All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1251 - Chapter 1260

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第1251話

星は、影斗が口にしていた「断れないお見合い」という言葉の重みを、ようやく腹の底で理解した。星は静かに、しかし迷いなく告げる。「万代さん。私の恋人は仁志じゃありません。影斗です。Z国にいた頃からの知り合いで……これまで何度も助けてもらいました」宗一郎は、わずかに眉をほどいた。「影斗か……若い連中の中では、まあ悪くない男だ」そう言ってから、言葉を区切る。「ただしな。あいつの事業の主戦場はM国の外だ。君の役に立つ範囲は、どうしても限られる」低い声が、さらに沈んだ。「星。雲井グループがここまで大きくなったのは、君の母親の功績が八割だ」宗一郎は目を細める。「だが今、その成果は正道の親子にがっちり握られている。それだけじゃない。表に出せない私生娘にまで分け与えようとしている……」そこで、宗一郎はまっすぐ星を見た。「星。君は、それを黙って見ているつもりか?」星は、ふっと笑った。「万代さん。仮に私が今ここで政略結婚を選んだとしても、短期間で雲井グループを取り戻すのは無理です」星は淡々と続ける。「それに、誰かと組むということは、目的を自ら公言するのと同じことです。私が早く動けば、彼らは必ず警戒します。妨害もして来ます。今の私は、まだ基盤が浅いんです。雲井家が私に手を出してこないのは、私が脅威じゃないと踏んでいるからです。でも、私が制御の外に出たと感じた瞬間……彼らは迷わず、排除しに来ます」星はさらに言葉を重ねた。「彼らが私と仁志の関係を黙認しているのも、計算のうちです」淡い笑みのまま、突き放すように。「仁志と一緒にいて私が得るのは、せいぜい心の支えくらいで、実利はありません。だから警戒されないんです。もし、私が掌握しづらい存在になって、なおかつ後ろ盾のある家と結びついたと知ったら……彼らはあらゆる手で、私の翼を折りに来るでしょう。万代さんも、ご存じの通り、今は正面からぶつかる時ではありません」宗一郎は数秒黙り込み、やがて満足そうに笑った。「……よく理解してるな、星。確かに、今は正道たちと事を構える時期じゃない」目を細めて、ゆっくり頷く。「君にすでに恋人がいるなら、これ以上無理強いはせん。だが、一度会うだけだ。あくまで知り合いとして、な」星が口を開きかけると、宗一郎は手を上げて制する。「心配するな。君の恋人に誤解を与え
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第1252話

仁志は星をじっと見つめ、静かに尋ねた。「……引き受けたんですか」星は首を振る。「ううん。影斗の名前を借りて、その場は流したわ」そして、少しだけ表情を曇らせる。「ただ、万代さんはあまり納得してないみたいで……誕生日の宴に、影斗を連れて来いって」星は息を整えるように言った。「幸い、影斗とは事前に話はつけてある。会えばうまく対応してくれると思う」仁志の目が、わずかに深くなる。しばし沈黙が落ちたあと、彼はぽつりと言った。「星野さん。僕、明日……休みを一日いただくかもしれません」M国に来てから、仁志はほとんど休んでいない。その言葉に、星は小さく驚いた。だが、彼がわざわざ休暇を口にする以上、軽い用事ではないはずだ。「私に、何かできることは?」と星は訊く。仁志は飾らず答えた。「実は……明日香さんを、レースに誘いました」星は一瞬、言葉を失った。「……あなたが?明日香を?レースに?」奇妙な話だ、と星は思う。彼女と靖たち三兄弟の確執は、もはや修復不能。けれど明日香とは、正面からぶつかったことは一度もない。親しくもない。衝突もない。それなのに――星が味わってきた不幸の起点は、いつも明日香だった。朝陽は、明日香のために星を嫌悪した。怜央は、明日香のために星の手を壊した。憎しみとまではいかない。けれど、どうしたって好きになれる相手でもない。星は一瞬ためらい、それでも言葉を選んだ。「仁志……目的が何であれ、女の子の気持ちを弄ぶみたいな真似だけは、しないで」星は計算や策略そのものを否定しない。ただ――相手の感情を踏みにじるやり方だけは、どうしても受け入れられなかった。かつての誠一もそうだった。明日香のために、わざと近づき、背後から刃を突き立てたのだから。仁志の深い眼差しが星を捉える。薄い唇が、わずかに弧を描いた。「安心してください」声は落ち着いているのに、どこか冷たく切れ味がある。「僕は色仕掛けるとか、そんな卑怯なことはしません」星は小さく頷いた。「分別があるなら、それで十分よ」それ以上、星は訊かなかった。彼女は、仁志を全面的に信頼していた。……雲井家。忠と翔は、明日香から「仁志にレースへ誘われた」と聞くなり、顔を見合わせて笑みをこぼした。翔が言う。「普段は星に張り付い
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第1253話

