All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1241 - Chapter 1250

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第1241話

航平は呆然としたまま、床に散った破片を拾い集めた。指先がわずかに震え、瞳孔も、小さく揺れていた。星は、こんな航平を見たことがない。胸の奥に罪悪感が一気に押し寄せた。「航平……大丈夫?」航平はうつむいたまま、顔が見えない。しばらくして、擦れた声だけが返ってきた。「……大丈夫だ」星は、仁志をかばうように言いかける。「航平、仁志もわざとじゃ――このオルゴールは……」床の欠片を見て、言葉を探した、その瞬間。仁志が先に口を開いた。「鈴木さん、ご安心ください。僕が修復します」さらりと、息をするみたいに続ける。「もし無理なら、その彫刻家を探して、同じものを作り直させます」航平は内心で笑った。――同じ?これは一点ものだ。二度と同じものなんて作れない。そのとき、航平の視線がふと星のデスクへ移った。以前、彼が落としてしまい、花びらを数枚散らした薔薇がある。薔薇はプリザーブドフラワーになって、いまはオフィスでいちばん目立つ場所に飾られていた。星はその視線に気づき、ほんのわずか目を揺らす。そして自然な動きで一歩前へ出て、さりげなく航平の視界を遮った。「航平、もうすぐお昼だし……私、おごる。食べに行こう」航平はまぶたを伏せる。「……うん」こんな直後に、星が仁志まで連れて昼食に行けば、それこそ空気が読めなさすぎる。星は仁志へ向き直った。「仁志、お昼は先に一人で食べてて。私は航平と外で食べるから」仁志は引き止めない。「分かりました。何かあれば連絡ください」そのやり取りが、航平にはひどく目障りだった。――上下関係の会話じゃない。長く付き合ってる恋人同士みたいに、呼吸が合いすぎている。星と航平が出て行ったあと、仁志は床一面の破片を見下ろし、目を細めた。深い瞳が、底のない闇みたいに沈む。彼は破片を一つ残らず集め、袋へ入れた。そして十分後、その袋を提げてビルの下へ降りる。そこには雅人がタクシーの中で待っていた。仁志は袋を渡す。「調べて。オルゴールに余計なものが入ってないか」雅人は受け取り、短く答えた。「了解です」タクシーが動き出した、その直後。背後から、柔らかく澄んだ声がした。「仁志」振り返ると、明日香がゆったりと歩いてくる。上品な笑み。けれど気取った感じはない。長く会っていなかった旧友みたい
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第1242話

明日香は笑みを崩さないまま言った。「仁志の仕事ぶり、ほんと感心する。敬意すら湧くくらい」仁志は一度だけ、妙な目で彼女を見た。だが何も返さない。明日香は時間を確認して、さらりと言う。「もうお昼ね。よかったら、一緒に食事しない?」あくまで軽い誘い。明日香自身、仁志が応じるとは思っていなかった。星と雲井家の関係がある。公然と自分と親しくすれば、余計な憶測を呼ぶ。彼にそんな不用意な真似ができるはずがない――そう踏んでいた。ところが。仁志はあっさり言った。「雲井さんのおごりですか?」明日香は一瞬きょとんとして、すぐ笑う。「もちろん。私がおごるわ」昼食代なんて、どちらにとっても誤差だ。それでも彼がそう言ったのは――行くという意思表示そのものだった。明日香は笑顔のまま尋ねる。「何が食べたい?」仁志は、近くの高級レストランの名をさらっと挙げた。雲井グループ本社周辺は、街でも一等地。一流の店が並ぶ中でも、その店は客単価が高い。普通のお嬢さまなら一瞬ためらうレベル。けれど明日香にとっては、何でもない。「いいわ。車、呼ぶね」ほどなくして二人は店に入った。スタッフがメニューを差し出す。「ご注文はいかがなさいますか?」明日香は仁志を見る。「仁志、食べたいものある?」仁志は淡々と答える。「ここは初めてです。おすすめがあれば、教えてください」明日香が軽く笑う。「いいわ」いくつか料理を挙げ、仁志は静かにうなずいた。料理を待つ間、会話は取り留めなく転がる。明日香は急に探りを入れない。この店の看板は何か、食材はどうか――まずは当たり障りのない話題から、自然に距離を詰める。そして気づけば、話題は星へ移っていた。明日香が言う。「星が家に戻ってきた頃はね、あまり多くを話さなかった。でも礼儀正しくて、受け答えも品があって……それに驚くほどしっかりしてた」雲井家での小さなエピソードをいくつか挙げる。そこに悪口は一切ない。過去の摩擦にも、わざと触れない。もちろん、仲良し姉妹を演じて見せることもしなかった。表面上の礼儀が保てていれば十分。姉妹みたいに親しくなるなんて、ほとんど不可能だ。仁志が口を開く。「星野さんから聞きました。彼女は幼少期からヴァイオリンを習い、A音大を卒歴だそうですね」そこで、わずかに目を細める
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第1243話

