夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する! のすべてのチャプター: チャプター 1151 - チャプター 1160

1339 チャプター

第1151話

「どんなことがあっても、落ち着いて笑ってみせる。喜んでも、怒っても、顔には出さない。最初のころは、本当にくたくただった。分厚い仮面をかぶったまま息をしているみたいで、苦しくてたまらなかった。それでも時間がたつうちに、わたしはその仮面にも慣れてしまった。そしてようやく気づいたのだ――仮面って、一度かぶったら、かぶり続けるうちに外れなくなってしまうんだって。」きっと、夜の育て方のせいなのだろう。星のふるまいは、いつも落ち着いていて、品があった。皮肉を言うときでさえ、決して下品にはならない。仁志はその言葉にぴくりと反応し、思わずつぶやいた。「仮面をかぶり続けると……外れなくなるのですね」そよ風が吹き、淡い香りが流れてくる。強すぎず、けれど心地よく鼻をくすぐる香りだ。色とりどりの花が風に揺れている。有名な花のような派手さはないのに、なぜか心が洗われるように美しい。見渡せば、ぽつぽつと咲く花々が、群生とは違う、静かな華やかさをつくり出していた。「ここ、本当に素敵な場所だね」星は澄んだ空を見上げながら、瞳に柔らかな光を宿す。「街の喧騒から離れると、心も身体も、ふっと軽くなるわ」仁志は、そんな彼女を横目で見た。たしかに、さっきまでよりずっと穏やかな表情をしている。陽ざしは暖かく、午後の光が心地よく体に降り注いでいた。やがて星は、静かな香りに包まれたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。手が不自由になってからというもの、彼女には眠れない夜が続いていた。あれこれ試しても、やっぱり眠れない。そのどうしようもない感じには、もう慣れている。そこへ清子が戻ってきてからは、胸のざわつきがひどくなり、毎晩のように眠れなくなった。不眠のつらさは、誰よりも知っている。目を覚ましたときも、陽ざしはまだ彼女の上に降り注いでいた。星はゆっくりと目を開ける。すぐには起き上がろうとしなかった。こんな静かで澄んだ空気の中にいると、やっと心に安らぎが戻ってくる。このままずっと眠っていたくなるくらいに。重たい悩みも心配ごとも、今だけは何ひとつ思い出したくなかった。少し首を傾けると、仁志がまだそばに座っているのが見えた。彼は頭を垂れ、手の中の何かをじっと見つめている。黒い瞳は真剣で、指先だけが器用に、すばやく動いていた。その所作はどこか優雅で、こんなに集中して
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第1152話

仁志は、静かに言った。「M 国に来てからの星野さん、ずっと元気がなさそうに見えるんです。少しでも気持ちを休められるといいですね」星の瞳が、かすかに揺れた。雲井家は、彼女にとって「家」ではない。鬼の巣のような、危険だらけの縄張りだった。周囲には敵ばかり。少しでも気を抜けば、一瞬で足元をすくわれる。だから、一秒たりとも気が抜けない。心も身体も、ずっと張りつめたままだった。自分ではうまく隠しているつもりだったのに――仁志は、本当に鋭い。数秒黙ったあと、星は静かに言った。「……仁志、ありがと。気を遣ってくれて」仁志は、ふと尋ねた。「今夜は、特に予定はありますか?」「ないよ」彼の誘いを受けた時点で、今日は一日空けていた。仁志は、口元だけで薄く笑った。「でしたら、ちょうどよろしい。ここの夜景は、昼間よりもさらに美しいのです。一度ご覧いただきたくて、特別にお待ちしていました」その言葉に、星の胸の奥で、わずかに期待がふくらんだ。いつの間にか陽射しは弱まり、夕日が傾きはじめている。「星」隣の仁志が、不意に呼びかけた。「あそこ、見てください」星は彼の視線を追う。沈みかけた夕陽が、空いっぱいに金色の光を広げていた。一面に咲く野の花が、夕陽の残光をまとい、淡い炎のように輝く。息を呑むほどの美しさだった。その瞬間、大地も空も、すべてが柔らかな光に染まっているように見えた。星は、ふと思う。――自然の前じゃ、人間なんて本当にちっぽけだ。やがて太陽は完全に沈み、光はすっかり消えた。夜の郊外は、驚くほど静かだ。銀色の月が空にかかり、星々が散りばめられた夜空を照らしている。ふいに蛍がふわりと浮かび上がり、暗闇の中に小さな灯をともした。幻想のような景色だ。昼間はほとんど気にならなかった川でさえ、いまは鏡のように月を映している。――たしかに、仁志の言うとおりだ。美しすぎる。そのとき、足音が近づいてきた。何かを手に持った仁志が、戻ってきた。「どうぞ」彼はそれを、軽く放るように星へ投げた。反射的に受け取る。冷たい金属の感触。見下ろすと、それは缶ビールだった。「これ?」「気分が優れないときは、お酒の力を借りて、少し力を抜くのも一つの方法です」彼は目を伏せ、穏やかに続ける。「もしお酒があまりお強
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第1153話

