All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 101 - Chapter 110

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第100話:君が立っている限り

王都の中央市場は、昼を過ぎても賑わっていた。瓦礫が片付き、色鮮やかな布や香辛料の香りが再び並ぶ光景は、長く続いた戦と混乱を忘れさせるほどだった。 露店の前で客と店主が声を張り上げ、子供たちが人の間をすり抜けながら駆け回る。その光景の端に、リリウスの姿があった。薄い外套の裾を押さえ、人々に囲まれながらも、一人一人の声に耳を傾けている。 「この間の委員会の通訳さん、すごく助かったよ。あの人たち、全然悪い人じゃなかった。それにヴァルドの兵士さんも、巡回してくれて助かるよ」そう笑って話すのは、復興使節団の商人と揉めていた八百屋の女将だった。彼女はヴァルド兵にも否定的だったが、どうやら和解が出来たらしい。リリウスは頷き、短く礼を述べる。 「誤解が解けたのなら良かった。お互いのことを知れば、きっともっとやりやすくなる」 そんな会話をしていると、ふと人混みの中から年配の女性が近づいてきた。粗末な布袋を肩に下げ、少し緊張した面持ちでリリウスの前に立つ。 「……あの」「はい」「あなた様が……ここにいるだけで、皆、安心するんです。それを、お伝えしたくて……」 思いがけない言葉に、周囲の喧騒が一瞬だけ遠のいたように感じた。リリウスは目を瞬かせ、それから小さく笑みを浮かべる。 「ありがとう。でも、僕は、神でも王でもない。ただ……誰かがひとりぼっちにならないように、そこに立つだけですよ」 女性は、なぜか泣き笑いのような表情で頷き、深く頭を下げて去っていった。それを見送ったリリウスの胸の奥に、言葉では形にできない温もりが広がっていく。 
last updateLast Updated : 2025-08-15
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第101話:過保護の理由

政庁の長い廊下は、夕刻の光を受けて金色に染まっていた。窓枠から射し込む陽光が石床に斜めの影を落とし、その中をリリウスは両腕に抱えた書類束と共に歩いていた。 市場で浴びた人々の声の余韻は、まだ胸の奥に残っている。「ここにいてくれるだけで安心する」――あの言葉。温かくも、重すぎる響きを持つ。歩きながら、リリウスは無意識に深く息を吐いた。 その瞬間。 「……外は冷える」 低く抑えた声が背後から届く。肩に重みがかかったと思ったら、厚手の外套がふわりと覆いかぶさっていた。 「え……? カイル?」 振り返れば、軍服姿のカイルが、当然のような顔で立っていた。彼はリリウスが着ていた薄い外套をちらりと見やり、容赦なく首元の留め具をととのえる。 「これじゃ冷気を通す。風邪をひいたらどうする」「い、いや……僕のでも十分……」「足りない」 即答。抵抗する隙さえ与えず、しっかりと襟元まで留められる。生地に宿った彼の体温がじんわりと移ってきて、リリウスは耳まで赤くなった。 (……こ、こんな廊下の真ん中で……) 周囲には書記官や従者が行き来している。誰も露骨に見はしないが、気配だけで視線が集まっているのは明らかだった。 足早に歩き出すと、カイルは横に並んで歩調を合わせる。石畳の段差に差しかかると、ごく自然な仕草で肘に手を添えてきた。 「&he
last updateLast Updated : 2025-08-16
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第102話:関係の形

