Lahat ng Kabanata ng 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Kabanata 1161 - Kabanata 1170

1339 Kabanata

第1161話

焚き火の赤い光に照らされた仁志の瞳は、夜空の星をそのまま閉じ込めたみたいに澄んでいた。端正な横顔も、揺れる炎に縁どられて、どこか現実味のない金色の輝きを帯びて見える。「大丈夫です。仮眠程度なら取れますが、熟睡はできません」さらりと言われ、星の視線が、そっと彼の顔に落ちる。「……仁志の不眠、まだ良くなってないんだ?」「ええ」星は少し考え、それからぽつりと続けた。「悩みごと、多すぎるんじゃない?」以前の彼女には、眠れない夜なんてほとんどなかった。けれど、問題が増えはじめたころから、いつのまにか眠りが浅くなっていた。仁志は、それを否定しない。「……そうかもしれません」星は焚き火を見つめたまま、静かに言った。「よかったら、話してみる?聞くだけならできるよ」しばしの沈黙。彼は口を閉ざしたまま火を見つめていた。自分が踏み込みすぎたのだと察して、星は慌てて付け足した。「もちろん、言いたくないなら言わなくていいからね。無理に聞き出すつもりは――」言い終わる前に、澄んだ声がふいに落ちた。「……星野さんは、自分を傷つけた人を、許せますか?」星は、少しだけ考えた。「それは……どんなふうに傷つけられたかによるかな。どんな人が、どんな理由で、どうしたのかにも」仁志が、あえて別の名前を出した。「雅臣のことは許せますか?」星は、静かに答えた。「許すことはない。でも、もう恨んではいないよ」清子の件が明るみに出たあと、雅臣は確かに、星に対してかなりの償いをした。星は、それを突き返すような清廉さを求めるつもりはなかった。なにせ、雅臣と五年も結婚して、たとえ「家政婦」だったとしても、あんなふうに何も持たずに去るなんて、本来ありえない話だ。誰の胸の中にも、一つの秤がある。星は欲がないわけじゃない。でも、それを「当然の権利」だと信じているわけでもない。結局、彼が補償したのは、彼自身の良心の問題だ。その秤に従って、彼なりのケジメをつけただけ。――愛の最後に残るのは、結局、良心だけ。そして今の星は、よく分かっている。男の愛情に頼ったり、相手の良心に期待して生きるなんて、どれほど愚かか。彼の良心を利用して、自分の未来や仕事を少しマシにすることはできる。でも、そこに寄りかかって生きることはでき
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第1162話

星は、焚き火の光に揺れる仁志の瞳を、まっすぐ見つめ返した。「もし、その相手が私だったら……私は、たぶん許すと思う」仁志は、一瞬だけ動きを止める。それから、ふっと微笑んだ。それが優しい嘘だということくらい、分かっている。けれど――彼は生まれて初めて、嘘がこんなにもあたたかいものだと知った。だから、人は甘い嘘を聞けば、ついそれを受け入れてしまうのだろう。今の彼には、その気持ちが痛いほど分かる。その夜。風の吹き込む、決して快適とは言えない山の洞窟で――仁志は、驚くほど深く眠った。――もし、この時間が永遠に続いたらいいのに。ふと、そんな考えさえ浮かんだ。翌朝。星が目を覚ますと、洞窟の外には、刺すように強い陽射しがあふれていた。身体をそっと動かしてみる。昨日のような激しいめまいは、もうほとんどない。けれど、全身がまだふわふわしていて、力は入りづらい。ちょうどそのとき、洞窟の入口から、仁志が水の入った壺を抱えて戻ってきた。星が目を開けているのに気づき、穏やかに声をかける。「熱は下がりました。ただ、体力はまだ戻っていません」星は仁志を見上げ、恐る恐る聞いた。「……まさか、今日もここで過ごすなんて言わないよね?」仁志の黒い瞳が、深い湖みたいに揺れもせず、じっとこちらを見た。「もし、そうだと言ったら?」反射的に声が出た。「ダメ。今日中に絶対帰らないと」二日一晩も行方不明なんて、外ではさすがに騒ぎになっているに違いない。仁志はふっと目を細めた。「……僕と一緒にいるのは、そんなに嫌ですか?」長いまつ毛がわずかに揺れ、星はきょとんと目を見開いた。その瞳の主は、夜明け前の星空を閉じ込めたみたいな深い光で、ただまっすぐ星だけを見つめている。胸がひくりと跳ねた。「え?」仁志は、同じ問いをもう一度ゆっくりと繰り返した。「一緒にいるのが、そんなに悪いことですか?」星は言葉を失い、目の前の男を見つめたまま固まった。胸のどこかが、ふっとくすぐったいところに触れられたような、不思議な感覚が走る。なにか返そうとした、その瞬間――仁志はふいに、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。「冗談ですよ。少し食べてから出発しましょう」その笑顔に、星はようやく肩の力を抜いた。「……脅かさないでよ」
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第1163話

