All Chapters of 捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される: Chapter 141 - Chapter 150

181 Chapters

第140話:幻影の対話

まぶたの裏側に、柔らかな光が差し込んでいた。暖かかった。奇妙なことに、魔力の激流に巻き込まれた直後とは思えないほど、穏やかな感触だった。空気が軽い。息がしやすい。喉の渇きも、体の痛みも、いつの間にか消えていた。(……ここは)ゆっくりと目を開けると、そこは神殿の地下などではなかった。柔らかな草の匂いがしていた。遠くで水音がして、空はやけに高く、風が頬を撫でていった。夢のように静かな、どこでもない場所。そして――「……かあさま」振り返ると、そこにいた。小さな足、小さな手。白い服。短く切られた髪。年の頃は三つにも満たないだろう。顔立ちは幼く、けれど不思議なほど整っていて、目だけが妙に印象的だった。見つめられて、言葉を失った。「きたの? あそびにきたの?」声も小さいが、よく通る音だった。鈴のような響き。何かを思い出しそうになる。懐かしいような、胸の奥がじんわりと熱くなるような。リリウスは、立ったまま動けなかった。「……君は……」「あのね、とうさまに、かたぐるましてもらうの。たかいたかーいって、するの。たのしいよ?」無邪気に言って、ころころと笑う。それがあまりに自然すぎて、幻だと分かっているのに、心がぐらりと揺れた。「それからね、かあさまと、うたうたうの。ふたりで、いっしょに」「……歌?」「うん。かあさまのうた、すきなの。やさしいの。ほわほわするの」リリウスは、その場に膝をついた。幻だ。わかっている。サウルが呼び出した“幻影”。自分の記憶の中から引きずり出された、喪われた命の残像。だというのに。「……どうして、そんな顔で笑えるんだよ……」ぼそりと、呟いた。「君は……本当は、生まれてこられなかったんだ。苦しくて、悲しくて、寒くて……僕は、何もしてあげられなかったのに」涙が一筋、頬を伝った。幻影の幼子は、少し小首をかしげた。「でも、かあさま、いたよ?」「……え?」「ぽん、って、て、してくれたの。あったかかったの。ずっと、いっしょにいてくれた。……だいすき、だよ?」リリウスは、言葉を失った。ただ胸の奥に、苦しみと温もりが同時に押し寄せてきた。喪ったと思っていた。失くしたと信じていた。だが、今ここに“声”があった。“存在”があった。「僕は……囚われない」かすれるように、でもしっかりと、言葉を紡いだ
last updateLast Updated : 2025-09-24
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第141話:救援の刃

「……あそこだ!」風を切って、セロの声が跳ねた。薄暗い回廊の奥、まるで空間そのものが滲むように揺れている。その中心にぽっかりと開いた“亀裂”。神殿の最深層――結界の内側へ続く、異端の空間。「マリアン、いける?」問うたのはヴェイルだったが、その目には既に迷いはなかった。マリアンは黙って一歩、前へ出た。黒の法衣の裾が静かに揺れる。指先に光が集まり、魔力が収束していく。「術式の逆解析、完了。……私が穴を広げる。全員、五秒で通ってください」「五秒で?」セロが思わず声を上げたが、マリアンは冷静に頷いた。「それ以上は、私も“持たない”。――いきますよ」指先がふっと震えた。その瞬間、空間に走っていた結界の揺らぎが音を立てて裂けた。「今だ!」マリアンが叫ぶより早く、カイルが先陣を切って跳び込んだ。その後をセロとヴェイルが追い、最後にマリアンが術の余波を押さえ込みながら滑り込む。そして、視界が反転した。次に目にしたのは、闇と光が交錯する神殿の深奥だった。結界は既に破れかけていた。床に描かれた円陣は崩れ、神代文字が断ち切られている。その中心――光をまとったリリウスが立ち尽くし、その前方、暴走する魔力の波の中に、黒衣の男がいた。「……サウル・オルド」カイルが低く呟いた。サウルは振り向いた。ゆっくりと、神にでも接するかのような静けさで。だがその目の奥には、狂気と憎悪の炎が静かに燃えていた。「来たか。……鎖を断ちに来た者たちよ」「違うな」カイルは剣を抜いた。抜刀の音が、儀式の残響と重なる。「俺たちは、光を取り戻しに来た。リリウスを……返してもらおうか」サウルの目がわずかに揺れた。だがすぐに、何かを嘲るように笑みを浮かべる。「――お前たちに、神の創造を止められると思うか?」「神を作る? それが復讐の名をした狂気だと、自分でも分かっているんだろう!」カイルが駆けた。踏み込みと同時に、剣が光を裂いた。対するサウルは、術式の残滓を纏った掌で迎撃する。鋼と魔がぶつかり、火花が散った。「退けッ!」サウルの声と同時に、結界の残響が再び唸りを上げる。魔力の奔流が周囲を薙ぎ払った。セロが地を滑りながらリリウスを抱きかかえるように守り、ヴェイルが即座に防壁を展開する。「マリアン!」「もうやってます!」マリアンの声が空気を裂
last updateLast Updated : 2025-09-25
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第142話:炎の決戦