もっとも――雲井家の彼らも、仁志を駒として使う気でいる以上、今ここで決定的に揉めるわけにはいかなかった。翔が口を開く。「明日香。前に言ってたよな。仁志が白い月光を探してるって」翔は明日香の耳元のイヤリングへ視線を投げた。「お前、まったく同じの持ってる。そこから攻めたらどうだ?」明日香は、口元だけで薄く笑った。「白い月光の話は、もうしたくないの」淡々と、しかし容赦なく続ける。「最初は清子。次が優芽利。そこに私が出てきて……嘘が剥がれたら今度は星」明日香は肩をすくめた。「白い月光、増えすぎよ。多すぎたら、もう特別じゃない。希少価値があるから意味があるの。どれだけ大切な存在だったとしても、ここまで量産されたら価値は一気に落ちるわ」さらに、冷静に釘を刺す。「それに……清子と優芽利の件があったあとなら、彼も警戒してるはず。このタイミングで嘘をつくリスクに対して、見返りが小さすぎる」明日香は、挑戦的なものやスリルが好きだ。けれど仁志と実際に接してみて――正直、少し拍子抜けしていた。この男のどこが特別なのか。どうしても、彼女には見出せない。それ以上に理解できないのは――優芽利が、なぜあそこまで執着したのか、という点だった。翔は慎重に、語尾を抑えて言う。「……それでも仁志は危険だ。できるだけ、あいつの車には乗らないほうがいい」翔の目が冷える。「途中で精神状態が崩れたら……お前が巻き込まれる」明日香は短く頷いた。「分かってる」翌日。明日香は約束の十分前にサーキットへ着いた。だが意外なことに、仁志の姿がまだない。怜央や朝陽と約束すれば、少なくとも三十分前には来る。それに比べて、この男は――ずいぶんのんびりだ。約束まで残り二分。そのとき、どこにでもいそうなセダンが、ゆっくりと彼女の前に滑り込むように停まった。「雲井さん。お待たせしました」明日香は笑顔を崩さない。「大丈夫。私も今来たところだから」ただ視線だけが、仁志の背後の車へ向いた。外見は普通。普通すぎるほど普通。「仁志。その車……改造車?」仁志は即答する。「いいえ。普通の車です」明日香の眉が、ほんの少しだけ寄った。「……その普通の車で、私と走るつもり?」仁志は落ち着いた声で言った。「雲井さん。今日お誘いしたのは、
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第1254話

