めた憧れも、藤崎悠奈の命の恩人という事実も捨てきれない……この引き裂かれる感覚が、ゆっくりと彼を狂人へと変えていくわ」ニックスは窓際に歩み寄り、外にシミュレートされた仮の星空を見つめながら、声は異常なほど冷静になった。「戦わせるのよ。西嶋グループと藤崎グループが手を組めば、確かに私も一時は頭を悩ませるでしょ。でも、もしあの二頭の虎が互いに噛み合い始めたら?西嶋は妻と子供を守らねばならない。彼には弱点があるのよ。がむしゃらに噛んでくることは絶対できないでしょ。でも藤崎は違う。憎しみに目を曇らされた男は、最も鋭い刃と化すわ」彼女は部下の方に向き直り、新たな命令を下した。「虹陽における我々の表立った動きは全部やめさせて。あの落ち着きのない奴らも引き込ませなさい
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第796話

悪夢は潮が引くように去って行く。悠生は、はっと目を見開き、ベッドから飛び起きた。部屋は水を打ったように静まり返り、エアコンの吹き出し口の微かな唸り声だけが聞こえる。厚いカーテンが朝日を完全に遮り、室内は夜のように暗かった。手を上げて額をぬぐうと、冷たくねっとりとした脂汗が手に付いた。頭は割れるように痛む。こめかみの血管が脈打ち、まるで鈍器で頭蓋内をガンガンと叩かれているようだ。悠生は目を閉じてベッドのヘッドボードにもたれ、数分間じっとしていた。ようやく目眩がなんとか押さえられた。ベッドサイドテーブルのカップに手を伸ばすと、中の水はとっくに冷たくなっていたが、構わず一気に飲み干した。冷たい液体が食道を滑り胃に落ち、思わず震えが走る。意識がようやく少しはっきりとしてきた。ちょうどその時、携帯が突然振動した。悠生は手を一瞬にして強く握りしめ、指の関節が白くなってしまった。それは信頼できる秘書からの連絡だ。すぐには開けず、しばらく考え込んだ。一分後、彼は深く息を吸い、親指で画面をスワイプしてロックを解除し、「調査のまとめ」というファイルを開いた。これは非常に詳しいバックグラウンド調査報告書だった。悠生は冒頭の複雑な過程説明を飛ばし、直接核心の結論部分に視線を向けた。最初の一行の太字に、彼は思わず目を見開いた。【二十年前、知久さんの名義にある最初の会社「株式会社藤崎」への資本金振込日は、当該年の10月20日だと判明しました。振り込んできたルートは何回も隠されていましたが、出所は西嶋茂雄さん(西嶋博人の父親)が支配するトラストファンドと高度に一致しています。】10月20日だと?悠生は思わずその日付をじっと見つめていた。昨夜、父親の金庫で見た日記に記されていた、父親が追い出され鉱山を去った日付は、まさに10月15日だった。わずか五日後。父親がプロメテウス計画に参加し、その後去ったという時系列は完全に一致している。悠生はさらに下を読んだ。報告書の第二部は「プロメテウス」計画の内幕についてだ。【コードネーム「プロメテウス」の技術文書は、二十年前に不可解な火災に遭い、最初の紙資料は深刻な損傷を受けました。ただし、資料を復元していた僅かな従業員名簿及び勤怠記録から、知久さんが当該プロジェクトの首席アー
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第797話

