Tous les chapitres de : Chapitre 821 - Chapitre 830

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第821話

このタイミングで正雄が出てきて、ちょうど史弥が不妊だと知った瞬間だった。思わず足元がふらつく。全身が震え、声までわずかに掠れていた。「お、お前たち......今、なんと?」その場にいた誰も口を開かない。年齢を考えれば、この衝撃に耐えられるかどうか分からないからだ。正雄はそのまま史弥の前まで歩み寄ると、両手で彼の胸ぐらを掴んだ。「史弥......言え。さっきの話はどういう意味だ。子どもを作れないって、どういうことだ。今までずっと彼女のせいだと言ってたじゃないか!」史弥はうつむいたまま、恥ずかしさと動揺で顔を上げられない。「お、俺にも......よく分からないんだ」正雄は天を仰ぎ、苦痛に満ちた叫びをあげる。「どうしてこんなことが、お前に......これが白川家への天罰だというのか!」そう言い終わるや否や、彼の目が見開かれ、全身が硬直したようにその場で崩れ落ちた。あまりに突然の出来事で、その場の誰もすぐには動けなかった。最初に反応したのは伶だった。すぐさま悠良に叫ぶ。「救急車を呼べ!」その声でようやく我に返った悠良は、慌てて電話をかける。救急車はすぐに到着し、正雄は運び出された。玉巳と史弥も後を追ったが、ふたりとも魂の抜けたような顔で、正直ついて行っても役に立ちそうにない。悠良はふと、これは逆に二人の関係を和らげるチャンスかもしれないと思った。彼女は伶の背中を軽く叩く。「何ぼさっとしてるの、早く行って」「俺が?白川と石川がいるだろ」「あの二人の有様見てよ。それに、人の命が関わってるんだから、寒河江さんも行きなさい」そう言って、悠良は伶の背中を押して出口へ向かわせる。それでも彼は悠良のほうを気にした。「君はどうする」そのとき、葉がすっと横から出てきて、自信ありげに胸を叩いた。「寒河江社長、こっちは任せて。あとで律樹も来るし、今日やることはほぼ終わってる。葬儀は明日で、今日は弔問客の対応だけだから」伶はそれでようやく納得する。「じゃあ様子見てくる。問題なければすぐ戻るから」「はいはい、早く行って。村雨さんも一緒に。道中なにかあっても二人なら安心でしょ」悠良は、彼が道中も正雄のことで気を揉むのではと気遣ってそう言った。光紀とともに伶は出て行き、
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第822話

悠良はそれを聞いても表情ひとつ変えず、ただおかしくなっただけだった。やっぱり宏昌が自分を嫌うのは、自分が小林家の娘かどうかなんて関係なかったのだ。以前はまだ娘じゃなかったから嫌われても理由はあったし、自分でも納得できた。けど後になって自分も小林家の娘だと分かったあとでの宏昌の態度はどうだったかと言えば、やっぱり嫌っていた。そこから先、悠良は完全に失望した。だから今、宏昌の言葉を聞いても特に感情は湧かない。失望のあとに残ったのは、湖のような静けさだけだ。どうせ宏昌が何を言うつもりかなんて、口を開かなくても分かっている。悠良は冷笑して声を出した。「おじいさま、今回ばかりは私のせいにしないでくださいよ。外の人たち、みんな見てますから。自分から寒河江さんのところへ行って、私のことでデマまで流したのは莉子ですよ。史弥への未練がどうとか言ってましたけど、会社の粉飾決算の件、見えてないんじゃなくて見えてないフリですよね?お父さんが亡くなったのも、ある意味タイミングよかった。あの体じゃ、たとえ亡くならなくても、会社はいずれ莉子に食い潰されてましたから」宏昌は怒りで、ほとんど言葉も出なくなった。「お前......」「何か間違ってます?その様子じゃ、莉子が会社で何やってるか分かってるんでしょう?会社全体をあの子の遊び場みたいにさせておいて、本当に孫娘が可愛いんですね。もうすぐまた逮捕されるんですけど、おじいさまはまた全財産投げて助け出すつもりですか?」宏昌は震える手で悠良を指差し、顔は紙のように青ざめ、唇は震えっぱなしで、一言も出てこない。悠良は相手が受け入れられるかなんて気にもしない。自分は聖人じゃないし、他人が自分を人として扱わないのに、自分だけ遠慮する必要もない。「莉子が出られたのは、もともと私が父と交わした約束があったからです。今回も助けたいなら、寒河江さんに頼むしかないかもしれません」それでも宏昌は最後の望みにすがっていた。「寒河江はお前の彼氏だ。お前が口を開きさえすれば、断るはずがない......」「すみません、私にそこまでの力はありませんよ。寒河江さんをどうこうできるほど」悠良は、宏昌に話を自分へ振られるのを恐れて、さっと言葉を遮った。宏昌の顔は怒りで真っ赤になる。「つまり、お
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第823話

