All Chapters of 今さら私を愛しているなんてもう遅い: Chapter 801 - Chapter 810

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第801話

「悠生……お父さんはね……」庭で風が立ち、落ち葉を巻き上げて渦を巻いた。母子二人は離れの入り口で長い間泣いていた。感情が少し落ち着くと、悠生は京香を支え起こし、服の埃を払い、ハンカチを取り出して彼女の頬に残った涙をゆっくりと拭った。今、彼の顔からはあの陰鬱で荒々しい感情が消え、代わりに一家の大黒柱としての落ち着きと責任感が宿っていた。「母さん、病院に連れていってくれて」悠生は母親を見つめ、その目にはもう動揺がなくなった。「今すぐに父さんに会いたいんだ」京香は鼻をすすり、再び真っ直ぐに伸びた彼の背筋を見て、心にある重い石がようやく下りた。彼女はうなずき、声にはまだ鼻声が混じっていたが、だいぶ安心して落ち着ていた。「ええ、行きましょう」……立花市中心病院の最上階の病室にて。ここは病院らしくないほど静かだった。廊下は厚いカーペットが敷かれ、全ての足音を吸い取る。空気にはツンとする消毒液の臭いはなく、代わりにほのかなユリの香りが漂っていた。重苦しい雰囲気を和らげるためにわざと置かれたものだ。京香は悠生を連れて一つの病室の前で止まり、そっとドアを押し開けた。悠生は入り口に立ち、足が地に根を下ろしたかのように動かない。彼は少し躊躇した。記憶の中の父親はとても元気な男だった。大声で、血の気のいい顔をしていて、一発で人をよろめかせることができた。引退した後でさえ、畑で午後いっぱい鍬を振るう頑固なお年寄りになった。だが今、病室のベッドに横たわっているのは、誰なのか?その人は真っ白な布団に沈み、体中にいろいろな医療器械と繋がっている。体に合った患者服は今、体にだらりと掛かり、頬はこけ、頬骨が高く出ていて、顔色は長い間日光を浴びないせいで非常に青白くなってしまった。心電図モニターがピッピッという音を発していた。それがこの部屋で唯一の彼の生命を感じさせるものだ。悠生の喉には何かが詰まったように、息苦しくて仕方がなかった。彼は足音を忍ばせてベッドサイドに歩み寄り、座った。父親の手を握ろうとしたが。手を半分伸ばしてまた引っ込めてしまった。彼は恐れていた。下手に触れたら、この最後のわずかな生気さえも散ってしまうのではないかと。視線は父親の手の甲に落ちた。あそこに残った青い痕跡は、長期間の点滴による
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第802話

悠生は父親の冷たく痩せこけた手をそっと離し、布団を丁寧に整えた。知久の呼吸は相変わらずかすかで、胸は弱々しく上下していて、その動きは注意深く目を凝らさなければほとんど見逃してしまいそうだった。彼が立ち上がると足が少し痺れ、体が揺らぎながらもようやく姿勢を立て直した。京香は彼を見つめ、まるで今この時、彼だけが唯一の頼りであるかのようだった。「母さん、父さんの治療を担当してくれている先生はどこにいるの?」悠生は声を潜め、ベッドの上の父親を驚かせないように気をつけた。「具体的な治療方法について、話を聞きたいんだ」京香は鼻をすすり、外を指さした。「ドアを出て左に曲がって、突き当たりにあるオフィスよ」悠生はうなずいた。「母さんはここで父さんと一緒にいて。俺はすぐ戻ってくるから」彼は振り返り、病室を出て、そっとドアを閉めた。廊下は静まり返り、足の下のカーペットが革靴の音を吸い込んでいた。悠生の歩みは遅く、足が非常に重いような感じだった。頭の中は絡み合った糸のように混乱し、こめかみがズキズキと痛み始めた。廊下の突き当たりに着くと、オフィスのドアは少し開けられており、表札には「脳神経外科副部長室」と書かれていた。悠生は手をあげ、二回叩いた。「どうぞ」中から女性の声が返ってきた。澄んでいて、きっぱりとしているが、邪魔をされたことへの苛立ちも含まれていた。悠生はドアを押して入った。オフィスは広くはなく、過剰なほど何も置かれていなかった。机の上に山積みになっているカルテフォルダーと分厚い医学専門書の他に、私物らしきものは一切見当たらなかった。机の向こうには若い女性が座っていた。座っていてもそのほっそりとした体型がはっきりと見える。白衣は着ておらず、薄いブルーのシャツ一枚で、袖は肘までまくられ、見える腕の部分は不自然なほど白かった。彼女は赤と青の二色ボールペンを手に、広げたカルテに素早くメモを取っており、眉間に皺を寄せていた。見たところ三十歳前後だろうか。いや、もっと若く見える。髪は乱れて耳の後ろにかけられ、目の下には薄い隈ができており、明らかに徹夜していたらしい。悠生は入り口に立ち、一通り視線を巡らせたが、他に人影はない。彼は無意識のうちに、これを医師のアシスタントか実習生だと思い、礼儀正しく尋ねた。「すみません
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第803話

