All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 111 - Chapter 120

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第110話:春の庭で

冬を越えた庭は、まるで別の場所のように見えた。つい二か月前までは風にさらされるだけの殺風景だった政庁の中庭に、今は小さな花の芽が顔を出している。薄紫のクロッカス、白いスノードロップ、名も知らぬ草花の蕾。石畳の隙間にさえ緑が息づき始め、春の気配は確かにここまで届いていた。リリウスは書類の束を抱え、庭の回廊を渡っていた。議会へ提出する草案、各地の要望書、民からの嘆願。冬の間に積み上がった問題は、雪解けと同時に姿を現す。春は穏やかな顔をして、同時に容赦のない忙しさを運んでくるのだ。足取りは普段通りのつもりだった。だが、ふいに視界がかすむ。立ち止まろうとした瞬間、身体がぐらりと傾いた。「……っ」声にならない声。抱えた書類が揺れ、手から零れ落ちそうになる。「リリウス様!」鋭い声とともに、肩を支える手があった。セロだ。その眼差しは即座に周囲を見回し、必要なら医師を呼ぶ態勢さえ取ろうとしていた。リリウスは慌てて首を振り、微笑を作る。「大丈夫。……少し、眩暈がしただけ」「顔色が悪いですよ」廊下の向こうから駆け寄ってきたのはマリアンだった。書類を拾い上げながら、眉根を寄せる。「働きすぎですって、いつも言ってるのに。春先は体調を崩しやすいんですから」「そうだね」軽く笑いながら答える。確かに休む暇がないほど、働き詰めだ。それは自分ばかりではなく、動き出した国の中では皆がそうだ。けれど胸の内は、笑みほどには軽くなかった。(……本当に、ただの疲れ、なのかな)言葉にしない疑問を振り払うように歩みを進めようとした、その時だった。「……何をしている」低い声が後方から届く。振り返るまでもなく、誰のものか分かる。カイルだ。軍服の上着を羽織り、いつものように姿勢正しく立っている。視線はリリウスの頬に落ち、その色を測るように一瞬も逸らさない。「……少し、よろけただけだよ」「そうは見えん」短く切り捨てるような声。セロの肩から自然にリリウスを引き離し、自分の腕で支える。無言のまま書類の半分をさらい取ると、軽々と脇に抱え込んだ。その動作が自然すぎて、まるで最初から二人で運ぶ約束をしていたかのように見える。回廊にいた書記官たちが、ちらりと視線を交わす。声に出しては言わないが、囁きが空気を震わせる。「やっぱり……」「総帥と神子様……」好
last updateLast Updated : 2025-08-25
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第111話:診断