「父や兄には、星に家族のために捧げろなんて要求する資格、ないと思うの。星はただ、自分がやりたいことをやればいい」明日香は、静かな声で続けた。「正直に言うとね。私は、星が少し羨ましい。彼女には、自分の人生を自分で選べる自由がある」ふっと息を吐いて、表情を崩さないまま言う。「でも私は、幼い頃から雲井家で育って、いろんな恩恵を受けてきた。だから――家が決めた道に従う責任があるの」明日香はどこまでも冷静で、理性的だった。境遇を嘆きもしないし、思うように生きられないことを恨みもしない。――欲しいものがあるなら、それに見合う代価を払う。当たり前で、公平な話。彼女はそれを、ちゃんと理解している。同時に、恵まれた立場にいることを誇示することもない。手にしているものが大きいほど、むしろ余計に静かだった。その佇まいには落ち着きがあって、自然と人の敬意を集めてしまう。仁志が口を開いた。「雲井さんの母親と、星の母親の間にあった因縁について、いくつか噂を耳にしてます。その件を、雲井さんはどう思いますか?」明日香は淡く微笑んだ。「上一代の因縁は、私たちの世代には関係ないわ。親の是非に、子どもの私たちが口を出す資格はない。誰が正しくて、誰が間違ってたのか――それを裁く立場でもないもの」完璧と言っていい答えだった。言葉の選び方も、間の取り方も、知性と品格が滲む。彼女が第一名媛と呼ばれるのは、偶然じゃない。そのとき、料理が運ばれてきた。テーブルに皿が揃った瞬間、仁志がふいに言った。「雲井さん。写真、撮っていいですか?」明日香は首をかしげる。「写真?」「せっかく高級店に来ましたので。料理を撮って、SNSに上げようかと」明日香は一瞬、言葉を失い――次の瞬間、思わず苦笑した。溝口家は世界有数の大富豪一族。仁志がその気になれば、毎日だって食べられる。――まだ知らないふりをするのね。自分も優芽利も、仁志が溝口家の当主だって、もう気づいてるのに。……演技、か。明日香は少し体を引いて、笑顔で言った。「もちろん。どうぞ」仁志は二枚ほど撮影して席に戻る。だがすぐには箸をつけず、携帯を見下ろして投稿していた。それを見て、明日香はなぜだか可笑しくなる。「仁志。よかったら、フレンドにならない?」「いいですよ」仁志は顔
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第1244話