「藤崎悠生さんですか」その名前を呼んだ口調が、オフィスの空気を瞬時に氷点以下まで凍りつかせたようだった。さっきまでの医者の態度がまだ軽い冗談めいていたとしたら、今やそれは真冬の寒さのようだ。彼女はパシンッとペンを机に叩きつけ、カルテを閉じた。その重い音が室内を響いた。あの含み笑いのような表情は完全に消え、取って代わったのは冷たさと嫌悪感だった。彼女は一言も発さず、鋭い眼差しだけで悠生を頭から足までじっくりと観察した。きちんとアイロンがかけられた黒いスーツから、ぴかぴかに磨かれた革靴、そして疲れていながらも手入れの行き届いた彼の顔へと。「なるほど、お忙しい方がご帰還になりましたね」口を開く彼女の一言一言に、毒が入っているようだ。「知久さんは、どこぞの施設から送られてきた家族のないお年寄りかと勘違いしそうでしたよ」悠生は眉をひそめ説明しようとしたが、相手はまったく機会を与えなかった。「睨んでも無駄ですよ」彼女は立ち上がり、両手を机に突いて身を乗り出した。その気迫は、長く高い地位にあった悠生にも引けを取らなかった。「患者が運び込まれてから何日経ったと思います?丸四日ですよ!脳幹出血、出血量は開頭手術が必要な状態には達していませんが、位置が非常に危険で、二次出血や脳浮腫を引き起こす可能性が常にあります。この四日間は生死の境目なんです!」彼女は早口になり、興奮を増していった。「この四日間、お父さんが命の危機に瀕している時、傍にいるのは、泣きながら私たちに助けてくれと言い続いたお母さん一人だけですよ。相談する人もおらず、廊下の椅子で震えているしかありませんでした。そのとき、あなたはどこにいたんですか?」彼女は悠生の目をしっかりと見据え、まるでエリートを装ったその仮面を突き破って心の奥底まで見透かさんとするかのようだった。「金儲けに忙しかったんですか?それとも会議ですか?親父の命より大事な付き合いや接待をこなしていましたか」悠生は膝の上の手をきつく握りしめ、爪が深く手のひらに食い込んだ。説明したい。騙されていたと言いたい。誰かが裏で手を引いていたから、真相を追っていたと説明したい。しかし口まで出かかった言葉は、また飲み込んだ説明したところで何の意味がある?理由が何であれ、事実は変わらない。父親が生死の境
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第804話