星は、小さく首を傾げて尋ねた。「……じゃあさ、仁志は誰か心当たりあるの?」仁志は、しばらく黙って森の奥を見つめていたが、低い声で答えた。「……おそらく、狙いは僕です。星野さんではありません」星は思わず眉を寄せた。「仁志を?なんで?」「ええ。星野さんにも敵はいます」仁志は星を背負ったまま、顔だけ前に向けて、表情を見せなかった。「今回は僕に原因があります。ご迷惑をかけ、体調を崩させてしまい、申し訳ありません」星は、慌てて首を振った。「そんなこと言わないで。仁志が見つけてくれなかったら、とっくに死んでたかもしれないんだから」仁志はそれ以上何も言わなかった。再び、静かな山道に、足音だけが続いた。一方そのころ――雅臣は、車の後部座席に深くもたれ、目を閉じているように見えた。コンコン、と控えめなノックが窓を叩く。その瞬間、彼の瞳が鋭く開く。視線の先には、誠。「……見つかったのか」低く放たれた言葉に、誠は深く息を吐いた。星が行方不明になってから、雅臣はほとんど眠っていない。広大な山林。背の高い木々。絡み合う枝葉。人ひとり探すには、あまりにも条件が悪すぎた。「……まだです」誠は、押し殺した声で言った。「神谷さん、もう二日、ほとんど休まず山に入っておられます。このままでは体がもちません。一度街に戻って休まれてください。俺たちだけでも捜索は続けられます」「必要ない」雅臣は短く言い捨て、ドアを開けて車を降りた。「頼んでおいたものは、全部準備できているか」「はい。一通り揃えてあります」星の最後の位置が割れた時点で、雅臣は最初から、自分も山に入るつもりでいた。ちょうどその時、山の方から一人の部下が駆け下りてくる。息を切らせながらも、その顔にははっきりとした興奮が浮かんでいた。「神谷さん!奥様の位置をドローンが捉えました!」そういえば、もう「奥様」ではない。だが、部下たちの口癖は、そう簡単には抜けない。雅臣の瞳孔がきゅっと縮み、呼吸が一瞬だけ乱れた。「……星は、どこだ」……山の中は、静かだった。落ち葉と枝を踏む足音だけが、規則正しく響いている。ふいに、仁志の足がぴたりと止まった。背中で揺られていた星は、仁志が疲れたのかと思い、声をかける。「ねえ仁志、もし疲れた
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第1164話

