All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 1701 - Chapter 1710

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第1701話

あちらの件が片付いたのか、それとも怜央の異変に気づいたのか――いずれにせよ、彩香が様子を見に来た。星は怜央に目をやると、数歩後ろに下がり、個室のドアを開けた。今度は、怜央は止めなかった。ただ静かに、星の去っていく背中を見つめていた。ドアがゆっくり閉まり、視界から完全に消えるまで。怜央は頭を垂れ、肩に刺さったナイフへ視線を落とす。――心臓は狙っていなかった。つまり、彼女はもうそこまで自分を憎んでいないのかもしれない。本当は、死んでほしいとは思っていないのかもしれない。……星が無事に個室から出てくるのを見て、彩香は明らかに安堵の息を漏らした。「星、無事で本当によかった……」星の瞳がわずかに揺れる。「彩香、どうして私に何かあったって分かったの?」彩香は驚いた表情を見せた。「えっ、星、本当に何かあったの?」星は歩きながら言った。「大したことじゃないよ。ただ……怜央に会っただけ」彩香の顔に、尊敬の色が浮かぶ。「やっぱり仁志、すごいよね。あなたに電話したけど繋がらなくて、それで私に連絡してきたの。私はちょっと用事があって一緒にいないって伝えたら……あなたを探して、何かあったか確認してくれって。あ、そうだ、星。もう向かってきてるよ」星は言った。「彩香、怜央に会ったことは、絶対に仁志には言わないで」彩香は一瞬呆然としたが、すぐに意味を理解した。仁志は神谷グループを潰し、イーサン王子を殺し、数日前には公の場で怜央に発砲までしている。彼は溝口家の当主で、誰も簡単には止められない存在だが、その影響は決して小さくない。もし今回のことを知れば――彼の性格なら、間違いなく怜央を殺しに行く。これ以上、仁志の手を血で汚させるわけにはいかない。彩香は頷いた。「分かった」星は続ける。「あとで侑吾と拓海にも伝えて……いや、やっぱりやめて。あなた、隠し事苦手でしょ。しばらく仁志の前には出ないで。拓海と一緒に、あの御曹司の件を処理して」彩香は普段こそ仁志に情報を流しているが、大事な場面ではちゃんと分別がつく。まして星に頼まれたことを、他人に漏らすことなど絶対にない。「うん、任せて」それから好奇心を抑えきれずに尋ねた。「でも星、怜央がまた来たのって何?もしかして、明日香を私たちが拉致したって疑って、人を出せって迫ってき
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第1702話

その頃には、すっかり日も落ちていた。きらびやかな灯りが夜の闇を照らし、まばゆい光の帯を揺らめかせている。仁志は黒のスーツに身を包み、濃密な夜景の中でもひときわ鮮烈な存在感を放っていた。背後に広がる漆黒の夜ですら、まるで彼を引き立てる背景のようだ。端正な眉目には、わずかに陰りが差している。だが星の姿を目にした瞬間、その表情はわずかに和らいだ。向かってくる途中で、星が無事だという知らせは受けていた。それでも自分の目で確かめるまでは、どうしても安心できなかったのだ。仁志は星の前に立つと、彼女に怪我がないこと、顔色にも異変がないことを確認し、ようやく少し胸をなで下ろした。星は自分から仁志の手を握る。「商談のとき、携帯をマナーモードにしてただけ。だから電話に気づかなかったの。仁志、心配しすぎだよ」星は会議や商談の際、相手への礼儀として普段から携帯を消音にする癖がある。その習慣は、仁志がまだ彼女のボディーガードだった頃から変わっていない。彼女の説明に、不自然なところは何ひとつなかった。仁志はそっと星を抱きしめる。そうして初めて、宙ぶらりんだった心が元の場所に戻った気がした。「お前を想ってる人間が多すぎる。誰かに奪われるんじゃないかって、心配になる」言った本人に他意はなくても、聞く側には刺さる。星の瞳の奥を、かすかな揺らぎがよぎった。幸い、そのとき仁志は抱きしめたままで、表情までは見えない。もし見られていたら、きっと気づかれていただろう。本当に、怜央は厄介なことをしてくれた。怜央の告白を星は信じたわけではない。けれど心のどこかに、ほんのわずかな疑念が芽生えてしまったのも事実だった。その割合は決して大きくない。だが、星の心を揺らすには十分だった。この話題を続ければ、仁志に何か悟られるかもしれない。そう思い、星は話を変えた。「仁志、今日すごくきっちりした格好してるね。さっきまで仕事だったの?」「うん。少し商談をしていた」「前にずっと私のそばでボディーガードしてたから、仕事ってあまりしてないのかと思ってた」仁志は星を抱いたまま、なかなか手を離そうとしない。「普段、お前は大半の時間を自分のオフィスで過ごしてるだろ。その合間とか、夜に戻ってから、重要な案件を片づけてたんだ。それに以前の溝口家は、外との提携が
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第1703話

