All Chapters of 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

史弥は今、かつて悠良に向けていた態度を、ほかの女に向けている。その事実は、ただ虚しかった。悠良は顔色ひとつ変えずに席に座り、残っている計画書に淡々と手を入れていた。「オアシスプロジェクトは私が契約したわけでもなければ、私が担当していたわけでもない。私が外れるほうが筋が通ってるのよ」葉は納得がいかない様子で口を尖らせ、代わりに憤った。「それなら最初から入れなきゃいいのに、今さら追い出すなんて......外でどんな風に噂されるかわかってるでしょうに」「葉、一つ頼まれてくれる?」悠良は恨み言を口にするような人間ではない。どんな状況でもまず考えるのは解決策だった。終盤に差しかかった計画書をきちんと仕上げるまでは、気を抜けない。葉は当然、悠良が何を考えているかなど知る由もなかったが、手伝いが必要と言われれば力になりたい気持ちはあった。「言ってよ、遠慮なんかいらない。あなたがいなかったら、私今頃会社に戻れてなかったんだから」「今から会議室に行って史弥に提案してきてほしいの。史弥本人から寒河江社長に電話をかけさせるように勧めるのよ。内容は、二社間でチームビルディングを兼ねた交流会を開きたい、と伝えること。このプロジェクトの推進に役立つし、外で噂してる人たちの口も塞げるから、これはオアシスプロジェクトにとってプラスになるってね」それを聞いて葉は怯えた。「え......私みたいなただの一般社員がそんなこと提案するなんて......火の中に飛び込めって言ってるようなもんじゃない?」「白川社長と寒河江社長がどんな関係か、私もよく知ってる。あの二人は水と油でしょ?」悠良は落ち着き払った声で答えた。「大丈夫よ。史弥は感情に流されるような人じゃないから。この提案は会社とプロジェクトのためになるって、きっとわかってるはず。二社がいがみ合ったままだと計画は遅れるだけだし、それは彼も望んでないわ」冷静な悠良の態度に、葉はつい感心してしまった。ほかの女だったら、今の状況に激昂するだけだろうに、悠良は淡々と打開策を練っている。「さすがね......やっぱり私、ついてきてよかった」そう言って葉は唇をきつく結び、頷いた。「わかった、任せて。行ってくるよ」「ありがとう。いい知らせ待ってるわ」葉はまるで決死の覚悟を決
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第62話

悠良は葉に水を入れてあげ、座らせて少し休ませた。葉は気持ちが落ち着いてから悠良に言った。「白川社長は私の提案を受け入れてくれたよ。もう株主たちからも同意を取ったみたい」その言葉に悠良は長い息を吐き、ほっと肩の力を抜いた。史弥も追い詰められていたのだろうと心の中で納得する。そうでなければ、普段あれほど険悪な態度で接していた伶と、こんなにあっさり妥協するはずがない。なにせ、史弥にはもう後がなかった。今期の儲かるプロジェクトはほとんど伶に取られてしまい、白川社が手にしているのは細かい利益程度で、かろうじて会社が回るだけだった。それに悠良が契約した二件のプロジェクトも、今となっては伶から奪ったものである可能性が濃厚だった。「よかった......私、明日一日休みを取って家に戻るつもり」葉はそれを聞いて顔色を変えた。「え、あの家に?でも、なんで......もう長いこと帰ってなかったんじゃない?あの継母はきついし、お爺さんも妹ばかり可愛がるし......」葉は悠良の家庭事情にある程度詳しい。その家には母親だけが悠良を愛していて、父親は継母に気を使って表立って悠良をかばえない状況だったことも知っていた。祖父に至ってはなおさらだった。あんなことがあってからどれだけ年月が過ぎたかわからないが、悪いのは悠良ではなかったはずだし、あのときまだ幼かったから仕方なかったことだった。もちろん、悠良はこの計画から離れることは口にしなかった。