All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1421 - Chapter 1430

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第1421話

星は、linの無力さと迷いに気づき、少しだけ時間を割いて彼女を慰めた。自分もかつて同じような無力感を味わったことがある。だからこそ、linの気持ちが痛いほど分かった。何気ない一言の励ましが、相手を深淵から引き上げる一本の綱になることもある――星はそれを知っている。こんなにも純粋に絵を愛する人に出会うのは珍しい。だから星は、いつもより少しだけ根気よくlinに向き合った。linが深い闇から抜け出したように見えて、星も心から安堵した。返信を書こうとした、そのとき。オフィスのドアが軽くノックされた。凌駕が数枚の書類を手に、足早に入ってくる。「星野さん、重要な契約書です。山本マネージャーたちのところでトラブルが起きて……たぶん、あなたが直接行って交渉する必要があります」星は書類を受け取り、数ページめくってから静かに頷いた。「分かった。手配して。私と仁志ですぐ行くわ」凌駕は「承知しました」と短く答え、すぐ部屋を出ていった。ちょうどその瞬間、画面に未読メールが一通増えた通知が出る。だが緊急事態で、星には確認する余裕がなかった。ノートパソコンを無造作に閉じ、仁志を探しに行く。この契約は星にとって重要だった。遅らせるわけにはいかない。三時間後。星と仁志は、プライベートジェットで飛び立った。一方、パソコンの前で待ち続けていた怜央は、長く待ってもsummerから返信を受け取れなかった。送信済みフォルダに残る、短い文面を見つめる。【聞いてもいい?あの後ろ姿の絵、あなたは誰を描いたんですか?】時間を見ると、もう夜十時を回っていた。summerは寝ているかもしれない。そう思い、怜央はそれ以上は追わなかった。しかし、それから三日間。怜央のメールボックスは、静まり返ったままだった。こんなことは今まで一度もない。summerが返信をくれないなんて。どんな内容を送っても、summerは遅くともその日のうちに返してくれる。怜央の胸に、不安がじわじわと広がっていく。――自分の質問が踏み込みすぎたのか。――summerを不快にさせてしまって、返信したくなくなったのか。考えた末、怜央はもう一通メールを送った。【ごめんなさい。あなたのプライバシーに踏み込むつもりはありません。ただ、あの絵の後ろ姿が妙に見覚えがあって、つい聞いてしまったん
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第1422話

最近、優芽利が怜央のもとを訪ねるたび、怜央はパソコンの前に張り付いて、summerとメールをやり取りしていた。怜央は受信箱を何度も更新し、何も届いていないのを確かめてから、ようやく優芽利へゆっくり視線を向ける。「……ネット恋愛って、何だ」優芽利は答えずに、逆に探るように言った。「お兄さん、最近summerとよく連絡してるみたいだけど?」怜央は淡々と返す。「もう三日、連絡はない」優芽利が眉を上げた。「じゃあ、お兄さんはなんでずっとパソコンの前にいるの?」「summerの返信を待ってる」優芽利の声が一瞬詰まる。「え、今……三日連絡ないって言ったよね?」「そうだ。summerが返してこない」「……」――つまり怜央の言う「三日」は、相手から一方的に返ってこない三日という意味だった。優芽利は数秒黙ってから、無理やり話題を変えた。「それで、お兄さん。明日香とはどうなったの?」怜央は短く答える。「もう関係ない」優芽利は二秒ほど固まって、それから顔色を冷たくした。「関係ない?雲井家が、うちと縁を切りたくて必死ってこと?」優芽利は、明日香がそういう人間だと前から分かっていた。驚きはない。だからこそ、言い方も冷える。「雲井家が不義を通すなら、こっちだって遠慮しない。この数年、お兄さんは雲井家に散々うまみを与えてきた。今だって、明日香と結婚するために株まで渡すって言った。仁義は十分すぎるほど切ったよ。それでも分からないなら、こっちも容赦しないから!」怜央は、もう明日香の話を聞きたくなかった。低い声で言う。「違う。俺が明日香に株の3%を渡して、一線を引いただけだ」優芽利は耳を疑った。「……お兄さん、今なんて言った?明日香に株3%渡して、関係切ったって?!」怜央は冷淡に頷く。「そのとおり」優芽利の感情が一気に燃え上がった。「お兄さん、なんでそんなバカなことするの?!うちが落ちたの見て、さっさと切り捨てたいって思ってるの、分からないの?3%なんて渡さなくても、向こうが勝手に縁切ってくるよ!」実の妹の優芽利でさえ、株は五%しか持っていない。明日香は何も差し出していないどころか、ずっと司馬家の恩恵を受けてきた。それで縁を切るうえに、3%までただでもらう?そんな都合のいい話があるなら、明日香だって夢の中で笑って目が覚
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第1423話