仁志は、ふっと口元だけで笑った。「いえ、お気遣いなく。僕は星野さんのボディガードですから。星野さんを守るのは僕の仕事です。神谷さんは探し回られて、お疲れでしょう。ご無理はなさらないでください。僕は体を使う仕事に慣れていますし、多少のことは苦になりませんから」柔らかい口調のまま、言っていることはなかなか容赦がない。雅臣の黒い瞳が、わずかに沈んだ色を帯びる。――遠回しに、「お前は身体が弱いだろう」と言っている。だが彼は、ここで仁志と口げんかをするつもりはなかった。代わりに、星へ視線を向けた。「星。仁志は、この二日間、ほとんどつきっきりでお前を看てくれていた。少しくらい休ませてやってもいいんじゃないか?」言い回しが、実にうまかった。「俺が代わりに背負う」と言えば、星は反射的に拒絶する。けれど、「仁志を休ませてやれ」と言われれば――星の性格からして、断りづらい。案の定、星は少しだけ考え込んだあと、すぐにうなずいた。「……仁志、下ろして。もうだいぶ休んだから、少しなら歩けるよ」仁志はわずかに眉を寄せた。「星野さん。足に傷があります。歩くのはお控えください」言い終わる前に、星が自分から背中を降りようと身をよじった。落ちるのを防ぐために、仁志は慌てて彼女を抱え、そっと地面に降ろす。星が足をついた、まさにその瞬間――隣から伸びてきた腕が、彼女の体をすくい上げた。雅臣だった。星は目を瞬き、思わず声を上げた。「ちょ、雅臣。何してるの」雅臣は、星をしっかり抱えたまま、低く言った。「仁志が、今は歩けないと言っただろう」星は仁志に負担をかけたくなかっただけで、決して雅臣に抱き上げてほしかったわけではない。表情が、ほんの少し曇った。「雅臣、降ろして。自分で――」その言葉を遮るように、雅臣の声が落ちた。「誤解するな。今は、とにかく足が一番大事だ。それに、もう出口は近い。少しの間だけ我慢してくれ」ここで無理に突っぱねても、結局一番気を遣うのは仁志になる。それを悟って、星は唇を噛み、何も言わずに黙った。星が抵抗をやめたのを確認すると、雅臣の薄い唇が、ほんの一瞬だけかすかに上がった。誰にも気づかれないほどの、小さな弧。そして、彼は仁志へと視線を投げる。――男同士なら、一瞬で分
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第1165話

翔太が異変に気づいたとき――最初に電話をかけた相手は、雅臣だった。そして、星が失踪の知らせは、雅臣によって、意図的に雲井家から伏せられた。雲井家が星の失踪に気づいたのは、その翌朝になってからのことだ。星は、その意図を一瞬で理解した。「……ありがとう」それだけを言って、それ以上は何も聞かなかった。雅臣が、雲井家に知らせなかった理由はただ一つ。手柄を独り占めしたいからではない。彼が本当に恐れていたのは――この機会に乗じて、雲井家が星をこの世から消すこと。その可能性は、決して高くはない。だが――ゼロではない。星は、小さくため息をつき、淡々と言った。「でも、もう遺言は残してあるよ。万が一のことがあっても、あの人たちの手に入るものは、ほとんどないようにしておいた」星は、自分の持ち株を三つに分けていた。ひとつは、翔太へ。ひとつは、奏へ。そして最後のひとつを――さんざん考え抜いた末に、雅臣と影斗へ、半分ずつ残した。奏は、幼いころから兄のように一緒に育った人間で、彼に対しては、一切の疑いを持っていない。雅臣は、翔太の父親だ。何があっても、翔太を一番に守るだろう。……だが、人生に「絶対」はない。もし、雅臣が再婚して、別の子どもが生まれたなら――継母がいれば、継父も変わる。どんな変異が起きてもおかしくない。影斗は、星が深い闇に沈んでいたとき、手を伸ばしてくれた恩人だ。彼なら、翔太を助けてくれる。同時に、雅臣がもし暴走しそうになったとき、ブレーキになってくれるだろう――星はそう信じている。さらに、星名義の個人資産は――彩香に六割。仁志に四割。助手席にいる仁志は、背もたれに身体を預け、目を閉じていた。眉間にはうっすらと疲労の影が落ちている。まるで眠っているようで、一切動かない。これ以上、星の「遺言」の話を聞いていたくなかったのか、雅臣は、やや強引に話題を変えた。「……蛇に噛まれたって、どういう状況だった?」星は、蛇に噛まれるまでの経緯を、かいつまんで説明した。雅臣は、黙って最後まで聞いていたが――「今は……痛くないのか」「ほとんど痛くないよ。ただ……力が入らない感じ。蛇に噛まれて免疫が落ちたのか、この二日ずっと熱が出たり引いたりで……」そう言う星の声を聞きながら、雅臣の張りつめていた
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第1166話