翌朝の空気は、春の匂いが混じり始めていた。まだ肌寒い風が回廊を渡り、政庁の壁を撫でていく。リリウスは机に広げた書簡へ視線を落としていたが、扉を叩く音に顔を上げた。「リリウス様」マリアンが入ってくる。その顔はどこか決然としていて、胸の前で両手をきゅっと組んでいた。「昨日のこと……眩暈です。やっぱり気になります。念のため医師を呼びました」「そんな、大げさだよ。もう落ち着いてる」笑ってみせても、マリアンは一歩も引かない。「私、幼馴染ですから。心配する権利はあります」その声音に押され、リリウスは仕方なく頷いた。ほどなくして、年配の医師が案内されてきた。灰色の髭を整えた穏やかな男で、まず脈を取り、瞳の色を確かめ、静かに問診を繰り返しつつ腹へ手を置く。部屋の空気が固まる。セロは緊張した面持ちで背筋を伸ばし、マリアンは手を胸に当てて祈るように目を閉じていた。カイルだけが部屋の奥に立ち、腕を組んで黙って見守っている。やがて、医師は深く頷き、柔らかな声を落とした。「……おめでとうございます。ご懐妊です」部屋が一瞬、静止した。「っ、まあ……!」マリアンの声が弾ける。両手で口を覆い、目を輝かせてリリウスを見つめる。「リリウス様……本当に……!」セロも目を丸くしたあと、深く頭を垂れる。「……お慶び申し上げます」それは彼らしい硬い祝意だったが、わずかに声が震えていた。リリウスは、ただ呆然と座り込んでいた。「……僕が?」唇から漏れたのは、それだけ。自分の耳に届いても信じられない。「お身体は安定しています。ただ、しばらくは無理をなさらぬよう」医師が説明を続けるが、頭には入らなかった。ふと、奥でカイルが短く息を吐いたのが分かった。視線を向ければ、彼は表情を崩さず、ただ深く頷いていた。「そうか」その一言。けれど、目の奥にほんのわずか柔らかな光が宿り、揺るがぬものとしてリリウスの胸に刻まれた。※夜。部屋にひとり残り、椅子に身を沈める。胸の上に外套を抱き、細い指で布をつまむ。「……僕に、子ども……?」声に出すと、余計に現実味がなくなる。窓の外には、春の風が若葉を揺らしていた。芽吹きの季節、生命の兆しが街にあふれている。それでも、今ここで自分が「命を宿している」と告げられた事実は、重すぎて胸に落ちきらなかった。ふいに、
last updateLast Updated : 2025-08-26
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第112話:葛藤

春の夜は、昼間のざわめきを嘘のように沈めていた。政庁の一室――リリウスの部屋には、灯火がひとつ、壁に長い影を落としている。 机の上には開きかけの文書があったが、もう言葉を追う目は働いていなかった。椅子に腰掛けたまま、リリウスは胸に手を当てて俯いていた。あの診断の言葉が、頭の奥で何度も反響する。 ──ご懐妊です。 たった一言。それがこんなにも重いのかと、今になって胸の奥で実感が波打っていた。 扉の音。控えめに叩かれる前に、低い声が届いた。 「俺だ」 返事を待たずに、扉が押し開かれる。軍服を脱いだカイルが、無言で中へ入り、扉を背後で閉じた。その仕草ひとつで、部屋の空気が変わる。リリウスは無意識に、息をのんだ。 「……体調は?」 カイルの問いは短い。けれど、それだけで胸の奥に張りつめていたものが刺激される。リリウスは唇を噛み、しばらく声を探した。 「……分からない。身体は、平気なんだ。ただ……」 言いかけて、目を伏せる。胸の奥で、どうにも言葉にならない思いが絡まり合っている。 沈黙が流れた。カイルは急かさない。その沈黙が、余計に「言わなければ」と心を追い立てた。 リリウスは拳を握り、ぽつりとこぼす。 「これは……番だから、授かったのかな」 夜の灯がかすかに揺れた。
last updateLast Updated : 2025-08-27
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第113話:議会の揺れ