それでも怜央は、驚くほどあっさり手放していた。怜央は続ける。「明日香に補償するのは、前にお前が愚かな真似をして、雲井家に弱みを握られたからだ。補償なしで、あいつらが簡単に見逃すと思うか」優芽利は唇を噛み、言葉を絞り出す。「わ、私は……お兄さんを助けたかっただけ。それに、お兄さんは明日香に指一本触れてないのに、あの人よく株なんて受け取れるよね。胸が痛まないの?この数年、お兄さんは明日香に悪いことなんて何一つしてない。悪いのはどう考えても向こうだよ。私たち、雲井家に借りなんてないのに、なんで補償しなきゃいけないの?むしろ借りがあるのは向こうでしょ。補償するなら、雲井家が……お兄さんにするべきじゃないの!」怜央の口調は薄い。「お前は、手に入れたものを吐き出せと言われて、素直に返すのか。それに、あれは俺が自分から渡した。取り戻す理由がない。金は所詮、身の外の物だ。そんなことで雲井家といつまでも揉めたくない……金で静けさを買ったほうが早い」優芽利は呆然と怜央を見つめた。まるで幽霊でも見ているみたいに。そんな言葉が、怜央の口から出るなんて。「お兄さん、最近いったいどうしたの?」優芽利の視線が、怜央のパソコンへ落ちる。「まさか……ほんとにネット恋愛とか?」怜央は眉をわずかに寄せた。「何を言ってる。俺は、気に入ってる画家と少し話してるだけだ」優芽利は、そんな単純な話だとは思えなかった。明日香に傷つけられた反動で怜央が道を踏み外す――それだけは避けたい。優芽利は辛抱強く、説得にかかる。「お兄さん、そのsummerって、男か女かすら分からないんだよ?もし六十歳の女の人だったら?それに……脂ぎった中年のオッサンだったらどうするの?」怜央は「意味が分からない」とでも言いたげな顔をする。「相手がどんな人でも、俺に何の関係もない」優芽利は大きく息を吸い、さらに踏み込んだ。「お兄さん。尊敬って、だいたい好きの一歩手前よ」怜央は声を冷やす。「俺は親友として見てるだけだ。考えすぎ」優芽利がまだ何か言おうとした、そのとき。ふと視線を滑らせると、怜央の画面の壁紙が――雲井家の屋敷の裏庭になっているのが見えた。優芽利の目が細くなる。「お兄さん、雲井家の裏庭に行ったの?」怜央は短く答えた。「ああ。summerが俺にくれたあの絵は、確かにあそこが元に
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第1424話