レーサーにとって、自分のマシンは第二の命だ。見ず知らずの相手に試乗させるなんて、そう簡単にできることじゃない。それは勝つための道具でもある。万が一、相手が何か細工でもしたら――?明日香と朝陽は、レースで繋がった仲だ。それでも朝陽ですら、曦光を試乗したことはない。仁志とは、まだそこまでの間柄じゃない。本音を言えば、貸したくない。でも――今日ここで断ったら、二人の関係はここで終わる。明日香は数秒だけ迷って、それでも頷いた。「……いいわ」どうせマシンは、目的を叶えるための道具。胸の奥がちくりと痛む。それでも取捨選択はできる。たかが一台。最悪、今日が終わったら同じ仕様で作り直せばいい。仁志はそれを聞くと、薄く笑った。「雲井さんは、さすがですね。この街の社交界で有名なお嬢様です。親切で、度量もあります」明日香も笑みを返す。上品で、どこか冷たい笑み。「気の合う友人に出会えて、うれしいわ」「では、お言葉に甘えます」仁志の声は淡々としていた。「どうぞ」仁志は運転席に乗り込み、ドア越しに明日香を見上げる。「雲井さんは乗らないんですか?」明日香は涼しい顔で言った。「せっかくのサーキットだもの。勝負したほうが楽しいでしょう?」そう言って、ガレージ奥の別の一台を指す。「あれで一本走るわ。どう?」「問題ありません」即答だった。明日香は身を翻し、別の車へ乗り込む。スタートの合図。二台は同時にスタートラインを蹴り、勢いよく飛び出した。ほどなくして、仁志の駆る曦光が前へ出る。――だが明日香は、追わなかった。むしろ、気づかれないように速度を落とす。車が消えるのはいい。でも、あんな命知らずに巻き込まれて命まで落とすのはごめんよ。数分後。曦光は視界から完全に消え、影も形もなくなった。そのとき、明日香の携帯が鳴る。Bluetoothイヤホンで通話をつなぐ。「明日香」電話の向こうは忠だった。声が苛立っている。「仁志が、お前の車でサーキットの敷地を出た。街の方へ向かってる。しかも、かなり目立つ走り方だ」鼻で笑う音。「わざとだろ。お前の車に乗っている自分を、見せびらかして、縄張り宣言してるつもりなんだ」明日香の車に乗れることは、多くのレーサーの憧れだ。追いかけ回している連中が見れば、二
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第1255話

忠は低い声で言った。「……分かった」通話を切ると、明日香は仁志とは反対方向へとハンドルを切った。溝口家の人間は、どこか歯止めが利かない。ああいう極限の遊びを娯楽にできる連中には、近づかないほうがいい。巻き添えを食うのは、真っ平ごめんだ。……再び救命され、どうにか一命を取り留めた怜央は、ついに病院を出る決断をした。安全な場所で静養する――そういう名目だ。行動予定はすでに漏れていた。傘下の病院は買収され、院内の安全すら信用できない。このまま入院を続ければ、また命を狙われるのは目に見えている。車に乗り込むと、もともと血の気の薄かった怜央の顔色が、さらに白く見えた。命に別状はない――と言われても、片腕は失い、襲撃も何度も受けた。身体がまともなはずがない。後部座席に深く身を沈め、怜央は目を閉じる。浅く、短い呼吸。最近、起きた出来事が多すぎた。エデ家から奪われた貨物の処理は、まだ終わっていない。司馬家の内部では、退任を求める声が露骨に増え始めた。さらに、彼の写真がネットに流出し――「顔が怖すぎて子どもが泣く」「表に出るな」などという嘲笑まで飛び交っている。終わりの見えない暗殺未遂の連続は、精神をすり減らした。負傷してからは集中力も落ちている。自覚があるのが、またきつい。そのとき――車が大きく揺れた。怜央が目を開く。「……何だ」運転しているのは、長年仕えてきた腹心だ。腕も度胸もある。修羅場もくぐってきた。だが今、額には薄い汗。「司馬様……後ろから、一台……突っ込んできました……」怜央に驚きはなかった。想定の範囲だ。「排除しろ。手加減はいらん」しかし運転手の汗は増える一方だった。ルームミラー越しに怜央をちらりと見て、慎重に言う。「司馬様……一度、後ろの車を……ご覧になったほうが……」怜央は何気なく視線を向け――その瞬間、顔色が変わった。明日香の曦光。特殊改造。世界に一台。性能だけじゃない。タイヤもガラスも防爆・防弾仕様。素材もパーツも、現行最高峰で固めた怪物。その曦光が――今、こちらに体当たりしている?冷静な怜央の思考が、一瞬だけ真っ白になった。困惑を見透かしたように、曦光の運転席側の窓がゆっくり下がる。現れたのは――整いすぎるほど整った男の顔。男は怜央へ軽く合図
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第1256話