神殿が呻いた。 石の天井が軋み、結界の隙間から赤い光が漏れる。空間そのものが灼熱に染まり、魔術の陣は、再び命を喰らい始めていた。 「退くな――!」 サウルの声が轟いた。その掌から放たれた火は、魔ではない。人の怨念と悲願が燃え上がったような、呪いに近い熱だった。 風が爆ぜ、床が焼け、空気が叫んだ。その中に立ち続ける者がひとり。 カイル・ヴァルドがそこに立っていた。 左腕に裂傷。右肩から血が滴り、脇腹には深く穿たれた傷があった。だが剣は下ろさない。足も、半歩たりとも退かない。 「なぜだ……! なぜ貴様は、そこまでして、神を否定する……!」 サウルの叫びが、呪詛に変わる。重ねられた幻術が空間を歪め、過去の影が空間に浮かび上がる。 ――火に焼かれる母娘。――神に見放された村。――血塗られた祭壇。 「見るがいい……! これが我が“喪失”だ……!」 サウルが踏みしめた大地が、再び黒く染まる。命の記憶すら呪術に変える、禁忌の術。 カイルの視界が歪んだ。痛みではない。憎しみに、心が切り裂かれる。 だが、その刹那。 「――立ってください、総帥!」 声が、背から届いた。セロだ。 背負っていたリリウスが、すでにその背から静かに降りて
last updateLast Updated : 2025-09-26
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第143話:鎖を断ち切る

「まだだ……!」膝をついたまま、サウルが呟いた。震える手が、裂けた術式の残骸に触れる。血を吐くような呼吸の中、それでも彼は、最後の言葉を紡ごうとしていた。「まだ……残っている……術式の核が……“供物”が……!」カイルが剣を握り直す。その気配を察したマリアンが、すぐさま防壁を展開しかけた。だが。「動かないで!」その声が、場を割った。立っていたのは――リリウスだった。焼け焦げた結界の中心に、まるで一点の光のように。髪は乱れ、肌は傷つき、衣の端は焦げていた。それでも、彼の瞳には曇りがなかった。「僕に、やらせて」カイルが止まった。その剣をわずかに下ろし、ゆっくりと頷く。「……任せた」リリウスは歩き出した。サウルの方へ。魔術陣の裂け目の中央へ。そこには、まだ赤黒く脈動する“核”が残っていた。喪失と呪詛と、神を呼ぶために積まれた犠牲の、最後の残滓。サウルの声が、かすれた風のように響いた。「君は……“選ばれた器”だ……。このまま核を受け入れれば……完全な供物となり……この世の理そのものが……書き換えられる……!」リリウスは、ほんのわずかに笑った。「そうかもしれない。……でも、僕はもう、誰の“器”にもならない」手を伸ばす。その指先に、淡い光が灯る。「僕は僕だ。誰かのための生贄じゃない。神の道具でもない。――“僕は、僕のために生きる”!」言葉が、空間そのものを震わせた。術式が悲鳴のように揺れた。封印の核に触れた瞬間、光が逆流する。それは攻撃ではない。祈りだった。赦しでもなく、拒絶でもなく。ただそこに“在る”と受け入れる、静かで強い意志。次の瞬間――強烈な閃光が爆ぜた。陣が、音を立てて砕ける。石の床が裂け、空気が割れ、すべての呪文が断ち切られる。サウルが、吹き飛ばされた。まるで誰かの手に背中を押されたかのように。砕けた結界の端に叩きつけられ、もう動かなかった。沈黙。眩しさの中で、皆が目を閉じた。そして、残響の最後の一滴のように、リリウスの声が落ちた。「さようなら、サウル・オルド。あなたの悲しみはここで終わる……僕はそれを、忘れない」ゆっくりと、陽の光が差し込んできた。天井の裂け目から、崩れた瓦礫の隙間を縫うように。温かかった。セロが駆け寄り、リリウスを支えた。ヴェイルとマリアンが、崩
last updateLast Updated : 2025-09-27
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第144話:敗北と終焉