怜央は視線をわずかに動かし、「繁花」に落とした。「雲井家の連中は、利己的で冷酷だ。あいつらが、こんな感情の入った絵を描けるはずがない。描いたのは……雲井家の裏庭に行ったことがある人間、ただそれだけかもしれない」優芽利は絵に詳しくない。作品から汲み取れることも多くなかった。だからこそ、声は低くなる。「分かった。じゃあsummerが雲井家の人じゃないとしてもさ。あの後ろ姿の絵、どう見ても明日香だよ。もしsummerも明日香の追っかけだったらどうするの?」怜央は目の前の絵を見つめたまま言う。「俺は……描かれてるのは明日香じゃない気がする」それから一拍置き、言いかけた。「それに……」彼は少し考え込む。「この背中、見覚えがある。どこかで見たような……」優芽利はきっぱりと言い切った。「それは背中が明日香だからでしょ!だから見覚えあるって思うんだって!お兄さん、もし本当に明日香が好きなら、私たちだって全く手がないわけじゃ――」まだ説得を続けようとした、そのとき。怜央のパソコンが通知音を鳴らした。受信箱に未読メールが一通。怜央は明日香のことなど頭から追いやり、すぐパソコンに向き直ってメールを開く。summerからの返信だった。優芽利は気づく。返事を読んだ瞬間、怜央の目つきがふっと柔らかくなった。また、あの嫌な感覚が押し寄せる。きっと明日香の件を紛らわせたくて、ネットの向こうの、会ったこともない、男か女かも分からない相手に、ここまで心を置いているんだ。――もし相手が男だったら?――お兄さん、これを機にカミングアウトとか……?外に知られたら、どう見られる?明日香に振られて強い刺激を受け、自暴自棄になった、と。怜央が男と一緒にいる光景を想像しただけで、優芽利は背筋が冷えた。だが怜央は彼女に構う暇もなく、summerとメールを交わし始める。今回はsummerもパソコンの前にいるらしく、返信がやけに早かった。【ごめんなさい。この数日、急な出張がありまして、メールを確認する時間がなかったんです】怜央は返す。【無事でよかったです。何日も返事がなくて、何かあったのかと思っていました】すぐにsummerから返事が来る。【大丈夫ですよ。ここ数日忙しかっただけです】優芽利は見ていて気づいた。二人のやり取りに、甘い空気は一切な
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第1425話

星がlinとここまで長く話せたのは、共通の趣味や似た境遇があるからだけではない。実際、話していて妙に気が合った。linは口数こそ多くないが、星にはその誠実さがちゃんと伝わってくる。少し考えた末、星は自分のラインを送った。雅臣と離婚すると決めてから、星は過去ときっぱり線を引いた。神谷本家を出てからは、二度と戻って住んでいない。連絡先も昔のものは使わず、全部新しくした。もう自分の交友関係の中で、清子や勇たちの姿を見たくなかったのだ。番号を変えてからは仕事に追われ、仕事関連の発信は別アカで、彩香が管理している。星のラインのタイムラインは驚くほど静かだった。たまに料理の写真を上げるくらいで、それ以上は何もない。プライバシーに繋がるものも、ほとんど置いていない。アイコンでさえ、適当に拾ったネット画像。名前も、ただの「S」。summerもスターも、どっちもSで始まる。考えるのが面倒だった。連絡先を送って間もなく、携帯に友だち申請が表示された――【linがあなたを友だちに追加したいそうです】星は承認した。そしてlinのタイムラインを覗くと、投稿が一つもない。知らない人が見たら、ブロックされてると勘違いしそうなレベルだ。linのアイコンも真っ黒で、画像を探す気すらなさそうだった。誤解されたくなかったのか、linがすぐメッセージを送ってきた。【ごめんなさい。タイムラインを投稿する習慣がなくて、何を載せればいいのかも分からないんです】星は返した。「大丈夫ですよ。私もあまり投稿しませんから」二、三言交わしたところで、星にはまだ片づける仕事が残っていた。linにひとこと挨拶して会話を切り上げ、仁志のところへ向かった。星は先にホテルへ戻っていた。調印の現場で扱う書類は重要だったため、会場の手続きが全部終わってから、仁志が持ち帰ることになっていたのだ。たった今、仁志から【書類は回収しました】とメッセージが届いている。仁志の部屋は星の隣。書類が揃っているか確認するため、星は立ち上がり、隣室のドアをノックした。「仁志、いる?」しばらく待っても返事はない。もう一度ノックしようとして、ドアがわずかに開いているのに気づいた。星は扉の前で少し迷ったが、結局、押して中へ入った。部屋に入ると、浴室のほうから「ザーッ」という水音が聞こえる。仁志には軽い潔癖
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第1426話