議場は、春の陽射しを遮った高窓の下で熱気に満ちていた。磨かれた石壁に声が反響し、木の机を叩く音や椅子を引きずる音までもがざらざらと空気を乱している。重ねられた声は、次第に「議論」というよりは「衝突」に近い様相を帯び、互いを押し退けようとする力に変わっていった。「共和制はまだ生まれたばかりだ! 民が不安を覚えている今こそ、象徴が必要なのだ!」「その象徴こそ、神子リリウス殿と、その御子だ!」前列に陣取る壮年の議員が立ち上がり、拳を振り上げて叫ぶ。すると周囲の者たちが「そうだ!」「国の心柱が要る!」と拍手を叩きつけるように響かせた。「いや、それこそ旧体制の再来だ! 王の血筋に縛られていた過去を忘れたのか!」「血ではなく、民の声によってこそ国は立つ! 子を祭り上げてどうする!」別の一角では若い議員たちが机を叩き、椅子から身を乗り出して反論している。その勢いは熱に浮かされたようで、議場は一瞬にして二分され、真っ向からぶつかり合った。「象徴を!」「血統ではない!」その叫びが互いにかき消し合い、空気はますます濁っていく。まるで議場そのものが真っ二つに割れてしまうのではないか――そう錯覚するほどだった。壇上に控えていたリリウスは、微動だにせず座っていた。その姿は外から見れば落ち着いているように映っただろう。だが唇は固く結ばれ、膝の上に置いた両拳は白くなるほど握りしめられていた。(……まただ。僕のことなのに……僕の子なのに…… 僕はただ、議題の“題目”としてここにいるだけ……)胸の奥で、苦い思いが渦を巻く。人々は口々に「神子」と呼び、「象徴」と唱える。だがそのどれもが、リリウス自身を見てはいなかった。議場にいるのは“人間”としての自分ではなく、“像”としての自分。その感覚は、かつての玉座の間で経験したものとあまりに似ていて、吐き気が込み上げるほどだった。ふと目を横にやると、議席の後方でカイルが立っているのが見えた。腕を組み、微動だにせず、ただ鋭い視線で議場を見据えている。口を挟むことはない。しかしその沈黙は、威圧ではなく「ここにいる」という確かな支えであるように思えた。それでも――議場の喧騒は、その支えすら飲み込みそうな勢いだった。(……僕は、また道具にされるのか? この子まで……?)不安が胸を締め上げる。深く息を吸って
last updateLast Updated : 2025-08-28
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第114話:言葉の場所

議場の扉が内側から閉じられた瞬間、轟々と渦を巻いていた怒声は、厚い木戸一枚に吸い込まれて嘘のように遠のいた。控えの小部屋には、乾いた紙の匂いと、窓硝子を叩く春風の音だけが残る。椅子に腰を落とした途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、リリウスは両手で顔を覆った。——また、だ。「神子」「象徴」「御子」。さっきまで、あの円形の海で飛び交っていたのは、どれも自分の名を使いながら、自分のいない言葉だった。自分の体も、これから生まれてくる命も、品目のように卓上へ並べられ、肯定と否定の札を貼られていく光景が頭から離れない。こみ上げるものは堪えられず、静かな嗚咽が手の隙間から零れた。喉がつまる。息が浅い。膝の上で握りしめた指が白くなる。「……リリウス」低い声が、戸口の影から落ちた。返事をする前に、足音が近づく。カイルだ。音を立てないように椅子を引き、彼は何も言わずに隣へ腰を下ろした。手を伸ばせば届く距離。けれど触れない。触れないでいてくれる距離。涙がひとしきりおさまったころ、リリウスは袖口で目元を押さえ、掠れた声で言った。「僕は……この子まで、誰かの旗印にされるのが怖い。嬉しいと思う前に、怖いが先に来てしまう。そんな自分が嫌で、なお怖くなる……」言葉が崩れそうになるのを、どうにか繋いだ。カイルはわずかに身を傾け、掌を上に向けて差し出す。迷いの行き場を作るように。リリウスは躊躇してから、その掌に自分の指を置いた。包まれる。圧は強くない。逃げたい時には逃げられる握り方。「答えを急くな。君の言葉でいいんだ」静かな宣言。それは慰めではなく、責を負うという合図でもなく——時間そのものを差し出す言葉だった。胸の奥がきゅっと痛み、そして少しだけ軽くなる。「……なんか、ずっと支えてもらってばっかりだね」「それが俺の役得、だろう?」短いやり取りに、かすかな笑いが滲んだ。それから、セロが気配を殺して戸口に立つ。目礼だけで、何も問わない。その沈黙に背を押されるように、リリウスは深く息を吸った。(逃げない。——僕の意志で)指をゆっくり離し、立ち上がる。膝の震えはおさまっていない。それでも扉へ向かう背中は、もうさっきまでの自分ではなかった。カイルは何も言わず、ただ扉を開けて道を作る。通り過ぎる瞬間、視線が触れた。そこにあったのは「気をつけろ」でも「無理をするな」でも
last updateLast Updated : 2025-08-29
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第115話:夜の安らぎ