怜央はすぐに衝撃から立て直した。彼も車窓を下ろし、仁志を睨みつける。目に宿るのは、噛み砕きたいほどの憎悪。「……なぜ、お前が明日香の車を運転している」仁志は気にも留めない様子で笑う。「貸してくれたからですよ、雲井さんが」肩をすくめるように。「まさか、許可もなく乗り回すとでも?」怜央は歯を噛みしめた。目が血走る。「……なぜだ」声が低く震える。「なぜ、明日香は曦光をお前に貸した」仁志は数秒、考えるふりをしてから答えた。「雲井は、強い人が好きだって聞いてます」目線が冷たく細くなる。「僕があなたに勝てると思った。だから曦光を貸した――そういうことじゃないですか?」怜央の拳が反射的に握りしめられる。曦光は――自分ですら、一度も借りたことがない。それを今、自分を瀕死に追い込み、耳と腕を奪った張本人に貸した?怒りが渦を巻く。同時に、胃の奥から裏切りみたいな感覚がせり上がる。――明日香が自分を好いていないことくらい、最初から分かっていた。それを恨んだこともない。腹を立てたこともない。彼女ほどの女なら、目が高くて当然だとさえ思っていた。何より、怜央は明日香の野心を理解していた。男に引けを取らない胆力と手腕。それを、むしろ高く評価していた。彼女が高みに立つなら、自分が踏み台になることすら厭わなかった。だが――それは、自分を踏み台にして自分の仇敵を成り上がらせることとは違う。仁志はさらに、淡々と積み重ねる。「怜央さん。信じますか?」声が柔らかいのに、言葉が冷たい。「今日、僕がここであなたを轢き殺して、曦光を大破させたとしても――雲井さんは、きっと一言も文句を言いませんよ」わざとらしく息を吐く。「かわいそうですね」笑みだけは穏やかだ。「それだけ重傷なのに、女神はあなたの仇とレースを楽しんでる。でも雲井さんを責めないであげてください」仁志は、何でもないことのように言う。「今のあなたには……価値がありません。この車、怜央さんがご自分で弄ったって聞きました」視線が車体のラインをなぞる。「なるほど。確かに癖のある走りですね」露骨な罵倒はしない。だが一言一言が、同じ事実を突き刺す。――明日香は、もう怜央を見ていない――価値を失った人間は、用済みだ。事実、あの日。見舞いに来て以来、明日香は二度と姿を見せなか
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第1257話

雅臣や影斗、航平――あのあたりは、とっくに気づいていた。雲井家の人間もまた、仁志と星の関係がはっきりしないことを早くから嗅ぎ取っている。仁志は言った。「ここまで分かりやすく態度に出してるのに、怜央さんは今さら気づいたんですか」口元に薄い笑み。「その程度の頭で家主になれたっていうのは……正直、ちょっと驚きました」そして、ゆっくり笑う。「じゃあ雑談はここまで」目が、笑っていない。「――そろそろ清算の時間です」……明日香が電話を取ったとき、彼女はカフェでコーヒーを飲みながら、ネットニュースを眺めていた。予想通り。曦光が姿を見せてから、ほんの数分で関連ワードが一気にトレンド入りしている。明日香の瞳に、かすかな侮蔑が浮かぶ。彼女に好意を寄せる男は多い。手口も山ほど見てきた。こういうやり方は――明日香の基準では「三流」だ。兄たちに言われていなければ、仁志みたいな男を二度と視界に入れようとも思わなかった。彼女は本気で、愚かさが嫌いなのだ。接触する前は、仁志という男を底知れない存在だと思っていた。だが実際に関わってみると――拍子抜けするほど薄かった。そして明日香は、最近ずっと疑い始めていた。仁志が星を助ける理由は、自分たちが想像しているほど複雑じゃないんじゃないか、と。そう考えていた矢先――「仁志が事故に遭った」という連絡が入った。話を聞いても、明日香の表情は変わらない。曦光は、誰でも操れる車じゃない。男が車を征服したいと思う心理は、女を手に入れたい欲望と同じだ。実力が伴わなければ、事故は時間の問題。だからこそ彼女は追いかけなかった。――案の定、だ。明日香はカップを置き、淡々と言う。「分かった。今から向かう」彼女はすぐに現場へ車を走らせた。来る前から、多少の損傷は覚悟していた。だが――地面に転がる曦光を見た瞬間。まるで鉄屑みたいに歪んだ車体を見た瞬間――さすがの明日香も、言葉を失った。車内に散らばるいくつかの見慣れたパーツがなければ、それが自分の車だと信じられなかっただろう。それほどまでに、完全な廃車だった。野心のためなら取捨選択を惜しまない彼女でも、愛車がここまで無残になった姿を見れば、胸の奥が締めつけられる。「……これは……」仁志が申し訳なさそうに言った。「すみま
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第1258話

