All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 121 - Chapter 130

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第120話:日常の幸福の中で

新しい屋敷の朝は、今までのそれとはまるで違った。鐘の音もなければ、朝の騒めきもない。聞こえるのは、庭で風に揺れる若い柘榴の枝の葉擦れと、近隣の農夫が牛を追う声。リリウスはまだ涼しい空気の中で桶を運び、柘榴の根元に水を注いでいた。陽に透けた葉は小さく震え、しずくが玉になって落ちる。その音が、彼にとっては祈りよりもずっと身近で、心を満たす。(……こんなふうに、一日の始まりを迎えられるなんて)ふと横を見れば、マリアンが外套を翻して庭を歩いてくる。手には編み籠。中には近所から分けてもらった新鮮な野菜が詰まっていた。「リリウス様! 朝から働いてらして……でも、これで朝食をもっと彩れますわ」にこにこと籠を差し出す姿に、リリウスは笑顔で頷く。その影からヴェイルが現れ、腕組みをして呆れたように言った。「リリウス、君は妊娠中だろう。重いものは持つな」「でも、水やりくらい……」「そういうところが、昔から変わらず危なっかしいんだ」苦言めかしても、その声音は兄のように優しい。昼にはセロがやってきて、庭先の机に淡々と昼餉を並べた。塩気のきいた肉と焼き立てのパン、香草のスープ。職人の往来を背に、皆で並んで食卓を囲む。リリウスはパンを割きながら、ふと隣の子どもたちの笑い声に目をやる。近所の子らが庭に遊びに来ていて、マリアンが魔法で小さな鳥を飛ばして歓声を上げさせている。「リリウス様、こっち!」手を伸ばして呼ばれ、リリウスはその小さな手を取り、笑って庭を歩いた。午後には庭の影が長く伸び、柘榴の葉が風に揺れる。ヴェイルは子どもたちを帰し、マリアンは「また明日!」と手を振って去っていく。セロは静かに食器を片づけ、軽く頭を下げて姿を消した。残ったのは、リリウスとカイル。柘榴の若木の影が二人の足もとに重なっている。「……悪くない日だな」カイルが短く言い、リリウスは微笑んだ。「うん。僕、こういうのが好きだよ」贅を尽くした暮らしではない。でも手の触れられるところに笑顔があった。そして何より、隣にはカイルがいた。それがとても嬉しかったのだ。日が落ち、寝室に戻ると、昼間の温かな光景が夢のように胸に残っていた。けれど、横になったとき、ふいに別の顔が脳裏をよぎった。やつれた頬、濁った瞳、かつては偽りでも自分の隣にいた人——レオン。愛そうとした過去があった
last updateLast Updated : 2025-09-04
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第121話:面会

裁判は長引いていた。レオンが背負ってきた罪も、彼が属していた組織も、その絡み合いは容易には解けない。日ごとに新しい証言が持ち込まれ、審理は伸びに伸びている。その合間に、面会の許可が下りた。書簡を受け取った瞬間、リリウスの胸は強く揺れた。望んでいたはずのことなのに、鼓動は重く速い。(……会える。でも、本当に会っていいのか)迷いは最後まで消えなかった。けれど、それでも扉の向こうに彼がいるなら、確かめたかった。*面会室は石造りで、薄暗く、窓は鉄格子に覆われていた。木の机を挟んで、リリウスは腰を下ろす。隣にはカイルが立ち、壁際には兵が控えている。冷たい沈黙の中で、重い扉がきしみ、鎖の音を伴ってレオンが連れられてきた。一歩目で、リリウスは息をのんだ。かつて誰よりも自分を追い詰めた男。玉座に寄り添い、偽りの愛を装った男。その面影は確かにそこにあるのに、痩せた頬、落ち窪んだ瞳、くすんだ肌が、過ぎ去った日々を別物のように見せていた。(……やつれた。こんなにも)鎖を繋がれたまま椅子に座ったレオンは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、かすかに揺れ、そして——笑った。いや、笑みと呼ぶには力がなさすぎた。歪み、沈んだ残り火のような表情。「……リリウス」掠れた声が名を呼ぶ。リリウスの喉が詰まる。返す言葉を探す前に、彼は続けた。「お前は……自由になったんだろう?」問いかけのようで、答えを待たぬ響きだった。リリウスは思わず、腹に手を置いた。そこに確かに命がいる。自分の意思で選んだ相手と共にいる。だから——「はい」と言えたはずなのに。「……」言葉が出ない。沈黙を裂くように、レオンは嗤うでもなく口を開いた。「……結局、お前も役割に縛られている」乾いた声。「神子」「象徴」「御子」——議会の言葉がよみがえる。群衆の声が重なって押し寄せてくる。胸の奥に棘が刺さるような痛み。反論したい。違う、と言いたい。けれど喉は固く閉ざされ、息ばかりが速くなる。机の下で拳を握りしめたその音を、カイルだけが聞いた。「……もういい」鋭い声が飛ぶ。カイルの眼差しは氷のようで、監守に合図する。兵がレオンを立たせ、鎖の音が部屋を満たした。リリウスはただ座ったまま、視線を落とすしかできなかった。*帰り道。馬車の中は重苦しい沈黙に包まれていた。外の陽光が窓
last updateLast Updated : 2025-09-05
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第122話:夜の涙