それに、気の合う澄玲、晴子、瑛もいる。今では、影斗や怜、航平、それに葛西先生とも知り合いになった。自分のことを嫌う人間は多い。それでも、好きでいてくれる人も、実は決して少なくない。星は少し考えた。いっそ、自分と彩香が同じくらい仁志と仲良くなればいい――そう言おうとした、そのとき。「実は……今日、星野さんにここへ来ていただいたのには、もう一つ理由があるのです」仁志の声が、夜気を揺らした。「……どんな理由?」星が問いかけると、仁志はビールを一口飲み、さらりと言った。「今日は、僕の誕生日でして」「……え?今日、誕生日なの?」星は思わず固まった。そしてすぐに気づいた――プレゼントを、用意していない。「ごめん、何も準備してなかった。戻ったら、ちゃんと何か用意するから」「どうかお気になさらないでください。もともと、僕の誕生日を覚えている人などいませんし。星野さんがこうして一緒に来てくださっただけで、十分すぎるほど嬉しいです」その言葉に、星の胸が、じくりと痛んだ。最初に「いい場所がある」と連れ出されたとき、自分がもう一言踏み込んで聞いていれば……そうすれば、彼が今日誕生日だと、気づけたかもしれないのに。「……これからは、あなたの誕生日、ちゃんと覚えておくよ。もう一人で誕生日を過ごさせたりしない」その瞬間、仁志の瞳が、星の光を湛えた湖面のようにきらめいた。「……本当に?」「ほんとだよ」「以前……毎年一緒に誕生日を過ごそう、と言ってくれた人もいました。けれど結局、その約束は守られなかったんです」――きっと、その「誰か」は、彼の心の奥にしまってある女の子なんだろう。星は少し考え、柔らかい声で言った。「あなたの言うとおりだよ。未来のことって、軽く約束できるものじゃない。じゃあさ……来年の約束だけにしよっか。来年も、私が一緒に誕生日を過ごす。それで、いい?」月光を含んだように、彼の整った表情がふわりと和らいた。「はい」そう言って、彼は小指を差し出した。「指切りを」星は、思わず吹き出した。翔太には「子どもっぽい」と言われて、もうずいぶん長いこと、指切りなんてしていない。そう思いながらも、彼女はそっと小指を差し出した。「うん。指切りね」一年なんて、あっという間だ――そ
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第1154話

