All Chapters of 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった: Chapter 41 - Chapter 50

70 Chapters

ナフィーラの愛

光の粒子となって還った二つの魂は、静かに神殿の大広間へと降り立った。ナフィーラが目を開けた時、最初に目に映ったのは――自分の手を、強く握りしめるカイルの姿だった。「カイル……」その名を呼ぶだけで、胸が熱くなった。 もう二度と届かないと思っていたその存在が、こうして目の前にいる。 彼の手の温もりが、何よりの証だった。「……ナフィーラ」カイルの瞳には、もう迷いも濁りもなかった。 すべてを赦されてなお、彼の視線には深い悔いと、取り戻したいという意志が滲んでいた。「……すまない。俺は……お前を……」言葉にならない罪の想いを、彼は絞り出すように吐き出す。 ナフィーラは静かに首を振った。「あなたが私を思い出してくれた。それだけで、私は……」涙が零れる。だが、それは悲しみではなく、長い夜を越えた者にしか流せない光のしずくだった。ふたりの再会の光が、大広間に満ちていく。 そして、その光を見守っていた者たちも、また動き始めていた。神殿の奥から、静かに光が差し込む。 その中から現れたのは、まばゆい白金の髪を風に揺らす、美しき存在――女神セレイナだった。ナフィーラは祈りの衣をまとったまま、そっと立ち上がる。 だが、その瞳に映るのは崇拝でも恐れでもなく、穏やかな覚悟だった。「……セレイナ様」その声に、女神は微笑み返す。 「ナフィーラ。あなたは、大きな選択をしましたね」ナフィーラは頷く。 「私は巫女である前に、一人の魂として、あの人を……愛しました」「ええ。私はそれを、祝福しに来ました」セレイナの言葉に、ナフィーラの瞳がかすかに揺れる。「“ナフィーラ”という、一人の魂として、祝福しましょう」その一言は、彼女を巫女としてではなく、“愛することを選び、嫉妬し、赦し、祈った存在”として認めるものであった。 それは、神の媒体である巫女の役目を超えた、魂としての“昇華”の宣言だった。「……私は、嫉妬深い女になってしまいました」 ナフィーラは笑った。自嘲でも、後悔でもなく、素直な自己受容だった。「あなたが下界に降りたからこそ、芽生えた感情です。嫉妬も、怒りも、悲しみも、すべて愛の形なのです」女神の声には、悲しみと慈しみがあった。ナフィーラは、ふと天を仰ぎながら呟いた。“神界の愛は、等しき光の恵み。天の下、すべてを差別なく包む裁かず、ただ見守る光
last updateLast Updated : 2025-06-27
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ナフィーラとカイルの未来

かつて巫女であり、神の声に従い光を授ける者だったナフィーラ。 かつて英雄であり、力と栄光をその手にしたカイル。 幾千の星霜を越えて、今、二人はただの一人の女と男として向かい合っていた。酒場の喧騒を背に、カイルはナフィーラを波止場の外れにある静かな場所へと導いた。潮風が二人の間の重い沈黙をかき混ぜる。「……話して、カイル。あなたの腕にある、その呪いのことを」ナフィーラの声は、夜風に消されそうにか細かったが、確かに届いた。 カイルは目を閉じ、苦悶に歪む表情で俯き、しばらく口を開けなかった。 やがて、絞り出すような声が静けさを破った。「俺は……あの最後の戦いで、人々を救うため、禁忌の古の魔具の力を使った。その代償として、魔具の呪いが俺の魂を喰らい続けている……。 最近、その力が暴れ始めた。気配が漏れ、教団も神殿も、俺を追う理由を嗅ぎつけたんだ。 君を拒んだんじゃない……君の光を汚したくなかっただけだ。俺はもう、光の中に立つ英雄じゃない。ただの、呪いに蝕まれる男だ……」ナフィーラの胸が痛んだ。彼女が嫉妬し、誤解し、苦しんだ年月。その裏に、これほどまでの愛があったことを知り、涙がこみ上げた。「私が捨てたのは、神の加護だけ。あなたへの想いは、何一つ捨てていない。むしろ……強くなった」彼女はそっとカイルの腕の痣に触れた。冷たさが指先から胸を刺したが、その手を離さなかった。「私はもう巫女じゃない。あなたと同じ、ただの人間よ。だから……あなたの闇を私に分けて」「……君は、俺の弱さも、この醜い呪いも、受け入れてくれるのか?」「あなたの弱さごと、愛しているから」カイルはその手を強く握り返した。だが、その瞬間、呪いが暴れだした。黒い靄が彼の腕から立ち上り、夜気を切り裂いた。「来るな、ナフィーラ! 抑えられない……!」 靄は渦を巻き、カイルの体を引き裂くような痛みが走った。 彼の膝が崩れ、血が滲む。「カイル、私を見て!」 ナフィーラは恐れを知らず、胸に飛び込み、その全身で彼を抱きしめた。「あなたは英雄なんかじゃなくていい。強くなくてもいい。 ただ、私のそばにいてくれるだけでいいの!」彼女の声が、闇に沈むカイルの心に届いた。 暴れる靄は弱まり、やがて夜風に溶けて消えた。 カイルはナフィーラの肩に顔をうずめ、嗚咽した。その時、街が騒がしく
last updateLast Updated : 2025-06-28
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遺跡の夜―孤独と愛の灯火