彼は彼女の胸の内を、驚くほど正確に言い当てた。明日香は、信じがたい気持ちで仁志を見た。仮に、自分の意図に気づいていたとして――なぜ、それをわざわざ口に出す?この瞬間、仁志の振る舞いは明日香に疑念を生んだ。愚かな男に見えるのに、こちらの考えは見抜く。賢いなら賢いで――なぜ自分からネタを明かす?そのとき、誰かが明日香の前へ歩み出た。「雲井さん」顔を上げた明日香の表情が、わずかに変わる。「安藤……?どうしてあなたがここに?」安藤(あんどう)は怜央専属の運転手。長年そばにいる男だ。明日香もよく知っている。安藤は淡々と告げた。「この方が、司馬様の車に衝突しました」声が硬い。「司馬様は負傷され、いま病院へ搬送されて救命処置中です」安藤の目には、不満と非難が混じっている。「雲井さん。曦光は、司馬様があなたのために自分で改造した車です」一歩踏み込む。「それを……どうして他人に貸すんですか?」明日香は愚かじゃない。その一言で、即座に理解した。――やられた。明日香は勢いよく仁志を見る。当の本人は、薄い唇に笑みを浮かべたままだ。「怜央さんの車だったんですか」他人事みたいに。「それは……本当に偶然ですね」仁志は肩をすくめる。「道路には車が山ほど走ってるのに、よりによって怜央さんの車に当たるなんて」薄く笑う。「悪いことしすぎて、神様が見過ごせなくなったんじゃないですか。罰を与えようとした――とか」その瞬間、明日香は確信した。自分は最初から最後まで、完全に弄ばれていたのだ。安藤は怜央に長く仕えている。仁志と怜央の因縁も、怜央が明日香のためにどれほど尽くしてきたかも知っている。だからこそ、悔しさが抑えられなかった。「雲井さん。司馬様があなたのために、どれだけのことをしてきたと思ってるんですか?司馬様が重傷で入院しても、あなたは一度見舞ったきりでした」声が荒くなる。「それどころか、司馬様を殺しかけた相手と食事までしてます。そして今度は、司馬様があなたのために改造した曦光を、この男に貸しました」安藤の目が赤い。「結果、司馬様はこの男にぶつけられて重傷です。司馬様がここまで追い込まれたのは誰のためですか。あなたのためでしょう」吐き捨てるように。「それなのに、あなたは司馬様に何をしたんです?何もできないな
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第1259話