星の車は、すでに仁志が防弾仕様に改造していた。だが、相手の火力はあまりにも強烈だった。防弾ガラスには、次々とひびが走る。まだ完全には砕けていないが、このままでは時間の問題だ。同時に、前方でも一斉にヘッドライトが灯った。こんな人通りの少ない道に、こんな台数の車が一度に現れるはずがない。――間違いなく、自分たちを狙ってきている。仁志の顔つきが、珍しく険しくなった。「この道は狭すぎます。相手の車が多すぎる。無理に突っ切れば、崖から落ちかねません」今走っているのは、片側が切り立った崖、もう片側が鬱蒼とした森という、洒落にならない山道だ。崖に落ちれば、一瞬で車もろとも終わり。森側に突っ込めば、車はすぐに動けなくなり、その場で囲まれる。どちらに転んでも、致命的な状況だった。仁志は、運転技術も身体能力も人並み外れている。だが彼も所詮は人間で、神様ではない。前後からこれだけの車で挟まれれば、一人の力でどうにかできる範囲を超えている。彼は、すぐに判断を下した。「星野さん。準備をしてください。いずれ、車を捨てて逃げます」星は、こういう状況を一度経験している。だから、思ったより冷静だった。「わかった」仁志は、拳銃を一丁差し出した。「身の危険を感じたら、ためらわずにお使いください」星は小さくうなずき、銃を受け取った。M国へ来てから、星も射撃を学んでいる。この国は危険すぎるし、彼女には仇が多すぎる。身体能力が高いわけでもない以上、別の手段で補うしかない。仁志の射撃は驚くほど正確で、教わった星も、なんとか「ギリギリ合格」と言えるくらいにはなっていた。そのとき、彼はタイミングを見計らい、数台の車を弾き飛ばすようにして車線を外し、そのまま茂みの深い森の中へと突っ込んだ。しかし十数メートル進んだところで、太い木にぶつかり、車体が激しく揺れる。二人とも覚悟していたため、車が止まるや否や、夜の闇に紛れて素早く外へ飛び出した。だが追手も、そう簡単にまける相手ではなかった。彼らは全員、訓練された殺し屋で、索敵能力も異常に高い。人数が多いぶん、捜索の範囲も速度も、尋常ではない。仁志が、低い声で言った。「星野さん。僕が彼らを引きつけます。星野さんはどこかに身を隠してください。片付けたら、必ず迎えに参ります」星は、自分
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第1155話

星は、手の中の拳銃をぎゅっと握りしめた。表情は強張り、呼吸も浅くなる。ほんの一瞬、隙が生まれた。彼女は、そのわずかな瞬間を逃さず、引き金を引いた。「パンッ!」一発の銃声が闇を裂き、弾丸は男の脚を打ち抜いた。――射撃場での練習は、無駄じゃなかった。まさか本当に撃つ日が来るなんて、考えたこともなかったけど。だがこれは訓練ではなく、「現実」だ。緊張のせいで手が震え、狙いも少しぶれていた。それでも大きく外さず、仁志を誤射しなかったのは、運がよかったとしか言いようがない。相手は命知らずばかりだが、星には、仁志のように冷静に、迷いなく頭を撃ち抜くことなんてできない。数発撃ったところで、彼女の存在は殺し屋たちに気づかれてしまった。星は、ハッとして撃つのをやめ、慌てて銃をしまい込むと、再び身を隠す。殺し屋たちが標的を星へ移した、その瞬間。仁志の瞳が、鋭く光った。彼は、感情を凍らせたような表情で引き金を引き続ける。前方にいた男たちが、次々と倒れていった。「パッ、パッ、パッ!」消音された銃口から放たれるのは、正確無比な弾丸だ。星を追おうとした者たちは、誰ひとり彼の射線から逃れられなかった。仁志の射撃は、一発たりとも外れない。その精度は、もはや人間というより、精密な機械に近かった。星は、殺し屋たちに見つかるのを恐れながら、必死で森の奥へと走った。背後から、かすかに銃声が響く。そして――足音が迫ってきた。誰かが追ってきている!星には振り返る余裕などない。走るだけで精一杯だった。太ももも腕も、茂みに潜む棘で切り裂かれ、焼けるように痛む。どれだけ走ったのか、もう見当もつかない。気づけば、周囲はしんと静まり返り、背後の足音も聞こえなくなっていた。星は長く息を吐き、近くの茂みの陰に身を寄せる。息は荒く、心臓は今にも爆発しそうなほど激しく脈打っている。少し落ち着くと、星は支援を呼ぼうとして携帯を取り出そうとした。だが、ポケットをまさぐっても、どこにもない。逃げる途中で、落としたのだろう。周囲は真っ暗で、月明かりに木々の輪郭がうっすら浮かぶだけ。星は、ただがむしゃらに逃げただけで、方角なんてまったく気にしていなかった。そのとき――銀の光が一瞬、夜空を裂いた。続いて、腹の底に響くような雷鳴が轟いた
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第1156話