雲井家。星が行方不明になった――その知らせに、雲井家の人間は全員、屋敷に呼び集められていた。最初に声を荒げたのは、忠だった。「星が、この俺たちの目の前で丸二日も消えてたんだぞ。それなのに今になってようやく気づきましたって、どういうことだよ!」怒鳴りながら、彼はふっと二階を見上げ、鼻で笑った。「全部、あの恩知らずのせいだろ。ずっと隠してやがったからだ。翔太ってガキは、やっぱ母親そっくりだな。親子そろってロクでもねえ」その瞬間、正道と靖の表情が同時に冷えた。「忠!」「忠。言葉を慎め」明日香もすぐ口を挟んだ。「兄さん、翔太はまだ子どもだよ。そんな言い方やめて」すでに正道は、皆に釘を刺していた――大人同士の確執に、翔太を巻き込むな、と。若い頃の彼は、手段を選ばない男だった。けれど年を重ねたいま、あの頃みたいに血も涙もないやり方は、もうできない。少なくとも――翔太に危害を加えることだけは、絶対に許さない。誰も味方してくれないと悟って、忠は舌打ちを飲み込み、黙り込んだ。顔には露骨な不満が残っているが、さすがにこれ以上は言葉を飲み込む。そのとき、翔が口を開いた。「さっき山へ向かわせた者たちから連絡があった。星と彼女のボディガードは、伏兵に襲われたらしい。現場に残っていた痕跡から見るに……あれはM国の連中じゃない」靖が眉をひそめた。「M国じゃない?他の国にも、星の敵がいるってことか」忠は、ここぞとばかりに鼻で笑った。「ほら見ろよ。星なんて、厄介事しか連れてこねえ女だ。どこ行っても嫌われて、とうとう他国の連中まで敵に回したってわけだ。そりゃ、雲井家に戻りたがるわけだよ。守ってもらうためにな」誰も相手にしない。明日香は、翔のほうを向いた。「翔兄さん、どこの国の人間かまでは分かったの?星を狙った理由は?」M国での雲井家の情報網は、他の追随を許さない。翔は、短く答えた。「L国の人間らしい。それ以上は、まだ掴めていない」――L国。明日香は、細めた目の奥で素早く何かを組み立てる。そのとき、彼女の携帯が鳴った。「ちょっと失礼」家族にひとこと残し、明日香は席を立って電話に出る。受話口の向こうから聞こえてきたのは――司馬優芽利の兄、怜央の声だった。「星が失踪したと聞いた
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第1167話

怜央は、少しだけ声を落として言った。「明日香、考えすぎだよ。俺はただ、星の歩みをちょっと遅らせたいだけだ。明日、彼女には大事な契約が入ってるだろ?現場に本人が行けなければ、その契約は自然と白紙になる」怜央は、楽しそうに笑った。「今、星は小林グループの株を押さえてる。それに、忠の会社まで底値でさらって行った。このまま勢いがつけば、もう誰にも止められない。そこへさらに、大きな契約がいくつか積み重なったら――雲井グループの中での立場なんて、誰も揺るがせなくなるだろう?」言葉は淡々としているのに、棘は鋭い。「明日香、分かってるよな。ビジネスってのは戦場だ。星は、決して綺麗ごとだけでここまで来たわけじゃない。忠の会社を手に入れたときだって、ギリギリの手を使った。それなのに、俺たちが少し仕掛けて、彼女の歩みを遅らせることすら許されないのか?」明日香は、ぐっと言葉を飲み込んだ。怜央は追い打ちをかけるように続けた。「お前は星に情とか義理を言うけどさ、星は雲井家にそれを向けたか?最近の彼女の動きを見ろよ。血のつながりなんて、少しでも気にしてるように見えたか?」返す言葉が、見つからない。怜央は、少しだけ声を和らげた。「まあ、いいさ。この件は俺に任せてくれ。お前が気に病む必要はない。加減は分かってる」明日香は、それ以上反論せず、別の話題を出した。「……優芽利は、最近どう?あの動画流したやつ、捕まった?」怜央の瞳に、一瞬、鋭い光が走った。「まだ捕まえてはいないが、誰がやったかはもう分かっている」「誰?」「清子だ」明日香は思わず声を上げた。「彼女が?そんな度胸、どこから……」怜央は冷たく吐き捨てる。「裏で勇って小物が手を貸したんだろう。山田家には、すでに罠を仕掛けてある。そう遠くないうちに、山田家は終わる」明日香は、小さくため息を漏らした。「……それなら、優芽利にとっても、ひとつの復讐にはなるね」怜央が、さらに何か言い足そうとしたそのとき――ふと、視線を横に向けた。そこに、いつからいたのか分からないほど静かに、優芽利が立っていた。影のように、音もなく。怜央は一瞬だけ動きを止め、すぐ電話へ戻った。「明日香、急用ができた。また連絡する」「うん」通話を切ると、優芽利の方へゆっくり
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第1168話