その夜、政庁の廊下はもう人の気配が薄く、灯がところどころで小さく揺れていた。昼間の議会で言葉を置いた興奮も、不安も、夕餉の湯気と一緒に薄れていく——はずだった。 自室の扉に手をかけたとき、背後から低い声。 「——今夜から、こっちだ」 振り返ると、カイルがいつもの無表情で立っていた。片腕には毛布の束、もう片方には枕と夜具、そしてリリウスの寝間着まで乗っている。どう見ても「引っ越し」の体である。 「え、えっと……それは、私物なんだけど」「知っている。だから運んでいる」「どこへ?」「俺の寝室へ」「……どうして?」「必要だからだ」 必要。短い言葉の強度に、扉の前で言葉を失う。 「待って、準備というか、心の準備というか……」「異議は却下だ」 さらりと言って、カイルはリリウスの手から扉を外側へ押し戻した。すれ違いざまに肩を押さえる掌は、強引というより、転ばせないための確かさを含んでいる。 「妊娠が分かった。夜中に眩暈でも吐き気でもあれば、呼ばれるより隣にいた方が早い。君は“我慢すれば済む”と考える。だから俺が決める」「……そんなに、僕を信用してない?」「こればかりはないな。自分の我慢強さを信用しているだろう。そこが危ない」 反論の余地がない。リリウスは息をつき、観念して頷いた。廊下の角で、その一部始終を見ていたマリアンが、頬をふくらませて小声で囁く。 「総帥、強引……! でも正解です」「マリアン…
last updateLast Updated : 2025-08-30
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第116話:祝福と影

春の雨が上がった翌朝、政庁の玄関前には見慣れない荷が山となって積まれていた。布を巻いた包み、籠いっぱいの根菜、蜂蜜の壺、乾いたハーブの束、赤子用の小さな靴下まで。近隣の市場から商人や職人が持ち寄ったもので、荷札には拙い文字で一様にこう記されている——「リリウス様へ」「神子様に」「元気な子を」。 「……これは」 思わず立ち止まると、出迎えの書記官が嬉しそうに胸を張った。 「朝一番から続々と。お断りもしたんですが、どうしても置いていってしまう方が多くて。中には“返すなら呪うぞ”なんて冗談を……」 冗談にしては物騒だ、と心の中で苦笑しつつ、リリウスは籠のひとつに手を伸ばした。布をめくると、柔らかな肌着が二枚。縫い目は少し曲がっているけれど、糸の始末は丁寧で、指先から縫った人の息づかいが伝わってくる。 (……祝ってくれている) 自分でも驚くほど静かな感情が胸に広がった。嬉しい。そうだ、これは嬉しい。政治でも祈りでもない、名もない手から手へ渡る温度。昨夜、重ねた掌の下に感じた温もりと同じ種類の道筋で、祝福がこちらへ届いてくる。 「市場の方々が、直接お渡ししたいと列を……」 書記官に促され、回廊を曲がる。外の石段に沿って人の列ができていた。行商の女、靴直しの青年、見習いの織り子、煤けた手の職人。皆、少し緊張しながらも晴れやかな顔で、布包みを胸に抱えている。 「リリウス様、おめでとうございます」「丈夫な子になりますよう」「昔、自分の子に縫ったやつで……ほつれたら言ってください」 一人ひとりの声が、遠慮がちに、それでも確かに届く。リリウスはできるだ
last updateLast Updated : 2025-08-31
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第117話:恐怖