夜の屋敷は静かだった。遠くで風が柘榴の枝を揺らし、かすかな葉擦れが寝室の闇に滲んでいる。昼間に見た庭の若木が、今も月明かりを受けて小さく揺れているだろうと想像すると、なぜか胸の奥が締めつけられる。寝台の端に腰をかけ、リリウスは顔を両手で覆った。昼間の面会でのレオンの言葉——「結局お前も役割に縛られている」。その声がまだ胸の奥にこだましていて、痛みは棘のように抜けなかった。(……終わったはずなのに。なのに、まだ怖い)喉の奥が苦しい。指の隙間から涙がこぼれ、頬を濡らす。嗚咽は小さいのに、胸を締めつける音はやけに大きく、鼓動さえ乱していく。「……リリウス」低い声とともに、寝台が沈む。隣に腰を下ろしたカイルの腕が伸び、震える肩を引き寄せた。広い胸に額を押しつけた瞬間、涙が堰を切ったように溢れ、声にならない声が喉から漏れる。「……あの人の言葉が、まだ怖いんだ。過去は終わったはずなのに、心のどこかが縛られている気がして……」震える吐息に、カイルは静かに答える。言葉は短く、しかし石のように確かな重みを持っていた。「過去は過去だ。過ぎ去って、もう選ぶことのない道」リリウスは目を閉じる。けれど棘は胸に残ったままで、小さく首を振るしかできなかった。「でも……」声が細く掠れる。その瞬間、カイルの腕がさらに強く回され、背中を覆うぬくもりが一層近くなる。次に来たのは、鋭くもまっすぐな問いだった。「今、君の隣にいるのは誰だ?」リリウスははっとして顔を上げる。闇の中で向けられる眼差しは真剣そのもので、逃げ場を与えなかった。「……カイル」喉の奥から零れる答え。するとカイルは迷わず、手をリリウスの腹の上に置いた。「では、この子の父親は?」その掌の下で、小さな温もりを想う。声は震えたが、それでも確かに言えた。「……カイル、しかいないよ」「そうだ」頷いたカイルの声は低く、けれど柔らかかった。その響きは、夜の静けさに灯をともすように心に染み入る。「ここにいるのは俺だ。カイル・ヴァルド。──レオン・アルヴァレスではない。それでは納得がいかないか? 今、“ここ”にいるのは俺と君だ」その言葉に、リリウスは息を呑んだ。心の奥で絡まっていた鎖が、不意に音を立てて外れるような感覚。頬を伝う涙が、さっきまでの恐怖とは違う熱を帯びていた。「
last updateLast Updated : 2025-09-06
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第123話:報せ