安藤が去ると、明日香は仁志へ視線を戻した。さっきまでの穏やかさは消え、瞳の奥に冷たい光が宿っている。「……見事な手並みね」仁志は淡々と返す。「雲井さんには及びませんよ」薄く笑って、言葉を続けた。「あなたは借り物の刃で人を斬るのが上手いんです。でも僕は……自分の手でやります」ここまで来て、明日香は悟った。仁志を取り込む余地なんて、最初からなかったのだ。彼女は問う。「私を使って怜央を追い詰めるつもりなら……どうして最後まで演じ続けなかったの?」声の温度だけが落ちる。「なぜ、こんなに早く正体を明かしたの?」仁志は一切ためらわない。「雲井さんほど器用じゃありませんから」肩をすくめる。「嫌いな相手に、長い間、愛想笑いを続けるなんて無理です」そして、さらりと刺した。「中には――演技ですら耐えられない相手がいます」目が笑っていない。「残念ですけど、僕にとって雲井さんは……まさにその類です」明日香は表情を保つのがやっとだった。これほど露骨な嫌悪を向けられたのは初めてだ。胸の奥に、言いようのない違和感が広がっていく。彼の言動は、そのすべてが彼女の境界線を踏みにじっていた。明日香に好意を寄せる者は多い。嫌う者も少なくない。男女問わず――特に女が多い。男の多くは、相手にされなかった者たちだ。手に入らないから貶す。そんな構図は見飽きるほど知っている。残りは、理由もなく嫌う人間。そういうのは、普段なら気にもしない。自分を嫌う感情など、彼女の人生に何の影響もない。無関係な存在に時間も労力も割く価値はない。――なのに、今は違った。理由が、知りたくなったのだ。明日香は静かに問う。「……私が、あなたに何をした?どうして、そこまで私を嫌うの?」仁志は彼女を真っすぐ見据え、低い声で言った。「星野さんが味わってきた苦しみは……全部あなたが原因です。彼女は、あなたのせいで壊れた家庭で育ちました」言葉が冷たく研がれる。「彼女が外で苦しんでる間、あなたは彼女の場所に座って、何不自由ないお嬢様として生きてました。その後も、あなたの存在が引き金になって――彼女は手を壊されました」一つずつ、確かめるように。「ヴァイオリンが弾けなくなって、愛してた仕事にも就けなくなりました」仁志は最後に、短く言い切る。「――十分な理
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第1260話

以前の明日香は、怜央の偏愛など気にも留めなかった。だが、その矛先が別の女へ移った瞬間――初めて、悔しさに似た感情が胸を刺した。自分は何もしてない。それなのに、どうしてここまで侮辱されなきゃいけない。けれど仁志はもう、彼女を相手にしなかった。腕時計に視線を落とし、周囲を見回す。五、六分ほどして、一台の車が仁志の横に停まった。降りてきたのは星だった。表情は硬い。瞳の奥には隠しきれない心配が滲んでいる。「仁志……どうして事故なんて……?」星の姿を見た瞬間、仁志の目にかすかな光が宿った。「ブレーキの反応が鈍かったんです。気づくのが遅れて、ぶつけました」星の視線が、そばに立つ明日香へ向く。「雲井さん、大丈夫?」明日香が答えるより先に、仁志が淡々と説明した。「同じ車には乗ってません。雲井さんは無事です」仁志は重傷には見えない。それでも事故は事故だ。腕と頬に擦り傷がある。星はきっぱり言った。「念のため病院で検査しよう。内臓のダメージは、遅れて出ることもある」ついさっきまで明日香の前で傲慢だった仁志が、一瞬で素直な好青年みたいな顔になる。「星野さん、すみません。また迷惑をかけました」「謝らなくていい。あなたの体が一番大事」星は淡々と背中を押す。「行こう。先に検査」明日香は、その一部始終を黙って見ていた。胸の奥に、言葉にできない複雑なものが湧く。星が車に乗り込もうとしたとき、ふと明日香の視線に気づく。そして、脇に転がるように潰れた曦光を見て、眉がわずかに動いた。星は明日香の前へ歩み寄った。「ごめんなさい。あなたの車を壊してしまったみたいね。修理に必要な部品や材料、それか賠償など……必要なものがあれば教えて、できる限り、補償する」星は分かっている。曦光みたいな意味のあるものは、何を積んでも埋められない。それでも――解決しようとする姿勢だけは、示したかった。明日香は大きく荒れもせず、淡々と頷いた。「……分かったわ」ほどなくして星の車は走り出し、仁志を乗せたまま、明日香の視界から消えていった。……医師は仁志に全身検査を行った。擦過傷はあるが、深刻な内傷はない。臓器にも異常なし。診察室を出た星は、ようやく少し息を吐いた。仁志は処置室で薬を塗ってもらっている。星は迎えに行こう
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