All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 91 - Chapter 100

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第90話:ただの人間として

王都の空には、まだ戦の痕が残っていた。焼け焦げた石畳。崩れた塔。それでも人々は、そこに立っていた。肩を並べて、泥のついた手で、破れた布で、街を修復しようとしていた。誰の命令でもない。──それは、意志だった。リリウスは広場の隅に立って、それを見ていた。神子としてではなく。王子としてでもなく。ただの“人間”として。※「リリウス様、少しお時間を」呼び止めたのは、ヴァルドの戦略顧問。その背後には、臨時政務会議の布陣が控えていた。占領ではなく、統治。その第一歩を、いまここから始めるために。だがリリウスは、小さく首を振った。「その場には、僕は必要ありません。カイルと……クラウディアからの代表がいれば、それでいい。僕は、“王”にならない」ざわめきが走る。それでも、彼の声は揺れなかった。「僕の役目は、祈ることではなかった。導くことでも、命じることでもない。……手を伸ばすことだけだった。だからこれからは、ちゃんと届く距離で、話をしたい。“国”に必要なのは、“信仰”じゃない。──“対話”だよ」その言葉に、周囲が静まりかえる。「クラウディアとヴァルド──この王都を中心に、中立の“自治領”を設ける。共同統治の形で、どちらにも属さず、両国の橋渡しになる場所にしたい。争いの果てじゃなく、未来の始まりとして」神官がひとり、涙ぐみながら頭を下げた。兵士が、拳を握りしめて頷いた。斥候たちが、無言のまま礼を取った。誰も拒まなかった。それは、“祈り”ではなく──“人の選択”として受け入れられていた。午後の光が、石の広場を照らす。かつて玉座があった場所から伸びる道に、今は新たな壇が作られていた。祝辞でも演説でもない。ただ、“はじまり”を見つめるための、ひとつの台。そこに立ったリリウスは、白い衣ではなく、民と同じ布の上着を着ていた。すれ違った老女が「あのとき布をもらった」と涙ぐんだ。子どもが「リリウス様って呼びたかったんだ」と声をかけた。そして誰もが、彼を“神子”とは呼ばなかった。「ただの人間として──ここにいるだけです」そう、彼は笑って答えた。壇の下。カイルが、腕を組んでその様子を見ていた。「……神子に戻る気は?」ふいに尋ねると、壇上から降りてきたリリウスは首を横に振った。「戻らない。けど……もし“希望”とか“信じる力
last updateLast Updated : 2025-08-05
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第91話:王のいない国

──玉座の間は、もうない。崩れた天井。割れた柱。焼け焦げた壁。けれど、その廃墟のすぐ隣に、人々の手で仮設の建物が立てられていた。天幕と板材を組み合わせただけの、臨時政庁。瓦礫をかき分けて机が運ばれ、兵士と市民が協力して椅子を並べる。誰の命令でもなかった。ただ、それが「必要だ」と信じた者たちの意志だった。戦火の名残が風に漂う王都の中心。新たな国の“形”を決める会議が、そこで始まろうとしていた。会議場に集まったのは、各都市から招かれた政務官、軍の代表、旧クラウディアとヴァルドの代表者、そして──リリウス・クラウディア。「……議題は、一つ。今後この地を“王政”として再建するか、それとも“共和制”として移行するか。意見を聞こう」開会を宣言したのは、ヴァルドから派遣された暫定調整官だった。簡素な衣装。高位の証などひとつもつけていない。その口調も穏やかだが、背後にはリーネ・ヴァルドの影があった。すぐに挙手が上がる。「私は“王政”の再建を提案する。混乱の最中、民が必要とするのは象徴だ。そして我々には、正統なる“王子”がいる。──リリウス殿下こそがその希望だ」アルヴァレス旧貴族の代表が、立ち上がった。その口調は丁寧ながら、圧のある響きだった。続けて、神官のひとりが唱える。「“神子”が祈らねば、神の加護は失われる。大地も天も、再び沈黙し、災厄が戻るやもしれぬ。古の記録にも、“王なき地に災いあり”と記されている」それに同調する者たちもいた。「クラウディアの血筋こそ正統!」「再び神に選ばれた者こそが治めるべきだ!」「我らの未来は、“祈り”と共にある!」人々の視線が、会議場の端に座るひとりの青年へと集まる。リリウス・クラウディア。彼は、ゆっくりと席を立った。その顔には微笑もなく、しかし静かな確信が宿っていた。「──僕は、“王”になりません」その言葉は、会議場に一瞬の静寂を生んだ。「僕は、王族として生まれました。神子として選ばれました。でも……それが僕を守ってくれたことは、一度もなかった。むしろ、縛りつけ、誰かのための“道具”にしただけだった」誰も、言葉を挟まない。「僕はもう、祈るだけでは誰も救えないと知った。だから、僕は即位しません。王にも、神子にも、なりません。あれは、もう僕の名前じゃない」息を吸う。その声は、誰に届くでも
last updateLast Updated : 2025-08-06
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第92話:王座なき議会