朝の光が屋敷の窓を透かして差し込んでいた。柘榴の若木の葉が風に揺れ、夜露を弾いて光を散らす。昨日の涙が嘘のように、庭は静かで澄んでいた。リリウスは寝台の上で半ば目を閉じ、まだ夢と現の境を漂っていた。昨夜、カイルの胸に顔を埋めながら眠ったせいか、いつもより深く眠れた気がする。けれど心の奥の痛みは、まだ少しだけ残っていた。(……でも、あの人を選ばないって言えた。僕の言葉で)その小さな実感が胸に灯となっていた。柔らかな寝息が隣から聞こえる。そちらに目を落とせば、軍服を脱ぎ捨てたまま眠るカイルがいて、窓辺の光が髪に落ちていた。彼の存在は夜の闇を裂く剣のようであり、また、朝の静けさを包む大樹のようでもあった。穏やかで長い一瞬——けれどそれは、不意の足音によって破られる。扉が静かに叩かれた。普段なら昼まで遠慮を見せるセロが、朝早くに来るのはただ事ではない。「……入れ」カイルが足音を聞くなり起き上がる。その声はまだ寝起きの低さを残していた。だが一言で空気が引き締まる。扉が開き、セロが現れる。顔に汗はないが、目は強く結ばれている。「報告があります」短い言葉。リリウスは胸がざわつき、思わず寝台の端に腰を起こした。「……何か、あった?」セロは一歩進み、深く頭を垂れてから告げた。「レオンが逃亡しました」一瞬、空気が止まった。リリウスの鼓動も、柘榴の葉擦れさえも、すべてが遠のいた気がした。「……逃亡……? どうして」声が震える。セロは視線を落とし、淡々と告げた。「護送の途中で、です。都城へ向かう街道、橋の手前の区画。あそこは以前、ヴァルド兵が警備していた場所でしたが——“総帥の兵ばかりに任せるな”という議会の意見で徐々に交代させられていた。まだ統制が甘く、隙が生じていたのです。その隙を突かれました」リリウスは口を開けたまま言葉を失った。胸の奥が冷たい水に沈められるようだった。(……ヴァルド兵が外された場所……)あまりにも露骨で、狡猾だった。昨日の言葉が頭をよぎる——「結局お前も役割に縛られている」。あれは、これを予兆していたのか。「……まさか」声にならない声が漏れる。その横で、カイルが椅子を軋ませて立ち上がった。深く息を吐き、瞳には冷たい炎を宿している。「捕らえる」その断言は、刃のように鋭く重かった。「必ず捕まえる。二度と
last updateLast Updated : 2025-09-07
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第124話:潜む影

王都の朝は、普段よりざわついていた。市場の入口で、野菜を並べる農夫が低い声で囁く。「また出たんだとよ」。その言葉に買い物かごを抱えた女たちが足を止め、振り返る。手渡されたのは薄い紙切れ。墨がにじみ、粗末な刷り。けれど刻まれている言葉は強い。——「神子を奪還せよ」冷たい四文字が風にさらわれ、地面に落ちてもなお視線を引き寄せた。「まさか、逃げたって噂は本当なのか」「でも兵に囲まれてるんでしょう?」「旧神殿の連中が力を貸しているらしい……」噂は市場から町の隅々へと広がっていった。昨夜まで笑い声で満ちていた広場に、不安の影が忍び込んでいく。報せを受け、リリウスは屋敷の庭に立っていた。柘榴の若木は春の光を浴び、しなやかに葉を広げている。その枝に触れると、葉の柔らかさが掌に移り、微かな温もりを感じた。(……日常が壊されるのではないか)胸の奥に芽生えた不安は、昨日の恐怖の余韻と絡まり合い、重く沈んでいく。昨日の夜、確かにカイルに抱かれて「選ばない」と言った。その言葉は嘘ではない。けれど今日、市場に出回る紙片がその決意を脅かす。「リリウス様」振り返れば、マリアンが小走りにやって来ていた。手には籠いっぱいの野菜。けれど表情にはいつもの明るさが欠けている。「市場で……また、あの紙が……。人々は怖がっていました。祝福してくれていた人たちでさえ、不安そうに」リリウスは言葉を失ったまま頷いた。マリアンの声は震えていて、けれど怒りも滲んでいた。「許せません。せっかく皆で作ってきた“安心”を、あの人たちは奪おうとする……」ヴェイルが背後に立ち、落ち着いた声で続けた。「恐怖は早く広がる。だが同時に、君を慕う声も消えてはいない。祝福も不安も——どちらも人の心にある自然なものだ」その言葉は慰めであり、現実でもあった。リリウスは柘榴の枝から手を離し、深く息を吸った。(……そうだ。怖さは消えなくても、祝福もまた消えない)*同じ頃、城下の一角では、兵士が壁に貼られた紙を剥がしていた。『神子を奪還せよ』『御子を神殿へ』——同じ文句が並び、風にばさりと音を立てる。その場にカイルが現れた。短い指示で兵たちを散らし、残った紙片をじっと見つめる。墨のにじみ、筆跡、刷られた場所。あきらかに急ごしらえ。だが、裏に潜む意図は明白だった。「……やはり合流しているな」
last updateLast Updated : 2025-09-08
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第125話:再会の予感