ただ葉の肩を優しく叩いて笑った。「大丈夫よ。ただちょっと顔を出すだけ。明日は父の誕生日だしね」葉は心配そうに問いかける。「白川社長も一緒に行かなくていいの?あの人が一緒にいれば家族も少しは遠慮すると思うけど」「いいのよ、最近は史弥もオアシスプロジェクトで忙しそうだから。面倒事をかけたくないわ」今頃、史弥は玉巳のことで頭がいっぱいのはずだった。玉巳のせいでオアシスプロジェクトに大きな問題が出たのだから、どれほど守ろうとしても無理があるだろうと悠良は考えた。葉は悠良の手を握り、真剣な顔で言った。「悠良は本当にいい人ね。白川社長も幸せだね」悠良は自嘲するように口元をわずかに持ち上げた。「そうかしら?」ただ、史弥本人はそう思っていないのかもしれない。そのこ
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第63話

史弥はさっきあの老狐どもと駆け引きしてきたばかりで、今はもう精神的にぐったりしていた。それにしても悠良がこれほど自分に面子をくれないとは思わなかった。これまで仕事に関して頼み事をすれば、悠良はどんなときでも断ることはなかったからだ。史弥は手を伸ばして彼女の肩をつかみ、じっと我慢するように手振りで伝えた。[悠良、さっきはあの株主たちと芝居をしただけなんだ。気にするな。あいつらのことも知ってるだろ?俺がきっぱり出ないと、どんなことを言い出すかわからないからさ]悠良は何も言わなかった。史弥は腰をかがめて顔を覗き込むように続ける。[君が断ると、あの株主たちはきっと警告する。その警告が出たら玉巳にとっては経歴に傷が付くことになる]それを聞いた悠良は冷たい目で史弥を横目に見た。「それと私に、何か関係がある?」その一言で空気が張り詰めた。史弥の顔色も険しくなり、玉巳の表情も冴えなかった。玉巳はきりりとした顔立ちに潤んだ目を見せ、まるで驚いた小鹿のように可憐さを漂わせた。「悠良さん......さっきは私が失言したせいでこんな大きな誤解を生んでしまって......きっと私に怒ってるんですね」悠良は冷淡な態度でまぶた一つ動かさなかった。「石川ディレクターが気にすることはないわ。私が断る理由は単に、そのプロジェクトはあなたが担当してるから、それに私には横取りするつもりなんかないからよ。それに、最近体調がよくないから、病院に行くために休みが必要かもしれないし......これ以上業務に支障を出したくないだけ」史弥はそれを聞いてとたんに心配そうな顔つきに変わり、手で急かすように尋ねる。[え、どこが具合悪いんだ?俺が病院に連れて行こうか?]悠良も特に隠すつもりはなかった。「最近ちょっと息苦しくて」[息ができないのか?]「ええ、ちょっと呼吸がしづらくて。肺に何かあるのかも。この部屋も埃がひどいし」そう言って悠良は無意識にオフィスを見やり、手をひらひらと振って軽く咳き込んだ。[ごめん、俺が気がつかなかった。君が埃に弱いことも忘れてた。後で部屋を変えさせるから]そのときの史弥の態度は会議室にいたときとはまるで別人だった。悠良に対する視線は柔らかく、まるで気遣いに満ちていた。それでも悠良は心を動かさず
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第64話

玉巳はそれを聞いて、ぱっと顔が曇った。か細い声で、まるで蚊の羽音のように悠良に訴えかける。「ゆ......悠良さんは寒河江社長と知り合いなんでしょう?悠良さんから寒河江社長に電話するだけで済む話じゃ......?私にはとてもそんなこと......」そう言いながら、玉巳はまたかわいそうな顔をして史弥のスーツの裾をきゅっとつかんだ。「史弥、私の代わりに悠良さんに言ってもらえない?前に悠良さんは人がいいって言ってたじゃない」史弥は玉巳のうさぎみたいに赤くなった目を見て、優しくなだめるように声をかけた。「心配するな。悠良のことは俺が一番よく知ってる。