仁志の黒い瞳が、じっと星の目を射抜いた。「星。お前を助けることと、一緒になることは別の話だ。そんなに負担に思わなくていい」星が何か言おうとしたその瞬間、仁志はすらりと長く白い指を彼女の唇に軽く当て、言葉を遮った。「たとえ俺たちが結ばれなかったとしても、お前を助けたことを後悔することはない……もう、この話はやめよう。まだ夕食も食べてないだろ?先に食事に行こう」星は小さく頷いた。「うん」二階の一室では、怜央が青白い顔で窓辺に立ち、二人が去っていく後ろ姿を見つめていた。……レストランで注文を済ませたあと、星は仁志に今後の方針を尋ねた。「仁志、本当に溝口家の事業の中心をM国に移すつもり?」仁志は星に水を注ぎながら答える。「ああ。M国は世界経済の中心だ。大手一族や企業の多くが根を張っている。溝口家も試す価値はあるだろう。でも、溝口家はM国に地盤がないよね。事業の中心を移すなら、ゼロからのスタートになるじゃない」ゼロからの出発は、そう簡単なことではない。だが仁志は既に腹を括っているようだった。「構わない。俺はもともと、挑戦があるほうが好きだ。ただ……」その瞳は深く静かで、唇の端に微かな笑みが浮かんでいる。どこか含みのある色気が滲んでいた。「ゼロから積み上げるのは確かに面倒だ。俺がお前を支えられるまでに育てる頃には、もう手遅れかもしれない。だから、多少は近道を使う必要があるな」星はまぶたをぴくりと動かす――また誰かが痛い目を見る気がしてならなかった。夕食を終えた後、星にはまだ雲井グループで片づける仕事が残っていた。仁志は彼女に付き添い、雲井グループへ戻ることにした。ビルに入ると、ちょうど雲井グループから出てきた翔と鉢合わせた。二人の姿を見て、翔の足が一瞬止まる。彼は冷ややかに言い放った。「星。明日香の失踪にお前たちが関わっていると分かったら――俺は絶対に許さない」そう言い残すと、彼は足を止めることなく大股で去っていった。それに対し、星も仁志も特に反応は示さなかった。もう慣れきっていたのだ。オフィスに戻った後、仁志が口を開いた。「雲井家はまだ、明日香の居場所を掴めていないのか?」星は首を振る。「うん。まだ何も。前に忠が騒いだけど、怜央にミスリードされて、明日香を探す絶好のタイミングを逃したらしい
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第1704話