悠生は独り呟き、口元に自嘲の笑みを浮かべた。やはり、昨日彼自身が調べた内容とほとんど変わらない。昨夜のあの嘲るような笑顔マーク、「Nice try」という言葉、そして何も得られなかったこの調査結果、全てが同じ事実を指し示している。誰かが罠を仕掛けている。相手は腕のいい漁師のように、岸に立ち、悠生を飢えた魚のように扱っている。そして、父親の屈辱的な過去の真実こそが、釣り針につけられた最も美味で、抗いがたい餌なのだ。それが毒の塗られた餌で、飲み込めば地獄に落ちてしまい、誰かの意のままになることを知っていながら、それでも彼に選択の余地はなかった。何も見なかったふりをして、これまで通り博人と友人のように付き合えるだろうか?未央に平然と向き合い、彼女を助けて未知の敵と戦うことさえ夢想できるだろうか?そんなことはできない。彼の体には藤崎家の血が流れている限り、その疑惑が棘のようなものになり、深く体に刺さり、もう抜くことはできない。これは詰んだ局面だ。ニックスであれ、暗闇に潜む亡霊であれ、彼らはすべてを見通している。人間性、そして親子の感情、そして何より藤崎悠生という人物をしっかりと見抜いていた。彼らは彼を狂わせ、博人に向けられる刃となることを強いているのだ。悠生は布団を蹴り、素足で床に立った。足裏から伝わる冷たい感触が、熱くなった頭を少し冷静にさせた。浴室に入り、蛇口をひねった。冷たい水が顔を勢いよく洗い流した。彼は顔を上げ、鏡に映る自分を見つめる。目は血走り、顎には青い無精髭が生え、憔悴しきっている。藤崎家の若旦那としての穏やかで余裕ある面影は、どこにもなかった。鏡の中の自分の様子を見て、彼はあまりの意外さで目を見開いた。それは苦痛、怒り、葛藤が入り混じり、そして微かに、しかし確かに芽生えつつある……残忍さを秘めた眼差しだった。誰かが復讐の刃を手渡してきて、真実がほころびを見せた以上、もはや何も見てないふりは続けられない。たとえ誰かに利用される駒となるにしても、まずはその刃先が誰に向けられるべきかを、はっきりさせねばならない。メールの真偽、父親の当時の状況、西嶋家の裏切り……これらすべては、推測だけではどうにもならない。本人しかすべての謎が解けない。秘密を金庫に閉じ、たった一人で二
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第798話

立花市にある藤崎家の実家の邸宅の前で、庭のドアがゆっくりと開き、蝶番が軋むような音を立てた。悠生は片手でハンドルを握り、指先は無意識に革の縁を撫でていた。曇っている空は暗くて、風が落ち葉を巻き上げて広々とした庭を吹き抜け、一層の寂れた雰囲気を醸し出した。エンジンを止めたが、すぐには車から降りなかった。身にまとった黒のスーツが、顔色をいっそう青白く映していた。ネクタイはきちんと締められ、胸の奥までも締め付けたように息苦しかった。バックミラーに映る疲れきった自分の顔を見つめ、自嘲気味に口元をゆがめた。真相を尋ねるために戻ってきたのに、いざ実家のドアの前に立つと、足の下から湧き上がってきた寒気がどうしても押さえきれなかった。ドアを押し開け、革靴が石の地面に踏む音が、耳をつんざくように鋭く響いた。「若旦那様?どうして今頃お戻りに?」家に入る前に、執事がすでに迎えに出てきた。目をそらし、声には隠しきれない動揺があった。悠生の足は止まらず、執事を見越して閉ざされた玄関の扉を見つめた。「母さんは?」「奥様は裏の温室に……」執事は数歩先回りして止めようとしたが、手を出す勇気もなく、「若旦那様、どうかリビングでお待ちください。奥様をお呼びして参ります」悠生は彼の話を全く気にせず、そのまま廊下を回って中庭へ向かった。温室の入り口まで来ると、母親である京香が蘭の鉢植えの手入れをしている姿が見えた。手にハサミを持ったまま固まっていた。物音に気付いて彼女が振り返ると、ハサミが「ガチャン」と床に落ち、鉢の縁にぶつかった。「悠生?」京香の顔色が一気に青ざめ、手をエプロンで慌てて拭いながら、早足で近づいてきた。「どうして一人で戻ってきたの?先に電話もくれないなんて……」近づいて、息子が全身黒ずくめの服を着ているのを見ると、彼女はまぶたがぴくっとつって、声まで震え始めた。「その服は何なの?悠奈は?悠奈に何かあったの?」悠生は母親の目が血走っているのを見て、緊張して心が絞められたように感じた。彼女の肩を手で支えると、掌の下の痩せた体が微かに震えていた。「悠奈は無事だよ。とっても元気だ。今はよく食べてよく眠って、経済関係の知識も自分で勉強している」彼は口調を緩め、声を普段通りに聞こえさせようと努めた。「母さん、心配しないで」娘が無事と聞き、京香
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第799話