オフィス内の先ほどまでの張り詰めた空気が悠生の長い沈黙によって淀んでいた。灰山忍(はいやま しのぶ)は向かい合う男を眺めた。彼は痛い所を突かれた坊ちゃんのように逆上して反論してくることもなければ、高飛車な態度で院長を呼びつけ高圧的な態度をかけるようなこともしない。ただうつむき、骨ばった手で膝をぎゅっと握りしめ、爪は力の入れすぎで白くなっている。彼はただそこに座っている。背筋は依然として真っ直ぐ伸ばしていたが、今にも折れそうな脆さを漂わせていた。この反応に、忍は連続手術で溜め込んだ苛立ちが、理由もなく大きく和らいだ。医者として最も困るのは理不尽な患者の家族だが、それ以上に無関心な家族には手を焼く。そして眼前のこの男は明らかに他のタイプだ。全ての感情を腹に収め、自分自身を押し潰さんばかりだ。忍は視線を外し、窓の外の枯れ枝を見つめ、喉をわずかに動かした。「すみません」彼女は再び座り、声は依然として冷たいが、先ほどの刺々しさは消えていた。「この二日、手術が続いて情緒が不安定で、言葉がきつくなりました」悠生はゆっくりと顔を上げた。目はより赤くなっていたが、瞳の中の混乱は押し殺され、代わりに何かあってもちゃんと受け止めるという落ち着きが残っている。しかし、それを見ると、誰も心が痛くなるだろう。彼は首を横に振り、口元に苦い笑みを浮かべ、ごまかそうとはしなかった。「灰山先生、謝る必要はありません」彼の声は低く、独り言のようであり、また懺悔のようでもあった。「先生のおっしゃる通りです。息子として、すべきことをあまりにも怠ってきました。長年、俺は金を稼ぎ、会社を支えて、親たちに衣食住の心配をさせないことが親孝行だと思い込んでいました。結局のところ、本当に俺が必要とされた時、ちゃんと来なかったんです」彼は少し止まり、デスクの上の「藤崎知久」という名前のあるカルテに視線を落とした。その瞳は深く、底が見えないようだった。「これからはここにいます。父の状況については、何卒お願いいたします」忍はこの言葉を聞き、彼に対する見方を少し変えた。この場所では金と権力を持つ人間を数多く見てきたが、彼女にさんざん罵倒された後でもこれほど平静に自省できる人間は、あまり多くない。いや、珍しいと言っていい。彼女は改めてこの男を観察した。身につけた黒いスー
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第805話

悠生は頷いた。「はい、知っています。かかりつけ医が父の体調を常に管理していて、父自身も非常に気を遣っていました。毎日決められた時間に薬を飲み、血圧は常に正常範囲内にコントロールされていました。そもそも、これほど急激に発症するはずがないのですが」忍はうなずき、視線をデータの乗った報告書に落とした。「それが、私がお話ししたい肝心な点です。高血圧性脳出血には、通常なんらかの誘因があります。救急搬送記録を見ましたが、発症は非常に急激で、前兆は一切ありませんでした。いくつかの可能性を検討しましたので、ご自宅での状況と照らし合わせてみてください」彼女は人差し指を一本立て、机をトントンと叩いた。「まずは、日常生活の習慣ですね。喫煙、過度の飲酒、暴飲暴食など。これらは血管が短時間に巨大なプレッシャーをかけられるとこうなりますよ。腐った水道パイプに突然圧力をかけるようなもので、破裂するのは当然でしょう」「それはありえません」悠生ははっきりと答えた。「父は生活習慣が良好で、タバコはとっくにやめており、酒も祝日にほんの少し口にする程度です。ここ2年は野菜作りに夢中で、毎日庭で体を動かしており、同年代の方々よりもはるかに健康体だったはずです」忍は眉を上げ、この説明を受け入れたようで、次に二本の指を立てた。「または、薬の問題です。何か服用すべきでない薬を飲んでいませんでしたか?あるいは薬の量が突然変わったりは?他の病気の治療薬の中には、降圧剤と相互作用を起こしたり、血液の粘度を異常にしたりするものがあります。そうしたケースは珍しくありません」悠生は眉をひそめ、慎重に振り返ったが、やはり首を振った。「家の薬はすべて分類して保管されており、母が毎日自ら父が服用するのを確認していました。最近、父は他に体調不良を訴えていなかったので、むやみに薬を飲む理由もありません」忍の指は机の上に止まったままで、悠生の困惑と苦痛に満ちた目を見つめ、しばし沈黙してから、ゆっくりと三つ目の可能性を口にした。「もしそれらでなければ、残る可能性は一点だけ残ります。精神的な動揺です。この動揺は、必ずしも激しい口論のようなものとは限りません。短時間に心理的な衝撃を受けることで、交感神経が高度に興奮して、血圧が瞬間的に急上昇、脳幹付近の毛細血管を直接破壊することもあるのです」忍の
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第806話

