All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 131 - Chapter 140

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第130話:柘榴の下で

数日の時が過ぎた。それは癒しというにはあまりに短く、忘却にはあまりに長い時間だった。屋敷の空気にはまだあの夜の影が沈殿していた。廊下を渡る兵たちの靴音は硬く、窓辺に差す光もどこか冷たく感じられる。布に染み付いた血の痕跡は既に片付けられていたが、人の心に残る記憶は容易に拭えなかった。兵士たちの視線にも、常に緊張と痛みの色が混じる。その空虚を抱えたまま、リリウスは庭へと足を運んでいた。足取りはまだ覚束なく、体も軽いめまいに揺れていたが、それでも外へ出ずにはいられなかった。どうしても確かめたいものがあった。柘榴の若木がそこに立っている。あの夜、血と狂気の中でも風に揺れ、葉音を奏で続けていた若木。変わらずにそこにある姿は、残酷なほどに健やかで、それでいて慰めでもあった。小さな水差しを手に、リリウスは枝先へ静かに滴を落とした。水は土に吸い込まれ、わずかな湿り気が根元を潤す。葉は陽を受けて微かに光り、幹はまだ細いながらも確かに大地に根を張っていた。その姿を見つめるたび、胸の奥がずきりと疼く。「……この子は、戻らない」誰に告げるでもない独白。声にしなければ心が崩れそうで、言葉にしてようやく自分の痛みを受け止められるような気がした。「でも……未来は、ある。今日だって、こうして来た……」震える声で、腹にそっと手を置く。そこにもう命はない。それでも温もりの記憶は確かに残っている。夢の中で笑っていた幼子の声が、まだ耳に残っていた。そのとき、背後で気配がした。振り向けば、カイルが立っていた。陽光を背に受けて立つその影は大きく、揺るぎない壁のようだった。「リリウス」低く、確かに呼ぶ声。リリウスは小さく笑おうとしたが、唇が震え、声は出なかった。「僕は弱いね……守れなかった。夢で、あの子にまた会おうって言われたのに、それでも……」言葉は途切れ途切れに掠れ、喉が詰まる。けれどカイルは歩み寄り、迷わずその肩に手を置いた。「弱くなんかない」短く、鋭く。その目には烈しい決意が宿っていた。「弱かったのは俺だ、リリウス。これからは絶対に……何があろうと、俺が守る」その言葉は刃のように真っ直ぐでいて、同時に焚火のような温かさを持っていた。胸の奥にほんの少し、光が差す。涙が溢れそうになったが、リリウスは必死に堪えた。柘榴の枝が風に揺れ、日差しを散
last updateLast Updated : 2025-09-14
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第131話:揺れる心

屋敷の空気は重かった。数日前に届いたクラウディア王家からの書簡は、ただ一行「弟よ、帰ってこい」と記されていたにすぎない。けれど、その一言が残した波紋は静かに、しかし確実に広がり続けていた。議会内では早くも議論が始まっているという報せがあった。「危険な目に遭った神子を、果たしてこの国で守り切れるのか」「王家の庇護下に戻した方が安全ではないか」——そんな声が、密やかに、けれど着実に数を増していた。リリウスは会議場には出なかった。だが扉の向こうで交わされる声は嫌でも届いてきた。「庇護」「安全」「本来あるべき場所」……繰り返される言葉のどれもが、自分自身を指しているのに、自分の意志はどこにも置かれていないように思えた。(……僕は、ここにいたいのに)胸の奥で小さくつぶやいても、その声は壁に吸い込まれて消えていく。あの夜から幾度も夢に見た。小さな子の笑顔、そして「かあさま」と呼ぶ声。もう失ってしまった命。けれどその命が宿してくれた時間は、この屋敷で、カイルの隣で生きていたからこそあったのだ。だからこそ思う。ここを離れたくない。過去ではなく、未来を選ぶと誓ったのだから。けれど現実は、意志だけでは押しとどめられない。王家から次々と使者が訪れた。深紺の外套をまとい、同じ言葉を異なる口調で繰り返す。「神子様、本来あるべき場所へ」「弟君を案ずる神王陛下の御心を、無下にはできません」「この地では再び危険が及ぶかもしれません」その度にリリウスの胸はざわめき、言葉を失う。*夜。柘榴の若木は月に照らされて影を落としていた。リリウスはその枝先を見上げながら、静かに呟いた。「僕は……ここで生きたい。あの子の声を聞いた庭で、あなたの隣で……」「リリウス」背後から呼ばれ、振り返る。カイルが立っていた。夜風に外套が揺れ、瞳は真っ直ぐにリリウスを映している。「分かっている、君の望みはここに残ることだ」静かに告げられた言葉に、胸が震えた。まるで、誰も聞いてくれないと諦めかけていた心の奥を、そのまま見抜かれたようだった。「でも……」声が掠れる。「でも、僕が何を言っても、結局は周りに決められてしまうんじゃないかって……」カイルは一歩近づき、肩に手を置いた。「誰に何を言われようと、俺は動かない。俺は君をここに残す。君がそう望む限り」その断言は
last updateLast Updated : 2025-09-15
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第132話:帰郷の門