昼下がりの陽射しは柔らかく、王都の通りを黄金色に染めていた。政庁から歩いて数街区、リリウスは護衛を連れて市場を見回っていた。人々が笑顔で頭を下げ、籠を差し出し、子どもが走り寄って「元気な子を」と無邪気に叫ぶ。春の祝福は確かに広がっている——そう、信じたかった。だが、その角を曲がった瞬間だった。「——神子の子を、神殿へ!」最初の声は一人分の叫び。次いで数人、十数人、波のように同じ声が重なった。布の覆面をした者たちが広場の両端から迫り出し、手には紙片や旗を振りかざしている。「御子は我らの象徴だ!」「神殿のもとに!」響く言葉が、胸の奥の古傷を一瞬で抉った。あの冷たい石の回廊、祭壇に縛られ、祈りを強いられた記憶。視界が揺れ、足が止まる。肺に空気が入らない。「……っは……ぁ……」呼吸が速く、浅くなっていく。胸がぎゅうと締めつけられる。視界の端でセロが剣の柄に手をかけ、兵たちが壁を作るのが見える。だが、その音さえ遠くなる。膝が崩れかけた瞬間——「リリウス!」強い腕に抱き上げられた。カイルだ。大きな外套に包まれ、胸板に押しつけられる。鼓動が耳の奥で鳴って、崩れかけた世界を少しだけ現実に繋ぎとめる。「解散させろ!」低く鋭い声が兵に飛ぶ。怒声と靴音、布の擦れる音が渦を巻くが、リリウスはもう目を開けていられなかった。*気づけば、静かな部屋にいた。政庁の一角、灯火の届く書庫の奥。厚い扉の向こうで兵の声が低く響き、外界のざわめきを遠ざけている。カイルの腕の中から、リリウスは震える声をもらした。「……また……役割に……縛られるのか……」頬を濡らす涙は止まらなかった。嬉しい祝福と、あの叫び声がごちゃ混ぜになり、自分がどこに立っているのか分からなくなる。カイルは言葉もなく抱きしめ続け、背を大きな掌でゆっくり撫でた。そして、低い声で断言した。「——縛らせない」その一言に、胸の奥の恐怖が少しだけ揺らいだ。けれど涙はまだ止まらない。唇が震えて、思わずこぼれる。「……弱くて、ごめん」その言葉に、カイルは少しだけ身体を離し、視線を合わせた。いつもの厳しい眼差しではなく、柔らかく、けれど強い光を宿した瞳。「弱いんじゃない」「……」「今は変化に心が追いついていないだけだ。怖がるのは当然だ」そして口元に、めずらしく微笑が浮かぶ。
last updateLast Updated : 2025-09-01
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第118話:民の声を聞く日

春の陽は高く、空気はどこか湿りを含んでやわらかくなっていた。政庁の玄関前に整列した馬車と兵たちを見渡しながら、リリウスは胸の奥でひそかにため息をついた。(……妊娠している身で地方へ、なんて本当は反対されても仕方ないのに)彼の横で、カイルが短く命じる。「出立だ。護衛は二重、巡回兵との連携を崩すな」その声に従って兵たちが動き、馬車の扉が開かれる。リリウスが乗ろうとしたとき、背後から気さくな声音がかかった。「リリウス、きみは顔色を取り繕うのが下手だな。大丈夫なのか?」振り向けば、ヴェイルが立っていた。かつて宮殿で兄のように寄り添ってくれた従兄。今は外交官として王都に戻ってきた彼は、昔と変わらず落ち着いた笑みを浮かべている。「……大丈夫だよ、ヴェイル。少し疲れてるだけ」「少し、ね。昔から“少し”と言いながら限界まで走るのがきみだ。マリアン、よく見張っていてくれ」「もちろんですわ!」横から明るく応じたのはマリアン。長い黒髪をまとめ、鮮やかな外套を翻している。ヴェイルの妻となってもなお、リリウスに向ける眼差しは、少女の頃と何も変わらず熱を帯びていた。「リリウス様、どうかご無理をなさらないでくださいね。私、見張ってますからね!」「……ありがとう、マリアン」少し困ったように笑うと、彼女は頬を赤らめて胸を張った。馬車はやがて揺れながら街道を進み、郊外の村へと向かう。※村は、芽吹きの季節らしく畑が瑞々しい緑に覆われていた。農民たちが泥を払って駆け寄り、頭を下げる。「リリウス様、ようこそ!」「お腹の子も、どうか丈夫に……」差し出されるのは籠いっぱいの野菜や、焼きたての黒パン。リリウスは一つ一つ手を取り、礼を言った。(……祝福だ。純粋な、民の気持ちだ)胸の奥が温かくなる。けれど同時に、また「象徴」として祀り上げられるのではないかという怖さもちらつく。そんな思いを悟ったかのように、ヴェイルが傍らで低く言った。「きみは“神子”である前に、人間だ。人はきみを象徴にしたがるが……忘れるな。きみ自身がどう感じるかが一番大事だ」リリウスは目を瞬き、そしてわずかに頷いた。一方でマリアンは、子どもたちに囲まれていた。魔法で花びらをひらひらと舞わせ、子らの笑い声を誘いながら、満面の笑みでリリウスを振り返る。「リリウス様! こちらへ! 皆、あなたに会いたが
last updateLast Updated : 2025-09-02
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第119話:家