──仮設政庁は、まだ板の香りがする。それでも人々はそこに集い、声を交わしていた。王座が消えた今、この場所が「国家」と「未来」の中心になると信じて。天幕の下では、昨日まで敵同士だったはずの兵士たちが、椅子を並べ、記録用の羊皮紙を用意していた。瓦礫の向こうで子どもたちが笑っていた。焼け落ちた街に、新しい風が吹き始めていた。だが──全てが順調、というわけではなかった。「……ヴァルドの兵士が、市場の通行証まで管理してるって?」「治安維持はありがたいけど、ずっとこのままなら、支配されたも同じじゃないか?」人々の間に、小さな不満が芽を出していた。恐れというより、戸惑いに近い。“支援”と“介入”の境界線を見失いかけていた。その声は、政庁にも届いていた。「……市民から、軍の駐留についての懸念が出ている。『ヴァルドによる占領だ』という声も一部にあるようです」ヴァルドの連絡官が報告すると、会議室に微かな緊張が走る。その中で、カイル・ヴァルドは静かに立ち上がった。軍服の肩章は外され、ただ一人の“来訪者”として、彼はそこにいた。「そう思われても、仕方がないだろう」率直な言葉に、一瞬、場がざわめく。「我々はクラウディアの神官たちとは違い、どうしても軍服で動いている。硬い部分も否めない」カイルの口元には小さな苦笑が浮かんでいた。だがカイルは続けた。言葉を選ばず、まっすぐに。「だが誤解がないように言っておく。ヴァルドはこの地を“占領”するために軍を送ったのではない。支援が済めば、必要以上に干渉することはない。ここはあくまで──“共同統治”の地だ」「共同統治……」誰かがそう呟いた。カイルは頷く。「アルヴァレスをひとつの“自治領”とし、クラウディアとヴァルドの双方が、それぞれの支援と責任を分担する。だが主導権を握るつもりはない。民の声を中心に据え、文民による政治体制を築く。俺はその下支えをするために、ここにいる」それは命令ではなかった。けれど、その言葉には重みがあった。そして、もう一人。その言葉を補うように、リリウスが立ち上がった。「クラウディアからも、再建使節団が来ています。この街で生きる人々と一緒に、新しい仕組みを作るために──誰かの支配のためじゃない」扉が開き、広場から数人の人影が現れる。ヴェイル・アランディス。クラウディ
last updateLast Updated : 2025-08-07
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第93話:民の代表たち