政庁の一角、石壁に囲まれた静かな回廊。リリウスが歩いていると、背後からためらいがちな声が届いた。「……失礼ながら」振り返れば、灰色の衣をまとった男――旧神殿の神官だった。かつてはリリウスを「神子」と呼び、祭壇の中心に据えてきた人間だ。だが今はその肩書を失い、議会の末席に名を連ねる一人に過ぎない。「まさか、総帥と……番になられたのですか?」囁くような問いかけ。リリウスは瞠目し、即座にかぶりを振った。「そ、そんなことはありません」強く否定する。だが心臓は、抑えようもなく速くなる。(番ではない……でも、あの夜から何かが変わったのは確かだ。だって、僕達は……)胸の奥に火が灯るような感覚を、否定できなかった。抑制剤では消えきらなかった熱が、触れ合った夜を境に嘘のように鎮まった。それをどう説明すればいい?番ではない、けれど。旧神官はなおも意味深な目をしていたが、それ以上は問わなかった。ただ、深く頭を下げると、石畳を静かに去っていった。リリウスはその場に立ち尽くし、外套の袖をぎゅっと握った。※そして──数日後の会議。共和制移行に向けた調整は山積みで、各委員の顔には疲れが色濃くにじんでいる。だが壇上に並ぶ二人――リリウスとカイル――の姿は、奇妙な安定をもたらしていた。「やはりお二人が並ぶと、場が引き締まりますね」「いや、むしろ和やかになるというべきか」役人たちがひそひそと囁き合う。そこには悪意はなく、どこか好奇心と期待を孕んだ声音だった。「まるで王と王妃のようだ」と笑う者さえいた。リリウスの視線はまっすぐ前を向いていたが、耳の奥はじんじんと熱を帯びていた。(政治のための“演出”で並んでいるだけ……なのに)それを否定する言葉が、自分の内側から出てこない。胸の奥がじんじんするまま、リリウスは会議の後半を過ごした。やがて休憩が告げられる。議場の空気がほっと緩む中、マリアンが机の上の書類をまとめるふりをしながら、ちらちらとリリウスを盗み見ていた。「……総帥とご一緒の仕事が増えましたね」「そうだね。委員会もあるし、外回りも増えた」声は穏やかだったけれど、マリアンの瞳は少しだけ揺れていた。「前は、わたしと研究の話をしたり、実験の手伝いを頼んでくださったりもしたのに」「ごめん。仕事が多くて、余裕がなくて」素直な謝罪
last updateLast Updated : 2025-08-17
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第103話:形のないもの

政庁の石の廊下は、朝の冷えをまだ抱えていた。議場へ向かう列の先頭で、リリウスは書記官から渡された議案の束を抱え直す。紙の匂いとインクの匂いが混ざり、少しだけむせるように喉をこすった。「……っ、こほ」その小さな咳――ほんの一拍――ののちには、もう目の前に水杯が差し出されていた。「水だ」当然のようにカイル。銀の縁が光り、揺れない手。リリウスが受け取るより早く、彼は片手で書類の重みをさらって、反対の手で杯を傾けやすく支える。「そこまでしなくても……」困ったように笑ってみせるが、杯が唇に触れた瞬間、喉の熱がするりとほどけたのも事実だった。ぬるい水がやさしく落ちてゆく。「無理をすれば、すぐ顔色に出る」低く、簡単に。言葉は短いのに、逃げ道も言い訳も与えない響きを持っていた。周囲の役人たちが、視線を交わす。露骨ではない。けれど、囁き声は石壁に反射して耳の隅をくすぐる。「やっぱり……?」「番、じゃないのか――」「いいや、公には否定してるが……あの様子はどう見ても」悪意ではない。好奇心と、安堵に近い色。それでも、頬の奥でじんわりと熱が増す。(違う。番じゃない。……でも)胸の内で否定するたび、どこか別の場所が静かに頷いてしまう。カイルが書類を持つ肩越しに、わずかにこちらを見る。その視線がやさしすぎて、正面から受け止められない。※会議は長引いた。通訳官配置の拡充、委員会の人選、治安の連携――積み上がる議題の山を、言葉と沈黙のはざまで崩しては積み直す。疲労の色は誰の顔にもある。それでも、壇上で並ぶ二人の背が視界に入ると、場は不思議と落ち着いた。怒りは低く、言葉は秩序を取り戻す。誰かがひそやかに「結局あの二人がいるとまとまる」と笑うのが聞こえ、リリウスの耳朶がまた熱を帯びた。休憩の合図で空気が緩む。外気を入れるために開けた窓から、薄い冬光が差しこむ。リリウスは人の波からそっと離れ、回廊の影で深呼吸をひとつ。胸の内に残ったざわめきが、ゆっくりと波を引くように収まってゆく――はずだった。(どうして、こんなに揺れるんだろう)番ではない。そう言い切ったのは自分だ。けれど、あの夜から確かに何かが変わった。抑制剤でも抑えきれなかった熱は、不思議と鎮まり、代わりに、別の熱が静かに灯り続けている。名前のない火。「リリウス様」声に顔を上げると
last updateLast Updated : 2025-08-18
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第104話:揺れる心の夜に

