All Chapters of 夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

「だって観客はまだ後ろの演目を見ていないから、開幕の演奏さえミスなく、少しでも光るところがあれば、高得点を取りやすいのよ」「後になって、もし開幕と同じくらいの実力が出ても、得点で超えるのは難しいわ」果たして、彩香の言ったとおりになった。その後続けて五、六組が登場したが、誰一人として開幕の得点を超えられなかったのだ。舞台を眺めながら、彩香は首を傾げた。「ありゃ?今日って才芸コンテストよね?なんでみんな楽器ばかりなの?歌やダンスはないの?」歌やダンスだって才芸のひとつのはずだ。そのとき、ずっと舞台を見ていた影斗が、気だるげに口を開いた。「歌や踊りなんて、俺たちみたいな上流家庭にとっては見せられるものじゃない。子どものころから習うのは、琴・棋・書・画といったものだ」「将来役に立つとは限らないが、格は上がる」彩香は目を丸くし、「なるほど、そういうことだったのね」舞台では、実に多彩な楽器が披露されていた。ピアノ、古筝、オルガン、チェロ、ヴァイオリン。東西、古今、実によりどりみどりだ。ただ、その中のヴァイオリンを演奏したある親は、今日の舞台に強者がいることを知っていたのか、明らかに覇気を失っており、得点は八十点そこそこにとどまった。彩香は夢中で観覧していた。どれほど時間が経っただろうか。進行役の先生が歩み寄り、声をかける。「榊怜くんと保護者の方、そろそろ舞台裏の方までご準備をお願いします」「分かりました、ありがとうございます」星は怜の手を取って、舞台裏へと向かう。彩香は二人の背中に声援を送った。「星!容赦なんていらないわ。徹底的に叩きのめして!」星は穏やかに微笑んだ。「ええ」母の遺したネックレスを取り戻すためにも、決して手加減はしない。舞台裏の控えスペースには、数組の親子が待機していた。コンテストはすでに終盤に差しかかり、現時点での最高点は九十八点。星が入ってくると、周囲の視線が一斉に集まった。何人かの親はあからさまに顔を背け、目には軽蔑の色が浮かんでいた。少し前の騒動を、彼らはすべて目にしていたのだ。上流社会では見栄の張り合いが常で、持ち上げる相手と貶める相手を瞬時に見極める。星は正妻ではあるが、家柄も学歴もなく、最も見下
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第172話

「専業主婦さん、さっき言ってたよな。ヴァイオリンで自分に勝った人はいないって。あれ、本当かよ?」星は、少し離れた場所で高みの見物をしている清子に目をやり、勇の狙いをすぐに察した。「どうしたの?賭けたいの?」勇は一瞬たじろいだ。主婦のくせに頭が回る、と内心舌打ちする。「そんなに自信があるなら、賭けてやろうじゃないか」星は表情ひとつ変えずに尋ねる。「で、何を賭けるんだ?」勇はわざと周囲に聞こえるような大声で言った。「お前が負けたら、土下座して犬の真似だ」「俺が負けたら?土下座してご先祖様だろうが、おばあちゃんだろうが、ママでもパパでも呼んでやるさ」星はすっと目を細め、「私の息子になりたいの?翔太が許すかしら。私に息子がもう一人増えても構わないけど、翔太にしてみれば山田さんみたいな大きな弟は要らないと思うわ」怜が吹き出し、周囲で野次馬していた者たちも、普段は星を軽んじているくせに、この切り返しには笑わずにいられなかった。勇は危うく罵声を吐きそうになったが、本来の目的を思い出し、どうにか飲み込んだ。そしてわざと挑発するように言う。「清子に負けるのが怖いんじゃないのか?だから俺との賭けも避けるつもりだろう?」星はその浅い挑発など見抜いていた。「いいわよ、賭けても。ただし条件を変えましょう。私が勝ったら、山田さんが土下座して犬の真似。子孫が増えるなんてごめんだから」勇の顔が歪んだ。「いいだろう。負けた方が犬の真似だ!それと......急に倒れるとか、ヴァイオリンの弦が切れるとか、急用で出られないとか――そんな言い訳も全部お前の負けだ。異論はないな?」星は淡々と答えた。「ないわ」勇は抑えきれない興奮を瞳に宿しながら頷く。「よし、決まりだ」すでに彼はこのやりとりを録音していた。彼女が万一反故にすれば、すぐさまネットに流してやるつもりだった――二度と顔を上げて歩けなくなるように。やがて、雅臣と翔太が会場に入ってきた。翔太は遠くから母の姿を見つけ、怒りと失望の入り混じった表情を浮かべる。ぷいと顔を背け、見ようともしない。――ママには本当にがっかりだ。清子おばさんに、わざとジュースをかけるなんて。前のママはこん
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第173話

