All Chapters of 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

「ええ、ちゃんと聞こえるようになったよ」もう数日しか経っていないし、悠良は自分の聴力が回復していることを史弥に知られても、別に構わないと思っていた。「そうでしたか......数日前に白川社の新任のディレクターだと名乗る人が来て、小林さんが都合が悪いからって、代わりに商談に来たって」悠良は思わずため息をついた。玉巳が自分を「新任のディレクター」と名乗ったのは、ただのその場しのぎなのか、それとも史弥の指示によるものなのか。もし後者なら。葉は単なる導火線に過ぎず、そもそも彼らは最初からこの件を成立させるための標的として、彼女を使ったということになる。葉があの日、玉巳に対して何か不敬なことを言ったかどうかに関係なく、彼女のポジションは守れなかっただろう。ふと、悠良は以前史弥が言っていた言葉を思い出した。玉巳が雲城に来たばかりの頃、彼女が突然の昇進でやって来たことに株主たちは不満を抱いており、結果を出せなければ彼女の立場はかなり厳しくなる、と。つまり、本当に史弥が裏で玉巳のためにこの案件を取ってやったのだとしたら、自分はなんと見事に「目が節穴」だったのだろう。こうして、自分は知らぬ間に、玉巳に道を開くための犠牲になったわけだ。悠良は我に返り、武田にまた尋ねた。「じゃあ、彼女が出した企画書は?御社の社長はそれを気に入ったの?」「あの企画書は、前に小林さんが社長に見せたやつですよ?」その瞬間、悠良はまるで崖っぷちに立たされ、背後から突き落とされたような感覚に襲われた。誰かが彼女の心臓を鷲掴みにしたかのように苦しく、息が詰まりそうだった。あの企画書は、以前彼女のノートパソコンが故障して修理に出していたとき、仕方なく一時的に史弥のパソコンを使っていたのだ。それをコピーして、あとで削除するつもりだった。だが結局削除しなかった。まさか、まさか史弥が、彼女の企画書を勝手に玉巳に渡し、何の断りもなく徳本に提出していたなんて!まさに「他人のふんどしで相撲を取る」とはこのことだ。説明の機会は何度もあったはずなのに、彼は一言も口にしなかった。彼女の企画書を使っておきながら、報告すらしなかった。自分には、報せる価値もなかったの?「ありがとう、武田さん。用事があるので、先に切るよ」悠良はどこか上の空
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第42話

悠良は、玉巳が不器用にジェスチャーする様子を見て、口元に皮肉な笑みを浮かべた。「石川さん、そんなに苦労して身振りしなくてもいいよ。私、読唇術ができるから。難しい言葉じゃなければ、だいたいわかるようになってる」玉巳の中途半端で滑稽なジェスチャーを見て、悠良は「見てるこっちが疲れるわ」と内心で思った。玉巳は動きを止めて言った。「読めるなら、どうして史弥は毎回あなたにジェスチャーで話すの?」悠良は少し眉を上げて、気まずそうに言った。「知りたい?」玉巳は両手をポケットに突っ込み、肩をすくめた。「ちょっと気になっただけ」悠良は心の中で「知りたいなら教えてやるわ」と思いながら答えた。「私が聴力を失ったのは彼が原因だったから、彼は手話を学んでくれたの。だけど、彼が私のために学んでくれても、まわりの人全員が手話を覚えるわけじゃない。だから私は、他の人が話してるときは口の動きで内容を読むように慣れていった」「でも彼は、私が唇を読むのに苦労してるんじゃないかと気を遣って、ジェスチャーのほうが楽だろうと、ずっとそうしてくれてたの」それを聞いた玉巳は、顔色が青くなったり白くなったりしたが、それ以上その話題には触れなかった。「それで、悠良さんが私のところに来たのは何か用?」「葉の件について、話がしたい」玉巳はゆっくり椅子から立ち上がり、困ったような顔をした。「悠良さん、こういうことは史弥に話すべきじゃない?