星が振り向くと、派手な模様をまとった蛇が、地面をくねりながらこちらへ向かってくるところだった。その蛇は、星の前腕くらいの太さがある。真紅の舌をチロチロとのぞかせながら、じりじりと距離を詰めてくる。種類なんて分からない。けれど――あれだけ色が鮮やかなら、どう見ても猛毒だ。背筋に、ぞくりと寒気が走る。正直、彼女は蛇という生き物が、この世でいちばん苦手だった。よりによって、こういう山林には蛇が多い、というのに。毒蛇は星を見つけると、身体をぎゅっと弓なりに縮め、いつでも飛びかかれる構えを取った。星は、手に持ったナイフを握りしめる。これは少し前、仁志から渡されたものだ。小型で扱いやすく、護身用にはちょうどいい。彼女は息を殺し、毒蛇から一瞬たりとも目を離さない。毒蛇はさらに一歩にじり寄り、完全に攻撃圏内へ入ってきた。星は、全神経を指先に集中させる。次の瞬間――反射的に、ナイフを振り抜いた。鋭い刃が空気を裂き、蛇の頭部を一瞬で断ち切る。胴体はぐったりと地面に崩れ落ち、その場でびくりとも動かなくなった。鼻をつく生臭い匂いが一気に広がり、星は思わず吐き気をこらえる。――最悪。そう思ったときだった。静まり返った夜の気配に、別の「何か」が紛れ込んだ。星は、こみ上げる吐き気を無理やり押し込み、顔を上げる。漆黒の闇の向こうから、すらりとした長身の影がゆっくり姿を現した。そのシルエットを見た瞬間、星の胸に安堵が広がる。緊張の糸が切れ、身体から一気に力が抜けた。「……仁志。どうして、ここが分かったの?」仁志は、星の青ざめた顔を見つめ、静かに答えた。「雨の中でしたので、わずかですが痕跡が残ってました。その痕跡を辿ってきただけです」「痕跡?足跡が残ってたってこと?」あの殺し屋たちが、それを追ってくる可能性は?仁志は、すぐに首を横に振った。「足跡はありません。この辺りの地面は厚い落ち葉で覆われているので、足跡が残るはずがありません。ただ、折れた枝や衣服がかすめた痕がわずかに残っていました。こちらへ来る途中で、星野さんの痕跡はすべて消しておきましたので、ご安心ください。追跡は不可能です」星は、ようやく大きく息をついた。「……仁志って、そういうのまで分かるんだ?」「少しだけわかります」またそれだ
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第1157話

そう思った星は、すぐに手を動かそうとした。噛まれたところを、切り落とすしかない――そう判断したのだ。だが、ちょうど刃先を持ち上げたところで、手の中のナイフがふっと奪われた。「……え?」星は呆然としながら、ナイフを持った仁志を見上げた。「そんな面倒なことをする必要はないです。毒の処理は僕がやりますから、安心してください」「……は?」意味が飲み込めず固まっている間に、仁志はもう動き始めていた。自分の上着を脱ぎ、その裾を迷いなく裂いて布切れにし、手際よく噛まれた場所の少し上に巻きつけていく。血の巡りを抑えるため、かなり強く締め付けていた。星は、状況についていけず、ただぼんやりとその手元を見つめていた。準備が整うと――仁志は本当に身を屈め、星の脚に顔を近づける。躊躇なく、毒を吸い出し始めた。「ちょっ……!」星は唇を震わせ、何か言おうとした。けれど、言葉になる前に視界がぐにゃりと揺らぎ――そのまま真っ暗になった。意識が、そこでぷつりと切れた。……次に目を開けたとき、外はもうすっかり明るくなっていた。星は、ぼんやりと天井を見上げる。頭の中がまだ霧のようで、しばらく何も考えられなかった。やがて、ゆっくりと周囲を見回して気づく。ここは……山の中の、小さな洞窟だ。少し離れたところには、燃え尽きた木の枝や葉が積み上げられている。どうやら昨夜、ここで焚き火をしていたらしい。自分の体には、見覚えのあるメンズのジャケットが掛けられていた。袖が長すぎて、妙に心もとないのに、やけに落ち着く体温が残っている。起き上がろうとしたが、全身に力が入らない。少し動いただけで、世界がぐらりと揺れた。仁志の姿は洞窟の中には見えない。どこへ行ったのか、まったく見当もつかない。星は、ふらつく身体を無理やり起こし、一歩踏み出した。その瞬間――膝ががくりと落ちた。地面に倒れ込むと思った刹那、強い腕が腰を支えた。「星野さん。今は歩かないでください」顔を上げると、整った白い顔立ちがすぐ近くにあった。薄い唇はきつく結ばれ、深い瞳と眉には、いつもの柔らかさがすっかり消えている。冷たい影が差したような、滅多に見せない表情だった。星は数秒、ぽかんと彼を見つめた。いつもは無害そうな笑みを浮かべて、何が起きても
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第1158話