空は晴れていた。けれど、その青はリリウスの胸に晴れやかさを与えるものではなかった。クラウディアへと続く道を進む一行の馬車の中、彼は窓越しに流れていく風景をただ黙って見つめていた。揺れる景色の向こうに見えるのは、幼い頃から馴染んだ大地。けれど今は、そこに「帰る」という実感よりも「連れ戻される」という感覚の方が濃くあった。「リリウス」隣に座るカイルが、低く呼びかける。声の響きだけで、胸の奥のざわめきが少し鎮まる。彼が共にいる、それだけが確かな支えだった。「大丈夫だ。お前が望む限り、俺は共にいる」その言葉を聞くたびに涙が込み上げそうになる。でも、ここで弱さを見せてはならない——そう思って首を振った。けれど次の瞬間、抑えきれないものが喉の奥からこぼれる。「……少しだけ。着くまでの間だけ……あなたに甘えてもいい?」掠れた声でそう呟き、リリウスは躊躇いながらもカイルの胸へ身を寄せた。大きな腕がためらいなく彼を抱きしめる。鎧ではなく外套越しの体温が、窓の外のざわめきを遠ざけていく。「好きなだけ甘えろ。ここでは誰も見ていない」低く落とされた声は、盾のように温かく広がった。リリウスは目を閉じ、胸の奥の震えをその腕に委ねた。クラウディアの王都が近づいていた。*城壁が見えた瞬間、空気が変わった。高くそびえる白い石の壁。塔の先端に翻る深紅の旗。その姿は圧倒的で、遠い昔には誇りとして胸に刻んでいたものだった。けれど今は、その威容が鎖のように重くのしかかる。リリウスは息を詰め、指先を膝の上で重ねた。「ご覧ください、神子様!」御者の声に合わせ、馬車の窓を開け放った兵の一人が、群衆を示す。門前に集まった人々が一斉に声を上げた。「神子様だ! 神子様がお戻りになられた!」「リリウス様! 万歳!」幾重にも重なる歓声。旗が振られ、花びらが舞う。人々の目は熱狂に揺れていて、そこに個人としてのリリウスはいなかった。ただ「神子」としての存在だけが見られていた。(……これが、クラウディアの視線……)胸の奥が冷える。それでも笑みを作らねばならないのか、と迷う間もなく、マリアンが横で声を潜めた。「気にしなくていいんです。これは“儀式”のようなもの。リリウス様を一人の人として見ている人も、必ずいます」その声音は柔らかく、慰めのように響いた。け
last updateLast Updated : 2025-09-16
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第133話:王の抱擁