悠良は外へ出て、角を曲がったところで焦っている葉の姿を見つけた。葉も振り向いて悠良を見つけると、慌てて駆け寄る。「どうだった?言い合いになってないよね?」「言うべきことをはっきり伝えただけよ。あれを口論だと思うなら、もう言うことはないよ」どうせもう、これ以上損をするつもりはない。葉は悠良が言い負かされる心配はしていない。もともとそういうタイプじゃない。ただ、勢いが強すぎて宏昌を病院送りにでもしないかが怖かった。そんなことになったら小林家の大罪人になってしまう。「無事ならいいけど」悠良はぼそっと呟く。「寒河江さんのほうは、どうなってるんだろ」......その頃、病院では正雄がすでに手術室で救急処置を受けていた。史弥と玉巳はドアの前に立ち、二人とも動揺を隠せない表情をしている。玉巳は何度も手で涙を拭い、低くすすり泣いていた。史弥自身、まだ自分が不妊だと知ったショックから抜け出せていない。横で玉巳が泣き続けるのを聞かされて、堪忍袋の緒が切れた。その場で玉巳に怒鳴りつける。「何年経ってもそれしかできないのか!何かあればすぐに泣く!」玉巳はいきなり怒鳴られて一瞬固まったが、そのあと余計に泣き出した。涙はまるで糸の切れた数珠みたいにボロボロ落ちる。「好きで泣いてると思う!?史弥があんな大勢の前で話すんだから、おじいさんは気絶したんじゃない!」「黙れ!」史弥は目を真っ赤にし、玉巳の鼻先を指す。「お前があんな汚い真似をしなければ、俺があそこでキレるか!玉巳、口では愛してるって言ってるが、これがその結果か!」「私が愛してないって言うの!?私の人生全部あんたに賭けたのよ!それであんたは?頭の中も心の中も、ずっと悠良ばっかり!」玉巳もカッとなり、声が一気に大きくなる。二人は手術室の前で言い争いを始めた。そのとき、伶が低く怒鳴る。「喧嘩するなら外でやれ。ここは病院だ」彼の目は鷹のように鋭く、玉巳と史弥を一瞥しただけで、口を挟ませない圧が全身から放たれる。その瞬間、廊下の空気すら固まったようだった。二人は本当に黙り込んだ。互いに一言も口を利かないまま。手術は二時間続いた。二人は長椅子に並んで座り、史弥はますます苛立ちが募る。横を向いて玉巳に訊いた。
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第824話