きっと引き受けてくれるさ。普段から街で見かける物乞いにさえ小銭を渡すくらいなんだから、ましてや君が頼むことならなおさらだよ」その言葉に玉巳はほっと息をつき、胸に手を当てる。「ならよかった。悠良さんはそんな冷たい人じゃないって私もわかってたんだ」悠良は冷たいまなざしで細めた目を向けた。史弥は振り返り、まるで当然とばかりに告げる。[悠良、君と寒河江社長は知り合いなんだろ?前に助けてもらったこともあるし。食事に誘う口実でも作って、きっと上手くいく]疑問形ではなく、言い切りだった。悠良は、今となってはその言葉に冷たい笑みさえこみ上げる。少し前には「伶とは距離を置け」と言ってきたのは史弥本人だった。それが今では玉巳のために、自分から接触させようとするとは。七年間愛してきた男だった。あのときは、もうすぐ子どもでももうけようかと考えていたくらいだったのに。今となっては、ただの馬鹿げた妄想だった。それでも悠良はその感情を隠し、従順にうなずいて答えた。「やってみるよ」玉巳はぱっと顔を輝かせ、悠良の手をとる。その顔には薄いメイクにほのかなチークが差してあり、一層愛らしさが増していた。「本当にありがとう、悠良さん!もし寒河江社長とアポが取れたら、史弥と一緒にごちそうするよ!」その言葉に、悠良の口元が一瞬こわばる。玉巳は無意識に言ったのか、それともわざと含みを持たせていたのか。まるで、自分と史弥は一心同体で、悠良はただの部外者とでも言いたげだった。史弥もその言い方に違和感を覚えたらしく、軽く咳払いをし、手振りで悠良に促す。[それじゃ、あとで杉森に
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第65話

唐突にどう返信すべきかわからなくなった。自分と伶はそれほど親しくないから、いきなり相手に「何をしてます?」と聞くわけにもいかない。悠良は少し考え込み、それからスマホに向かってこそこそと文字を打った。【大切な用件があり、ご相談させていただきたいです】再三確認して、本当にこれでいいかと確認してから送信する。けれど、送った後にはそれ以上何の反応もなかった。これ以上しつこく送るのも気が引ける。本当に忙しいのかもしれないし、再三送ったら相手にとってただの迷惑にしかならないだろう。伶はそんなにお人よしな相手でもない。悠良はとりあえずその件は一度置いておき、自分の荷物を新しいデスクに移すことにした。玉巳もまた、会社の株主たちから圧力を受けていたせいか、自分が大きな厄介ごとを引き起こしたと自覚していたのだろう。その午後はほとんどLSに駆け込んでいた。玉巳が戻ってきた頃には、悠良はちょうど荷物を片付け終わったところだった。玉巳は顔を赤らめ、眉根をぎゅっと寄せて風のように駆け込んできた。その様子から、思った通り良い返事はもらえなかったのだろうとわかる。玉巳は悠良を見るなり、まるで救いの綱でも見つけたかのように歩み寄り、その手をぎゅっと握った。そして、甘えたようなかわいらしい声で問いかける。「悠良さん、寒河江社長にはもう連絡取ってくれましたか?受けてもらえそう?」「まだ返信がないわ」悠良はあっさりと答えた。その言葉に玉巳は落胆したように手を離し、ぷくりと頬を膨らませる。「悠良さんはもしかして、私を手伝いたくない、とか......?」悠良はその問いに戸惑って、首を傾げる。「どういう意味?」と聞き返した。玉巳は顔色を曇らせてうつむきがちに言い募る。「悠良さん、前に史弥がディレクターのポジションを私に任せたから、気分を害されたんじゃないかって。それに席のことも......もし前の席に戻りたいなら、譲ってもいいよ。職場ではいろいろ複雑な駆け引きがあるでしょう?私、そういうの苦手だから、もし私がうっかり悠良さんを怒らせちゃったらごめんね。本当に悪気はなかったの」玉巳は何度も頭を下げて謝る。その様子に、周りにいた同僚たちは奇妙な視線を悠良に向け始めた。まるで悠良が玉巳をいじめているように、