仮設政庁には、各都市、各地区、職人ギルドや宗教団体の代表が招かれた。名もなき市井の者たちが、国家の在り方について語る。かつては考えられなかった光景だった。 この日、臨時議会の第一回が開かれた。リリウスは“参与”としてその場にいたが、発言権はなかった。 けれど── 「この案はどうだ!クラウディアとヴァルド、それぞれに票を与え、民はその下に意見を寄せる。つまり……!」「その“下”に、我らの声が届く保障はあるのか?」 次第に議論は熱を帯び、罵声と怒声に変わっていく。 「神も王もいないこの国に、誰が“決定”を下すのか!」 誰かが机を叩いたときだった。 「……なら、“誰が声を聞くか”から始めればいい」 その声が割り込むようにして響いた。リリウスだった。 彼は議場の隅から立ち上がり、壇の中央に歩み出た。許可はなかった。けれど誰も止めなかった。 「王も神子も、いません。でも僕たちは、ここにいます。怒る人も、怯える人も、ただ生きようとしてる人も、全部──ここにいます。“声”がある。だったら、まず“聞く”ところから始めましょう」 短い静寂のあと、場内に拍手が広がった。ある者は涙を流し、ある者は拳を胸に当てた。 この瞬間、リリウスは何よりも強い“導き手”だった。言葉ではなく、姿勢で示したからこそ──。
last updateLast Updated : 2025-08-08
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第94話:ヴァルドの影

朝の光は、まだ仮設政庁の布の壁を透かしていた。薄い布越しに差し込む陽はやわらかく、夜の冷えをほんの少しだけ追い払っていく。その下で、リリウスは毛布に包まれたまま、ぼんやりと天井を見上げていた。身体の芯がじんわりと熱を持っている。昨日よりは、少し落ち着いている気がする。けれど、抑制剤が作るはずの膜が、ところどころ薄くなって穴が空いたような感覚が抜けない。呼吸を整えようとしても、胸の奥で小さな波がずっと揺れている。ふと横を見ると、カイルが椅子に腰を下ろしたまま腕を組み、浅い眠りに落ちていた。戦場でも崩れなかった姿勢が、今はわずかに緩んでいる。肩が少し下がり、顎もいつもより僅かに傾いている。その姿は、彼もまた昨夜まで張り詰め続けていた証だった。……見ててくれたんだ……。胸の奥に小さく温かいものが広がる。安堵とも、感謝ともつかないそれを、リリウスはそっと押し隠すように目を閉じた。昨夜、「番」という言葉を投げられたやり取りが、まだ耳の奥に残っている。意味は知っている。けれど、自分と彼がそこに辿り着く未来を、まだ想像できない。それでも──不思議と、怖くもなければ、嫌悪もなかった。※午前の会議は、重苦しい空気で始まった。机の上に広げられたのは、王都周辺の地図と複数の報告書。他国の使節や亡命政権が、すでに声明を出しているという。「……“ヴァルドによる実質的な傀儡政権”だと?」文官が震える声で読み上げた紙片には、確かにそう記されていた。会議の面々がざわめく。遠方の港や交易路でも、この噂は瞬く間に広がりつつあるという。「確かに、軍の旗は目立ちすぎる」「占領ではないと説明しても、見ている側はそうは思わないものです」報告は冷静だったが、場の空気は次第にざらついていく。カイルは黙って耳を傾けてい
last updateLast Updated : 2025-08-09
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第95話:夕暮れの体温