オフィスの空気は、水分をすべて吸い取られたかのように乾き、喉を締め付けるようにその場の人間を苦しくさせた。忍は重々しいカルテを閉じ、カチッという乾いた音を立てた。彼女は悠生を見ず、代わりに窓の外の葉を落としたままの木へと顔を向けた。指は無意識に、ボールペンを素早く回していた。それは彼女が考え事をする時の癖だった。「命は大丈夫ですが、暫くですね」口を開いた彼女の口調には、安堵の色はほとんどなかった。冷徹で残酷とも言える客観的な視点から言った。「今は安定しており、血圧、心拍数ともにコントロール可能な範囲内です。大きな刺激さえ受けなければ、短期的な生命の危険はありません」その言葉は鎮静剤のように働いたが、効果は半分しか効いていないようだ。悠生の張り詰めていた背筋がわずかに緩んだ。その安堵の息を吐く前に、忍の次の言葉が彼の頭上から冷たい氷水を浴びせるように突き刺さった。「ただし、意識は戻っていません」忍が振り返り、疲れで少し赤くなった目をまっすぐに彼に向けた。「それに、いつ意識が戻るかは保証できません。いや、戻るかどうかさえも保証できないのです」悠生の手が突然、椅子の肘掛けを掴み、指の関節が白くなるほど力を入れた。「どういうことですか?」彼の声はひどくかすれていた。「脳の血腫さえ引けば……」「そう単純ではありません」忍がその言葉を遮った。彼女はさっと一枚の脳CTのスキャンX線フィルムを取り出し、フィルムビュアーに置くと、パチッと電気スイッチを入れた。青白い光が灯り、複雑な白黒の画像を浮かび上がらせた。彼女はペンを取り、その先をフィルム中央の小さなぼんやりとした影に当てた。まるで生死の境界線をマークするかのように。「ご覧ください。出血点はここ、脳幹です。人体の生命中枢です」忍の声は低く、しかし早口になった。「出血量自体は多くありませんが、私が行ったドレナージ手術で対応できるのはここまでです。残っているこの血腫の位置が、あまりにも厄介なんです。ちょうど脳幹網様体賦活系を圧迫しています。ここは何を司ると思いますか?人間の覚醒と意識です」彼女はペンを引き、再び椅子に座り込み、疲れたように眉間を揉んだ。「簡単に言えば、この血腫が消えないかぎり、あるいは手術でこれを精密に剥離できないかぎり、お父さんは電源の入っていないコンピュ
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第807話

オフィスは再び息が詰まるような沈黙に包まれた。しばらくして、忍はさっきの言葉が重すぎて、絶望感を強調しすぎたと思ったのか、ため息をついた。引き出しからミント味の飴を入れた小箱を取り出し、一粒取り口に放り込んだ。まるで体に広がる苦しみを押し流すかのように。「そんな顔をしないでください」彼女はあの鋭い態度を少し和らげ、明らかに落胆している男を見て、珍しく言葉を足した。「ここ数日、家族の注意が重要です。ご高齢で意識はなくても、聴覚は一部残っている可能性があります。そばで話しかけてあげてください。そんなに大袈裟なことばかりを考えないでください。時には、子供がそばにいてあげることの方が、何十万もする輸入した薬よりも効果があるんですから」彼女は一呼吸置き、悠生の高価だが皺のできたスーツに目を走らせ、含みのある口調で続けた。「それに、あなたがスーパーマンだとしても、自分を潰すような無理はなさらないでください。お母さんもご高齢ですよ。ここ数日、彼女の精神状態は崩壊寸前だと感じています。あなたが今その家の大黒柱です。もしあなたも倒れたら、この家族は本当に崩れてしまいます。仕事は、できる範囲でこなして、全部ひとりでやるのはやめでください。お金はいつだって稼げるんですが、ご両親は、もしいなくなったらもう終わりなんです」これらの言葉は素朴で、陳腐にさえ聞こえる。しかし、常に冷静沈着なこの若い医者の口から出ると、特別な重みを持った。悠生は深く息を吸い込み、胸の奥から込み上げてくる辛い感覚が目頭を熱くさせた。彼はうなずき、低く真面目な声で言った。「ありがとうございます。心に留めておきます」彼は立ち上がり、忍に向かって軽く一礼した。これは社交辞令ではなく、心からの敬意だった。「灰山先生、では……もしこのまま治療がずっと効果がなかったら、もう希望は薄いということでしょうか」彼には諦めきれなかった。ビジネスの世界では、この世に解けない局面などないと信じてきた。忍は口の中のミント飴を噛み砕き、涼しい感覚が少しだけ疲れを和らげた。彼女は悠生の強情な眼差しを見つめ、しばし沈黙し、何かを決意したかのように話し始めた。「私の今の技術では、確かにこの手術を受ける勇気はありません」彼女は引き出しを開け、一番奥の隅から少し擦り切れた古い手帳を取り出した。「しか
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第808話