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第66話

悠良はそのまま会社を出て、商業施設に向かった。史弥が自分で一緒に行くと言っていたこともあり、一応尊重してメッセージを送る。【今空いてる?なければ、私一人で行くから大丈夫】史弥からはすぐに返信が来た。【こっちはまだ会議が終わってない。先に行っていいよ。お義父さんへのプレゼントなら俺のカードを使って】その言葉を見て、悠良は薄く笑った。きっと来る時間なんてないのだろうとわかっていたから、特に期待もしていなかった。悠良と家族の関係はもともと良いとは言えない。その中でかろうじて父親だけは少し気にかけてくれていた程度で、他のみんなからは厄介者扱いだったくらいだ。それでも、もう二度と会えないかもしれないからと、せめて一通りの贈り物は選んでおくことにする。買い物を終えても史弥からは追加の連絡もなく、まだ時間が早かったので、自分の服もいくつか選び、支払いには史弥のカードを使った。仕方がない。玉巳に服をあれこれ触られてしまったせいで、自分の手元にはほとんど服が残っていないし、潔癖気味な自分は他人が触れたものにはもう手を通したくない。その頃、史弥はまだ玉巳をなだめていた。伶にアポが取れないからと、玉巳は気が気でない様子だった。目を赤く腫らし、涙ぐみながら史弥にすがりつく。「史弥、どうしたらいいか教えてよ。悠良さんに頼んでもまだ取れてないって......悠良さんは寒河江社長といい関係なんでしょ?あのA8に乗ってたくらいなんだから」史弥は眉間にしわを寄せ、玉巳が何を言っているか半分も耳に入らないままだった。視線はスマホに向かっていた。はじめは見間違いかと思ったが、よく見ればそれは間違いなく1000万円だった。玉巳は相変わらず腕にしがみつき、甘えたように声を落とす。「史弥......」「ちょっと待って。今メッセージ送るから」史弥は手早く悠良にメッセージを送る。【悠良、さっきカード使ったのは君か?買い物?】メッセージを見た悠良は、口元に冷たい笑みを浮かべた。やっぱり、どんなに忙しそうにしていても、自分に関心がなくなったわけじゃない。返信する余裕くらいはあるらしい。【ええ。この間ほとんど服を処分したから、新しい服が必要だったの。それに父さん一人にだけ買うのも気が引けるから、ついでに家族みんな
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第67話

玉巳は小さな声で頷いたが、その声にはどこか判別しがたい感情が入り混じっていた。史弥は薄い唇をきゅっと結び、その底知れぬ深い瞳にはさらに奥行きが増す。すると玉巳は、ふと何かを思い出したように顔を上げた。「史弥、私のノートパソコン、最近よくフリーズするの。ちょっと史弥のを貸してくれない?」史弥は困ったような表情を浮かべる。「俺のノートパソコンには資料がたくさん入ってる。それに、一日二日じゃないだろ?それなら新しいのを買った方が早い」「でもまだ給料が出てなくて......」玉巳は俯き、指先を落ち着きなく絡ませる。史弥は手にしていた書類を閉じる。「それなら簡単だ。型番か言ってくれ。俺が買ってあげるよ。仕事への励ましだと思って」「本当?でもそのノートパソコン、ちょっと高くて、十数万円するの......」玉巳は羞じらいながらも、その目には期待が覗いていた。「じゃあ、今から商業施設に行って見てみようか」史弥は立ち上がり、椅子に掛けていた上着を取って玉巳と一緒にオフィスを出た。悠良は荷物を手にエレベーターに向かおうとしたとき、視界に二人の見慣れた姿が飛び込んできた。すらりとした体躯にグレーのスーツをまとった男と、その傍に寄り添う白いプリーツスカートの女性。その普通の半袖からは若々しさが溢れていて、いたずらっぽく笑みを浮かべる横顔が眩しかった。活気のある人間は誰にとっても魅力的だ。史弥も例外ではない。悠良はただ静かにエスカレーターから二人を見下ろした。