夜の始まりは、不意に気配を変える。昼には柔らかく揺れていた柘榴の葉が、闇に溶けると同時に音をひそめ、屋敷の外壁に沿う風は、まるで足音のない訪問者のように隙間を探っていく。灯は最小限。通りに面した窓は内側から遮光布で閉ざされ、庭側の明かりだけが、控えめに土の色を拾っていた。セロは屋敷の影をすべるように移動していた。足元の石に砂利はない。昼間に掃かせたばかりだ。夜には音が刃になる——それを彼はよく知っている。勝手口の角を曲がり、離れとの間の細い導線へ踏み入れた瞬間、空気の布目が逆立つ。(いる)声は出さない。片手が外套の内側へ滑り、指が短剣の鞘口に触れた。相手は影。背丈は中肉、靴音は軽い。訓練は受けているが、老練ではない——息が浅い。影が身を翻す。逃げる。セロは一歩だけ追い、脛に短く蹴りを入れた。くぐもった呻き、金具の触れる音。体をひねって倒れた相手の手首を踏み、口元を押さえ込む。「声を出すな。——出したら、二度と出せない喉にする」囁きは低く、静かだった。抵抗は一瞬。肩から力が抜けたところで、セロは相手の頬に指を当て、唇の裏を探る。——黒。墨だ。噛み切れば舌に広がる毒ではなく、印に使う粗い墨。古い神殿派の合図。衣の縫い目から紙片が一枚、するりと抜け落ちる。『御子に誓いを——回廊に集え』昼間のものと同じ刷りだが、端に走り書きがある。《月の上がる頃、果樹園の垣根》——ここではない。屋敷の外だ。「……誰に命じられた」わずかな沈黙。セロは膝で手首の骨を鳴らす。短いやり方だが、十分だった。影は痛みに歯を食いしばり、目を逸らしたまま吐き捨てる。「……“灰衣(はいごろも)”だ」旧神殿の残党の中でも、より地下へ潜った連絡役の呼び名だ。名前ではない。顔のない印。セロは小さく息を吐き、拘束紐で影の手足をまとめ上げると、庭の暗がりから現れた二人の兵に顎で合図した。「口を割らせろ。ただし舌は残せ。——“灰衣”の所在を」兵が影を引きずって去る。セロは片手で合図笛を二度、短く吹いた。西門、閉鎖。——屋敷の周りの空気が、目に見えない形を取り始める。*「増員は二重の輪だ。外周は露見してよい。制服で立て。近隣の巡回と交代を短く回す。内周は私服。動線の交点に“座標”を作れ。合図は灯の上下、語尾は『です』で終える。——知らぬ顔で門を叩く者は、まず
last updateLast Updated : 2025-09-09
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第126話:対峙