「灰山先生、誰でもいいんです。父を助けてくれるなら、資産の半分を分けても構いません。俺には払えますから」悠生は早口で、声は興奮しわずかに震えていた。「お願いですから、どうか尾谷先生に連絡を取ってくださいませんか。どんな条件でも、どこへ迎えに行けばいいのか、遠慮なくおっしゃってください」忍は彼の焦りに満ちた様子を見て、すぐには答えなかった。彼女は手に持っていたボールペンをくるくる回しながら、そっとペン立てに置いた。カチッという音が静かなオフィスに響いた。「藤崎さん、まず落ち着いてください」忍はため息をつき、椅子の背にもたれかかった。少し困惑しているような顔を見せた。「もしお金だけで彼を動かせるなら、この世に先生に治せない病気はありません。先生は……ちょっと変わった性格なんです」悠生は少し驚いた。「と言いますと?」「変わっているどころじゃありません」忍は苦笑いし、窓の外の曇っている空を見つめた。「あの方はここ数年、完全に自由に生きています。行方も定かではないんです」彼女は指を伸ばし、円を描いた。「先月は北のある島でオーロラを見ていたかもしれませんが、来月は熱帯雨林に入って薬草を研究しているかどうかもわかりません。あの人は束縛されるのが一番嫌いで、携帯電話は年中電源が切れています。彼が誰かに連絡したいと思わない限り、誰も彼を見つけることはできないんですよ」悠生の心は少しずつ沈んでいった。まるで、目の前に命を救える人がいるのに、その人が空に住んでいる神様で、手が届かないと言われるようなものだ。「では、灰山先生が最後に彼と連絡を取ったのはいつですか?」悠生は諦めず、眉をひそめて尋ねた。忍は少し考え、引き出しを開けて探し、しわくちゃの絵葉書を見つけ出した。「半年前です」彼女はその絵葉書を悠生の前に押しやった。「消印は海外から送られてきたものでした。裏に一行書き添えていて、あちらで動物の大移動を見ていて、ヌーが川を渡った景色が開頭手術よりもはらはらすると感じたって言いましたよ」悠生はその絵葉書を取り上げた。その絵葉書には広々とした草原の風景が印刷され、夕日の光がアカシアの木に降り注いでいた。半年前は海外にいた。今、彼がどこにいるのか、誰も見当もつかない。「灰山先生」悠生は絵葉書を置き、目に映る光が消えるどころか、
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第809話