史弥は今、玉巳に付き添ってノートパソコンを買いに来ているらしい。年長者への贈り物には時間が取れなかったのに、若い女の子にはこうして買い物に付き合うことができるのか、と苦い思いが一瞬過ぎる。ノートパソコンの色を選びながら楽しそうに話す玉巳が、ふと視線に気づき辺りを見回し、二階に立つ悠良に目を留めた。その顔に一瞬の驚きが走り、それから甘えるように笑顔を見せる。さらに玉巳は史弥の上着の裾をきゅっと引き、悠良が見ていることを伝えたらしい。史弥もまた、視線をこちらに向ける。その顔には一瞬だけ動揺が滲んで見えたが、それもすぐに消え、落ち着きを取り戻す。すでに気づかれてしまった以上、知らぬふりもできない。悠良は手すりに手をかけてエスカレータ
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第68話

その場の空気が突然微妙なものに変わった。悠良は少し黙り込み、それからようやく冷静な声で問いかけた。「白川社長は本当に部下にお優しいだね。一緒に買い物に付き添うだけじゃなくて、ノートパソコンまでプレゼントするなんて」史弥はふっと鼻で笑い、整った顔に感情の動きは見られなかった。「新人にはそれなりに励ましも必要なだけさ。今はディレクターだろ?取引先に出向いてボロボロのノートパソコンなんて持たせるわけにはいかない。それは会社の面子に関わるからな」悠良は視線を落とし、目に宿った感情を隠す。「私のノートパソコンもだいぶ使い込んでるのよ。せっかくだから、石川ディレクターが今日買うついでに一緒に買おうかな。もしかしたら割引もあるかもしれないし」そう言って、店員に顔を向ける。「すみません、二台買ったら割引はありますか?」思わぬ申し出に店員は驚きつつも、勢いよく頷いた。「ええ、ええ!もちろん割引ございますよ!色はどちらにいたしましょう」悠良は玉巳の前に置かれたピンクのノートパソコンに一瞥をくれる。その色合いは、いかにも年若い女の子にふさ私い。それから右端にある一台を指さした。「白がいいです。それ、包んでください。こちらの方と一緒に会計をお願いしますね」その言葉に店員はちらりと史弥に視線を送った。その目には好奇心と探るような色が隠せていない。外で働いている人間はそれなりに人間関係に通じているものだ。この三人には何かただならぬ雰囲気が漂っている。それでも店員はにこやかに二台を包み、手際よく準備を進めた。支払いの場面では、史弥がカードを出し、玉巳と悠良はその左右に立つ。悠良は横目で史弥を見やり、どこか探るように問いかけた。「史弥、顔色があまりよくないみたいだけど、体調が悪いの?」史弥は一瞬ぼんやりした後、すぐに取り繕ったように淡々と答えた。「いや、今日の会議が長引いて少し疲れただけだ」「それならいいけど。一瞬、石川ディレクターと私に一台ずつノートパソコンを買って出費が痛かったのかと思ったわ。まあ、私も今はただの社員だから、そんなにいいノートパソコンは必要ないんだけどね」悠良は申し訳なさげな口調に、ほんのりと憂いをにじませる。史弥はカードをしまい、財布をポケットに戻す。[欲しいものが
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第69話

史弥は、これ以上この場で無駄に時間を費やすつもりはないようだった。玉巳はもう一度悠良に目をやると、軽くうなずき、助手席のドアを開けて乗り込んだ。悠良はその場に立ち尽くし、張りつめていた神経が一気にほどけていくのを感じた。しばらくしてから、ゆっくりと我に返り、後部座席のドアを開けて腰を下ろす。なぜか無性に胸がつかえたように息が詰まり、気分が重苦しくなった。ちょうどそのとき、玉巳が史弥に話しかけた。「史弥、私を空港まで送ってくれる?お母さんが雲城に来ることになって、本当はタクシーで行こうと思ってたんだけど、まさか今日一緒に買い物に付き合ってもらえるとは思わなくて」「いいよ、通り道だからな」悠良は指先が白くなるほどぎゅっとこぶしを握りしめ、唇も青ざめていた。