「母さん、父さんは山へ遊びに行くなら替えの服ぐらい持って行くはずだろう?」悠生はウォークインクローゼットの半ば開いた扉を一瞥し、父親がよく着ていた上着がまだそこに掛かっているのを見た。京香は言葉に詰まり、無理に笑顔を作った。「山の別荘には彼の服が揃っているのよ。あの世代の人たちは、そんなこと気にしないの。悠生ったら、大きくなるほど疑り深くなったわね」「わかった。じゃあここで待つよ」悠生はくるりと背を向け、リビングのソファに座ると、さっさとネクタイを緩めた。「ちょうど俺も最近疲れてるし、数日休んでから帰る」京香は焦り、声を上げずにはいられなかった。「どうしてお母さんの言うことを聞かないの!会社にたくさん仕事があるでしょう?ここでぐずぐずしてどうするの?お母さんの言うことを聞いて、早く戻りなさい。お父さんがいつ戻るかまだわからないんだから!」彼女が急かせば急かすほど、悠生の胸の中で怒りが燃え盛った。あのメールに書かれた「真実」が毒蛇のように彼の理性に絡みつく。「母さん、一体何を怖がっているんだ?」悠生は突然立ち上がり、一歩ずつ近づきながら、目は刃のように鋭く光った。「父さんに何かあったのか?」「そんなでたらめを言わないで!」京香は悲鳴を上げ、涙をこぼし、体がくずれるように肘掛けにすがった。悠生は母親のその様子を見て、心が重くて深淵へ沈んでいたように感じた。不吉な予感が全身を冷たく走る。これ以上無駄口は叩かず、振り向いて中庭の奥のひっそりとした離れの部屋へと走った。あそこは客をもてなすか、静養に使う場所で、普段はほとんど人が近寄らない。「悠生!待ちなさい!あっちへ行っちゃだめ!」京香は後ろから声を振り絞って叫び、よろめいた。悠生は耳を貸さず、閉ざされた木の扉を蹴り開けた。部屋はがらんとしていた。「どうなってるんだ?父さんは?」彼の声は低く押さえられ、人を凍りつかせるような冷たさを帯びていた。京香が追いかけてきて、ドア枠にもたれ、口を押さえながら、涙が指の間からこぼれ落ちた。「母さん、聞いてるんだよ!これは一体どういうことなんだ!父さんはどこにいるんだ!」悠生がさっと振り返り、努力してその怒りを押し殺そうとしたが、それでも怒鳴るように叫んだ。目は血走っていた。京香は泣きじゃくり、ほとんど過呼吸になりそうだった。
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第800話

空気がまるでその怒鳴りによって吸い尽くされたかのように、重苦しさだけが残っていた。京香はドア枠にもたれ、糸の切れた操り人形のように枠に沿って滑り落ちていった。声を上げて泣きわめくことはなかったが、胸を激しく上下させ、喉からは壊れたような喘ぎ声が漏れてきた。「あなたに教えるって?」彼女は濁った目を上げ、目の前の殺気すら漂っている息子を見つめながら、声はコントロールできず震えていた。「どうやって教えろっていうの?逆に教えてくださいよ。悠奈のことも考えず、彼女の命を賭けてすべてを教えろっていうの?」この言葉は重い鈍器のように、悠生の頭を思いっきり叩いた。さっきまで込み上がてきた怒りが、一瞬にして抑えられた。京香は震える手で、二階の閉ざされた扉を指さしながら、涙が皺だらけの頬を伝って落ちた。彼女の心細さがはっきりと伝わってきた。「悠奈が一体どんな状態なのか、あなたは知らないわけ?この前、やっと取り戻した命だよ!未央さんが何度も言い聞かせてくれたじゃない。刺激を与えちゃいけない、穏やかに過ごしてって」彼女は話せば話すほど焦り、息が続かず、胸を押さえて激しく咳き込み、顔を真っ赤にした。「私だってお前に頼りたかったんだよ……悠生、お母さんも怖かったの」京香は床にへたり込み、両手で太ももを叩き、一家の女主人としての面子なんかまったく気にしなかった。その体に残ったのは、ただ無力感だけだった。「たった四人の家族で、お父さんは倒れて、妹は病気をしているの。その状況であなたに電話するって?あなたはあっちで人とやり合い、命を懸けて戦っている!もし私が一本の電話であなたを戻したら、あっちの商売はどうなるの?うちを陥れようとする奴らはどうするの?私……私には隠し通すしかなかったわ。たとえ一日でも、その日が来るまでずっと……」悠生はその場に立ち尽くし、床にしゃがみ、いつの間にか髪の半分以上が白くなっていた母親を見つめた。彼の握りしめた拳がゆっくりと開いた。掌には爪の跡が血に染まっていたが、彼は全く気づかなかった。ただ、寒さだけを感じた。体中が冷え切ったような感じだった。自分は一体何をしているのだ?彼は会社で仕事をこなし、家族を守り、真相を突き止めていると自負していた。しかし実際には、本当に守るべき家族について、彼は何も知らなかった
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