もちろん、仁志が妨害工作をしたり、注文を取り消したり、勝手にどこかの一族と提携を結んだり――そんなことはネット経由ではできない。重要なことは、当主本人の許可が下りなければ成立しないのだ。仁志はさらに言った。「それに俺と寧輝は同門だ。互いをある程度理解している。だからしばらくの間はバレずに済む」仁志のやり方は、相手を理解していることが前提だ。理解が足りなければ、最初の時点で正体が露見していたはずだ。星の瞳がわずかに揺れる。頭に浮かんだのは、食事のとき仁志が言った言葉。――多少は近道を使う必要があるな。つまり、この痛い目を見る相手は……高確率で寧輝だ。やはり仁志は、根に持つタイプだ。星自身は寧輝にはさほど興味がない。それより、明日香がまさかメコン・デルタのような場所に落ちるとは予想外だった。「レイル国王って、そんなに容赦ないんだ。まさか彼女をメコン・デルタみたいな場所に連れて行くなんて」仁志は淡々と答える。「自分の手を汚したくなかったんだろう。明日香は雲井家の令嬢だし、追いかけている男も多い。あからさまに手を出せば、自分に面倒が降りかかるだけだからな」星も、その言葉には深く納得した。明日香の拉致失踪に関わるとなれば、今は誰であっても厄介ごとを背負い込むことになる。彼女が本当に無事ならまだいい。だが、もし何かあった場合、必ず誰かが表に立って罪をかぶり、怒りを受け止めねばならない。星は言った。「今も靖は、私を潰すことを諦めてない。たぶん雲井家は多くの人間を使って、私を裏で監視してる。私が失敗するのを待って、そこに乗じて仕掛けてくるつもりだと思う。だから明日香の件には、できるだけ近づかないほうがいい」ふと、星は仁志を見て気づいた。彼は笑みを浮かべたまま、底の見えない目で彼女を見返している。――仁志は、なぜ自分の人間を使わず寧輝の勢力を動かしたのか。……それは、寧輝に罠を仕掛けるためだった。星が気づくと、仁志も隠そうとはしなかった。「たとえ俺たちが明日香の件に関わらなくても、向こうが何とかして俺たちに罪を着せる可能性はある。前もって準備しておけば、不測の事態にも備えられる」星は無言になった。――要するに、寧輝への仕返しの口実を、仁志は先に用意しているわけだ。仁志に目をつけられた以上、寧輝の今
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第1705話

星は、明日香の仕事や人脈を奪うことはできても、その因果まで背負うべきではない。たとえ仁志でも、そこに手を出すべきではなかった。二人はすでに関係をはっきりさせている。今の仁志が動けば、それはそのまま星が動いたのと同じ意味を持つ。これから先、仁志はもう以前のように、好き勝手には振る舞えない。仁志が尋ねた。「明日香が持っていた資源は、今どれくらい取れた?」星は眉を寄せる。「今のところ、だいたい四分の一くらい。計算してみたけど、引き継げるのはせいぜい半分までかな。残りにまで無理して手を伸ばしたら、靖に気づかれる」仁志は彼女を見つめた。「星。翔の件は、もう決めたのか?今は明日香が失踪してる。これ以上ない好機だ」星の瞳がかすかに揺れる。翔を攻略する方法については、仁志が離れる前に、一度二人で話し合っていた。けれど、ずっと実行には移していない。ためらいがあったのも事実だ。それ以上に、決定打になるタイミングがなかった。そんな星の迷いを見抜いたように、仁志が口を開く。「星。お前が気にしてるのは、奏が反対するんじゃないかってことだろ。安心しろ。あいつは受け入れる」星は驚いたように彼を見た。「先輩は、普段いちばん母さんを敬ってるのよ?本当に受け入れると思うの?」仁志は笑って言った。「信じられないなら、電話して聞いてみればいい」その口ぶりからして、かなり自信があるらしい。星の知る奏なら、そんな話を簡単に認めるはずがない。だとしたら――彼女の知らないところで、何かあったのだ。そう思い、星は奏に電話をかけた。コールはすぐにつながった。奏は冗談交じりに言う。「彼氏ができたのに、まだ俺のこと思い出してくれる余裕があるんだ?」星がもう一度前を向けるようになったことを、奏は心から喜んでいた。かつて、彼は星にプロポーズしたこともある。だが彼女への感情は、恋愛というより、むしろ家族としての情のほうが大きかった。星は仁志をちらりと見てから、声を落とした。「明日香が今、行方不明でしょ。私、翔をこっち側に引き込む計画があるの。たぶん、先輩の協力が必要になる」話を聞いた奏は、即答した。「もちろん。手伝うよ」星は慌てて言う。「待って、先輩。ちゃんと最後まで聞いて。この計画、多分……母さんを利用する
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第1706話