広間に響く音は、重く規則正しい。石畳を踏む足音、旗が揺れる布擦れの音、そして——沈黙。その中心に、アウレリウスが立っていた。黄金の冠は陽光を受けて煌めき、白の外套に銀の縁が流れるように光を反射している。堂々とした姿は、幼い頃に「兄上」と呼んだ面影をはるかに越えて、ひとつの国そのものの威容となっていた。「……兄上」胸の奥で呟いた声は、誰にも届かないほどに小さかった。けれど次の瞬間、アウレリウスの瞳が真っ直ぐに射抜いてきた。その眼差しには冷徹さと威厳、そして血のつながりを思わせる深い色が同時に宿っていた。リリウスは吸い込まれるように一歩踏み出し、深紅の絨毯の上を進んだ。背後では、カイルとセロ、マリアンとヴェイルが控えている。だが今この場で光を浴びるのは、自分だけだ。「リリウス」その声は広間全体に響き渡った。かつて寝物語を聞かせてくれた兄の声と同じ響き。だが今は玉座に座す王の声として放たれていた。アウレリウスは歩み寄ると、広間に集う貴族や兵たちの前で、弟をその胸へ抱き寄せた。「よく帰った。弟よ」威厳に満ちた声でありながら、その響きには血のつながりだけが持つ柔らかさが滲んでいた。だが同時に、その腕は庇護という名の鎖のようでもあった。強く抱きしめられるほどに、逃れられぬ圧が背骨へと伝わってくる。「お前はここで守られる。もう外でさまよう必要はない。あちらでは傷を負い、命さえ危うくしたのだろう」その言葉に、広間にざわめきが走った。「やはり陛下の御心こそ正しい」「神子は国の宝だ」……臣下たちの囁きが波紋のように広がり、リリウスの耳に突き刺さる。(守られる……?)胸は揺れた。守られるという安心と、鎖につながれるような息苦しさ。両方が絡み合い、答えを奪っていく。アウレリウスは抱擁を解き、鋭い視線を別の一点へと向けた。それは傍らに立つカイルである。「……そして、カイル・ヴァルド」名を呼ぶ声には冷ややかな響きが混じっていた。広間の空気がぴんと張り詰める。「よく我が弟を守った。その功を否定するつもりはない。礼を言おう」一瞬の安堵が人々の間に広がる。しかし続いた言葉は、鋼の刃のように鋭かった。「だが同時に——危険な目に遭わせたのもお前だ。もし外へ連れ出さなければ、このような惨事には至らなかったはずだ」重苦しい沈黙が落ちた。群衆の
last updateLast Updated : 2025-09-17
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第134話:宮廷の影

謁見の儀が終わったのは、日が傾きはじめる頃だった。広間に集められた貴族や兵たちが次々と退出していく中、リリウスはまだ胸の奥の震えを抑えられずにいた。兄の腕に抱き締められた温もりと、同時に鎖のような圧。それは今なお骨の奥に残っていた。やがて、控えていた近侍が恭しく告げた。「神王陛下が、リリウス様とカイル・ヴァルド殿をお呼びです」広間を出て導かれたのは、奥の塔の一角にある執務室だった。重厚な扉が開かれると、書架に囲まれた広間とは対照的に、そこは静謐で簡素な空気をまとっていた。机の上には書簡と印章、積まれた羊皮紙。窓からは斜陽が差し込み、床に長い影を落としている。「……リリウス」アウレリウスが椅子から立ち上がり、再び弟を抱き寄せた。今度は人目のない場だからか、先ほどよりも少しだけ力が緩んでいた。けれどやはり、その抱擁は重く、逃れられない。「帰ってきてくれてよかった」低く告げられる声には、王ではなく兄の響きがあった。リリウスは胸の奥で安堵を覚えながらも、同時に息苦しさも募らせた。「……兄上」小さく呟いたその声をかき消すように、アウレリウスの視線がカイルへ向けられる。柔らかな微笑みを浮かべ、歩み寄ると、右手を差し出した。「カイル・ヴァルド。弟を守ってくれたことにもう一度礼を言う」一瞬の安堵が胸に広がる。だが次の瞬間——。乾いた音が室内に響いた。アウレリウスの拳が、握手の形を変えてそのままカイルの頬を打っていた。「——!」驚愕に目を見開いたのはリリウスだった。「兄上……!」叫びかける声を、アウレリウスの低い叱責が遮った。「カイル・ヴァルド。お前が悪いわけではない。だが、責任はある。違うのか」鋭い眼差しが突き刺さる。頬に紅をにじませたまま、カイルは一歩も退かずその視線を受け止めた。「リリウスの腹にいたのはお前の子だ。どうして守れなかった」その一言に、リリウスの胸が潰れそうになった。守れなかった——その言葉を一番自分が痛感しているのに、兄は容赦なく突きつける。「兄上、カイルは——!」庇おうとする声を、カイルが遮った。「……言い訳のしようもありません」深く、深く頭を垂れた。その声に怒りも抗弁もなく、ただ事実を受け入れる静かな重みがあった。「リリウスを守れなかった。それがすべてです。申し訳ありません」アウレリウスは
last updateLast Updated : 2025-09-18
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第135話:異端の名