彼女は取り乱した声で叫んだ。「なんで離婚なのよ!離婚したくない!どうせもう子どももいなくなったんだし、全部なかったことにできないの?それに、史弥の心の中にはずっと悠良がいる。これでおあいこでしょ?」史弥はその言葉を聞いた瞬間、まるで滑稽な冗談でも耳にしたみたいな表情になった。「今、なんて?」鼻で笑って続ける。「白川家を何だと思ってる。誰でも入れる場所だとでも?今日小林家の人間が全員そろってたんだぞ。あれだけの人が、俺が子どもを作れないってことも、お前が浮気したことも知ったんだ。それで、何事もなかったみたいに前みたいに戻れると思うのか?」玉巳は一気にうろたえ、涙がぼろぼろ落ちる。彼の腕にすがりつき、必死に懇願する。「でも私、本当に史弥を愛してるのよ。愛してなかったら、やけ酒なんてする?やけ酒しなかったら、あんなことにもならなかったのに!」ある意味、もし他の男と寝ることがなければ、一生、彼が不妊だなんて知らずに済んだかもしれない。白川家の性格からして、その責任は丸ごと自分に押し付けられるのは目に見えてる。これから先、背中で何を言われるか分かったもんじゃない。史弥はその言葉を聞き、あからさまに苛立った顔になる。「もうやめろ。聞いてるだけで反吐が出るんだよ。ここまで崩壊しておいて、まだ俺たちの間に『愛情』があるとでも?無理に一緒にいて、一体何の意味がある」玉巳は、その目に宿る決意を読み取った。彼は本気で離婚を望んでいる。ただの怒りで口走ったわけじゃない。彼女はもう頼み込むのをやめ、椅子から立ち上がり、逆に怒りをぶつける。「史弥の企み、私が気づいてないと思ってるの?前から離婚したがってたんでしょ?離婚して悠良と一緒になりたいでしょ!」史弥は突然怒鳴り返す。「ふざけんな!いつ俺が悠良と一緒になるなんて言った!言葉に気をつけろ。これは俺たち二人の問題だ、話を混ぜるな!」そう言ったあと、彼はそっと伶のほうに視線を向けた。伶は少し離れたところで、無言のままスマホをいじり、誰かとメッセージをしているようで、こちらには興味も示していないように見える。史弥は内心ほっと息をつく。もし伶に聞かれていたら、また荒れ狂うに決まっている。今の彼は悠良を命みたいに大事にしているのだから。それ
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第825話

伶は眉間を揉みながら手を上げ、低く響く声で言った。その声音には怒気がなくとも圧がある。「君はひとつ勘違いしている」その声に押されるようにして、玉巳は反射的に眉をひそめ、ぎこちなく振り返る。「どういう意味?」「白川が悠良をまだ好きだとして、それで悠良が彼と一緒になるとでも思ってるのか?石川さん、よくそんな自信満々に言えるな」伶の目元は陰りを帯び、唇の端には嘲るような笑みが浮かぶ。「忘れるな。悠良は今、俺の彼女だ。これから先も白川の女になることはない。だからそんな話自体が無意味だ」その鋭い眼光に触れた瞬間、玉巳の肩がびくっと震えた。圧倒的な気迫に、背中まで冷たくなる。ぎこちなく口元を引きつらせる。「は、はい......分かりました、叔父さん」「それと、どうせもうすぐ離婚するんだ。俺のことは寒河江社長と呼べ。もう『叔父さん』なんて呼ぶな。白川家が不倫女を嫁にもらったこと、相当な恥だからな」玉巳の顔は一気に真っ赤になり、数秒後、史弥を指差して言い返す。「彼だって昔、不倫したじゃない!」伶は鼻で笑い、あからさまに馬鹿にした口調で言う。「そりゃあ、お似合いってことだな。そういう人間同士だからくっついたんだろ」これは史弥もまとめて貶した形だ。つまり玉巳の浮気は、史弥の報いでもある――そんな含みすらあった。類は友を呼ぶということだ。史弥は反論もできず、ただ頭を垂れ、全身から疲弊した気配を漂わせている。ちょうどそのとき、手術室のドアが開いた。史弥と伶はすぐに駆け寄る。「先生、どうだった?」「さっき命の危機は脱しました。ただ、肝臓の状態が良くなくて、肝がんの可能性も調べる必要があります。検査結果が出たらお知らせします」史弥は信じられないという顔で叫ぶ。「え?肝がん?そんなはずない、彼はずっと健康だったのに!」医者は宥めるように言った。「よくあることです。ご高齢ですし、どんな病気になってもおかしくありません。人の体は機械と同じですよ」それに比べて伶は落ち着いていた。大抵の修羅場は経験済みだし、この年齢で病気になるのは珍しくもない。治療さえできれば致命的ではないと判断している。「結果はいつ分かりますか?」「急ぎで回しますから、一時間ほどですね。それと年齢的
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第826話