たしかに、今は絶好の機会だった。ただし、そのためには一部、偽装が必要になる。それもまた、星が「奏なら反対するかもしれない」と危惧していた理由の一つだった。奏は言った。「師匠が亡くなる前、ずっと俺が病床に付き添ってた。そのとき、昔のことをいろいろ話してくれたんだ。雲井家の三兄弟に関することなら、お前より俺のほうが知ってることも多い。来週は師匠の命日だ。その前に全部手配しておこう。あとは、翔が引っかかるかどうか見るだけだ」翔は、忠とは違う。慎重な性格だ。あの男から隙を見つけるのは、簡単ではない。しかも忠はすでに、星相手に一度大きく足をすくわれている。そのせいで、翔は星に対して、常に警戒を解いていない。彼は馬鹿ではない。彼の手から株を引き出すなど、ほとんど不可能に近かった。星は言った。「今、靖は私を潰すことと、明日香を探すことにかかりきりで、ほかにまで手が回ってない。このタイミングで翔を落とせれば、たとえ今後、明日香が戻ってきても、あの人たちが私に仕掛けてくることは全部見通せるようになる。でも……翔の信頼を得るのは、簡単じゃない」そばにいた仁志が口を開いた。「情だけじゃ、翔は動かせない。だったら、機会を見て利益で引けばいい。あいつをこちらの陣営に引き入れるには、共通の敵が必要だ。共通の敵がいれば、共通の目的も生まれる。だが、その敵は雲井家の父子じゃ駄目だ。あいつらとは長年一緒に暮らしてきた。そこには情もある。明日香でも駄目だ。そんな誘導は、安っぽすぎて見え見えだ」星と仁志は目を合わせ、ほぼ同時に一つの名前を口にした。「明日香の母親」前の世代の因縁を、次の世代にまで背負わせるべきではない。だが、自分の母を追い出した女の娘を、翔は本当に、何のわだかまりもなく受け入れ続けられるのだろうか。奏との通話を終えると、星は電話を切り、再び仕事に戻った。仁志は彼女の仕事を邪魔せず、ソファに腰かけて携帯をいじっていた。ふと、仕事中の星に視線を向ける。それから、雅人にメッセージを送った。「今日、星が商談していた時、何があったか調べろ」十数分後、雅人から返信が来る。「星野さんが同行させていた女性マネージャーが絡まれた件以外、特筆すべきことはありません。現在、その件は彩香さんが対応中です。仁志さん、彩香さんのほう
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第1707話

彼女は杖をつき、少し背を丸めていた。足腰も、あまり丈夫ではなさそうだった。その女は、慈しむような目で翔を見つめた。「翔様。私は蒼井愛歩(あおい あいほ)と申します。昔、あなたのお母様――夜様にお仕えしていた使用人です。当時は、あなたと忠様のお世話も、私が直接しておりました」夜の名を聞いた瞬間、翔の足がぴたりと止まった。「昔、雲井家で働いていた使用人なのか?」愛歩はうなずき、感慨深げに語り始めた。「あの頃、私はどうしてもまとまったお金が必要でしてね。それで、裕福なお屋敷を回って、使用人の面接を受けていたんです。でも、私のような何の経験もない者は、本来なら一次面接の時点で落とされるはずでした。だから、嘘をついたんです。十年の実務経験があります、と。けれど、そのあとの料理の試験で、すぐに化けの皮が剥がれてしまって。私は追い出されました。それでも、どうしてもあのお金が必要だったものですから、門の前に跪いて、必死でお願いしたんです。その時、ちょうど奥様が外からお戻りになって、事情を知ってくださって……特別に、私を置いてくださったんですよ」そこまで話すと、愛歩の顔には心からの感謝が浮かんだ。「奥様は、本当にお優しい方でした」それを聞いた翔は、思わず鼻で笑った。「優しい?本当に優しいなら、自分の子どもを置いて一人で出て行ったりするか?あの時、俺と忠、何歳だったと思ってる。未練も躊躇もなく去っていった。あの女は、冷酷な人間だ」愛歩は複雑な眼差しで翔を見つめた。「翔様……私は長年、奥様のそばにおりましたが、奥様ほどお優しくて穏やかな方を、ほかに見たことがありません。あの時、奥様が出て行かれたのには、どうしてもそうせねばならない事情があったのです。断言できます。あなた方のことを、奥様以上に愛していた人はいません。翔様、母親が自分の子を愛さないはずがないでしょう?」翔は冷たく言い返した。「本当に俺たちを愛していたなら、あれから何年も放っておくわけがない。その後、星が戻ってきても、あの女は帰ってもこなかったし、俺たちに会いにもこなかった。最後に死ぬ時ですら、俺たちに最期の顔を見せなかった。そのうえ、残した原始株は星一人にしか渡さなかった。それでも愛していたっていうのか?それが、あの女の言う愛なのか?」後半になる
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第1708話