議場の扉が閉じられると、外の喧騒は遠のき、重々しい沈黙が広間を支配した。長い卓を囲む重臣たちの顔は硬く、誰も軽口を交わそうとはしなかった。壁には深紅の垂れ幕が揺れ、陽は傾きかけ、窓から差し込む光が斜めに卓を照らしている。 「報告を」 神王アウレリウスの低い声に、議場の空気が一段と引き締まった。立ち上がったのは辺境から戻った軍の将。その表情には疲労と、言葉にすることへの逡巡がにじんでいた。 「……確認されました。辺境の集落にて、禁呪の儀が行われております」「禁呪」 その一言が落ちた瞬間、場にざわめきが走った。重臣たちが互いに顔を見合わせ、唇の端で囁きを交わす。アウレリウスは手を挙げ、すぐに静めた。 「続けよ」「はい。現地で捕らえた残党の供述によれば……彼らは『導師』と呼ばれる者の下に集っております」 将は深く息を吸い、言葉を絞り出した。 「その導師の名は——サウル・オルド。かつて魔塔に属しながら、禁呪研究により追放された狂人にございます」 ざわめきは先ほどより大きくなった。幾人かの老臣は椅子を叩いて嘆きの声を上げる。「またあの男か」「生きていたとは……」 アウレリウスの瞳が鋭く光る。 「目的は何だ」「……旧レオン派が合流しているとのこと。その……神子様を……」 言い淀んだ将にアウレリウスが、再度「続けよ」と促す。男は息を吐き出して言葉を続けた。 「……神子様を『生贄』に用い、新しき神を呼ばんとしているようで」「なっ……!」 
last updateLast Updated : 2025-09-19
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第136話:揺さぶり

居室の窓辺に腰を下ろし、リリウスは薄く開いた窓の向こうに目をやっていた。空は鈍く曇り、午後だというのに陽の色はなく、風だけが強かった。庭を囲む木々が騒ぎ立てている。枝葉がうるさく軋り、何かを訴えるように鳴っていた。だが、その中は静まり返っていた。あまりに静かで、どこか気味が悪いほどだった。廊下にも人の気配はなく、扉の向こうで控える侍女たちの足音すら、今日は聞こえてこない。隔離、という言葉が脳裏をかすめる。それは誰の命でもない、アウレリウス自身の命だった。「弟を守るためには、この場から一歩も出してはならない」と。その声はいつになく低く、強い意志を孕んでいた。それが彼の「王」としての言葉であり、同時に「兄」としての決断であることは分かっていた。分かってはいる。だが、それでもリリウスは、胸の内に重く沈む鉛を振り払えずにいた。守られている。閉じ込められている。しかし、この二つに違いはあるのか。彼は、立ち上がって窓を閉めた。軋む音とともに、風が遮断され、世界は再び音を失った。肌寒さが残ったまま、部屋の中には妙な圧力だけが残っていた。その時、控えの間からノックの音が聞こえた。小さく、慎重に響くそれは、リリウスの沈んだ気を少しだけ持ち上げた。「どうぞ」扉が開き、入ってきたのはマリアンだった。端整な顔立ちには微かな疲労の色が滲んでいたが、それでも背筋はまっすぐ伸び、目は迷いなくこちらを見据えている。「様子を見に来ました」「ありがとう。……外は騒がしい?」「ええ。噂が広まっているようです。サウルの名も、禁呪も、そして……神子の力も」リリウスは顔をしかめた。その一言が胸の奥を刺すようだった。「僕の名前が、また噂になるのか」「残念ながら。今回ばかりは仕方ありません」マリアンは静かに言った。「貴方の存在は、希望でもあるが、脅威にもなりうる。人はそれに敏感です。とくに、力に怯える者たちは」力。リリウスは自嘲気味に笑った。「皮肉だね。あの人に奪われた力を、今度はまた狙われてる。奪われ、狙われ、囲まれて……ずっとそればかり。レオンの影がついて回るようだ」マリアンは答えなかった。ただ静かに、リリウスの傍に椅子を引き寄せて座った。「今、邸の周囲には兵が増員されています。クラウディアからの提案により、外部からの干渉をすべて遮
last updateLast Updated : 2025-09-20
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第137話:囚われの夜