夕暮れ。王都の西門近く、修復中の城壁が長い影を地面に落としていた。瓦礫の山はまだそこかしこに残り、かつての城門を囲う足場が、ぎしりと風に揺れる。訓練場からは民兵たちの掛け声が響き、焚き火の煙がゆるやかに上がって、薄紅に染まる空へと溶けていった。リリウスは、その光景をぼんやりと眺めていた。戦場の余熱がまだ街全体に残っているような、張り詰めた空気と、かすかな希望の匂いが入り混じった夕刻。傍に立つカイルは、壁にもたれ、視線を遠くへ投げたままだった。その横顔には、昼間の会議で見せた硬さがまだ残っている。「……俺が軍を去る時が来たら、お前はどうする?」唐突に落とされた声は、低く、しかし確かにこちらを試す響きを帯びていた。リリウスは一瞬、返事を探すように口を閉ざし──胸の奥を見つめる。離れていく背中を想像するだけで、冷たい風が胸を吹き抜ける。それでも、口から出た言葉は静かだった。「あなたがそう選択した時、僕は……隣に立てる?」夕陽が二人の間を斜めに照らし、カイルの表情を半分だけ金色に染める。「お前がそう望むなら、いつだって」その声は穏やかで、けれど揺るぎない。それだけで胸の奥がひどく熱くなるのを、リリウスは自覚していた。ふっと息を吸い込み、小さく吐く。「……マリアンとヴェイル、いるでしょう」「ああ。クラウディアの外交官と、その旦那だろう」「そう。あの二人はね、元々婚約者だったわけじゃないんだ。マリアンが最初から猛アタックしてたんだよ。その頃のヴェイルは全く相手にしなかったんだけど……」「落ちたのか」「そう」リリウスが小さく笑う。「結局、ヴェイルもいつの間にかベタ惚れして結婚して……。ああいうのが“番”なのかな?」カイルはわずかに視線を伏せた。「番の形は人による。お前も知ってるはずだ」「……あなたは? そういう相手がいたことは?」短い沈黙。「……いたことはない、な」「そっか」そこから先、言葉がうまく繋がらなかった。けれど胸の奥には、先ほどのカイルの言葉を聞いてからずっと、引っかかっている感情がある。「……あなたがいないと、僕はきっと潰れてしまう」思わず口に出て、リリウスは自分で驚いた。「こんなこと言ったら、呆れる?」カイルは一度目を細めたが、次の瞬間に小さく口角を上げた。「呆れはしない。……むしろ、責任
last updateLast Updated : 2025-08-10
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第96話:信仰の炎

王都の北側、半壊した神殿の前で、異様な静けさが広がっていた。白い法衣を煤で汚した神官たちが、無言のまま油を染み込ませた布と薪を積み上げていく。その手つきは儀式のように整然としていて、顔には一切の迷いがなかった。「神子の不在は国の崩壊を招く……」「せめて、我らの命で神に詫びねば」低い呟きが風に溶けるたび、空気はさらに冷たく締まる。油の匂いが鼻を刺し、薪の山が不気味に軋んだ。※「神官たちが集団で焼身を……!」報告を受けた瞬間、リリウスは椅子を蹴るように立ち上がった。止める声も振り切り、仮設政庁の廊下を駆け抜ける。外に出た瞬間、乾いた冬の空気が肺を刺し、それでも脚は止まらない。瓦礫を飛び越え、崩れた塀の隙間を抜ける。遠くに、赤い光が揺れていた。それは夕暮れの色ではない──薪の爆ぜる火だ。神殿前にたどり着いた時、炎はすでに高く燃え上がっていた。熱が皮膚を焼き、耳の奥で自分の鼓動が轟く。神官たちが一歩、また一歩と炎へ近づく。その足取りには、恐怖も躊躇もなかった。「やめろ!」喉の奥が裂けるような声が響く。次の瞬間、リリウスは炎の前に飛び込んでいた。火が髪の端を舐め、服の裾に瞬く間に燃え移る。焦げた匂いと焼ける痛みが皮膚を突き刺すが、足は止まらない。最前列にいた年長の神官の腕を掴み、力任せに後ろへ押し戻す。そのまま炎を背に振り返り、叫んだ。「死んで祈りを捧げることに、何の意味がある!」火の粉が顔に降りかかり、視界が揺れる。「セラフはこんなことを望んでいない! あなた達は何を学んできたのですか!」懐から白い布を取り出すと、刺繍の縁が煤で黒く染まっていく。それでも手は離さなかった。「自分の足で歩く。そして秩序と均衡を祈りで広める──それがあなた達の使命でしょう!」熱で息が荒くなり、指先が震える。だがその瞳には一片の迷いもなかった。神官たちの中で、わずかな揺らぎが走る。それでも数人はなお炎を見据えていたが、年長の神官が膝をつき、顔を覆った。その動きが合図のように、他の者たちも膝をつき、静まり返る。薪の爆ぜる音だけが、冬の空気に響いた。彼らは涙を流しながら、布に触れた。口から出たのは、もはや“神子”への祈りではない。リリウス・クラウディアという“人間”の祈りを受け止める言葉だけが、静かに重なっていく。炎はや
last updateLast Updated : 2025-08-11
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第97話:新たなる道