星は、さっき自分が過剰に反応してしまったことに気づき、気まずそうに目をそらした。「……なんでもない。ごめん」彼が変な意図で触れようとしているわけじゃないことくらい、分かっている。分かってはいるのに――男との距離が近すぎる状況には、どうしても慣れない。それでも仁志は、躊躇を飲み込むように、もう一度そっと手を伸ばした。今度はゆっくり、星の額に触れる。指先に伝わる熱は、まだ高い。けれど、昨夜のような危険な熱ではない。もう一日、しっかり休めば、なんとか動けるところまでは戻るだろう。星の声は、さっきよりはマシになったが、まだ弱々しい。「……熱、下がってきた?」「いえ。まだです」星は黙り込み、それからぽつりと口を開いた。「……誰かに連絡してさ、迎えに来てもらうとか……そういうのは?」「逃走の途中で、僕の携帯をどこかに落としてしまいました」仁志は、静かに星を見つめる。「星野さんの携帯は……やはり見当たらないんですね?」星はうなずき、深く息を吐いた。「ここ、山林広いし……歩いて出るにしても、かなり時間かかりそうだよね」まして今の自分は、歩くどころかまともに立つこともおぼつかない。出られるのか、いつ出られるのかさえ分からない。本気で星を見捨てようと思えば、仁志ひとりだけ先に下山することは簡単だった。「星野さんは、ご心配なさらなくて結構です。道を探すことなら、僕にお任せください。」星は、眉を寄せて尋ねた。「……いつごろ出られそう?」「星野さんの熱が完全に引いてからです」星は、洞窟の入口から覗く空の色をちらりと見て、ためらいがちに言った。「……午後とかには……無理?」仁志の黒い瞳に、彼女の顔がくっきり映った。「外に、星野さんをそこまで急がせるほどの人や用事がありますか?」「ないよ……たださ、あの殺し屋たちがまだ探してるかもしれないでしょ。今の私の状態だと……仁志の足手まといになると思って」本当のところ、一日二日行方不明になったところで、雲井家が全力で彼女を探してくれるとは思えない。だからこそ、早くここを出たい――のに、肝心の身体が言うことをきいてくれない。外はまだ少し曇っていて、また雨になるのかどうかも分からない。星の意識はぼんやりしていて、焦りと倦怠感がぐるぐると混ざりあっていた
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第1159話