その夜、リリウスは妙に眠れなかった。窓は閉められ、燭台の火はとっくに消えていた。寝台に身を沈め、薄い掛け布の下で目を閉じているのに、思考だけがひとり歩きしていた。とりとめのない、だが妙に胸をざわつかせるような、そんな思考の群れ。(本当に、信じてもらえるのだろうか)兄の言葉は、拒絶ではなかった。しかしそれは肯定でもなかった。「時間をくれ」と言われた。リリウスはそれを一歩だと思おうとしている。けれど、胸の奥に巣くっている不安は、どこまでも根強かった。その不安の正体に、彼はまだ気づいていなかった。その後もリリウスは横になったものの、眠れなかった。いやに静かな夜だった。いつもなら遠くに衛兵の交代の音が聞こえるはずだった。だが今夜は、音がしなかった。張り詰めたような無音だけが、やけにくっきりと室内に満ちていた。リリウスは目を開けた。何かがおかしい。上掛けを押しのけて身を起こした。足を床につけ、寝間着の裾を手繰り寄せながら立ち上がる。扉の方へと歩いていくと、その瞬間、背後で風が吹いたような音がした。はっとして振り返る。だが窓は閉じたまま、揺れるものなどどこにもない。しかし、何かがいた。「……誰か、いるの?」声を出すと同時に、室内の空気が変わった。冷たい。風のないはずの部屋に、急激な冷気が流れ込んできた。肌が粟立ち、喉がひりつく。そして、気配。ぬるりとした、冷たく湿った視線が背後から肌をなぞっていくような感覚。リリウスは咄嗟に扉に手をかけた。だが、開かない。「……っ」叫ぼうとした。だがその口を、誰かの手が塞いだ。「静かに。神子殿」それは知らない声だった。だが、どこかで聞いた気もする、耳の奥に貼りつくような声。「お前を必要としている者がいる。……導師の御命令だ」導師。その単語で、すべてが繋がった。(サウル……)目を見開いた瞬間、視界が歪んだ。床が揺らぎ、壁が溶け、天井が霞んでいく。(これは……幻術……!)咄嗟に魔力を引こうとした。しかし、力が思うように出てこない。まるで、内側から封じられているような。「……やめろ……やめ……っ!」声にならない叫びとともに、身体が宙に浮かぶような感覚に襲われた。まるで意識ごと引き抜かれるような、歯車の噛み合いがずれるような。現実の輪郭が崩れていく。
last updateLast Updated : 2025-09-21
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第138話:生贄の祭壇