王都の中央広場に、まだ真新しい旗が掲げられていた。竿の先でひらめく布には、かつての王家の紋章ではなく、穂と星を組み合わせた新しい意匠。民兵、商人、農夫、各地の町長……多様な顔ぶれが議場へと入っていく。今日、正式に新しい議会が発足する。共和制憲章の草案づくりが、この日から始まるのだ。リリウスは議員席には座らない。自分の役割はあくまで「民の声を集め、届ける」ことだと決めていた。だから式典が終わるや否や、彼は外套の裾を翻し、街へと歩き出した。瓦礫が片付けられた通りには、小さな露店が並び始めている。子供たちが木箱を並べて即席の机にし、石板で字の練習をしていた。だが石板は足りず、字を教えられる大人も限られている。「学校があればいいのに……」膝を抱えて見ていた少女がぽつりと言った。彼女の弟は、文字どころか自分の名前も書けないままだという。リリウスはしゃがみ込み、少女と視線を合わせる。「……君は、大きくなったら何になりたい?」問いかけに、土埃で頬をくすませた少年は足先で地面を蹴った。「……わかんない。だって、何にもおしえてくれる人がいないもん……」その声は、小さく、けれど淡々としていた。諦めと慣れが同じ色をしている声。胸に刺さる。学ぶ手段がない限り、未来を夢見ることすら難しい。広場の端には、ほつれた衣を着た子らが棒切れを持ち、何かの真似事をして遊んでいた。笑い声はあるのに、それは無垢というより、行き先のない風のように散っていく。アルヴァレスは美しい都市であったが、水面下にはこうした問題が山積みだったのだろう。リリウスはゆっくりと立ち上がり、近くで子供たちを見守っていた教育担当の議員に歩み寄った。「未来を語れる国にしましょう。夢を持った時、それを叶えるための道を示せる国に」静かに告げたその声は、広場の喧騒に溶けるにはあまりに真っ直ぐだった。議員たちは顔を見合わせ、頷く。この一言が火種となり、その日のうちに臨時の教育委員会が立ち上がった。“言葉に力が宿る”──それを目の当たりにした瞬間だった。※日が沈み、王都の喧騒が薄らぐ。仮設政庁の奥まった部屋で書き物をしていたリリウスは、ふと手を止めた。熱が、またじわじわと全身を包み始めている。抑制剤を飲んでも、もう完全には抑えきれない。薄く開けた窓から入る夜風すら、熱を冷ま
last updateLast Updated : 2025-08-12
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第98話:交わらない言葉