執務室にひとり残った夜は、ことさら広く、寒い。昼の喧噪が引いた後の静けさは、時に重苦しい。窓の外では雪に似た粉塵が街灯の光を受けて舞い、冷たい世界の存在を無言で告げている。 リリウスは羽根ペンを置き、机の上に突っ伏すでもなく、ただ背もたれに深く沈んだ。視線は自然と窓硝子へと向かう。そこには、橙色の灯に照らされた己の影が揺れていた。頬が赤く、瞼が重い。泣きそうに見えるのは、実際に目頭が熱いからだろう。 「……僕は」 声に出すと、胸の奥で絡まった糸が少しほどける。昨夜のことがまだ、皮膚の裏に残っていた。あのぬくもり、呼吸の速さ、耳元に落ちた声。すべてを夢にしてしまうには生々しく、すべてを現実と認めるには、怖すぎる。 「僕は……番だから、求めているのか?」 かつてならそう思っただろう。神殿にいた頃、周囲が口をそろえて「神子は運命の番を得て完成する」と信じていた。だから自分が誰かに触れたいと思ったら、それは番だからだと。役割に組み込まれた欲望にすぎないと。 けれど昨夜、彼に抱かれた時、頭をよぎったのは「番」という言葉ではなかった。もっと単純で、もっと拙い。 ――カイルが欲しい。僕のものになってほしい。 あの瞳が腕が、自分以外を求めるのはきっと許せない。自分だけを求めて欲しい。そんなどろりとした気持ちさえ浮かぶ。 涙がにじんだ。胸がきゅうと痛くなり、袖で目元を拭う。“神子”である前に、“役割”である前に、自分がこんなにも誰かを欲してしまった。それを認めるのが、こんなにも怖く、そ
last updateLast Updated : 2025-08-19
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第105話:待つということ

夜は、政庁の高い窓からしずかに沈み込み、机上の灯だけが世界を内側から照らしていた。羽根ペンの先で紙が擦れる音がやみ、リリウスはふう、と浅い息を吐く。目の裏側が熱い。泣いてはいけない、と思えば思うほど、涙腺は勝手に疼くのだと今さら知る。窓硝子に映る自分は、白く、頼りなく、けれどどこかもう引き返せない顔をしていた。昨夜、自分の口からこぼれた言葉――「僕は、僕の意志で」。それは震える声だったはずなのに、胸の芯に小さな杭のように残っている。扉が、二度だけ控えめに叩かれた。返事をするより先に、蝶番が音もなく動く。「……やはり、起きていたか」低い声。カイルだった。上着の前をゆるく外して、長椅子用の薄い毛布を片手に持っている。彼は灯の光に目を細め、それから言葉を足さずにこちらへ歩いてくる。「……どうして?」問うと、肩をすくめる仕草すら静かだ。「窓。影が揺れていた」たったそれだけで、胸の詰まりがほどける。ひとりでいると思われたくなかったのだ――気づけば、そんな幼い願いが自分のなかにある。恥ずかしくて、目を落とし、紙の端を親指で撫でる。椅子の脚が床を擦る音。カイルは正面ではなく、横手、少しだけ距離を置いた位置に腰をおろす。毛布を膝に置き、何も言わず、ただ待つ。促しもしない、急かしもしない、沈黙の形を知っているひとの沈黙。耐え切れず、リリウスの口が先に動いた。「……僕は、あなたがαだから選んだのじゃないと、言えるようになりたい。Ωだからαに惹かれたんじゃない……あなただから、だ。そう思ってるのに……」笑ってみせると、喉がきゅっと縮む。カイルは目を細めながら手を伸ばし、ためらいなく指を絡めてきた。掌の厚みと温度が、夜の冷たさを追い出していく。「答えは急がなくていい。俺は君を待てる」たった一行の宣言。それは慰めではない。条件でもない。時間そのものを差し出すという意味だ。重くて、やさしくて、痛い。「待つことしか、できないけどな」自嘲ではない。選び取った態度としての低い笑い。その指の圧がほんの少し強くなるたび、胸の奥の痛みが別の形に変わる。涙が勝手に滲んで、でも今度は零れない。零す必要がない。手が彼に握られているから。沈黙が熟れてから、カイルは仕事の報せに移った。言葉の温度は変えないまま、ただ事実を置いていく。「王のことだが――陛下は、地下牢
last updateLast Updated : 2025-08-20
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第106話:祝われる意味