忍は驚いた顔で彼を見つめた。普通なら、家族が「その人が見つからない」という言葉を聞けば、絶望して泣き崩れるか、医者に必死で頼み込むかのどちらかだ。悠生のように、一瞬ですべての情報を整理し、逆に探索計画を立て始めるような人は確かに珍しい。これがお金持ちの力というものか。「わかりました」忍も断らず、携帯を取り出して数枚の写真と資料を表示した。悠生は一つひとつ撮影していく。「写真は二年前のものです。先生は写真が嫌いですから、これしかないんです。本名以外に、時々『ウォーカー』という偽名を使うことがあります」悠生は画面に映った白髪交じりの、登山ウェアを着こんで、笑うと顔に深い皺が刻まれた年寄りを見つめ、深く息を吸い込んだ。まるでこの姿を頭に刻み込もうとするかのように。彼は携帯をしまい、少し乱れたスーツの上着を整え、再びあの礼儀正しい様子に戻った。「灰山先生、本当にありがとうございました」彼は胸の中から真っ黒な名刺を取り出し、両手で差し出した。「ここに俺の個人番号があります。24時間つながります。尾谷先生の捜索については俺が全面的にします。何か情報があれば、すぐに灰山先生にお知らせします。その時は、説得のため灰山先生にお出ましいただく必要があると思います」ここまで言うと、彼は少し間を置き、誠実な目で忍を見つめた。「それから、先生がお忙しく、またプロであることも承知しています。もし仕事上、あるいは……生活上で何か問題があれば、たとえ病院の研究費申請や新しい設備などのことでも、先生がおっしゃってくだされば、藤崎グループは全力でサポートします」これは約束であると同時に、利益交換でもあった。大人の世界では、言葉だけの感謝はあまりに無力で、利益による結びつきこそが最も堅固なものだ。彼には忍が純粋な医者であることがわかっていたが、医者もまた人間であり、この複雑なシステムの中で生きていかなければならない。忍はその名刺を受け取った。名刺の触り心地がよく、そこには気取った肩書きは何も乗っていなくて、「藤崎悠生」というシンプルな名前と電話番号だけが記されていた。彼女は名刺をつまみ、口元に意味深な笑みを浮かべた。「藤崎さん、これは主治医への賄賂ですか」「いいえ」悠生は首を振り、目は澄んでいた。「父の命のために、保険をかけるためです。
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第810話

消毒液の匂いが漂う冷たいオフィスを出た悠生は、すぐには病室へ戻らなかった。廊下の突き当たりの窓際に立ち、スーツの内ポケットから普段はほとんど吸わないタバコの箱を取り出した。一本出して火をつけようとした。それは彼が不安を紛らわせるための習慣的な動作だったが、指先が冷たいライターに触れた時、壁の真っ赤な「禁煙」マークを目にした。彼は苛立ってタバコを握りつぶし、胸の奥に積もったもやもやした息苦しさと一緒にゴミ箱へ放り込んだ。忍の言葉は、まるで一本の棘のように彼の心に刺さり、抜けなかった。悠生は窓の外のまだどんよりした空を見つめ、目つきは少しずつ険しくなっていく。偶然すぎるのだ。全てがまるで緻密に書かれた脚本のように、出来すぎている。もし父親が何かを見たり聞いたりしたために発病したのだとしたら、その「刺激を仕掛けてきた奴」とメールを送った人物は、同一人物なのではないか?相手はタイミングを計算していた。父親の命を奪うだけでなく、彼の心まで砕こうとしている。これは藤崎家を絶望の淵に追いやり、自分と博人を永遠に和解できない敵にしようとする魂胆かもしれない。このように弄ばれ、都合のいい駒のように勝手に動かされている感覚が、悠生は胃が握りつぶされたように苦しかった。彼は窓際に五分間立ち尽くした。冷たい風がシャツを通り抜けて身体を冷やすと、ようやく振り返り、病室へと向かった。ドアを押すと、室内がエアコンで温かくなってきたが、その重苦しい圧迫感を払うことはできなかった。京香はベッドの傍に座り、温かいタオルを手に、昏睡状態の知久の指を一本一本丁寧に拭いていた。その動作は、まるで世にも珍しい宝物を扱うかのように優しく、口の中では小声で呟いている。「知久さん、もうそろそろ十分に休んだでしょ?畑の白菜も収穫の時期よ。これ以上起きないなら、お隣さんに全部抜いてもらうからね……」その言葉を聞いて、悠生の胸は締めつけられた。彼は歩み寄り、母親の手からタオルを受け取った。「母さん、俺にやらせて」京香は顔を上げて彼を見た。まぶたはまだまだ腫れていたが、表情は前より少し落ち着いていた。「あの灰山先生はどう言っていたの?お父さんは……いつ目を覚ますの?」悠生は「植物状態」という言葉を口にすることができなかった。それは母親にとってあまりにもひどすぎるこ
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