優芽利の顔色が、さっと変わった。大きな瞳が揺れ、彼女は勢いよく怜央を見上げる。「……今、なんて言ったの?彼……結婚してたって?」怜央は、視線をそらさず静かにうなずいた。「今回、彼を追っている連中は、昔の婚姻関係と関係があるらしい。その相手は……彼にとって、特別な存在だったんだろう。だからこそ、連中を完全には始末しなかった」優芽利は、目を見開いたまま息を詰まらせた。「いや……嘘。そんなの、信じない」怜央は、あくまで淡々と続けた。「優芽利。そろそろ現実を見ろ。仁志みたいな男が、過去ゼロの真っ白な人間なわけないだろう?お前だって、長くそばにいたんだ。あの落ち着き方、あの人間関係のさばき方……どう見ても経験のある男だ」言われてみれば――確かに。女性へのさりげない気遣いも、距離の取り方も、何も知らない男には出せない空気だった。優芽利の心が、ほんのわずかに揺れた。「……その、結婚してた相手って誰なの?」怜央は、肩をすくめて見せた。「そこまではまだ分からない。彼が、かなり徹底して守ってるみたいでな」優芽利は、ギュッと拳を握りしめた。「……でも、今は一人なんでしょ?もう離婚してるのは明らかじゃない。誰にだって過去はあるよ。過去に誰かがいたからって、私は嫌いになったりしない。私は……一度好きになった人の全部を、好きになる」怜央は、内心で舌打ちしたくなった。――ここまで言っても、まだ折れないのか。「優芽利。お前は最初に好きになった男に、そこまでこだわってる。なら、仁志も同じだと考えろ。その相手は、きっと彼にとって特別だ。世の中には、いい男なんていくらでもいる。彼だけが、すべてじゃない」優芽利の瞳から、少しずつ光が抜けていく。静かに、ぽつりと落とした。「……それ、全部兄さんの想像でしょ。本人の口から聞くまでは、私は信じない」怜央が何か返そうと口を開く前に、優芽利はすでに背を向けていた。そのまま、振り返らずに去っていく。怜央の眉間に、深い皺が刻まれる。ちょうどそのとき、ポケットの中で携帯が震えた。「司馬さん。清子を確保しました」その名を聞いた瞬間、怜央の目が冷たく光る。「……優芽利のところへ連れて行け」電話を切ろうとしたとき、助理が慌てて付け足した。「あの……司馬さん。こ
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第1169話