焼け落ちた結界の中心で、灰が降っていた。 それは火の粉というにはあまりに冷たく、塵というにはあまりに重い、終焉の残滓だった。 もはや立ち上がることも叶わぬほどに損壊した術式の中央で、サウル・オルドは、崩れた岩の隙間に半ば埋もれるように倒れていた。 焦げた黒衣はすでに布の形をしておらず、その身を覆っていたはずの魔術の鎧も、音もなく剥がれ落ちていた。 皮膚は所々が焼け爛れ、声の形すら保てぬほど喉は焼かれていた。だというのに―― 「……まだ……神は……」 掠れた声が、喉からこぼれた。 もはや誰にも届かない。天にも地にも届かない。それでもなお、男はその言葉にすがった。 「……我が……血で……我が妻と子の、命で……祈ったのに……」 言葉にならない呻きが、唇から洩れた。その目には、血の涙のような、滲む紅が浮かんでいた。 魔術師である前に、父であり、夫だった――かつての彼。喪失の果てに、狂気の手を取ったその男の祈りは、いまやただ一つの問いだけを抱いて、虚空をさまよっていた。 ――なぜ、届かなかった。――なぜ、選ばれなかった。 けれど。 答えは、どこにもなかった。あるいは、初めから。選ばれるべき“神”など、こ
last updateLast Updated : 2025-09-28
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第145話:王の宣言

大広間の天井には朝の光が差し込み始めていた。けれど、その光は、どこか鈍く鈍色に濁って見える。王座の間の気配は、冷えていた。騒ぎではない。怒号でもなく、暴力でもない。それよりも静かで、ずっと冷ややかな――沈黙のような圧力が、そこにあった。アウレリウスは、王座に座っている。だがその背には、微かに緊張が走っていた。今日の議会は、形式的なはずだった。報告を受け、形式に従い、終わるはずだった。だが――「王よ。リリウス殿下の“保護”については、どうなさるおつもりですか」その問いが、すべてを変えた。“保護”――それが、どれほど曖昧で、狡猾で、残酷な言葉であるかを、アウレリウスは誰よりもよく知っていた。「殿下は、すでに神殿にて重大な儀式に関与されていた。あの力を、今後どう扱うかは、国家の命運に関わるのでは?」「いかに王族といえど、過剰な魔力を無制限に放置するわけには……」「再発の危険があるのです。何か、対処を……いや、縛るべきですな」「象徴として、宮殿内に居を構え、監視の下で過ごしていただく形であれば、世論も……」言葉が、次々と放たれる。冷静な提案の形を取りながら、その実はただの監視、封印、そして――鎖。「……黙れ」アウレリウスの声は、低かった。だが、それだけで大広間の空気が変わった。「王よ、これは――」「黙れと言った」再度、冷たい声で言い放つ。宰相ですら息を呑み、言葉を止めた。アウレリウスは、ゆっくりと立ち上がった。王座の影が、静かに伸びる。「リリウスは、“供物”にされかけたのだ。誰の目にも明らかだ。王族としてではない。人として、あれほどの恐怖に身を晒した」誰かが小さく舌打ちしたのが聞こえた。「……それが、国のためだったとしても、ですか」「国のため? あれは誰が命じた。“国”があの場にいたのか?……違う。彼は、誰にも守られなかった。私も――守れなかった」最後の言葉は、喉の奥に刺さるようだった。王であるはずの自分が、弟をその場に追いやり、そしてただ、結果を待つしかなかったあの時間。魔術の暴走、神を呼び寄せるという狂信の中、彼はただ、弟が生きて帰ってくることを願うしかなかった。アウレリウスは、自分を呪った。そして今、弟を再び鎖に繋げというこの声に、心の底から苛立っていた。直接救いにいけない自分にも。「俺
last updateLast Updated : 2025-09-29
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第146話:兄弟の対話