どうして私に?それに......三浦さんが史弥の前であんなことを私に言ったの、もしかして悠良さんの指示だったとか?」最初は真面目そうに言っていた玉巳だったが、後半の一言を言いながら、にやりと悠良に顔を近づけ、冗談めかした口調になった。悠良はその視線を真正面から受け止めた。いつもは冷静なその眉眼に、一瞬だけ鋭さが宿る。だがすぐに、ふっと笑った。「まさか。石川さんは白川社長が自ら会社に迎えた人材。社内の皆さんも、石川さんの実力をよく理解している。葉は一社員で、少し言葉がきついところはあるけど、悪気はないわ」「今回のことは、あなたが原因で起きたこと。ならば、解決もあなたでないと難しい。だから、石川ディレクターにお願いしたいの。葉のこと、少し手加減してあげて。もうあんなことは二度と言わせないと約束します」玉
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第43話

悠良はすぐに察した。こんなに長々と話したのは、結局、玉巳が葉のために口を利く気がないということ。新しくポジションに就いたばかりで、彼女は葉を見せしめに使って、社内に自分の存在感を印象づけたばかりだった。自分は張り子のトラではないと示し、部下たちに畏敬の念を抱かせたのだ。悠良は特に怒るでもなく、ただ静かにうなずいた。「難しい立場なのはわかってます。でも、今日聞いたよ、徳本プロジェクトの件。契約は石川ディレクターの名前で進んでいるけど、実際に使ったのは私の提案書だったって」「このことが社内に知れ渡ったら、石川ディレクターの実力に疑問を持たれるかもしれないよ?むしろ、葉を呼び戻したほうが、『心の広い上司』としての印象を与えられるんじゃない?」言い訳まで用意してあげたのだから、ここまでされてなお断るなら、それこそバカだ。先ほどまで多少得意げだった玉巳の顔色が一気に曇り、耳までうっすら赤くなり、目を伏せた。少し黙ったのち、ついに彼女は承諾した。「わざわざ来てくれたのに、私が無視するわけにはいかないよね。でも史弥のほうは......正直、どうなるかはわからないわ。一応、試してみるよ」悠良は満足げに口元を上げた。「ありがとう。葉に代わって、石川ディレクターに感謝します」そう言って、彼女はオフィスのドアを開けて出て行った。玉巳は机の前に立ったまま、歯を食いしばった。だが次の瞬間、彼女の顔が豹変し、手を振り払うようにして机の上の書類をすべて床に払い落とした。一方その頃、悠良はオフィスを出たあと、さっきのデータをまとめて同僚に送信していた。その女性同僚は涙が出るほど感激し、連続で「ありがとうございます!」というメッセージを送ってきた。会社を出て帰宅の車中、彼女はついでに葉にも電話をかけ、良い知らせを伝えた。「問題が起きなければ、あと数日で職場に戻れるはずよ」電話越しに葉は驚愕した。「ウソ!本当に復職できるの?白川社長の許可が下りたってこと?でもこの前は、白川社長に掛け合ってダメだったって言ってたじゃん!」彼女も長くこの会社にいたので、史弥の性格はある程度わかっていた。彼は一度決めたら変えない人間だ。悠良も隠す気はなかった。なにせ、今後の直属上司は玉巳になるのだから。「石川に話を通した
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第44話

悠良はついでに時間を確認した。この時間に伶が自分を呼び出すなんて、何の用だろうかと思いつつ、送られてきた位置情報を開いてみると、それは私邸のヴィラだった。彼に対しては、どうしてもどこか警戒心を抱いてしまう。伶という男は、時折とても複雑な思考をしているように見えるし、人をからかうのが好きなタイプだ。油断していると、いつの間にか弄ばれていることだってある。一応、念のために確認のメッセージを送ってみた。【オアシスの経営権について話し合うため?】返事はすぐに来た。けれどその内容を見て、悠良は思わず眉をひそめた。