屋敷の夜は、警戒の息づかいに包まれていた。廊下を巡る兵の足音。遠くから聞こえる笛の合図。交わされる声は少なく、すべてが短く鋭い。それでも庭の柘榴の若木だけは、昼と変わらず、夜風に小さな葉音を立てていた。リリウスは移動の途中、思わずその若木の前で立ち止まった。枝先に触れた指先は冷たく、葉の震えが掌に細かく伝わってくる。昼間に芽吹いた新芽は、まだ柔らかく頼りない。けれど、その頼りなさすら愛おしかった。(……守りたい。ここで過ごす時間を。この芽が花を咲かせる日を)胸に置いた手の下で、小さな命の鼓動を思った瞬間——背後で気配が裂けた。「——リリウス」声。忘れようとしても忘れられない響き。振り向いたときにはもう遅く、影が音もなく迫る。鋭い腕が背から回り込み、冷たい刃が喉許に触れていた。「……レオン」名を呼んだ唇が震える。闇に浮かぶのは、かつての伴侶。いや、“伴侶となるはずだった”男。痩せ衰え、頬は影に落ち、瞳だけが爛々と輝き、狂気と執着に濡れていた。「やっとだ。やっと……お前を取り戻せる」熱に浮かされたような囁き。リリウスは息を呑み、背筋を凍らせた。「……」「お前は俺と同じだ。鎖から逃げられない。神子も、象徴も、子すらも……縛りからは逃れられないんだ」刃先がわずかに押し当てられる。冷たい感触が喉の皮膚を割くように触れる。レオンの吐息が耳元にかかり、湿った声が続く。「子は俺の子として育ててやる。優しいだろう?俺は。次は俺の子を産めばいい」——全身の血が逆流するようだった。足は震え、声は出ない。視界の端で柘榴の枝が揺れているのに、音は遠ざかり、世界は狭い刃の冷たさに閉じ込められる。(……また、縛られる? あの時のように? この子が、いるのに?)心臓が早鐘を打つ。胸が焼けるように苦しい。けれど、その奥で小さな声が呼んだ。——昨夜、カイルの胸で聞いた言葉。「過去は過去だ。過ぎ去って、もう選ぶことのない道」喉が焼けるように乾く中で、リリウスは唇を開いた。震える声。それでも確かに夜に届いた。「……僕は……もう囚われない」レオンの腕が一瞬、止まる。瞳がわずかに揺れる。「……何?」リリウスは腹に手を当て、呼吸を荒げながらも続けた。「僕は、もう選んだ。あなたじゃない。ここを、この子を……!」声は掠れて、それでも決意は滲
last updateLast Updated : 2025-09-10
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第127話:刃の行方

地面に叩きつけられた衝撃の余韻がまだ庭に残っていた。月光の下で揉み合う二つの影——カイルとレオン。硬い石畳を転がり、腕と腕が絡み、刃の光が幾度も閃く。「……離せ!俺は——俺は、リリウスを取り戻すんだ!」レオンの声は、狂気の熱に焼かれた金属のように耳を刺した。痩せ衰えた顔に浮かぶのは歓喜でも絶望でもなく、ただ一つ、執着だけ。その腕には異様な力が宿っていて、鎖につながれていた囚人だったとは思えぬほど必死に抗う。「まだ終わらない! あれはは俺のものだ! 象徴だ! 鎖だ! 逃げられるものか!」夜の庭に響く叫び。兵が駆け寄るが、カイルは振り払うように声を上げた。「手を出すな——俺が押さえる!」腕の筋肉がきしみ、地面に押しつけられた石が割れる。しかしその最中、別の音がした。布が裂けるような、湿った音。「っ……」リリウスが声を失っていた。膝から崩れ落ち、両腕で腹を抱き締める。衣の白が、赤に染まっていく。「リリウス!」カイルの声は裂け、空気を震わせた。視界の端で兵たちが息を呑む。時間が止まったかのように一瞬、庭全体が凍りつく。リリウスは震える指先で自らの腹を押さえた。その下にある命を必死に守ろうとするかのように。けれど、指の隙間から鮮やかな赤が滴り落ちる。(……いやだ。僕は、この子を……)声にならない声が喉に詰まり、ただ呼吸だけが浅く速く乱れていく。「医師を呼べッ!」怒号が夜を裂いた。カイルの体が揺れ、レオンを押さえ込みながらも、視線はリリウスから離せない。兵が走り去る音。笛の合図が短く鋭く鳴り、遠くで応える音が続く。それでも、レオンの狂気は止まらなかった。「……そうだ。そうだろう? 他の男の子など産もうとするから……だから罰が当たるんだ!」「……っ」「俺の伴侶のくせに! 俺の象徴のくせに! どうして俺を否定するんだ!」叫びは嗄れ、唾が飛び、喉が裂けそうなほどの力で吐き出される。その姿は王族でもなく、伴侶でもなく、ただ喪ったものに縋りつく亡霊のようだった。その亡霊を、鋭い音が断ち切った。——拳が骨を打つ音。「黙れ」低く、感情を排した声。セロだった。闇の中から踏み込み、寸分の迷いもなく拳を振り下ろした。レオンの顔が横に弾かれ、血が飛び散る。「抵抗するなら、骨を折る」冷徹な声とともに、無駄のない手
last updateLast Updated : 2025-09-11
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第128話:失われた命(前編)