王宮の廊下は、ひどく静かだった。魔力の残滓がようやく拭われた石造りの回廊は、どこまでも清潔で、そして冷たい。美しいはずの天井画も、いまは色を失ったように感じられた。その中を、一人の王が歩いていた。アウレリウス・クラウディア。王としての威をその背に負いながら、今このときだけは――その足取りに確かな揺らぎがあった。弟が戻ってきた。リリウスが、生きて。だがそれは、ただ喜べば済む話ではなかった。傷を負ったのは身体だけではない。あの神殿の奥で、リリウスは何を見たのか。どれだけのものを断ち切り、どれだけの重さを背負って、帰ってきたのか。それを想うたび、アウレリウスの胸の奥には、呪いのような悔いが湧いた。王でありながら、兄でありながら――自分は何一つできなかった。扉の前で立ち止まり、アウレリウスは深く息を吸った。鼓動が一瞬、遅れて跳ねた。そして、静かに扉を押す。重い扉の音が、部屋に静かに響いた。部屋の中にいたリリウスは、すでに起きていた。まだ回復の途中とはいえ、彼は椅子に腰掛け、静かに外を見ていた。気配に気づき、彼は振り返る。表情には笑みのようなものが浮かんでいたが、それがどれほど無理に作られたものか、アウレリウスにはすぐにわかった。「兄上……」「身体は、どうだ」「おかげさまで、だいぶ……。まだ少し、ふらつきますけど。歩くくらいは大丈夫です」言葉を交わしながら、どちらも目を逸らさなかった。王と王弟――そんな関係ではない。ただの兄と弟として、いま向き合おうとしていた。アウレリウスはゆっくりと歩み寄り、リリウスの正面に立った。「……リリウス。私は……お前を守りたかった」低く、けれどはっきりとした声だった。「ずっと、そう思ってきた。王としてではなく、兄として。誰よりも、私がお前を――」そこで、言葉が途切れた。「だが……私は、何もできなかった。今回も前回も」その一言は、どんな叱責よりも重かった。王として、王座に座りながら、アウレリウスは弟を政治の道具として送り出すしかなかった。弟の命を、国家という器に預けることしかできなかった。あの選択のすべてが、今も彼の胸を締めつけていた。リリウスは、静かに立ち上がった。まだ万全とはいえない足取りで、ふらつきながら、それでも自らの意志で兄の前へ進み出た。「兄上がそう思ってく
last updateLast Updated : 2025-09-30
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第147話:帰還の前夜

夜風が静かに、王宮の回廊を撫でていた。戦が終わり、すべてが収まるべき場所へ戻っていくその途中で、まだ、ほんの一角だけが時間に取り残されていた。石畳の上に影がひとつ、斜めに落ちている。背を壁に預け、頭を垂れたその男――カイル・ヴァルドは、まるで夢の名残を追うように、空を見上げもせず、ただ静かに眼差しを落としていた。静寂の中で、思考だけが、うるさいほどに鳴っていた。「……間に合ったのは、奇跡だった」そう口に出しても、それは自分の赦しにはならなかった。あの夜、王都の邸で気配を察した瞬間から、血が逆流するような焦燥が全身を焼いた。だが走っても、斬っても、叫んでも、リリウスの手は届かなかった。あの幻術に閉ざされた空間の中で、何度手を伸ばしても、触れることすら叶わなかった。「……助けた。けれそ結局、俺は……また」囁きは風に消えた。自分には、剣しかなかった。リリウスに与えるべき言葉も、癒しも、未来も持たず、ただ力を振るうことしかできなかった自分に、何を誇ることがあるというのか。あの光の中、リリウスは自ら選び、抗い、断ち切った。命を賭して。過去も、恐れも、すべてを受け入れたうえで。――その姿に、救われたのは、俺の方だった。目を閉じる。まぶたの裏には、儀式の中心に立つリリウスの姿が、鮮やかに残っていた。そのときだった。「……こんなところにいたんだ」ふいに、背後から声がした。振り向けば、そこにいたのはリリウスだった。白い衣に身を包み、淡く光を纏ったように立つその姿は、どこか現実離れして見えた。だが、その瞳には確かな熱があった。かつて神子として祀られていたときのような透明さではない。いまは――人として、世界に立つ者の眼だった。カイルは、一瞬だけ目を伏せた。「……眠っていろ。まだ傷は癒えてないだろう」「……あなたも、でしょ?僕よりあなたの方が酷かったのだし。……なんだか、夜風に当たりたくて」問いではなく、肯定としての言葉だった。リリウスは何も言わず、カイルの隣に腰を下ろした。石の冷たさが、ゆっくりと二人の体に伝わってくる。夜風が、髪を揺らした。「……怖かったよ」リリウスが呟くように言った。「叫んでも、声は響かないし……目の前のものが全部、幻みたいで。でも、本当に怖かったのは……」一度、言葉を切った。「“自分
last updateLast Updated : 2025-10-01
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第148話:別れの時