「でも──」謙信が言いかけた瞬間、通話は無情にも、ぷつりと切れた。謙信はしばらく携帯を見つめたまま、呆然として言葉を失った。仕事に集中していた雅人が、横目でその様子をちらりと見る。さっきの会話の断片だけで、大体の事情は察したようだった。「ほらな。前から言ってただろ。仁志さんの我慢にも限界があるって。ここまで抑え込めてたのは……全部、あの人の存在があったからだよ」謙信は、ゆっくりと我に返った。「……つまり、星野さんこそ、仁志さんの本当の逆鱗だ、ってことね」雅人は、肩をすくめてみせた。「さあ、どうだろうな。だってさ、前にも特別だと思ってた人、いたじゃないか。結局、今こうなってみれば……大差ないだろ?」謙信は、ふと口を開いた。「本当にもう特別じゃないって、どうして言い切れる?」雅人は目を瞬かせ、すぐに謙信の意図を理解した。言い返そうとして──言葉が出てこない。少しの沈黙のあとで、ぽつりと漏らした。「……まあ、確かにな。仁志さんが本当のところどう思ってるかなんて、誰にも分かんねえ」謙信は静かに続けた。「でも一つだけ確かなのは……仁志さんにとって、星野さんと、昔のあの方は、どちらも特別だったということだ。清子に関しては──」二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。──ただの暇つぶし。気まぐれ。それ以上でも、それ以下でもない。……清子は、長くは保てなかった。結局、洗いざらい吐いた。嘘をついていられるほどの余裕も、もう残っていない。怜央の目は鋭すぎるし、使う手段も容赦がなかった。今の清子は、息も絶え絶えのまま怜央の足元に転がり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。すべて喋ってしまったにもかかわらず、彼女の心のどこかには、まだ一縷の望みが残っていた。「言えることは……もう全部言った。だから……もう放して……もし仁志が、あなたが私にしたことを知ったら……絶対、許さない!」怜央は部下からタオルを受け取り、手を拭きながら鼻で笑った。「そりゃあ、お前みたいなのが仁志に転がされるわけだ。救いようがないな。あいつが本気で、お前を助けてるとでも思ってるのか?」清子は、かすれた声で言い返す。「挑発しても……無駄……私は騙されない……」怜央はタオルを部下に返し、ゆったりとソファに身を沈めた。
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第1170話

「助ける?」怜央は、あざけるように口の端を歪めた。「お前なんて、あいつにとっちゃ暇つぶしのオモチャだよ。お前が助けてもらったって思ってることだって、あいつにしたら、口を開けば一言で済むことだ。清子──自分を高く見積もりすぎだ。あいつは最初から、お前が偽物だってとっくに分かってたよ」怜央と仁志は、根っこの部分がよく似ている。人の心を弄ぶことにかけては、怜央も一流だ。清子は、決して巧みな詐欺師ではない。優芽利や明日香を騙すくらいなら、まだ簡単だろう。だが──死体の山を踏み越えてきたような人間を、同じやり方で騙せると思うのは、勘違いもいいところだ。怜央は、見下ろすようにして言葉を継いた。「清子。そもそも、お前は一度も疑問に思わなかったのか?あの冷酷非情な仁志が、たった一曲の演奏で、お前に心酔するとでも?もし本当にそんな安っぽい男だったら、お前が今こんな惨めな状態に転がってるはずがないだろ」怜央は、ようやく全体像を掴んだとでも言いたげに、鼻で笑った。初恋だの、自分を救う人を探していただの──そんな話は全部、その場しのぎの与太話だ。仁志が、気まぐれで口にした設定にすぎない。それを信じ込んだのが、清子と優芽利だ。そもそも、顔も知らない相手を命より大事な初恋扱いするか?もし振り返ってみたら、とんでもないブサイクだったらどうする。自分の母親より年上だったら?毎晩悪夢を見ることになるぞ。彼が明日香を初恋に仕立てたのは、実際に言葉を交わし、励まされ、心を救われた経験があったからだ。じゃあ、あのヴァイオリンを弾いた人物は、何をした?命を救ったか?自分を守るために動いたか?──違う。ただ、後庭で一曲弾いただけだ。もし顔まで見ていて、その美しさに一目惚れしたのなら、まだ話は分かる。だが仁志が見たのは、背中と音色だけだ。それで「自分は特別だ」と信じ込める、その自信は、すでに常識の域を超えている。怜央は、幽霊のように青ざめた清子を見やり、さらに告げた。「仁志がお前をそばに置いていたのはな──優芽利を潰させるためだ」怜央は、小さく首を振った。「まさか優芽利が、お前みたいな間抜け女に足をすくわれるとは、俺も思ってなかったけどな」清子の脳裏を、これまでの出来事が走馬灯みたいに駆け抜ける。これまで説明のつかな
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