写真の隅に、見覚えのあるキーホルダーが写り込んでいた。優芽利は明日香と長い付き合いだ。雲井家にも出入りしていた。一目で分かった。――あれは、明日香のもの。つまり。――仁志が、明日香と昼食を?どうして。なぜ、今。清子の件が暴露されてから、優芽利は長い間、自分から仁志の前に姿を現していなかった。会わせる顔がない。自分でも越えられない一線を抱えたまま、彼の前に立てるはずがない。カウンセラーにも通った。整えようとした。けれど効果は薄く、感情は相変わらず制御できない。抑えきれなくなると、彼女は清子に当たった。その結果、清子はすっかりやつれて、見る影もない。優芽利は目を擦り、もう一度画像を拡大する。一枚目は問題ない。二枚目は――角度が悪くて、たまたま写っただけ……たぶん。優芽利ほど目が鋭くなく、明日香の持ち物を知り尽くしていなければ気づけないレベルだ。それでも、優芽利には十分だった。彼女は携帯を乱暴に投げ、怒りを清子にぶつける。「……あの、クソ女」充血した目のまま、言葉が荒れる。「私のものまで奪う気?奪うの?ねえ!」明日香への怒りが、清子へとすり替わっていく。理屈では分かっていても、止められない。――このタイミングで――自分が一番不安定なときに。実の兄が明日香のために自分を捨てたことですら耐え難いのに。それだけじゃない。明日香は、優芽利が仁志を想っていると知りながら、平然と彼の隣に座った。この瞬間、憎しみは頂点に達した。あの綺麗な顔で正しさを語る女を――今すぐ壊したいほどに。だが、優芽利はすぐに息を整える。氷みたいな目で清子を見下ろしながら、心の奥では別の考えが蠢いた。――私は壊された。なのに、明日香はどうして、あの高嶺の女神のままでいられる?もし彼女も、私と同じ目に遭ったら。それでも、あんな余裕の笑みを浮かべていられるの?……一方、病院。救命処置を何度も受けた怜央が、ようやく目を覚ました。ベッド脇にいたのは優芽利ではなく、秘書だった。秘書は怜央が目を開けたのを見て、ようやく息をつく。「司馬様……これで三度目です。私たち、三回目の襲撃を受けました。司馬様が負傷して入院した情報が、どこかに流れたようです。いま、複数の刺客が病院に入り込もうとしていて……」怜央
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第1245話

写真の女には見覚えがあった。怜央は一目で、相手が明日香だと分かった。そして――その向かいに座る男。仁志。既読になったのを見計らったかのように、すぐ次のメッセージが飛んできた。【司馬さん。腕一本と耳片方、やっぱり効いてるみたいですね。あなたの女神の明日香さんが、わざわざ僕にご馳走してくれます。司馬さん、明日香さんはまだ知らないんじゃないですか?あなたを襲ったのが、僕だって】怜央の目が一気に血走り、呼吸が荒くなる。明日香が誰と食事しようが構わない――ただし、相手が仁志でなければ。自分を殺しかけた凶手と、彼女が笑い合っている。それだけは、受け入れられなかった。さらに追い打ちが来る。【あなたはいつも明日香さんのために命を張ってますよね。その惚れっぷり、外野の僕でも感心するくらいです。その結果がこれ、僕たちと敵対して、このザマです。報いるものが用意できないならせめて――あなたを殺しかけた相手と飯を食うのは、違うでしょう。司馬さん。あなたの魅力って……その程度なんですね」言葉は寸分違わず、怜央の一番痛いところを抉った。彼は思い出す。明日香が星のところで屈辱を受けたと知ったからこそ、自分は星の手を潰した。つまり、自分のやったことは全部、明日香のためだった。それなのに――明日香は。彼をここまで追い込んだ相手と、食事をして、談笑して、楽しげに時間を過ごしている。挑発だと分かる。仲違いさせるための手口だとも分かる。それでも現実として、写真はそこにある。怜央は仁志の正体を思い出し、低く笑った。その笑いがあまりに冷たく、ベッド脇の秘書は背筋が粟立つ。「司馬様……治療は、もっと安全な場所へ――」怜央が返そうとした瞬間、怒りが臓腑を突き上げた。喉の奥が熱くなり――血がこぼれる。次の瞬間、意識がぷつりと途切れた。秘書は青ざめ、慌ててナースコールを押す。……昼食を終えたあと、仁志と明日香は連れ立って会社へ戻った。帰り道、仁志がふいに言う。「雲井さん、腕の立つレーサーでもあるそうですね」明日香は隠していない。調べればすぐ出てくる程度の話だ。「ええ、そうよ」明日香は笑う。「まさか、あなたもレースが好きなの?」「好きです」仁志は淡々と頷いた。「ご馳走さまでした、お礼に今度はこちらから……一緒に歩きませんか
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第1246話