【じゃなきゃ何?恋愛相談でもしようってのか?】悠良は顔に出てしまった嫌悪感を隠す必要すら感じなかった。どうせ彼はその場にいないし、誰にも見られていないのだから。本当に、この男は何かにつけて人をからかうのをやめない。悠良は仕方なく、送られてきた住所をそのまま運転手に伝えた。車は郊外まで走って30分、ようやく目的地に到着した。もし伶が自分の母親と知り合いでなければ、本気でこの男に誘拐されたんじゃないかと疑っただろう。なにせ、辺りには人家も店もなく、まったくの無人地帯だったのだから。とはいえ、こういう人里離れた静かな場所は、いかにも伶らしいとも言える。孤独で、誰にも邪魔されず、完全に自分の世界。悠良は玄関から中へ入り、リビングへ足を踏み入れた。その瞬間、突然中から大型のドーベルマンが飛び出してきた。「きゃっ!」驚きと恐怖で、悠良はその場にへたり込んでしまった。犬は彼女の周りをぐるぐると回り、その鋭い目で彼女を上下に見定め、ついには鼻を近づけて匂いまで嗅いできた。悠良は身をこわばらせ、服の裾をぎゅっと握りしめたまま一歩も動けなかった。そこへ、ようやく伶が姿を現した。彼はゆったりした部屋着を着ており、髪の毛は濡れていて、水滴がまだ垂れている。どうやらシャワーを浴びたばかりのようだった。そのリラックスした雰囲気が、彼の持つ鋭い印象を少しだけ和らげていた。悠良は彼の姿を見るなり、まるで溺れる者が藁をも掴むような表情になった。「寒河江さん......」普段はそれほど犬が怖いわけではなかった。けれどこの犬は、どう見ても危険な大型種。がっしりした体格だけで、自分
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第45話

その毛むくじゃらの感触に、悠良は全身の産毛が逆立つほど驚き、思わずソファから跳ね上がった。そして反射的に伶の服の裾を掴んでしまう。「寒河江さん......」自分の犬をなんとかしてください!伶はまぶたを少しだけ持ち上げ、気だるそうに言った。「撫でてほしいだけだろ」悠良は思わず口を開いた。「......ほんとに?私の肉が目当てなんじゃなくて?」どうにもこの犬、今にも飛びかかってきそうで怖い。伶はコーヒーを半分ほど飲み、ソファにゆったりと背を預けながら言った。「確かに肉食だ」その一言で、悠良はビクッとなってソファの隅へと体を縮こませた。伶は彼女を横目でちらりと見てから、淡々と続けた。「が、人肉は食わないよ。何をそんなに怯えてる」悠良は彼が人をからかうのが好きなことは分かっていたが、それでもこんな大型犬となればやっぱり怖い。さっさと本題を済ませて帰りたかった。「とりあえずオアシスの件、先に話しませんか?前回お渡ししたプラン、どうですか?」「プラン自体は問題ない。ただ君は、本当に史弥にバレない自信あるのか?」伶は眉間を指で揉みながら、やや疲れた様子で尋ねた。悠良は深く息を吸い込み、落ち着いた声で答える。「バレても構いません。権利を確保した時点で、私は白川社を辞めます」その言葉に、伶は彼女を一瞥した。「筋は通ってるな」悠良はすでに全てを計算していた。「だから寒河江さんも、余計な心配はいりません。すべての責任は私が引き受けますから」「つまり、史弥と正面から決着をつける気だな」伶は、少し彼女を甘く見ていた自分に気づく。最初は、ただ母親の遺言を果たすためだけに動いているのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。今の彼女は、子どもの頃よりもずっと思慮深く、冷静で落ち着いていた。そのことは、史弥が彼女に与えてきたものが、決して「幸せ」ではなかったことを物語っていた。彼女の瞳には、もう光はない。ただ静けさと冷徹さが残っている。悠良は、自分の個人的なことを伶に多く語りたくはなかった。この男は聡すぎる。少しの情報からでも、核心を突き止めてしまう。彼女が雲城を離れる計画は、誰にも話していない。親友の葉でさえも。そう、史弥に見つからないために。「