史弥は、こちらに目を向けることもなく、ましてや後の予定があるかどうかを聞こうともしない。まるで車に乗せられているだけの、透明人間にでもなった気分だった。玉巳はそのとき振り向き、悠良に向かって手振りを交えて言った。「悠良さん、ごめんなさいね。お母さんが雲城に来るから、今からタクシーじゃ間に合わなくて......もし不都合だったら、先にタクシーで帰ってくれてもいいよ?」悠良はもちろん、二人と狭い車内に一緒にいる気はなかった。「前の交差点で降ろしてくれる?ちょっと具合がよくないから、このままタクシーで病院に行くわ。荷物はそのまま車に置いていっていい?」史弥はそれを聞き、バックミラー越しに後部座席に座る悠良を見やる。「具合が悪いのか?それなら、俺が彼女の母親を迎えに行った後に病院に送ろうか?その間どこかのカフェで待っていてくれないか?」悠良は、もう待つ気力さえ残っていなかった。今この場にいてさえ、息苦しさに胸が締めつけられ、心臓の鼓動が乱れていくのをはっきりと感じる。もしこのまま放っておいたら、病院にたどり着く前に倒れてしまいそうだった。彼女は胸元を押さえ、かすかに震えた声で答えた。「いい。先にタクシーで行くから......後から来てくれたらいいわ」「わかった」悠良はその言葉に胸が鈍く痛むのを感じた。以前の史弥だったら、どんなに忙しくても、どんなに小さな体調の変化にさえ気づき、すぐに病院に連れて行ってくれたものだった。それが今で
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第70話

ほかの女性だったら、きっと伶のその挑発的な態度と低く響くいい声に一瞬で骨抜きにされただろう。でも、それは自分には絶対にありえないことだった。悠良にはそれなりの自覚がある。もし今ここで調子に乗せられてしまったら、後で必ず盛大にからかわれるに違いない。伶は趣味が悪い。普通の人間が気軽に近づいていい相手じゃなかった。悠良は今日返信がきたときのことを思い出し、無理やり体を支えながらぎこちなく笑みを浮かべる。「最近は忙しいって、寒河江さん言ってたじゃないですか」伶はタバコケースから一本取り出し、くわえたままぼんやりと答えた。「確かに忙しいよ。でもちょっと用事があって出てきたら、運悪くかわいそうなやつに出くわしただけだ」悠良はもう呼吸が苦しくてたまらなかった。顔色どころか唇まで真っ白になっている。そのまま乾いた笑みを浮かべた。「またお願いすることになるけど......病院まで送っていただけますか?それか救急車呼んでくれてもいいです。気を失っても放っておいていいから」その声は驚くほど冷静だった。伶は気だるそうに目を向けると、小さく笑った。「それ、俺に罠を仕掛けるてる?後で俺がネットで炎上するように?」悠良はぎゅっと唇を引き結び、否定した。「そんなつもりはありません」今こんな状態で伶に罠を仕掛ける気力なんてあるはずもないし、それに頭の切れるこの男を罠にかけるなんて、自分には到底できるはずもない。そう言った矢先、悠良は足に力が入らなくなり、するりと崩れ落ちた。その瞬間、伶が素早く腰に手を回して体を支えた。悠良は必死に目を開け、伶の輪郭のはっきりした顔を見上げた。今日の彼は黒いマウンテンパーカーを着ていて、一層鋭さが増して見えた。伶は口角を引き上げると、低い声で言った。「また一つ貸しができたな」そのまま体を抱え上げ、助手席に乗せようとしたとき、悠良はふと声をかけた。「寒河江さん......噂の話だと、この車、普通の人は乗せないんですか?」伶は笑みをこぼした。「そうだけど?もしかして、そのせいで乗るのが怖くなった?」「ええ」悠良は迷いなく答えた。どんな理由にせよ、自分が白川社の社員であろうと、史弥の妻であろうと、伶とこれ以上関わるべきじゃなかった。後でまた変
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