仁志は二文字だけ返した。「了解」謙信はいまだに、仁志の狙いが腑に落ちない。今の怜央は弱っている。数人差し向けて仕留めたほうが早い――そう思ってしまう。そのとき、袋を提えた雅人が戻ってきた。謙信の顔に浮かぶ困惑を見て、雅人が言う。「……なんだ、その顔。何かあったか」謙信は肩をすくめる。「溝口さんに、怜央のブサイクな写真を拡散しろって言われた。正直、狙いが分からない。いま弱ってるんだぞ?ここで仕留めた方が早いだろ」謙信は、側近の中でも腕っぷしの筆頭だ。口より拳。手が出せるなら出すが信条。仁志自身も基本は単純明快で荒っぽい。なのに今、なぜこんな回り道を選ぶのか。雅人は横目で彼を見る。「仮に怜央が死んだとして、溝口さんと星野さんに、何の得がある?」「復讐だろ」謙信は即答する。「復讐以外は?」「復讐以外……」謙信は少し考え、眉を寄せた。「……確かに、あまりないな」雅人は淡々と言った。「お前は溝口さんの決断の速さは学んだが、何を考えているかはまだ分からないようだな。怜央はいま、野良犬みたいに追い詰められてる。でもな、痩せた獣ほど噛む。このタイミングで手を出せば、死に際の反撃が一番痛い。復讐のために相打ちで潰れ合う。それが溝口さんの望みじゃない」言葉を区切り、雅人ははっきり告げる。「目的は――最小の損失で復讐して、最大の利益を抜くことだ。怜央は司馬家の当主だ。本当に無能なら、あの椅子にあれだけ長く座れてない。それに、怜央が死んだ瞬間――次の当主が誰になるか分からない。未知数は、儲からない」謙信はすぐ飲み込んだ。「つまり……味方を立てて、司馬家の当主に据える気か?」溝口家は特殊だ。大勢力と深く交わることは少ないし、仁志自身も縛られるのを嫌う。司馬家と同盟を視野に入れる――それは確かに意外だった。だがすぐに、別の答えが浮かぶ。「……星野さんのために道を作るのか?」雅人はうなずく。「商売に永遠の敵はない。あるのは永遠の利益だけ。一本の木じゃ支えきれない。星が将来、雲井グループを掌握するなら味方が要る」仁志ですら、一人の力だけで当主の座を盤石にはできない。複数の勢力が絡む。まして星は後から来た者。幼い頃から雲井家で育ったわけでもない。能力が突出していても、実権を握るのは簡単じゃない。謙信は理解
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第1247話

「手を汚さずに、漁夫の利だけ取れるなら――そのほうがずっといいだろ?」もちろん、仁志には他にも計算があるのかもしれない。それは雅人ですら読み切れない部分だった。雅人は謙信を見て、改めて聞く。「なあ。お前、溝口さんがなんでそこまで星野さんを助けるのか、分かるか?」謙信は少し考えてから答えた。「……償い、じゃねえの?」星がここまで来られたのは、昔、仁志が清子を助けた件が絡んでいる。それは二人の間に横たわる、いつ爆発してもおかしくない時限爆弾でもあった。その答えに、雅人は少し意外そうな顔をする。「てっきりお前、星野さんが白い月光だからって言うと思った」謙信は権謀術数は苦手だが、感情の機微を読む目は鋭い。彼は小さく笑った。「溝口さんが星野さんを好きなのは、白い月光だからじゃない。星野さん自身だ。仮に星野さんが、あの裏庭でヴァイオリン弾いてた人じゃなかったとしても、結局、溝口さんは好きになってたと思う」仁志は一目惚れじゃない。面白半分で近づいて、時間をかけて関わって、知っていくうちに惹かれた。謙信は続ける。「裏庭の人が、少し特別だったのは確かだ。でも、それは少しだ。溝口さんが星野さんを好きなのは、彼女がその人だったからじゃない。好きになった相手が、たまたま星だった――それだけだ」雅人はうなずいた。「俺もそこは同意する。けどな、助ける理由は補償や好意だけじゃない」雅人は仁志に最も長く仕えてきた。時には本人以上に彼を理解している。謙信が眉を上げる。「じゃあ、他に何がある?」雅人は静かに言った。「考えてみろ。名門の歴代当主で、手が汚れてない奴がどれだけいる?血に染まってない人間なんて、ほとんどいない」それから、言葉を落とす。「溝口さんが星野さんをここまで守るのは――彼女に汚れを背負わせたくないからだ。気づいてないか?溝口さんが裏でやってるのは、全部表に出せない仕事だ」――悪役は自分一人で十分。そういうこと。仁志は元から善人じゃない。今風に言えば、正真正銘の悪役だ。本人もそれを分かっている。白くなろうなんて最初から思っていない。もう戻れないからだ。彼にできる唯一のことは、星まで同じ闇に染めないこと。謙信は眉を寄せる。「でもそれって……星野さんにとって、本当にいいのか?」雅人は即答する。「悪
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第1248話