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第46話

は?悠良は思わず口をぽかんと開けたまま、閉じることもできなかった。人を「盗め」なんて言われたの、生まれて初めてだった。いや、そもそもその言い方、どこかおかしい。彼女はもう分かっていた。伶には勝てない。この男の思考回路は常人とはまるで違う。どんな言葉でも、あいつなら必ず返してくる。「......分かりました。少し待ってください」悠良の華奢な背中が階段を上っていくのを見ながら、伶は何気なく視線を向け、彼の犬もそれにつられるように彼女を目で追った。白川社。史弥はちょうど玉巳と葉の件を話し終え、客先に向かおうとしていたところで、偶然広斗と鉢合わせた。いつもなら傲慢な態度の広斗だが、今日は少し勢いが落ちているように見えた。史弥は先日、広斗から電話で悠良と伶の関係を知らされたことを思い出す。あの時は時間がなくて問い詰められなかったが、今は違う。彼は車のドアを押し開けると、まっすぐ広斗に近づき、襟元を一気に掴んだ。顔には怒気が満ちていた。「西垣、警告する。次に悠良に手を出したら、ただじゃ済まさねえぞ」広斗は西垣家の中で甘やかされて育った。雲城でどんなトラブルを起こそうが、誰かが後始末をしてくれる。そんな環境が、今の傲慢な性格を作り上げた。だが史弥の警告にも、彼は少しも怯まず、むしろさらに挑発的な笑みを浮かべた。「は?感謝の間違いじゃねえか?俺が教えてやらなきゃ、お前、自分の嫁が寒河江と一緒にいるなんて知らなかったんだろ?」「見応えあったか?寒河江のやつ、もうとっくに悠良を抱いてるんじゃねえの?」その言葉に、史弥の胸の奥で怒りが一気に燃え上がる。唇は固く引き結ばれ、普段の冷静さはどこにもなく、額の血管が浮き上がっていた。彼は広斗の襟を強く引き寄せ、奥歯を噛みしめる。「もう一回言ってみろ!」拳を振り上げる寸前だった。だが広斗は斜めに目を細め、軽く鼻で笑って言った。「一応言っとくけどさ、俺たちの会社、今もまだ提携関係にあるよな?俺に手を出したら、その瞬間に資金引き上げるからな。お前んちの爺さんにどう説明すんの?」その一言で、史弥は拳を止めた。広斗はそれを見て、ますます皮肉を込めた笑みを浮かべた。「やっぱりお前、寒河江みたいな度胸はねえな」伶は、こっそり
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第47話

伶はソファに腰掛け、コーヒーを飲みながら悠良の企画案の問題点を指摘していた。骨ばった男の指先が資料の中のデータを示しながら言う。「この数値のまま上に提出したら、コストが高すぎるって思われる。中の経営権を取るつもりなら、白川社より安い価格を提示しなきゃダメだ。商売人にとって重要なのは利益だけだ」悠良は思わず眉をひそめた。「でもこの数値、何度も計算して出したものですよ。これ以上下げるなんて不可能」「もし俺がこの数値をもっと下げられたら、どうお礼するつもり?」伶は指先でペンをくるくると回す。悠良は、彼が回すそれさえも美しく見えるのが不思議だった。「......ご飯、ご馳走する」食事以外に、彼に渡せるものなんてない。だけど、この男は本当に抜け目がない。そもそも彼女はこの企画書を無償で渡している。ただただ「オアシス」の設計に関わりたい、それだけが彼女の望みだった。配当すら求めていない。つまり、伶はほぼタダ同然で利益を手にすることになるのだ。彼は背もたれに体を預け、両手を後ろに組み、長い脚をテーブルの上に無造作に投げ出した。「俺、『酔仙』がいいな」酔仙!?悠良は驚いた。あそこで食事をしたら、1回で軽く6桁はいく。よくそんな図々しいことが言えるなと心の中でツッコむ。もし伶にそれなりの名声がなければ、彼女は本気で「この男、実は貧乏なんじゃないか」と疑っていたところだ。でなきゃ、こんなに彼女を搾り取ろうとはしないだろう。