目を覚ましたとき、世界は色を失っていた。土の匂いがした。濃く、古く、血のように湿っていて、乾いた苔と香の残り香が鼻腔を刺す。冷えた石の床に頬を押しつけていた。体はきつく縛られていたが、それ以上に、魔力が内側から封じられている感覚があった。動こうとすると、全身の関節がじわりと鈍く痛んだ。「やあ、よく目覚めたな、神子殿」その声を聞いた瞬間、リリウスの背筋が硬直した。声は柔らかく、老成していて、穏やかですらあった。だがその下に、冷たい淵のようなものがあった。地の底に眠る古きものの声に似ていた。目を凝らすと、灯りが一つ、ゆらゆらと揺れている。蝋燭ではなかった。誰かの掌に宿った火球が、緩やかに宙に浮いていた。その下に、ローブをまとった男の姿。サウル・オルド。まるで長い夢の中で会ったような、現実味のない顔だった。人間離れした痩身と、異様に長い指。瞳は色を持たず、鏡のようにリリウスを映していた。「……ここは」「忘れられた神殿の、さらに地下だ。神が棄てた場所で、神を呼び戻す。それにふさわしいだろう」リリウスは口を開きかけたが、喉が乾いて声にならなかった。舌の奥に、鉛のような重みがあった。「君のことはよく知っている。否、君の“本質”を誰より知っていると言ってもいい」「……何を、するつもりなんだ」問うた声は掠れていたが、はっきりしていた。サウルはゆっくりと歩み寄り、リリウスの目の前にしゃがみこんだ。黒いローブが床に広がり、波のように揺れた。「君の力と、君の傷と、君が“喪ったもの”――それを贄として、新しい神を降ろす」「神……? そんなもののために……僕を……」「神なきこの国に、神を再び呼ぶ。それが唯一の救済だ」リリウスはかぶりを振った。「……誰が、そんなものを望むんだよ……」サウルの目が細くなった。微笑にも似た、異様に優しい表情だった。「望んだとも。あの子が。……私の娘が、だ」リリウスは、息を呑んだ。サウルは立ち上がり、ゆっくりと歩きながら語り始めた。「私は、かつて魔塔の術師だった。研究に明け暮れ、妻と子を村に残し、遠征と講義を繰り返す日々だった。……それが正しいと思っていた。家族を守るための、誇り高き職務だと」声に揺らぎが混じった。魔力のような、あるいは記憶の震えのような何か。「だが、ある日、帰還した私を迎えたのは、焼け跡だった。
last updateLast Updated : 2025-09-22
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第139話:禁呪の始まり

神殿の空気が変わった。目に見えぬ圧力が、天井から降ってくるようだった。灯火の揺れは風にあらがうように不自然で、石壁に刻まれた古代の文様が、まるで生き物のように蠢いていた。サウルは中央の円陣に立ち、両腕を広げた。彼の足元には、神代の言葉で記された血の文字が、赤黒く脈動している。リリウスは、その儀式の外縁、束縛の鎖に囚われたまま、動けずにいた。「始めるぞ、神子殿。君の喪失は、神を呼ぶ鍵だ。――この国が忘れた“本当の祈り”を、今こそ再び!我が娘が……帰ってくる……」その声に応じるように、結界が振動した。石床の下から、深く低い音が響く。まるで地の底で、何かが目を覚ましたかのようだった。サウルの掌から火が立ち上がり、それは彼の周囲に連なる魔術の文様へと引火していく。赤が広がり、黒がそれに重なる。円陣の中心から、緩やかに、だが確実に――力が立ち上がっていた。リリウスは目を細めた。眩しさではない。体内の魔力が、強制的に“引かれて”いく感覚があった。「……っ……やめろ……!」力を逃がそうとする。だが、封印の術式はびくともしない。むしろ反応するように、さらに深く、彼の内に喰い込んでいく。苦しさよりも、恐怖の方が先に来た。これは、“自分の魔力”ではない。知らぬ間に内側に埋め込まれた“他者の意志”が、リリウスの根源に触れていた。「君の中にあるのだ。絶望が、悲しみが、未練が!」サウルの声が、囁きのように響く。「忘れたか? あの子を。君の中に宿った、小さな命を。君は“母”だったのだろう?」その言葉に、リリウスの心臓が跳ねた。「……やめろ……!」叫んだその瞬間――世界の色が変わった。目の前に、淡い光が揺れた。小さな影が、現れる。それは形を持たぬ光だったが、確かに“そこにいた”。(――まさか)あの子だ、とリリウスは思った。喪った命。まだこの世界に生まれきれなかった、小さな存在。声もなく、名もなく、それでも一度、リリウスの中に確かに“いた”もの。それが今、呼び水のように、この神殿に“現されていた”。「やめろ……! やめてくれ! あの子を……利用するな!!」リリウスの叫びが、石壁に反響する。だが、サウルは顔を上げて笑っていた。「見えるか? これが力だ。悲しみは力になる。喪失は、神を呼ぶ礎となる。君も、それを知っているはずだ!
last updateLast Updated : 2025-09-23
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