傍らにいた誠一が言った。「たかが写真数枚で?そこまででもないだろ」朝陽は淡々と返す。「写真だけなら致命傷じゃない。だが、流れを見ろ。生配信で晒されてから、司馬家グループの時価総額は落ちた。屋敷は破壊され、貨物は奪われた。それで今も、ずっと泥沼だ……どこに立ち直れる兆しがある?」誠一は黙り込む。目のある人間なら、怜央の状況が異常だと分かる。誠一は朝陽の顔色をうかがいながら慎重に尋ねた。「叔父さん……怜央は、なんで急にここまで転んだ?今回の件、誰の仕業だと思う?」朝陽の眼差しが深く沈む。「簡単だ。狂い始めた瞬間を作った人間が犯人だ」誠一は考え込み、はっとして顔色を変えた。「星?まさか……でも彼女にそこまでの力が――」「本人にはない」朝陽は言い切る。「だが、彼女のそばにいる人間にはある」誠一の頭に、仁志の顔が浮かび、さらに混乱する。「つまり……仁志が星を助けてるってことか?でも、なんで?まさか……本気で惚れたとか?」自分でも信じられないという顔で、言葉が荒くなる。「あり得ないだろ。離婚歴があって子どもまでいる女だぞ?冗談やめてくれ。星なんて、顔以外に何がある?明日香のほうが、よほど釣り合って――」朝陽は低い声で遮った。「仁志の狙いは、おそらく司馬家そのものだ。考え直したが、星と怜央の対立は、あの男が現れてから一気に激化した。裏で仁志が煽ってた可能性もある。明日香を操るより、星を操るほうが簡単だからな」二人は終始、「仁志には別の狙いがあるはず」という前提で分析していた。誠一は朝陽をちらりと見て、小声で言う。「仁志が絡んでるなら、星は相当厄介だ……いっそ、ここで手を引いたほうが――」「手を引く?」朝陽の目に冷たい光が宿る。「航平に長期間監禁されて、全身傷だらけになるまで痛めつけられた。それをなかったことにしろって言うのか?」誠一は言葉を選ぶ。「でも……叔父さんを拉致したのは航平だ。星本人じゃない。航平だけなら、そこまで難しくないはずだ」その瞬間、朝陽が激昂した。「星の指示がなければ、航平が俺をさらう理由がどこにある!?」葛西家は医術に長けている。朝陽の身体はほぼ回復していた。それでも、あの屈辱だけは消えない。思い出すたび、星と航平を八つ裂きにしたい衝動が湧く。誠一は朝陽の情緒が崩れかけているの
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第1249話