王都に朝が来た。澄んだ空気の中に、どこか名残惜しさのような静けさが漂っていた。戦の終焉から数日、各地に散らばった余波がようやく収束の兆しを見せる頃――王宮の中庭には、帰還の支度を終えた一行が静かに立っていた。リリウスは馬車の前で、風に揺れる布をじっと見つめていた。それは新たな旅路の幕開けであり、同時に一つの時代の終わりを告げるものでもあった。「……よく晴れたね」ふと呟いたその声に、すぐ隣でヴェイルが軽く笑った。「ああ。旅立ちにふさわしい日だ」言葉は穏やかだが、その声音にはどこか寂しさがにじむ。ヴェイルはこの都で生まれ育った。王宮での立場も、王家に連なる誇りも持つ者だ。だが、彼の視線は揺るぎなく――リリウスを見ていた。「……本当に、来てくれるの?」リリウスが問うと、マリアンがまっすぐに頷いた。「はい。私の居場所は、殿下のそばです。どこへでも、お供いたします」「妻がこう言うのでね」ヴェイルも続けた。「“役目”だからとか、“義務”だからじゃない。ただ、リリウス様の隣にいたいと思った。それだけです」少しだけ肩をすくめるようにして、それでもマリアンの目は真剣だった。リリウスは、一瞬だけ目を伏せた。そして、小さく笑う。「ありがとう。……本当に、ありがとう」その声は静かで、けれど深く温かかった。傍らには、すでに準備を終えたセロがいた。彼は何も言わなかった。ただ当然のように、仲間としてその場に立っていた。それだけで十分だった。やがて、玉座の間からアウレリウスが現れた。王衣をまといながらも、どこか兄としての面差しを隠しきれない。その歩みは威厳に満ちていたが、足を止めた瞬間、ふと息をつくように声を漏らした。「……いよいよか」「うん。もう、行くよ」リリウスはまっすぐに兄を見た。言葉は少なかったが、兄弟のあいだに流れる時間が、何よりも雄弁に語っていた。アウレリウスは、すっと近づくと、リリウスの肩に手を置いた。「自由であれ。誰にも縛られることなく、おまえ自身の選んだ道を歩め」その声音は、王の命ではなかった。一人の兄が、弟に贈る最後の願いだった。リリウスは小さく頷く。「……ありがとう。兄上も、どうか無理をしないで」アウレリウスは微笑む。「できればそうしたいな。今度は私がそちらに出向こう」そのやり取りを、カイルは
last updateLast Updated : 2025-10-02
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第149話:帰路の空

夜は、まだ深かった。だが、風はすでに夏の香りを運んでいた。草の匂いに、柔らかく湿った土の気配。冷えた夜気の底にひそむ懐かしさのようなものが、旅の途上にある身をそっと包み込んでいる。王都を出て三日目の夜。峠を越えた村の宿で、一行は短い休息をとっていた。リリウスは、布団の中で浅い眠りの淵をただようように目を閉じていた。夢のようでありながら、夢にしてはあまりにも温かくて、鮮やかで。心の深いところに、揺れが残っていた。――声がした。「また、会えたね」幼い声だった。どこまでも澄んでいて、少しだけ誇らしげで、そして、やさしかった。視線の先に、小さな手がある。春の風にそよぐ髪、丸い頬。笑っていた。まっすぐに、曇りのない瞳で。リリウスは、ただその姿を見つめていた。言葉にしようとしたけれど、胸の奥がつかえて声が出なかった。子どもは、彼の手をそっと取る。「かあさまは、もう泣いてないね」そのひとことで、胸の奥に仕舞い込んでいた何かが、静かに軋んだ。「だから、もう大丈夫。ぼくも、だいじょうぶ」夢の中でさえ、涙が滲む。それでもリリウスは問いかけるように、目だけでそっと尋ねた。――また、会える?小さな子どもは、ふわりと笑う。「もちろん。またね」光がふるように降りてきた。白い霧が視界を包み込み、その姿はやがて霞んでいく。目が覚めた時、空気はまだ夜の匂いを纏っていた。暗がりのなか、天井がぼんやりと目に映る。夢の名残が、胸の奥にじんわりと残っている気がした。気づけば、頬が濡れていた。「……っ」手を動かそうとした、その時だった。隣から、わずかに布の擦れる音がする。カイルが、起き上がったのだとすぐに分かった。寝起きの気配が伝わってくる。息遣いが、少しだけ近づいてくる。「……夢、か?」低い声がそっと響いた。リリウスは答えず、まぶたを伏せたままじっとしていた。言葉にしてしまえば、何かがこぼれてしまいそうだった。何も言わず、カイルの指先がそっと伸びてくる。リリウスの頬に触れ、こぼれた涙を拭う。拭うというより、すくうように。やさしく、受け止めるような仕草だった。「……大丈夫、だよ」かすれるような声が唇から漏れる。「泣いてるのは、うれしかったから……たぶん」少しだけ笑ったつもりだったが、震えた声になった。言葉よりも先に
last updateLast Updated : 2025-10-03
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