「夜は私と史弥が一緒に付き添うわ。おじいさんを一人にするのは不便でしょうから」史弥は冷えきった顔で言い放つ。「いい。家には使用人もいるし、必要なら介護士を雇えばいい。先に帰れ。こっちは俺が対処する。それと、離婚届はできるだけ早く届けさせる」また離婚と言われ、玉巳は必死に首を振る。「離婚なんてイヤ!史弥、お願いだから。全部私が悪かった。あの時は頭がどうかしてた。今はもう分かったの。もうしないから、許してよ。史弥が子どもができなくてもいいの。養子を迎えればいいのよ。今どきそうしてる人いっぱいいるでしょ?」その言葉に史弥は鼻で笑った。「養子?よくそんな寝ぼけたこと言えるな。白川家は養子に家業を継がせた例なんて一度もない。頭おかしくなったのか、玉巳?」その時になって玉巳も、史弥が本気で頑なになっていることに気づく。彼女は伶をちらりと見やり、史弥の腕を引いて少し離れたところへ連れ出した。「あんたバカなの?白川家の跡継ぎはあんただけじゃないでしょ。前におじいさんと叔父さんが揉めたのは何でだったか覚えてる?おじいさんが全部の期待を叔父さんにかけてたからよ。あのとき叔父さんが協力してたら、白川家もあんたの会社も、とっくに叔父さんの掌の中よ。自分の番が回ってくるなんて本気で思ってるの?今ここで私と離婚したら、あんたは一人であの二人を相手にすることになるのよ。しかも自分は子ども作れない。おじいさんが家督をあんたに残すと思う?」史弥も、その可能性は考えなかったわけではない。だが彼には彼なりの信念がある。「君の言う通りにしたら、白川家の百年の基盤を俺が潰すことになる。たとえじ爺さんが家産を叔父さんに渡しても、叔父さんの子どもは白川家の血筋だ」なぜ寒河江を名乗っているかと言えば、あくまで伶が正雄のやり方に反発してそうしているだけ。元は白川家の人間だ。玉巳はその言葉を聞き、まるで信じられないものを聞いたように目を見開いた。驚愕しすぎて言葉も出ない。長年一緒にいて、しかもお互い初恋同士。自分は彼を知り尽くしたつもりでいた。仕事にどれだけ打ち込み、どれだけ野心があり、どれだけ伶を追い越そうと意気込んでいたか、ずっと見てきた。それなのに今の彼は、白川家の資産をまるごと伶に譲る気でいる。今後、伶と悠良が
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第827話

史弥はそれ以上何も言わなかった。玉巳はようやく胸を撫で下ろす。今は何としても史弥の気持ちを繋ぎ止めなければならない。このタイミングで離婚なんてされたら終わりだ。そんなことになれば、自分には一銭も入ってこない。まして今は史弥に子どもができない。悠良と伶の仲は深まる一方で、自分にとっては最悪の状況になりつつある。伶はこの二人に構っている暇などない。彼にとって白川家の財産など取るに足らないものだ。悠良からは「病院で正雄を見ていてほしい、自分は葬儀を何とかする」と言われている。それから三十分ほどして、医者が検査結果を持って戻ってきた。「ご家族の方、少しお話があります。結果は出ました。問題ありませんでした。腫瘍も良性ですので、手術で切除すれば大丈夫です」その場にいた全員がホッと息をつく。だが次の瞬間、医者は言い添えた。「ただ......ご高齢なのもあって、最近かなりストレスがあったようです。その影響で体のあちこちの臓器が衰え始めています。心づもりはしておいたほうがいいでしょう」伶と史弥は思わず眉をひそめる。史弥が戸惑いながら聞く。「衰えって......良性って言ったはずですが」「確かに腫瘍は良性です。でも年齢を考えれば、体が弱っていくのは自然の流れです。それは誰にも逆らえません」「治療はできるんですか?」史弥がさらに問う。医者は首を振る。「生老病死は自然の摂理です。人の力でどうこうできるものではありません。理解してください」「......分かりました」と史弥は頷く。医者はさらに続けた。「退院したら、ご本人の好きなように過ごさせてください。家族がそばにいたり、旅行などに連れて行ってあげるのもいいでしょう」伶は背筋を伸ばしたまま、淡々と答える。「ありがとうございます、先生」医者が去ると、史弥は壁にもたれ、手を握りしめてそこを何度も拳で叩いた。「俺がもっと普段から気を付けてれば......爺さんの体をちゃんと見てればよかったんだ」玉巳はそっと近づき、なだめるように言う。「なんでも自分のせいにしないでよ。これは史弥の責任じゃないでしょ。お医者さんも言ってたじゃない。自然の摂理なんだって。むしろ肝がんじゃなかっただけ良かったのよ。苦しまずに済むんだから」そ
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第828話