石畳の広場に、冬の朝の白い息が幾重にも浮かんでいた。政庁前に設けられた壇上には、共和制移行を祝うための民衆が押し寄せ、旗や花飾りが鮮やかに風に揺れている。リリウスは緊張で胸をつかまれるような思いで、隣に立つカイルを横目に見た。軍服に身を包んだ総帥の姿は、やはり場を支配する力を持っていた。けれど、その肩幅のすぐそばに自分が並んで立っているのだ――それだけで、不思議な安定を覚える。「……行こう」カイルの低い声にうなずき、二人並んで壇上の中央へ進み出る。ざわめきが広がり、やがて波が引くように静まった。人々の視線が、一斉に二人へと注がれる。リリウスは喉を潤し、言葉を選ぶように口を開いた。「私たちは、今日、新しい一歩を踏み出しました。 これからの国は、王の血筋によってではなく、皆の声によって形作られる。それは不安であり、同時に大きな希望でもあります……ひとりではなく、共に歩むことで、道は広がるのです」声が広場に反響する。緊張はまだ胸にあるけれど、拍手の音がそれを少しずつ和らげていく。続いて、カイルが短く力強い言葉を重ねた。「この国は、戦でなく、共に働くことで強くなる。……俺はそう信じる」その一言に、場の空気がぐっと引き締まる。けれど同時に、どこか温かさが滲むようでもあった。一瞬の沈黙のあと、群衆の中から声が飛ぶ。「お二人は……理想の夫婦のようだ!」笑い混じりの声に、どっと周囲が沸いた。他の者も口々に、「まるで王と王妃だ」「いや、それ以上に頼もしい」と囃し立てる。リリウスの頬がかっと熱を帯びた。(そ、そんな……)頭では分かっている。これは社交辞令、民衆が歓喜した時に出す歓声のようなもの。「二人が並んでいる」ことが象徴として受け止められているだけだ。――それだけ、のはずなのに。(……祝ってもらえるのが、嬉しいなんて)心の奥がざわりと揺れる。他人の口から「夫婦」と言われ、それが肯定の響きを持つこと。それをこんなにも甘く受け取ってしまう自分に、リリウスは戸惑った。(番でもないのに……僕は)否定の言葉を浮かべた瞬間、ふいに過去がよぎる。──レオン。あの玉座の間で、彼の声に縛られていた自分。「王のため」「民のため」と繰り返し、いつしか自分を失っていた日々。――彼はいま、裁かれている。罪を重ね、王を幽閉し、民を危うく
last updateLast Updated : 2025-08-21
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第107話:冬灯(ふゆび)に手を