星の視線に気づいたのか、仁志は髪を拭く手をふと止めた。顔を上げると、星が呆然とこちらを見ている。仁志の口元が、かすかに持ち上がる。「いつ来たんですか」その声で、星ははっと我に返った。自分がどれだけの時間、相手の体に視線を固定していたのか――今さら気づく。仁志は普段、どこか華奢で薄い印象なのに、思った以上に……星は理由もなく喉が渇き、胸の奥がざわついた。大きな場面にも慣れているはずなのに、頭が数秒、真っ白になる。「ごめん。ドアが閉まってなくて……契約書、早く確認したくて勝手に入っちゃった。その……都合が悪いなら、私が持って戻って見るから……」そう言いながら、星は反射的に立ち上がった。表情は平静を装ったが、手元が言うことを聞かない。持っていた書類を取り落としてしまった。紙束が床に散らばる。星「……」気まずさに耐えきれず、星はかがんで拾おうとする。その様子を見て、仁志はタオルを脇に放り、ゆっくり近づいてきた。近づいてくる男を前に、星の心臓が勝手に跳ね上がる。お風呂上がりの匂いがふわっと漂い、頭がぼんやりした。仁志は彼女の横にしゃがみ込み、床の書類を一緒に拾い上げる。「ここ、何枚か修正が入ってます。もう一度見たほうがいいです。細部が食い違うと面倒になります」近い。近すぎて、互いの息遣いが分かるほどだ。まつげの一本一本まで見えてしまう。星の呼吸が少し乱れる。「その……私、部屋に戻って自分で見るから……」仁志の沈んだ瞳が、彼女の顔に落ちた。「僕が指して説明します。自分で一つずつ探すのは時間の無駄です。あとで羽生社長に外へ誘われてます。遅れられません」そう言われると、星は断りづらい。でも――こんな格好の仁志の隣で、仕事なんてできるはずがない。星の動揺に気づかないのか、仁志は書類をまとめて、彼女のすぐ近くに座った。慣れた手つきでページを開き、ある箇所を指す。「星野さん、ここ見てください」星は反応が鈍いまま、指先の先へ視線を落とした。普段なら契約条項は全部頭に入っている。抜けなんて一度もない。それなのに今は、元の文言が何だったか、すぐに思い出せなかった。仁志は別のページをめくり、次の箇所を指す。「それから、ここも……」シャワーを浴びたばかりのせいか、仁志の肌はいつも以上に白く、清潔感が際立っている。露わな上半身も
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第1427話

仁志は淡く言った。「大丈夫です。僕も少し暑いんです」星はちらりと彼を見る。すると仁志も、瞬きもせずにこちらを見ていた。漆黒の瞳は深い淵みたいに静かで、その奥で測りがたい光が揺れている。星の胸が、かすかに跳ねた。馴染みはあるのに滅多に訪れない焦燥が、また押し寄せる。言葉にできない危うさが、心の底に浮かび上がった。――ここにいたらだめ。直感がそう告げる。星は仕事のことなど忘れ、勢いよく立ち上がった。「私、用事があるから。先に戻るね」言い終えると、仁志の表情を見るのが怖くて、うつむいたまま出ていこうとした。その瞬間、仁志が彼女の手首を掴む。「星野さん、待って……」星はもともと動揺していた。早く逃げたい一心で、仁志が急に引き止めるなんて想像していない。不意を突かれてよろけ、転びそうになる。仁志は素早く引き寄せて支えた。星は自分の情けなさに、恥ずかしさと苛立ちが込み上げる。男を見慣れていないわけじゃない。なのに今日はどうした。仁志の前で、散々みっともない姿を晒してしまった。もし彼が気づいたら――自分が彼の色気に勝手に想像を膨らませたと分かったら、どれほど軽蔑されるだろう。仁志が低く尋ねる。「星野さん、大丈夫ですか」星は大きく息を吸い、必死に落ち着こうとした。「大丈夫。えっと……まだ用事があるから先に戻るね。また後で来る」仁志が返事をする前に、星は足早に部屋を出た。その背中には、逃げ出すような焦りが滲んでいた。……契約締結は紆余曲折こそあったが、結果は良好だった。双方で問題がないことを確認すると、羽生社長が主催して星を食事に招いた。商談の席や接待は多い。星は、断れるものは極力断っている。今回も断ろうとしたが、羽生社長があまりに熱心だった。「星野さん、今夜はあなたのために特別に用意してます。必ず来てくださいね」そこまで言われては、もう断れない。夜八時、星は仁志とともに、羽生社長の言う娯楽クラブへ向かった。外で仁志と顔を合わせた瞬間、星はまだ少し気まずかった。だが仁志は平然としていて、彼女への態度もいつも通り。それを見て、星はようやく肩の力を抜いた。クラブに着くと、羽生社長が各部門のマネージャーたちを連れて入口で待っていた。星を見つけると、すぐ満面の笑みで迎えに来る。「星野さん、ようやく来ましたね。
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第1428話