伶は悠良の顔に浮かんだ迷いを見て、片眉を上げた。「何?金が惜しいのか?」悠良は、彼がオアシスの経営権を取れば、史弥との衝突も避けられないことを思い、これはその労をねぎらうつもりで、と自分に言い聞かせる。「いいでしょう。一週間以内なら」伶は目元を薄く持ち上げ、どこか茶化すような口調で言った。「そんなに俺に飯おごりたいのか?」悠良はその挑発に乗らず、淡々と返す。「その時ちょっと予定が詰まってて、時間取れるかわからないので」「OK、じゃあそのうち連絡するよ」悠良は時計を見て、もう遅いと感じ、急かすように言った。「で、どうやってコスト下げるのか教えてください」データが高ければ、それだけ後々の単価が上がる。誰だって利益は多く欲しい。伶は
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第48話

「別に。ただ面倒事を避けたいだけ。寒河江さんは誤解されるのが怖くないんですか?」悠良はそう言って素早く脇に身を引き、階上へ目を向けた。「上で隠すから」彼女は伶の返事も待たず、そのまま階段を上って行った。伶は止めようとせず、ただ唇を弧にしながら軽く笑った。「まるで俺たちが不倫してるみたいじゃないか」悠良の足が一瞬止まる。確かに、ちょっとそれっぽい。でも仕方がない。史弥は以前から彼女と伶の関係を疑っていた。今、彼女が伶の家にいるところを見られたら、誰だって勘ぐるに決まってる。史弥が家に入ってきたとき、ちょうど二階の部屋の扉が素早く閉じられ、何かの影が中に滑り込むのが見えた。あまりにも一瞬だったため、顔までは見えなかったが。女であることだけは確かだった。伶、女と付き合い始めたのか?女なら女で、それを隠す理由があるのか。恐らく伶は自分の登場を歓迎していないのだろう。眉を僅かに寄せて、黙って自分にコーヒーを注ぐ。「何しに来た」さっきまで怒り心頭だった史弥も、伶のそれ以上に険しい顔を見るなり、思わず怒気が引いてしまう。咳払い一つ。「先日、広斗が悠良に薬を盛った時、助けたのは寒河江社長だと聞きた。でも、なぜその時、彼女をすぐ病院に連れて行かなかった?」伶はコーヒーを注ぐ手を止め、猛禽のような目つきでじっと史弥を見た。「俺を問い詰めてるのか?」その視線に晒され、史弥の心臓が僅かに震えた。だが、この件だけは曖昧にできない。「今、外ではいろんな噂が出回ってる。だから確かめたい。あの夜、悠良は西垣に薬を盛られた。お前たちの間で......」伶はコーヒーを注ぎ終えると、カップをテーブルに置いた。落ち着いた声だったが、広いリビングにその音は妙に響いた。場の空気が一気に沈む。伶は目元を少し上げ、史弥が言いにくくて濁した部分をあっさり口にした。「要するに、俺と小林さんが寝たかどうか、あるいは俺が彼女に何かしたかどうかってことか」史弥は黙ったままだったが、否定しない=肯定。先日はあまりにも急な状況で、しかも悠良の様子もひどかったため、そこまで頭が回らなかった。だが最近、悠良と伶の距離が妙に近い。もともと知り合いですらなかったはずなのに。伶は煙草の箱から一本
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第49話

史弥は拳を固く握りしめたまま、その大柄な身体は微動だにせず、眉間には冷淡な無表情が浮かんでいた。「寒河江社長もご存じのはず。俺たちの関係上、お前は悠良に手を出すわけにはいかない」「その台詞は、まず西垣の始末をつけてから言え。それと、お前の醜聞。自分でケリつけろ。俺が爺さんに報告に行く前にな」白い煙と吐息が混じり合い、ゆらゆらと空へ昇っていく。伶の眉間には、かすかに苛立ちの色が滲んでいた。史弥は伶の性格をよく知っていた。これ以上しつこく食い下がれば、何も得られないと分かっていた。言うべきことはすべて言った。そう判断して彼は踵を返した。だが、伶の低い声が再び背後から響いた。「俺はお前みたいなクズと違う。