王都の西側、古い水路に沿って伸びる横町は、朝から色とりどりの布と紙飾りで満ちていた。戦のあと初めての季祭——人々はそれを「冬灯(ふゆび)」と呼ぶ。春を迎えるためのもので、陽が落ちれば、並べられた小灯籠に火が入り、川面に小さな星が千も万も流れるのだという。臨時政庁から少し離れたこの広場に、簡易の舞台が組まれていた。演説台ではない。職人の歌と子どもの合唱、笛や太鼓のための小さな段。紙花の蔓が欄干に巻かれ、その下ではパン屋が甘い菓子を並べている。「総帥、こちらの導線は確保済みです」「セロ、余計な手出しはするな。今日は祭だ」舞台袖では、セロとハーグが目配せを交わしていた。セロは軽装のまま人波を見張り、ハーグは耳を伏せぎみに、尾を足に巻きつけて人混みのざわめきを聞いている。「余計な手出しって、具体的にどれくらいです?」「剣を抜くな、という意味だ」「抜きませんよ。……たぶん」「たぶん、は却下だ」セロとハーグのやりとりにカイルが小さく笑う。その声に、リリウスが振り向いた。ちょうどそのとき、舞台の柱の陰から、マリアンが白いマントの裾をつまんで出てくる。隣にはヴェイルが立ち、手には小さな紙灯籠を二つ。「リリウス様、これ。冬灯の子ども用です。舞台の脇で一緒に火を入れると喜ばれますわ」「ありがとう、マリアン。……ヴェイルも」「祭は外交より難しい。失敗がすぐに顔に出るからな」「それはあなたの話でしょう、ヴェイル様」二人の軽口に肩の力が抜ける。リリウスは灯籠を受け取り、舞台へと向き直った。今日は演説をするわけではない。ただ、祭のはじめに「春の訪れを祈る言葉」を短く述べる——祈りというより、挨拶だ。共和の旗の下で、祈りを命令としないための、ささやかな儀礼。太鼓が二つ、軽く打たれる。ざわめきが広がり、ほどなく波が引くように静まる。舞台に足をかけた瞬間、板がわずかに沈み、釘の鳴る音がした。リリウスは反射的に足を止める。次の拍で、隣に影が重なった。「段差だ。気をつけろ」カイルが声を落とし、手をそっと背に添える。公の場で、ふいに近い。肩越しに見る横顔はいつもの厳しさを保っているのに、指先の温度だけがあまりに率直で、胸が一粒ぶん跳ねた。挨拶は短く終わらせた。「今年の冬が穏やかでありますように。隣人の灯を消さぬよう、皆で見張り合いましょう」。拍手が
last updateLast Updated : 2025-08-22
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第108話:閉じた扉の内側で