荒野の奥、風に削られた岩の裂け目にひっそりと残る古の遺跡。蔦が絡み、月明かりに白く浮かぶ石壁に、古の刻印がかすかに残っていた。カイルとナフィーラはその影に身を寄せ、小さな焚き火を起こした。追っ手から逃れるための、わずかな休息だった。火の灯りが、二人の頬を赤く染め、揺らぐ影を重ね合わせる。夜風が冷たく、星々が黙して見下ろしていた。カイルは黙ったまま、焚き火を見つめ、肩の傷口を覆う布をきつく締め直した。昼間の戦闘で、神殿騎士の一太刀が掠めた場所だ。呪いの影響で治りは遅く、鈍い痛みが続いていた。その手元を、ナフィーラがそっと押さえた。「もう、いいの」声は細く、けれど強かった。彼女は水筒と、道中で摘んだ薬草の入った小さな革袋を取り出した。カイルは顔をそむけた。その視線は、己の呪われた腕に向けられている。「……こんな醜い傷を見せたくない。呪いに蝕まれたこの体も……君のような清らかな存在が、触れるべきものじゃない」それは彼女を拒絶する言葉ではなく、自分自身を罰するような響きを持っていた。ナフィーラは静かに彼の手をとり、血と土で汚れた布をゆっくりと解き始めた。「私が神殿を出たのは、清らかなままでいるためじゃないわ。あなたのいる泥濘に、自ら降り立つためよ」布が外され、闇の中、赤黒い傷痕と、そこから広がる呪いの痣が月光に晒される。それはまるで、黒い茨が彼の肉体に根を張っているかのようだった。彼女の指が、持っていた布を清水で湿らせ、そっとその傷に触れた。冷たい水の感触に、カイルの体が小さく震えた。「これも、あなたそのもの。あなたが背負った英雄の証も、今その身を苛む呪いも、人々を守って負ったこの傷も……私が愛した人の、すべてよ」ナフィーラは薬草を丁寧にすり潰し、優しく傷口に塗り込んでいく。その手つきは、かつて神殿で聖なる儀式を執り行っていた頃のように厳かで、けれど、遥かに人間的な温もりに満ちていた。「ナフィーラ……俺は、君のその優しさに触れる資格なんて……」「資格なんていらない」彼女の瞳が、焚き火の光を映して揺れた。でも、その声は真っ直ぐだった。「私が巫女だった頃、神に祈りを捧げても、あなたの痛みは少しも癒せなかった。でも今は違う。私はもう神には祈らない。ただ、あなたを癒したいと、この手で、私の意志で願っているの」彼女は手当てを終えると、その傷跡
last updateLast Updated : 2025-06-29
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再生の大地とささやかな誓い