ここまで言うと、羽生社長は声を落とし、星に含みのある笑みを向けた。「それに、全員きちんと健康診断の報告書つきです。健康で、清潔ですよ」そして反対側に座る仁志をちらりと見て、低い声で付け足す。「あなたの隣の方にも、絶対に負けません」星「……」星はようやく分かった気がした。権力と地位のある男の周りに、なぜ女が絶えないのか。自分から寄ってくる者もいれば、取引先がこうして用意してくることもある。そう考えると、この数年、雅臣の傍に現れた女は清子以外いなかった――それは、ある意味では身持ちの堅い「いい男」だった、ということなのだろうか。話している間にも、舞台上の五人はショーを始めた。まずはボーイズグループみたいに揃って、激しめのダンスを一曲。会場の音楽はノリが良く、舞台のイケメンたちも全力で踊る。星に向けて投げキッスをし、ウインクで煽る者までいた。確かに、羽生社長の目利きは悪くない。選ばれた男たちは、顔も体つきも申し分なく整っている。ただ――仁志と比べると、やはり何かが足りない。星は噂話をあまり気にしない。それでも、周囲が自分と仁志の関係をどう言っているかは耳に入ってくる。とりわけ雲井家の連中は、好き放題に言う。仁志が見た目に恵まれていることは、星もずっと分かっていた。けれど二人の関係や、外に敵が多すぎることもあって、星は常に手一杯だった。だから彼の「顔の良さ」を、そこまで強く意識したことがなかった。なのに――昼間。風呂上がりの仁志を目にしたあの瞬間を思い出すと、星の頬がまた熱を帯びる。体つきも、かなり良かった気がする。筋肉の線が綺麗で……触ったら、どんな感触なんだろう――星は舞台を見ているふりをしながら、頭の中は昼間のことばかりだった。自分はどうしてしまったのだろう。仕事のストレスが大きすぎるのか。まさか、仁志の色気に欲が出てきた?理由もなく喉が渇き、星は反射的に手元のグラスへ手を伸ばした。そのとき、白く長い指が先にグラスを差し出してきた。「ありがとう」星は受け取り、一口飲んだ。ふと何かに気づいて顔を向ける。仁志が、目を逸らさずにこちらを見ていた。舞台の光が反射して、男の視線は冷たく冴えて見える。星はさっきから余計なことばかり考えていた。そんな目で見られると、見透かされたみたいで後ろめたくなる。手がわずかに震え、
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第1429話