祭の余韻がまだ街に残っていた。外では笛や太鼓の音が途切れず響き、人々の笑い声が冬空に白く溶けていく。政庁の控室は、その喧騒から切り離された静けさに包まれていた。扉が閉じられた途端、リリウスは背を壁に預けるようにして大きく息を吐いた。頬にはまだ舞台の熱が残っている。カイルは反対側の椅子に腰を下ろし、軍服の手袋を外す。その仕草すら、外の浮ついた音と対照的に落ち着いていた。「……自然に、手を取ってしまった、かも」ぽつりとこぼした言葉に、カイルの視線がこちらを射抜いた。「嫌だったか?」短い問い。リリウスは慌てて首を振った。「違う。……嬉しかったんだ。嬉しいのに、それが余計に苦しい」言いながら、自分の胸の内の矛盾に頬が熱くなる。手を取った瞬間の歓声、拍手。それ以上に、あの掌の温度がまだ離れないこと。――番だからではなく、自分の意思で、欲しいと思ってしまったこと。カイルは少し黙り込み、やがて鼻で短く息を吐いた。「君はどうも、考えすぎるきらいがあるな」からかうというより、呆れと愛しさが入り混じった声。リリウスは視線を逸らし、壁の木目を見つめた。「……だって。初めてなんだ」「初めて?」「人を……こんなふうに思うのは。 レオンの時だって……あの人に惹かれたわけじゃない。あれは、ただ縛られていただけだ。名前を呼ばれても、応えられなかった」自分でも気づかぬうちに、声が震えていた。過去の影が、ふと口の端から漏れ出す。その瞬間。「……他の男の名前を呼ぶな」低い声が、強く割り込んだ。リリウスは驚いて目を向ける。カイルは椅子から身を乗り出し、鋭い眼差しで見下ろしていた。「俺の前で。……もう、君の記憶に要らないんだろう?」胸の奥を掴まれたように、呼吸が乱れる。要らない。そうだ。彼の言葉があまりに真っ直ぐで、否定も肯定も、どちらも胸に刺さった。「……あなたでも、そんな顔をするんだね」リリウスは素直に驚きを洩らした。カイルは悪びれることなく、片眉をわずかに上げて笑う。「生憎、俺は執着深い性質でね」そのニヤリとした表情に、胸がきゅうっと縮まる。なのに、頬が緩むのを止められなかった。「……僕もだよ」短くても確かな言葉。その瞬間、カイルの瞳が深く細められ、ゆっくり吐かれた息が静かな笑みに変わる。「……そうか」小さな間を置いて
last updateLast Updated : 2025-08-23
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第109話:星を仰ぐ夜に

政庁の庭は、夜になると昼間のざわめきが嘘のように静まり返る。冬枯れの枝が黒々と空を縁取り、星々がその間から顔を覗かせていた。石畳は冷たく、吐く息は白い。それでも、灯火に照らされない暗がりは、二人にだけ与えられた隠れ家のように思えた。リリウスはゆっくりと歩を止め、空を仰ぐ。頬に触れる風は刺すように冷たいのに、胸の内は熱でいっぱいだった。昨日までの祭の光景、今日の民衆の顔、そして彼と並んで歩いた数々の場面。その全てが積み重なり、今この瞬間に押し寄せてくる。「……カイル」呼びかける声は、夜に吸い込まれてしまいそうに小さい。それでも彼は、確かにこちらを見ていた。深い影を湛えた瞳が、揺れることなく待っている。その静けさが、返事よりも雄弁に「聞こう」と告げていた。リリウスは拳を握りしめ、唇を震わせ、そして吐き出した。「僕は……番だからじゃなくて、自分の意思で、あなたの傍にいたいんだ」言った瞬間、胸が軽くなるのと同時に、足元が震える。言葉は戻らない。取り繕う余地もない。だからこそ――本心だった。長い沈黙が降りた。庭を渡る風が、梢を揺らす音だけを運んでくる。けれど、その沈黙は決して拒絶ではなく、重ねられた想いをゆっくり咀嚼するためのものに思えた。石灯籠の火がぱち、と鳴って小さく揺れる。やがて、低い声が返ってくる。「俺も同じだ。……運命なんて関係ない。お前だからだ」ただ一行。けれどそれは、どんな誓いよりも強い言葉だった。番という名も、神子という肩書も、必要なかった。“お前だから”――その響きが胸を満たしていく。二人の距離が、自然に縮まった。石畳の上で靴音が重なり、影と影がひとつになる。互いに迷うことなく、唇が触れ合った。触れただけのはずなのに、熱は胸の奥深くにまで流れ込み、体の中心で絡み合う。過去に誰かに縛られたことのある自分が、いま自由な意思でこの人を選んでいる――その実感が全身を震わせる。言葉では表せないほどに、確かで、静かな歓びだった。唇が離れても、すぐには声が出なかった。ただ、見つめ合い、呼吸を確かめる。夜の星々が、二人を見守るように瞬いていた。頬に触れる風は冷たいのに、肌の奥には彼の温度だけが残り続けている。そして、カイルが口を開く。「……これで漸く、君の線の内側に入れた気がする……」「……線…
last updateLast Updated : 2025-08-24
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