愛歩は少し間を置いてから、さらに続けた。「母と子には、離れていても通じるものがあります。忠様も翔様も、自分の母親を愛していないはずがないと、私は信じております。去年、私はわざわざ墓園の管理人に聞いてみたのです。すると、翔様は毎年、少し早めにいらしていると知りました。それで今年は、私も早めにここでお待ちしていたのです」翔は、愛歩から差し出された袋を受け取った。中には、今の彼にはもう使えない物も多く入っていた。その中で、ひときわ彼の目を引いたのは、一対の双子の彫刻だった。翔は、それを取り出した。彫刻の底には、「夜」と刻まれていた。愛歩が言う。「それは、奥様が翔様と忠様のために、自ら彫られたものです。二組作られたのですよ。一組はご自分のお部屋に置かれ、もう一組は忠様と翔様への贈り物でした。奥様はお屋敷を出られる前に、一組をご自身のお手元に残されました。形見代わりになさるためです」その彫刻には見覚えがあった。ずっと正道の書斎に置かれていたものだ。翔は以前、それが正道の彫ったものなのかと尋ねたことがある。その時、正道はただ「人に作らせた」とだけ答えた。――まさか、母の手によるものだったとは。翔はそっと彫刻を袋へ戻し、次に手紙の入った箱を手に取った。愛歩はまた言った。「それは、奥様があの頃、未来の忠様と翔様へ宛てて書かれたお手紙です。翔様がご覧になれば、奥様が本当にお二人を愛しておられたかどうか、きっとお分かりになるはずです」それだけ言うと、愛歩はそれ以上留まらず、足を引きずるようにして墓園をあとにした。……M国。星のオフィス。ほどなくして、星のもとに奏から電話が入った。「星、手配は全部済んだ。今、翔は愛歩のことを調べてる。あいつの慎重な性格を考えれば、たぶん自分でも正道や靖に確認を取りに行くはずだ」忠も翔も、当時はまだ幼く、昔のことをはっきり覚えてはいない。だが、靖は違う。彼はすでに物心がついていた。だから昔の使用人のことも、ある程度は記憶している。星は小さく答えた。「うん。確認が済んだら、たぶん次は先輩のところに行く。先輩、あとのことはお願い」奏は、星を除けば、夜と最も長く時間を共にした人物だった。翔が夜のことに疑念を抱けば、必ず誰かに調べさせ、確かめようとする。そしてその過程で
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第1709話