既婚者の女には手を出さない。これが俺の一線だ」その言葉を聞いた瞬間、史弥の強張っていた肩が少し緩んだ。伶があれだけはっきり言うということは、実際に何もしていない証拠だ。車はすぐにアパートから走り去った。伶は軽蔑の眼差しで視線を引き戻し、仰ぎ見るように二階の閉じたドアを見やった。「もう出ていいよ」悠良は扉を開け、青ざめた顔で立っていた。ぎこちない足取りで階段を下りてくる。伶はちらりと彼女を見て言った。「全部聞いた?」「うん」悠良は機械的にうなずいた。さっきまで元気そうだった彼女が、今では覇気がなくなっている。伶はその変わりように、思わず苛立ちを覚えた。「ずっと聞こえないままでいいのにな」そんな罵声なんか、聞かなくて済む。悠良はまさか史弥が自分から伶の元に出向いて、あの夜のことを問い詰めるとは思っていなかった。そして、伶の言葉はどれも的を射ていて、胸の奥にズシリと刺さった。史弥が急に来たのは、きっと広斗から何かを聞いたのだろう。だが、なぜその広斗を問い詰めるより先に、伶を責めに来たのか。薬を盛ったのは広斗であって、伶ではない。もし薬を盛られたのが玉巳だったら、史弥は今みたいに軽く済ませただろうか?......きっとそんなことはない。悠良の口内には苦味が広がり、まるで崖から落ちたような強烈な虚脱感に襲われた。それでも、もう以前のようにショックを受けることはなかった。ただ、可笑しくなっただけだった。史弥は、どこまでいっても自分の想像を下回
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第50話

伶は悠良に向かって親指を立て、わざと真面目な口調で言った。「いや?むしろ今の方が偉いよ。自尊心はあった方がいい」その真剣そうな顔と裏腹に、喉の奥から漏れる抑えきれないくぐもった笑い声に、悠良は思わず苦笑いした。褒められてるのか、それとも皮肉られてるのか、判別がつかない。彼女は努めて明るく手を振った。「では、先に失礼します」歩き出そうと足を出しかけたそのとき、何かに引っ張られる感覚がして、彼女は足を止めた。二度ほど引いても足が動かず、不思議に思って下を見た。犬がスカートの裾をくわえていた。悠良は困惑して伶に問いかけた。「......これ、どういう意味?」「たぶん......名残惜しいんじゃないか?」伶の口元がゆるんだ。この犬、空気が読めるじゃないか。悠良の目に映るその犬は、さっきよりずっと柔らかい目をしていて、水を湛えた瞳でこちらを見つめてくる。まるで情に厚い男のようだった。とはいえ、さすがに彼女もこの猛々しい生き物と正面からやり合う度胸はない。何度か試してみてもダメで、ついに伶に助けを求めた。「ちょっと......引き離してくれない?」伶は腕を組み、芝居でも見ているかのように傍観したまま、困ったように言った。「無理だな。こいつ、ちょっと反骨精神あるからな。無理に引き離そうとすればするほど、逆に離さない。こいつと交渉する方をおすすめするよ」「交渉って......」悠良は一瞬固まってから、ようやく意味が分かって口を開いた。「犬相手に何を交渉すればいいんですか」「『今度おやつ持ってくるから、離してください』とか?」伶は真顔で、犬の機嫌の取り方を教え始めた。悠良は心の中でわかっていた。今日が伶のところに来る最後の日だ。もう二度と来ないし、犬にエサを持ってくるなんてあり得ない。っていうか、伶の方が本物の犬に似てる。とはいえ、ここを早く出たい一心で、悠良は仕方なく腰をかがめ、犬に向かって宥めるように言った。「お願い、離して?あとでお肉、持ってくるから。豚肉......ソーセージはどう?」犬がそれを聞き取ったのかどうかは分からないが、尻尾を振りながらうるうるした目で彼女を見つめてきた。悠良は一瞬、この犬は食べ物を欲しがってるんじゃなくて、自分自身を食
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