「屋敷を買った」執務室の扉を押し開けるなり、カイルがそう言った。乾いた紙の匂いに沈んでいた空気が、一瞬で別の色に染まる。手元の書簡に目を走らせていたリリウスは、筆を止め、顔を上げた。不意を衝かれた心臓が、遅れて強く脈を打つ。「……屋敷?」「ああ。旧王都の外れだ。修繕はすでに始めている」「また、急だね」「急がなければ整わないこともある。いつまでもここでは落ち着かないだろう?」淡々と告げる声。だが、その抑揚の奥に、彼なりの優しさが潜んでいるのをリリウスは知っていた。反論を探すより早く、胸の奥にじんわりと熱が広がっていく。(屋敷……家……僕たちの場所……)その言葉を胸の内で繰り返すだけで、心がかすかに浮き立った。数日後。馬車の窓から差し込む春の光の中、最初に目に入ったのは、瓦を葺き直したばかりの屋根だった。白く乾いた石塀は新しく積み直され、庭先では職人たちが掛け声を交わし、木槌の音を青空へ放っている。土の匂いと新しい木の匂いが混じり、風は軽やかに頬を撫でた。育ったクラウディアの宮殿で不便だったことはない。家族は優しく、周囲も自分を大事にしてくれた。けれど、嫁いだ場所は冷え切っていた。その2つとはまるで違う──場所。まだ完成していないはずの建物なのに、もうすでに「家」と呼びたくなる、暖かさがある。リリウスは思わず、胸に手を当てていた。「ここが……」「家だ。君と俺と生まれてくる子だけの」カイルの短い言葉には、どこか不器用な誇らしさが混じっていた。視線を巡らせた先に、若木がひとつ植えられているのに気づく。「……柘榴?」「ああ。実りは縁起がいい」「……子が生まれる頃、花が咲いたらいいね」「咲かせよう。必ず」まっすぐな言葉に、心臓が静かに跳ねる。視線が交わったまま、どちらも言葉を継がず、けれど穏やかな沈黙がそこに居座った。屋内に入れば、木の香りが新しい。使用人はまだおらず、まだ家具も少ない。広い空間に声が柔らかく反響する。「座っていろ、茶を用意する」手を引かれて入ったのは、調理場だ。カイルは慣れない手つきで鍋に火をかけ、すぐに煙を立ち上らせた。「……焦げてる」「火加減を誤った」真剣な顔で鍋を睨む様子に、リリウスは思わず吹き出した。「お茶を焦がすだなんて……そのまま葉っぱをいれたね?」「戦場では火
last updateLast Updated : 2025-09-03
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