彼は夜に対して、驚くほど忠実だった。たとえ夜がすでに何年も前にこの世を去っていても、宗一郎はなお、彼女が当時遺した言葉と指示を、寸分違わず守り続けている。「星……今、忙しいかい?」宗一郎は、夜と年齢も近く、物腰の柔らかな紳士だった。整った顔立ちに、穏やかな雰囲気。どこか学者のような風格がある。星は手元の書類を置き、立ち上がって迎えに出た。「万代さん、どうぞ。お掛けください」星が雲井グループに入ってから、目立った妨害を受けずに済んだのは、夜派の株主たちの後押しがあったからだ。そして、その中でも、彼女の継承を最も強く支持していたのが宗一郎だった。比べる者はいない。星はお茶を注ぎ、差し出す。「万代さん、急にお越しになるなんて……何かありましたか?」宗一郎は微笑み、穏やかに口を開いた。「星。君が最近出している成果は、株主たちの間でも高く評価されているよ。中立派の九割近くが、すでに君の側に立った。それに、以前は君の父や兄たちを支持していた株主たちの中にも、君に期待を寄せる者が増えてきている」少し間を置き、彼は声を落とす。「雲井グループのような巨大企業は、権力構造が複雑だ。たとえ君の父や兄であっても、意思決定には常に制約が付きまとう。彼らが原始株の買収にこだわったのも、そのためだ」宗一郎は、遠い過去を思い出すように目を伏せた。「かつて、君の母――夜が雲井グループにいた頃も、多くの支持者を得ていた。だが、正道が戻ってきてからというもの、状況は一変した」重く、深いため息。「君の父が戻ってきた当初、彼は記憶を失っていた。亡くなった祖父に無理やり呼び戻されたんだ。その頃、明日香の母、鈴は病に倒れ、治療を必要としていた」宗一郎の声は低く、淡々としているが、その内側には憤りが滲んでいた。「祖父は君の父を戻すため、あらゆる手段を使った。ついには鈴を拉致するという、卑劣な真似までした。追い詰められた末、君の父は戻るしかなかった」一瞬、沈黙。「だが彼は、その恨みのすべてを、夜に向けた」正道は長年、雲井グループを率いてきた。記憶を失っていたとはいえ、短期間で経営を把握し、再び主導権を握るに至った。「夜は投資の目こそ優れていたが、会社経営そのものは得意ではなかった。正道が戻ってきた当初、彼は家庭に戻る素振りを見せ、夜
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第1250話

星は、わずかに眉をひそめた。その一瞬で、宗一郎の真意を悟った。「万代さん……私に、政略結婚をさせたい、ということですか?」宗一郎は、かつて夜の腹心だった人物であり、今後は星とも利害を共にする存在だ。彼は言葉を濁さなかった。「息子の嫁は、志村家の出身だ。澄玲ほど名は知られていないが、由緒正しいお嬢さんだよ。我が万代家と志村家は、長年にわたり深い協力関係にある」宗一郎は淡々と続ける。「その嫁には兄がいてな。名前は志村遠志(しむら とおし)。少し前に妻と離婚し、今は独身だ。遠志は、志村家でも指折りの才俊の一人だ。業界でも名の通った存在でな」彼は事実だけを積み重ねるように語った。「調べさせたが、落ち着いた性格で、悪い趣味もない。スキャンダルも一切なし。唯一の欠点といえば……色気やロマンに疎いところだな」遠志の元妻は葛西家の出身で、二人の結婚もまた政略だった。「だが、その妻は、あまりにも彼が堅物で退屈だと感じ、耐えられず離婚を選んだ。子どももいなかったし、話し合いの末の円満離婚だ。両家の共同事業も、今も問題なく続いている」ここで宗一郎は、一口お茶を飲んだ。「遠志は、頭も切れるし、先を見る目もある。志村家での地位も高い。もし君が彼と縁を結べば、君にとって大きな助けになるはずだ」その言葉に、星は再び眉を動かした。彼女は澄玲とA音楽大学時代からの親友であり、澄玲の従兄である遠志とは、実際に何度か顔を合わせたことがある。名前も、人となりも、よく知っていた。遠志は若くして頭角を現し、容姿端麗で能力も高く、人柄にも非の打ちどころがない。澄玲と彼の関係も、非常に良好だった。彼はときどきA音楽大学を訪れ、澄玲の演奏会を聴きに来ていた。星も、数年にわたって彼と面識があり、印象は決して悪くなかった。宗一郎がここまで考え抜いた人選をしたことは、星にも伝わってくる。もし本当に政略結婚が必要な状況なら、彼女は遠志を選んだかもしれない。だが、今はまだ、その段階ではない。それに――A音楽大学時代、星は遠志の恋人を何度か見かけている。彼の恋人も、音楽を学ぶ女性だった。学生時代、遠志の彼女を見る眼差しには、溶けきれないほどの深い愛情が宿っていた。その恋は激しく、真剣だった。だが、結局は現実に打ち負かされた。彼女の家柄はごく
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