もちろん、彩香にとっても不思議だった。怜央が、いったいどうして星を好きになったのか。彩香は声を潜めて尋ねる。「それで……仁志は何か気づいてるのかな?」星は小さく首を振った。「わからない。正直、昔からあの人のことって、あんまり読み切れないの。仁志は考えてることが深すぎるから」彩香は黙ってうなずいた。仁志は、知略にかけては底が見えないほど鋭い。彩香は時々思う。星がそんな男と一緒にいることは、果たして幸運なのか、それとも不運なのか、と。やがて彩香が言った。「星、仁志って最近、家をいろいろ見てるみたいだけど。二人って結婚するつもりなの?それとも同棲?」星は少し困ったように答えた。「今のところ、どっちも考えてないって言ったらだめ?」彩香は星を見つめ、小さな声で続けた。「でも、仁志、もう婚約指輪のデザインまで考えてるみたいだよ。星、たぶんもうすぐプロポーズするつもりなんじゃないかな」星の目がわずかに揺れた。「婚約指輪?」彩香はうなずく。「昨日、仁志が迎えに来る前、エレベーターのところで電話してたの。そのとき、指輪の図案がどうとか話してて。たぶん、そのつもりなんだと思う」もしこれが以前の星なら、相手が結婚を前提に付き合ってくれていると分かれば、きっと素直に喜んでいたはずだ。けれど今は――素直に喜べなかった。一度、失敗した結婚を経験してから、星はもう、以前ほど結婚を望まなくなっていた。仁志と付き合うと決めたのも、半ば流されるような形だった。自分から強く望んだわけではない。恋愛だけなら、まだ受け入れようと自分に言い聞かせることもできる。けれど、結婚となると――そこまで先のことを、星は本気で考えたことがなかった。彩香は、星のことをよく分かっている。その表情を見ただけで、彼女が何を考えているのか察してしまった。結婚に向けて熱心に準備を進めている仁志のことを思うと、彩香は少しだけ気の毒になった。何か言おうとして唇を動かしかけたものの、結局何も言わなかった。こういうことは、所詮、他人が口を出しすぎるものではない。……その日の午後、星は休みを取っていた。仁志は会社まで迎えに来た。二人で昼食を済ませたあと、仁志が言う。「星、連れて行きたい場所がある」それから一時間ほどして、仁志
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第1710話

仁志は、すっと目を細めた。「もう結婚するつもりはない……それは、どういう意味だ?」星は思わず、彼の視線を避けた。胸の内では、葛藤と迷いがせめぎ合っていた。ここまで仁志が心を砕いて、このすべてを用意してくれたことに、心を動かされていないわけではない。ここへ来る道中も、言うべきか、言わないべきか、ずっと迷っていた。仁志に冷水を浴びせるようなことはしたくなかった。けれど星には分かっていた。こういうことは、早いうちにはっきりさせたほうがいいのだと。星は小さな声で言った。「仁志……今の私の状況、あなたも分かってるでしょ。私にとって今は、結婚に向いてる時期じゃないの」仁志が問う。「雲井家のことが全部片付いたら?」星の瞳がわずかに揺れた。「仁志、結婚ってそんなに簡単なものじゃないの。考えなきゃいけないことは、ほかにもたくさんある。恋愛なら、好きだから一緒にいる、それでいいのかもしれない。でも結婚は……それだけじゃだめ」星の前の失敗した結婚も、結局は彼女の軽率さから始まったものだった。彼女と雅臣は、そもそも互いのことをほとんど理解していなかった。たしかに星と仁志は、互いをよく知っている。けれど、友人としての距離感と、恋人としての関係は根本から違う。もしかしたら二人は、友人だから合っているのかもしれない。だが、恋人として、まして夫婦としてうまくいくのかどうかは、まだ誰にも分からなかった。周囲の空気が、少しずつ冷えていく。仁志の笑みに、かすかな危うさが混じった。「つまりお前は、俺と遊びで付き合ってるだけだと?」星は目を伏せた。「違う。ただ今は、結婚のことを考えたくないだけ。これから先のことは……ごめん、仁志。私自身、気持ちが変わるかどうかも分からないの。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。自分でも守れるか分からない約束を、先にするのは嫌なの。去年だって、あなたの誕生日を一緒に過ごすって約束したのに……結局、過ごせなかった」その言葉が落ちたあと、あたりはしんと静まり返った。ただ、風にあおられたカーテンだけが、重たい音を立てて揺れている。仁志は長いこと、何も言わなかった。星も何か言おうとした。けれど喉が詰まって、ひりついて、声にならない。望む答えを返してあげられない以上、何
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