星は、飲み込んだばかりの茶にむせた。「げほっ……!げほ、げほ!」隣の羽生社長は目を細めて笑う。「星野さん、どうです?このイケメンたち、相当な逸材でしょう。星野さん、昔すご腕のヴァイオリニストだったと聞きました。だから音楽をやってたイケメンを、わざわざ選んだんですよ」羽生社長の笑みには、どこか意味深な色がある。「気に入った子がいたら、連れて帰って飼えばいいんですよ。今の星野さんの立場なら、全員気に入ったって問題ありません――」「パリンッ」羽生社長が言い終える前に、横からグラスが砕ける音がした。同時に、場内の照明が明るくなる。仁志の手の中で、グラスが握り潰されていた。掌の破片の隙間から血が滲み、赤く流れている。星の瞳がきゅっと縮む。「仁志、手……どうしたの?」仁志は無表情のまま、砕けたグラスを横のゴミ箱に放り投げた。そして何事もなかったようにティッシュを数枚取り、血を拭う。「大丈夫です。続けて見てください」怪我をしているのに、星がショーを見ていられるはずがない。彼女は仁志の手を見つめ、立ち上がった。「だめ。今すぐ病院行く」そして羽生社長に向き直る。「羽生社長、申し訳ありません。ボディガードが怪我をしてしまって、先に失礼します。今日はおもてなし、ありがとうございました。今度、改めてお礼させていただきます」星の顔に浮かぶ心配と焦りを見て、羽生社長は仕方なさそうにため息をついた。「分かりました。それではお気をつけて」星は仁志の手首を掴み、足早に会場を後にした。羽生社長の隣にいた取引先の男が、残念そうに言う。「羽生社長、今日は空振りでしたね」羽生社長は星の背中を見送りながら笑った。「最初はみんなああだ。外の世界の別の楽しさを知れば、ああはならない。それに今の若い連中は、俺らが思うより割り切ってる。星は一度結婚に失敗したとはいえ、金もある、顔もいい、独身だ。男が寄ってこないわけがない。女が金と権力と地位を持ったら、群がる男は増える一方だ。この街の社交界は女より男のほうが多い。やっと権限を握れる女が出てきたうえに、あれだけ綺麗だ。たとえ一夜の縁でも、得しかしないと思うだろう。階級を飛び越えたい男や、財産目当ての男だって、少ないわけがない」……仁志の手は、消毒して薬を塗り、包帯を巻いてもらった。二人は病院を出る。
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第1430話

仁志と比べると――あの男モデルたちも体つきは悪くなかったはずだが、具体的にどんなだったか……なぜか思い出せない。星は軽く咳払いした。「……あなたのほうが、体はいいよ」仁志は顔を向ける。「なら、今後見たくなったら、僕を見ればいいです」星は耳を疑った。「……今、何て?」仁志は至って真面目に言う。「下心のある人間は、美人局みたいな手を使って相手を惑わします。目的のためなら、体を売ることすら厭いません。星野さん、僕たちの周りにはまだ敵が多いんです。身元の分からない連中とは、距離を置くべきです」一拍置いて、さらに続けた。「あなたが僕でも悪くないと言うなら……本当に見たいときは、僕に言ってください」星の顔が、一気に真っ赤になる。仁志の口ぶりだと、自分がまるで欲求不満の女みたいじゃないか。星は慌てて否定した。「い、いらない。今はそういうこと考えてないし。あの男たちにも興味ない。羽生社長が勝手に張り切ってただけ。それに、まさかあんなショー用意してるなんて思わなかったし……仁志、安心して。雲井家の件が片付くまでは、恋愛なんてしないから」仁志は、なぜか黙り込んだ。……翌日。二人は仕事を終え、飛行機で戻った。雲井家に足を踏み入れた途端、屋敷の奥から騒がしい声が飛んできた。忠の怒鳴り声が、家中に響き渡る。「結羽!出てこい!今日こそ殺してやる!やらなきゃ俺は雲井じゃない!」すぐに、澄んだ女の声が返ってきた。「いいよ。雲井を名乗りたくないなら、私の姓にすれば?これからは雲井忠じゃなくて、渡辺忠って名乗りなよ」忠は激昂し、結羽を掴みに行こうとする。「結羽、覚えてろ!」靖が険しい顔で忠を制した。「忠、何をする気だ!DVで訴えられたいのか?!」数日前。忠が取引先とバーで酒を飲んでいたとき、結羽が突然乗り込んできた。そしてテーブルをひっくり返し、忠が外で女を作っている、と騒ぎ立てた。ここ最近、忠の評判は地に落ち、仕事も一時的に休職扱いになっていた。このままでは権限を奪われ、形だけの立場にされかねない。忠もそれが分かっている。結羽の件がひとまず落ち着くと、忠は待ってましたとばかりに仕事へ戻り、勢力の立て直しに走った。明日香の取り持ちと助力もあって、ようやく一つ契約を取り付けた。契約が済めば、当然夜の段取りだ。男同士で酒を飲
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