伶にも、正雄から受け継いだあの圧のある威圧感がある。二人がただ立っているだけで、人を怯ませるには十分だった。史弥はその場でどうしていいか分からず立ち尽くしている。すると、今まで黙って様子を見ていた伶が口を開いた。「医者が七日間入院しろと言ったんだ。怒鳴っても無駄だ。退院はあり得ない」その一言で場の空気が一変する。拒否を許さない圧が声に滲んでいた。正雄は眉間に皺を寄せて伶を睨み、薄い唇を固く結んだまま黙り込む。しばしの沈黙のあと、まだ不満を含んだ声音で言った。「病院にいる間、誰が私の世話をするんだ」「もう決めてある。昼は史弥、夜は俺。それとは別に介護士を二人雇う。それで足りる」伶の返しは淀みなく、抜け目もない。正雄はさらに食い下がる。「食事は?病院の飯なんか食えるか」伶は即座に答える。「合わないなら家の料理人に作らせてもらう。何が食べたいか、前日に俺か史弥に言ってくれ」正雄「......」まだ何か理由を探しているのが見え見えだったため、伶はわざと問いかける。「ほかに難癖つけることがあるならどうぞ。足りなきゃ俺から何個か案を出しましょうか?」こうまで言われ、正雄は口を尖らせながらそっぽを向く。「もういい」横で見ていた史弥は目を剥きそうになった。つまり正雄は入院を認めた、ということ?それも伶のたった数言で。信じられない。さっきまで自分が必死に説得しても全く聞く耳を持たなかったのに、今回はあっさり折れた。やっぱり悪には悪。自分は子どもの頃から正雄が怖くて、逆らうという発想すらなかった。怒鳴られもしないうちに白旗を上げるのが身に染みついている。伶は史弥に向き直って言う。「昼は君がここにいろ。俺は夜の八時に来て代わる」「......ああ」史弥は頷いた。伶は帰る前に、寝たままの正雄に一声だけかけた。「先に帰る。ここで休んでいろ」正雄は何も返さない。だが伶は慣れた様子で、それ以上気にしなかった。一方で玉巳は、そのやり取りから何かを察したようで、そっと史弥の腕をつつく。「史弥、お水汲んできましょう?」史弥は深く考えもせず「ちょっと行ってくる」と正雄に声をかけて一緒に病室を出た。廊下に出た瞬間、史弥の表情は一変し、玉巳との距離を
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第829話