王都政庁の会議室に、緊張感のある空気が漂っていた。議員席には商人組合の代表や各区の町長、軍の要職が並ぶ。その端には、無表情に腕を組んだリーネ・ヴァルドの姿があった。「最近、商業区で盗難や夜間の揉め事が増えております」真っ先に口を開いたのは、かつてメディアを通じて「ヴァルド兵の圧政」を批判していた商人のひとりだった。「やはり、以前のように巡回兵を増やすべきでは……」その言葉に、リーネがゆっくりと視線を向ける。「……兵を減らせと求めたのは、他ならぬあなた方だったと記憶していますが」淡々とした声なのに、会議室の温度が一段下がったように感じられた。「い、いや……あの時は……」商人が言葉を濁す間、他の議員たちも互いに視線を交わし合う。手のひら返しの空気は、誰の目にも明らかだった。カイルが軽く咳払いをし、場を収める。「治安維持は重要だ。だが兵を戻すだけでは解決しない問題もある」その視線が、リリウスへと移った。リリウスは頷き、机上の書簡を広げる。「最近、再建使節団と王都の住民との間で衝突が増えているのをご存じですか」市場での取引拒否、学校での子供同士の喧嘩──その根底には、言葉の壁と生活習慣の違いがあった。「彼らは盗みに来たのではなく、ただ物の値段交渉や習慣が違うだけ。言葉が通じず、誤解が生まれているだけです」議員の一人が腕を組んだまま唸る。「……だが、文化や言葉の違いはどうにもならん」「だからこそ、通訳官と文化調整委員を設置します」リリウスの声ははっきりと響いた。「祈りじゃなくても、人は理解し合える。お互いを知れば、無用な衝突は減るはずです」沈黙のあと、複数の議員が小さく頷いた。カイルが書簡を受け取り、簡潔に付け加える。「治安のためにも必要だ。兵と委員会の連携も視野に入れる」会議はそのまま動き出した。兵の配置を少し見直しつつ、同時に通訳官の募集と文化調整委員の設立が正式に決定される。それは、単に治安を回復するだけでなく、この国の人々が“祈り以外の方法”で分かり合うための最初の一歩だった。※会議が終わり、議場を出た瞬間。廊下で歩き出そうとしたリリウスの肩を、後ろから軽く掴む手があった。振り返れば、カイルが真面目すぎる顔をしている。「……身体は大丈夫なのか」「え?」「昨日の夜のことだ。熱も強かったし……無理をさ
last updateLast Updated : 2025-08-13
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第99話:それでも国になる

冬の朝の光が、政庁の高い窓から差し込んでいた。議場にはいつもの議員たちが並び、机上には分厚い書類と議案の束が積まれている。その端に、一人の異質な姿があった。褐色の肌に、地方特有の織模様が入った外套。胸元には銀細工の留め具。復興使節団の一員──サリム・エルネだ。数日前、彼は王都西区の市場で、大きな騒ぎを収めた。言葉の通じない使節団員と地元商人との間で発生した値段交渉のもつれ。手が出る寸前だった場に割って入り、双方の言葉を通訳し、互いの慣習を噛み砕いて説明した。結果、二人は握手を交わし、取引を成立させた。その場にいた多くの市民が、その手腕に舌を巻いた。「推薦します。サリム殿を議会へ」最初に声を上げたのは、商人組合の代表だった。皮肉なことに、かつては復興使節団との摩擦を大きく取り上げていた人物だ。しかし彼は、机を叩くようにして言った。「この者は血筋ではなく、人望で動いている。商人も農夫も兵士も、彼に頼れば話が通る。こういう人間こそ、議席に必要だ」ざわめきが議場を包む。地元議員の中には渋い顔をする者もいた。「外の者を議員にするのは……」「この国の制度に慣れていないだろう」だが、別の声が割って入る。「新しい国だ。今までとは違う。それに、制度は教えれば覚える。だが、人から信頼を得る力は教えて身につくものじゃない」その言葉に、リリウスは静かに頷いた。祈りを集めることが、かつて自分の役割だった。だが今、目の前にあるのはそれとは違う──人々が、現実の行動と結果を見て信頼を寄せている姿だ。カイルが短く言う。「反対意見もあるだろうが、現場を見て判断しろ。書面や噂じゃない。あの市場で何があったか、俺は見た」その声は将軍としての威圧ではなく、一人の証言者としての確信に満ちていた。やがて、挙手が始まる。賛成票が一つ、また一つと上がっていく。最初は慎重だった者たちも、互いの様子を見ながら腕を上げた。最終的に反対票はごくわずか。サリムは、その場で臨時議員として迎えられることとなった。※会議後、広場では思いがけない光景が広がっていた。サリムが、通訳を介さずに子供たちと話している。ぎこちない発音に、子供たちは笑いながらも、真剣に言葉を返していた。まるで、言葉の壁など最初からなかったかのように。リリウスはその様子を見つめ、胸の奥
last updateLast Updated : 2025-08-14
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