荒野を越え、血と苦しみの逃避行の果て、二人はようやく小さな村にたどり着いた。 切り立った山々に囲まれ、世界から忘れ去られたかのような辺境の村だった。 村の外れにある打ち捨てられた小屋を借り、二人はひっそりと息を潜めるように暮らし始めた。 誰にも追われぬ平穏な日々が、ようやく訪れたのだ。季節は巡り、長く厳しい冬を越えて、再び春が訪れた。 雪解け水が小川のせせらぎを力強くし、風に乗って運ばれてくる湿った土の匂いが、生命の目覚めを告げていた。 芽吹きの風が、窓辺に立つ二人の頬を優しく撫でた。ナフィーラは、窓の外で少しずつ緑を取り戻していく大地を眺めていた。 その手は、冬の間にすっかり節くれだち、爪の間には消えない土の色が染み付いている。 かつて神に祈りを捧げ、聖油を塗り清められていた繊細な手は、今や鍬を握り、種を蒔くための逞しい手へと変わっていた。「カイル、見て。土がすっかり柔らかくなっているわ」 ナフィーラが振り返ると、カイルが優しい眼差しで彼女を見つめていた。「ああ。今日は種を蒔くのに良い日になりそうだな」 「ええ。今年は、あなたの好きなカボチャも植えようと思って」 「それは楽しみだ。君の作るカボチャのスープは絶品だからな」二人のささやかな会話。それが、どんな宝物よりも尊いと、カイルは心の奥で感じていた。ナフィーラは畑に出て、柔らかな土を踏みしめた。 神殿での暮らしは清浄で汚れを知らなかった。だが今は違う。 土の匂い、汗の塩辛さ、芽吹く若葉の力強さ――生々しく、現実の重みを持つすべてが、彼女にとってかけがえのないものだった。種を一つひとつ土に埋めながら、ナフィーラの祈りはもはや天には向かわなかった。 ただ、大地に根を張り、太陽の光を浴び、健やかに育ってほしいと願うだけだった。数日後、小さな双葉が土を割って顔を出したとき、ナフィーラの胸には、神から与えられる奇跡の光ではない、自らの手で育んだ生命のか細い輝きが、静かに広がった。「カイル! 芽が出たわ!」 弾んだ声に、薪を割っていたカイルが顔を上げ、二人は手を取り合ってその芽を覗き込んだ。「すごいな、ナフィーラ。君は土に愛されている」 「うふふ、そうかしら。でも、あなたが水を運んでくれたからよ」(私はいま、この人と、同じ大地の上で生きている。神殿の冷たい石の上ではなく、
last updateLast Updated : 2025-06-30
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陽光と川音、そして胸に忍ぶ影

季節は移ろい、春の芽吹きはやがて力強い緑へと変わった。 陽光は大地を熱く照らし、昼の空気は草と土と川の匂いに満ちていた。 村の畑は豊かに実り、森は獣たちの息づかいで満ち、山々は夏の雲を頂に湛えていた。ある日の朝、太陽がまだ山の端に顔を出したばかりの頃、カイルは森へと入った。 「カイル、気をつけて」 戸口で見送るナフィーラに、彼は頷き返す。 「ああ。今日は大物を狙ってみる。夕飯はご馳走だ」 「ふふ、期待しているわ。でも、無理はしないで。あなたが無事に帰ってくることが、一番のご馳走なのだから」その言葉を背に、カイルは森の奥へと足を踏み入れた。 鳥のさえずりが薄明の静寂を破り、草いきれと湿った苔の匂いが彼を包んだ。 弓を引き絞り、息を止め、獲物を射止めるその一瞬だけ、彼の心に沈殿した呪いの疼きも、名もなき焦燥も、静かに消え去った。昼、ナフィーラは小屋の裏で草を刈り、畑に水をやり、収穫した野菜を抱えて戻ってきた。 「あら、ナフィーラさん。精が出るねぇ」 隣家の老婆が声をかける。 「こんにちは、マーサさん。ええ、この子たちが日に日に大きくなるのが嬉しくて」 ナフィーラは瑞々しいキュウリを一本、老婆に差し出した。 「よかったら、どうぞ。今朝採れたてなの」 「おやまあ、いいのかい? じゃあ、お返しにうちの卵を持っておいで。うちの鶏は村一番の卵を産むんだよ」そんなやり取りが、ナフィーラの世界を豊かに彩っていた。 頬には汗が光り、土で汚れた手には、力強い命があった。夕方、二人は村はずれの川辺に並んだ。 カイルが冷たい水でナフィーラの背を流し、ナフィーラはくすぐったそうに笑った。 「きゃっ! 冷たい! ……もう、カイルったら意地悪ね」 「はは、悪い。だが、気持ちいいだろう?」 「ええ、とても。でも、くすぐったいわ、カイル!」その声は川音に混ざり、森の静けさに溶けていった。 カイルはしぶきを上げて笑う彼女の姿に、思わず見とれていた。 その笑顔こそ、彼が命を賭してでも守りたかった光だった。(この日々が永遠なら……) そう願う自分に、安堵と戸惑いが混ざり合う。英雄であった自分、呪われた自分、そして今、ただ一人の男としての自分。 そのどれもが彼自身であり、心の中でせめぎ合っていた。「どうしたの? 難しい顔をして」 ナフィーラが心
last updateLast Updated : 2025-07-01
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秋の祭りの余韻