玉巳は、史弥がそんなふうに考えているとは夢にも思っていなかった。信じられないという顔で彼を見つめ、かつてあれほど野心に燃えていた男と同一人物だなんて到底思えなかった。今の彼の目には、何も残っていないようにすら見える。彼女は肩を軽く叩きながら言った。「ちょっと、頭おかしくなったの?何考えてるの?前から話してたじゃない、叔父さんはもう外で自分の勢力を作ったんだから、白川家は史弥が仕切るって。今さら何?自分が子ども作れなくなったからって、財産を押さえるどころか、自分から譲る気でいるなんて」その目つきは、完全に見下しと呆れでできていた。「それとも、白川家の財産ぜんぶ差し出して、悠良を取り戻すつもり?全部くれてやったところで、叔父さんが渡すと思う?」玉巳は今日、はっきり確信した。伶は心の底から悠良を愛している。もう抜け出せないほどに。いったい悠良のどこに、あの二人をそこまで夢中にさせる力があるのか。自分なんて、どれだけ尽くしてきたと思ってるのか。その言葉を聞いた瞬間、史弥の表情は一気に暗くなった。彼はボトルを床に叩きつけるように置き、怒鳴った。「何ふざけてるんだ!白川家のことにいちいち口を出していい立場だと思ってんのか。ああ、そうだ。財産だのなんだのどうでもいい。もし悠良がもう一度俺を受け入れてくれるって言うなら、この命だってくれてやるさ」玉巳はその言葉に顔面蒼白になり、数歩後ずさった。唇が震える。「......今、なんて言ったの?」「聞こえなかったか?俺がお前を見誤ったのが間違いだった。あの時もっと早く気づいていれば、何があっても悠良とは離婚なんかしなかった。たとえ一生子どもができなくても、彼女と一緒にいられるなら、養子でも何でもよかったんだ!」玉巳の目から涙がぼろぼろ溢れ、失望に満ちた視線を残してそのまま廊下の外へ走り去った。こんなはずじゃなかった。こんなにも長い年月を捧げてきたのに、たった一度の過ちで全部消されるなんて。雪江も莉子も役立たず。母娘揃って悠良一人潰せないなんて。史弥は追いかけようともせず、そのまま彼女を放置した。ボトルを片手に病室へ戻ると、正雄も伶も相変わらず一言も発していなかった。この二人の性格はよく知っている。どちらも絶対に先には折れ
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第830話

「孝之......どうしてそんなに急いで逝っちゃったの......」ぴーぴー泣きながら叫ぶその声は、悲しみに沈んでいるというよりは、周囲に聞かせるための芝居じみた調子だった。彼女は新品同様の黒い和服を着て、襟元にはパールのブローチ。曇天の下、冷たい光を反射していた。弔問というより、舞台の主役として登場したかのような気配だった。悠良は手に持った喪章を握りしめ、爪が掌に深く食い込む。孝之の祭壇で、まだこんな茶番を演じるとは。まだ諦めていないのか。悠良は容赦なく前に出て言い放つ。「警備員を呼ぶか、それとも自分で出ていくか、選んで」雪江はゆっくり振り返り、バッグから一枚の紙を取り出した。「そんな冷たいこと言わないで。私と悠良の弟は毎日、雨風しのぎながら人間以下の暮らしよ?お父さんが亡くなった以上、小林家の財産は少しくらい分けてくれてもいいでしょう?」そう言って、悠良の目の前に検査報告書を突き出す。それは精神保健福祉センターの診断書のコピー。「妄想性障害の傾向」──その文字が赤ペンで何重にも丸をつけられていた。叔父が思わず息を呑む。「孝之が......?」「そんなの信じじゃだめよ」悠良がすぐさま遮る。その声は驚くほど冷静だった。「前に雪江は小林家の財産目当てで、勝手に医者を連れてきて父に診断を受けさせたことがあるんです。父は当時入院していて、自分の意思なんて言える状態じゃなかった」雪江はすかさずかぶせてくる。「自分に都合の悪いことだけを忘れるのね。確かに私が医者を呼んで精神鑑定をお願いしたわ。でも診断は診断よ。障害って出たんだから、遺言は無効で、財産は分け直しよ!」悠良は氷のような目で見つめ返す。「お忘れですか?医師はそのとき、『一時的なストレス反応であって、精神疾患と診断する基準には該当しない』とはっきり言っていましたよね」雪江の顔色が一瞬で青ざめ、それでも虚勢を張る。「でも診断書はあるのよ!遺言書いたときに精神状態が不安定なら、法律的に無効でしょ?」顎を突き上げて言い放つ。「私はあの人の妻よ。家も預金も、全部あんたみたいな若造に渡すなんて、おかしいでしょ!」その瞬間、悠良はふっと笑った。しかし目はまったく笑っていない。彼女は机のそばへ行き、いちばん下
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