庭での血の惨劇は、息をつく間もなく屋敷の奥へと運び込まれた。カイルの腕に抱えられたリリウスの体は驚くほど軽く、けれど衣を濡らす赤は重く匂いを放っていた。 「急げ! 医師を!」「血を止めろ、布をもっと持て!」 叫びが飛び交い、屋敷の廊下が慌ただしい足音に揺れる。廊下を走る途中、リリウスはかすかに目を開けた。視界は滲み、灯火がにじんで波のように揺れている。 (……消えてしまう? 僕……) 喉の奥で声にならない声を掠らせた瞬間、腕に触れる熱があった。カイルだ。彼は自らリリウスを抱き上げ、唇を噛みしめるほどの力でその体を胸に押しつけていた。 「リリウス、聞け……大丈夫だ。大丈夫だから……俺がいる」 掠れた声は、軍総帥のそれではなかった。ただ一人の伴侶としての声。その震えを、リリウスの意識はかろうじて捉えていた。 * 部屋の中。ベッドの上に横たえられたリリウスの衣が裂かれ、血を吸った布が次々と取り換えられる。医師が呼び寄せられ、手際よく傷を調べ、止血の処置を施す。だがその顔は、灯火に照らされて硬く固まっていた。 「どうだ!」 カイルの声が鋭く響く。 医師は一瞬、言葉を探すように口を閉ざし、深い息を吐いた。やがて、重く頭を垂れる。 「……残念ながら」 その声だけで、室内の空気が凍りついた。 
last updateLast Updated : 2025-09-12
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第129話:失われた命(後編)

夜は長く、静かで、それでいて無慈悲に明けてゆく。屋敷の寝室には幾つもの灯火が置かれていたが、揺れる火は弱々しく、光はすぐに影に呑まれてしまう。赤く染まった衣の残滓が籠に収められ、隅に置かれている。その痕跡は消えず、視界の端に残るたび胸を抉った。寝台に横たわるリリウスは熱に浮かされていた。呼吸は浅く、額には玉のような汗が滲み、白い顔を濡らしている。時折、指先が小さく震え、握り返そうとしては力を失い、また沈んでいく。(……あの子……)意識は深い淵に沈み、熱の底で夢が形を成した。*夢の中は、白い光で満ちていた。柘榴の花に似た淡い朱が空に滲み、風がやさしく頬を撫でる。空気は澄み、どこか懐かしい匂いがした。その景色の中央に、小さな影が立っていた。「……」まだ名も与えられぬ幼子。けれどリリウスは直感で悟った。その存在が、自分の中に芽生えていた命であると。幼子はふわりと笑った。その笑顔は、リリウスがどんな夢にも描けなかったほどに柔らかく、温かく、まっすぐだった。「かあさま」鈴の音のような声。胸の奥をそっと撫でるように届いてくる響き。「また来るから、泣かないで」その言葉に、リリウスの膝は崩れ落ちた。胸の奥から溢れ出す痛みに押し流されるように、涙が止めどなく頬を伝った。「ごめん……ごめんね……僕が、守れなかった……!」言葉は嗚咽にかき消され、途切れ途切れになる。震える両手を伸ばしても、抱きしめることはできなかった。けれど幼子は首を振り、涙を拭うように小さな手を差し出した。「ちがうよ。ぼくが早く来すぎちゃったんだ。だから、かあさまは笑ってて。すぐ、あえるから」光が強くなる。幼子の姿はその中に溶けていく。リリウスは必死に手を伸ばした。指先は震え、空を掻くばかりで、届かない。「待って……! 行かないで……!」声は裂け、涙に濡れる。けれど光は遠ざかっていく。最後に残ったのは、微笑み。そして——「かあさま」という響きだけだった。*「……っ」目を開けたとき、天井の木組みが滲んで見えた。頬は濡れ、枕も涙で湿っていた。夢だったのか、それとも。「……リリウス」声がした。低く、震えて、それでいて確かに支える力を持つ声。振り向けば、そこにカイルがいた。椅子に腰を下ろしながらも、身を前へ傾け、リリウスの肩を抱き寄せてい
last updateLast Updated : 2025-09-13
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