「トップクラスの傭兵でも、簡単に雇える水準なんです。命を張って稼ぐ者は大勢います。でなければ、どうしてあれほどの高額な報酬を受け取れるでしょうか。星野さん。どうか、私情をお仕事に持ち込まないでください。それは、星野さん自身の損になってしまいますよ。僕は星野さんから報酬をいただき、いただいた分だけ働く。それだけの、当たり前の等価交換なんです。救ってやった「恩」なんてものは、最初から存在しないんです。ましてや――「あなたは僕に依存しなければ生きてこられなかった」「男に頼らなければ、とっくに死んでいた」……そんな言いがかりが成り立つ余地なんて、どこにもありません」そこで彼はいったん言葉を切り、静かに息を吸った。「星野さんが、他人に頭を下げすぎれば――必ず、そこにつけ込む者が現れるんです。道徳を盾にして、罪悪感を押しつける者。勝手に恩を積み上げて、あなたを縛ろうとする者。中には、それを口実に星野さんを操り、攻撃し、自分は無価値だと信じ込ませ、有能な部下たちとの信頼関係すら壊そうとする人間まで出てくるでしょう。」星は、胸のどこかがざわりと波立つのを感じた。「これから星野さんが立つ場所は、もっと高くなる。あなたのもとで働く人間も、これからどんどん増えていきます。優秀な部下とは、本来、主に降りかかる危険から守るために存在するもの。それが彼らの仕事です。……まさか、助けに来てくれる部下一人ひとりを恩人だと考えておられるわけではありませんよね?」少し冗談めかした口調なのに、その裏には鋭い警告があった。「ネットではよく、『完璧な独立女性』などという言葉が飛び交っていますね。ですが、ああいった幻想を、そのまま信じ込んではいけませんよ。一本の木では、誰であれ、長くは立っていられないんです。男でも女でも、一人で会社のすべてを回すことなど、本当に不可能なのです。人を見る目を養うこと。優秀な人材を見抜き、自分の側に置くこと。それこそが、上に立つ者にとって一番重要な能力なんです。もし星野さんが、世界中の最先端の人材を味方につけることができたら――星野さんはただオフィスでお茶を飲んでいるだけで、すべてが自然と回っていくようになりますよ。そのとき、自分の手で全部やった力と、人をうまく使う力とで、一体何が違うと言えるのでしょうか
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第1160話

星は、眉をひそめながらゆっくり目を開けた。少し離れた場所で、小さな焚き火がぱち、ぱちと音を立てている。火の上には割れた土鍋の片割れが吊るされていて、ぐらぐらと煮立った湯から、白い湯気がもうもうと立ちのぼっていた。仁志は焚き火に背を向け、柄杓で鍋の中を静かにかき混ぜている。星は、弱々しく咳を二つこぼした。「……何してるの?」かすれた声に気づき、仁志が振り返った。「ちょうどいいです。まず、少し食べましょう」「……食べるもの?」そんなもの、どこから――と目を瞬いていると、仁志は鍋からスープを一杯すくい、そっと彼女の前へ差し出した。近づいてみて、ようやく分かる。それは――きのこのスープだった。山の中にそのまま広がっていきそうな、澄んだ香りが洞窟いっぱいに満ちている。あれだけ具合が悪く、感覚も鈍っていたはずの身体に、かすかな空腹がふっと湧き上がる。星は、差し出された椀を見つめながら、思わず口にした。「きのこ?どこで拾ってきたの?」土鍋やら道具やらは、さっき彼が野営跡から拾ってきたものだ。鍋は半分割れていたが、残り半分はなんとか使える状態だった。「きのこは、外で採ってきたんです」自分の質問が、あまりに頭の回っていないものだと気づき、星は自分で苦笑する。本当に、熱で頭までぼんやりしているらしい。仁志は、そばに置いてあったきれいな碗からスプーンを取り出し、静かに言った。「今の星野さんは熱がありますから、温かいもので体力を戻しましょう」野いちごみたいな果実では、今の状態ではおそらく食べづらい――と判断したのだろう。彼はこの辺りで食べられるきのこだけを選んで採ってきたようだ。星は、椀の中のスープをじっと見つめた。ただ湯で煮ただけなのに、野生のきのこの香りが濃くて、驚くほど澄んでいる。彼女がいつまでもきのこを見つめているのに気づいたのか、仁志が静かに付け加える。「毒はありません。しっかり見分けましたので、安心してください」星は小さくうなずき、椀を受け取ると、スプーンでそっと一口すくって口に運んだ。舌に触れた瞬間、思わず小さく息をのむ。――おいしい。きのこは柔らかく、かといって煮崩れてはいない。歯ざわりも心地いい。久しぶりに何かを口にしたせいもあるのだろう。味付けなんて何もないのに、
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