秋の祭りの余韻が消え、村は静かな日常へと戻った。だが、あの夜、焚き火の火が消えた後から、目に見えぬ影が村の周囲に忍び寄り始めていた。リリアとその仲間たちは、村外れの廃屋に潜み、夜毎、森の奥で焚き火を焚き、甘く妖しい香を漂わせ、村人たちの夢に忍び込む儀式を繰り返した。その香は獣の本能を刺激し、理性を揺さぶり、心の奥底に隠された渇望を引きずり出した。 「焦らず、ゆっくりと。彼の心に種を植えるのよ」 リリアは炎を見つめ、仲間たちに囁いた。 「渇きに気づいた時には、もう私たちの糸の中。英雄の心は、孤独に飢えているものだから」ある晩、カイルは夢を見た。 霧深い森の中、女たちの艶やかな笑い声が彼を誘う。 リリアの紅い瞳が霧の奥から彼を射抜いた。 「あなたは、もっと自由になれる。ただ、あなた自身の渇きを満たすために――その力を使うべきよ」 目覚めた時、汗に濡れた喉は乾ききり、隣で眠るナフィーラの穏やかな寝息が、安堵と罪悪感を同時に呼び起こした。 (いや、俺はナフィーラの元に帰るべきだ。あの笑顔を、あの手を裏切るわけにはいかない…) だが、その決意は夜ごと弱くなった。日中ふとした瞬間、鼻先をかすめる花の香が、夢と現の境を曖昧にし、彼の心を蝕んでいった。そして、ついにその夜が来た。 「少し薪を取ってくる。先に休んでいてくれ」 「こんな夜更けに? 私も手伝うわ」 寝支度をしていたナフィーラが立ち上がろうとするのを、カイルは慌てて制した。 「いや、いい。すぐに戻る。お前は体を冷やすな」 ナフィーラは少し不思議そうな顔をしたが、やがて「わかったわ。気をつけて」と微笑んだ。 その無垢な笑顔に背を向け、まるで逃げるように森の奥――闇の中へ向かった。霧の中、リリアが待っていた。 「ようやく来てくれたのね、英雄様。ずっと待っていたわ」 「……何の用だ。俺に近づいて、何を望む」 カイルの声は、自分でもわかるほど虚勢だった。 リリアはくすくすと笑い、ゆっくり歩み寄り、彼の胸にそっと手を置いた。 「望み? 私はただ、本当のあなたに会いたいだけ。あなたの強さは、そんな小さな平穏を守るためのものではない。世界があなたを求めているの。あの退屈な影を捨て、熱く眩しい光の中に戻りましょう。私と共に」 その囁きは、彼の虚栄心と孤独の最も深い場所を、鋭く正確に突き刺し
last updateLast Updated : 2025-07-04
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森の霧、失われた姫との邂逅

リリアとの密会が始まってから、数週間が過ぎていた。 カイルの心は、ナフィーラへの罪悪感と、リリアが与える刺激的な快楽との間で引き裂かれ、満たされるどころか渇きが募る日々を送っていた。 小屋での穏やかな日常は、まるで夢の名残のように遠ざかり、彼の目はいつしか、獲物を探す獣のように森の奥の闇を見つめるようになっていた。その夜、カイルは「村の見回りに行ってくる」とナフィーラに告げ、小屋を出た。 夢の残滓が心を苛み、リリアの香と囁きが耳の奥にこびりついて離れない。拒むために、あるいは逆に求めてしまうのか――その境界も曖昧になり、ただ闇の中へ足を進めずにはいられなかった。霧が深く、秋の雨が静かに止んだ後だった。森は冷たい湿り気を湛え、獣の気配さえ息を潜めている。 (…なぜ、俺はここにいる?) 己に問いかける声は、森の冷気に溶け、答えは返らなかった。その時、微かな呻きが耳に届いた。 カイルの足が止まる。木々の影が重なる暗がりの中、獣か、あるいは罠か。 手が無意識に腰の剣の柄を探った。かつて英雄として生きた時の本能が、静かに目覚める。音を立てぬよう声の元へ近づくと、濡れた草の上に、人の形をした影が横たわっていた。 白銀の髪は泥に汚れ、裂けた外套の隙間から覗く肩に、血が乾いて黒くこびりついている。胸元の焼け焦げた紋章だけが、その者がかつて高貴な地にあったことを物語っていた。「……とどめを……刺すのなら……早く……」 かすれた声が、死を望むように響いた。だが、その響きの奥に、ただの哀れな敗残者とは違う、不思議な気高さがあった。カイルの目が闇に光る瞳をとらえた。 絶望の淵に立ちながら、それでも崩れきらぬ誇り。その目は、リリアが放つ甘美な毒とは真逆の、砕け散った硝子の刃のように胸を刺した。「……誰だ。何者だ」 鋭い声の裏に、心の奥に微かなざわめきが走った。 この女の纏うものは、リリアの魅惑でもナフィーラの慈愛でもない。砕け、傷つき、それでも残る危うい輝きだった。「……名を失った女に……名を問うのですか……? 私は……誰でもありません……」 その声は、か細くも凛としていた。 カイルの心の奥に、かつて己が呪いに蝕まれ、名を捨てようとした夜の記憶が蘇った。「くだらんことを言うな」 吐き捨てるように言った声は、己自身に向けた言葉のようだった。
last updateLast Updated : 2025-07-05
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運命の歪み:村での看病

 カイルは、気を失った女の体をためらいがちに抱き上げた。想像以上に軽く、冷え切った体は、まるで命の熱が抜け落ちたようだった。血の鉄錆びた匂いと、微かに残る気品ある花の香りが、冷たい夜風に混じり彼の鼻をかすめる。 「…厄介事を拾っちまったな」 誰に言うでもなく、舌打ち混じりに呟く。霧深い森の中、足元はおぼつかない。女を抱えることで、いつもなら馴染んだ小道が、やけに遠く感じられた。 (なぜ俺は、こんなことをしている?) 頭の中で自問が響く。リリアとの逢瀬の後、罪悪感に耐えきれず森へ迷い込んだはずだった。それなのに、またしても自ら厄介事を背負い込んでいる。 (ナフィーラは何と言うだろう…もう俺を信じてはくれないかもしれない…) 一瞬、冷酷な思いが脳裏をよぎった。 (このまま森に置いていく方が、波風は立たない…) だが、その腕にあるかすかな鼓動。あの闇の中、決して折れなかった瞳の光。それが、彼を縛っていた。 (…見捨てられなかった。俺は…自分自身を見捨てるようで…) やがて村の灯り、小屋の明かりが見えた。安堵ではなく、これから始まる葛藤への憂鬱が胸を塞ぐ。深く息をつき、ドアを押し開けた。 
last updateLast Updated : 2025-07-06
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