彼はふと気づいた。――自分はこれまで、星のために何ひとつしてこなかったのだと。その目に浮かぶ皮肉の色を見て、雅臣の瞳がかすかに揺らいだ。「星......誤解するな。俺はただ、お前を助けたいだけなんだ」「清子のためにやってるのをあたかも私のためみたいに言わないで。もし本当に私を助ける気があるなら、彼らが私を貶める時に黙って見てはいなかったはず。今ここで私を止めることもない」雅臣は星を見据え、重い声で言った。「星、感情で動くな。清子の実力はお前が思うほど甘くはない。今日の勝負......お前には勝ち目がない。唯一の方法は――出場を取りやめることだ」「出なければ負けることはない。翔太に、お前が惨敗する姿を見せたいのか?」「それに、あのネックレスだ。ヴァイオリンを清子に貸せば、彼女は必ず返す。コンサートが終われば夏の夜の星もお前の元に戻る」「お前さえ承諾すれば、後のことはすべて俺が手を回す。安心しろ、清子もお前を苦しめたりはしない」星は軽く手を叩き、薄笑いを浮かべた。「へえ、珍しいわね。神谷さんがここまで私のことを考えてくださるなんて。感動して涙が出そう」口ではそう言いながらも、その表情に感謝の影は微塵もなく、皮肉に満ちていた。雅臣は眉を寄せる。星はふと思い出し、問いかけた。「そういえば......さっきヴァイオリンの話をしたわよね。もし私が貸さなかったら?母のネックレスは返さないつもり?さっき言った助けもしてくれないわけ?」雅臣の目は淡く冷ややかだった。「取捨は分かっているはずだ」星はうんざりしたように言う。「言いたいことはそれでしょ?ならどいて。私は出場するわ」彼女は怜の手を引き、雅臣を避けて歩き出した。まさかここまで頑なだとは思わず、雅臣は低く呟く。「星......どうしてそこまで意地を張る?」星はふと足を止め、振り返った。「助けたいのなら――清子を辞退させればいい。それなら私が出なくても同じことでしょう?どうしていつも私が退けば丸く収まるという考え方なの?私が一歩引いて、頭を下げて、少しばかり屈辱を受ければ済む――そう思っているんじゃないの?」雅臣は言葉を失い、気づいた時にはすでに星の姿は
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第174話

観客席に座る彩香は、清子の演奏を耳にして、思わず目を細めた。「この女、ただ泣き真似ばかりする人間かと思ってたけど......意外とやるじゃない。今の演奏だけでも、少なくとも十年は積み重ねた腕前ね」隣にいた影斗が口を開く。「彼女は今ネット上で人気がある。熱狂的なファンも多い。もちろん雅臣が裏で仕掛けている部分もあるが、実力そのものは確かにある」彩香も以前から、清子がネットの有名人であることは知っていた。雅臣と噂を絶えず流し、たびたび検索ワードの上位に登場する。ネット上での知名度は高く、ファンも活発だった。ニュースを見れば、必ず彼女の名前を目にする。ヴァイオリン演奏の動画が拡散されても、彩香は一度もクリックしなかった。清子への偏見から、彼女を「不幸を売りにした可哀想アピール女」だと思い込み、「天才ヴァイオリニスト」「ヴァイオリン界一の美女」といった大げさな呼び名には鼻で笑っていた。実力が足りないからこそ、ネット民に頼るのだと。だが――清子には確かにA大に入学できるだけの実力があった。今日の賭けが普通の相手であれば、敗北を免れなかったかもしれない。長く黙り込む彩香に、影斗が問いかける。「......星ちゃんは、本当に負けないんだろうな?」彩香は我に返り、きっぱりと言った。「どうして負けると思うの?清子に実力があるのは認めるけど、星と比べたら全然よ!」影斗は眉をわずかに上げる。「星ちゃんは、そんなにすごいのか?」「私が嘘を言うと思う?」それでも影斗は疑念を拭えずにいた。「そうは言うが......彼女、この五年間、ほとんどヴァイオリンを弾いていないんじゃないのか?」彩香は咳払いをしてごまかし、「最近はずっと練習してるの。仮に五年間まともに弾いていなかったとしても、清子に勝つのは問題ないわ」言い切ると、声に再び力がこもる。「もし全盛期の星だったら、一瞬で叩き伏せてる!」――やがて、清子の独奏が終わり、彼女の横のライトが点いた。そこに現れたのは翔太。黒のミニタキシードに身を包み、髪もきちんと後ろへ撫でつけられている。小さいが紳士さながらの姿だった。清子は白、翔太は黒――二人の並びは造形と演出の効果で最大限に引き立てられていた。先ほどの化粧
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第175話

「最初から雅臣が、あの高校すら卒業していない星なんかと結婚すると分かっていたら、清子との縁を認めてやった方がまだましだったわ」勇も口を挟む。「俺はもう、星が徹底的に恥をかくのを見るのが楽しみで仕方ないぜ!」清子は風呂に入り直し、化粧もやり直す必要があり、当初は時間を稼ぐために大トリを務めさせる予定だった。だが、勇はふと思いついた。――もし清子を最後にしたら、星は清子よりも先に出場することになる。星はどうせ清子に勝てない。だが、賭けという以上、星に天と地ほどの差をまざまざと見せつけ、二度と清子の前で吠えられないようにするべきだ。清子が先に舞台に立てば、会場の審査員も観客もその演奏に心を奪われる。その直後に登場する星など、誰もまともに目を向けない。――そうなれば、星は完全に引き立て役。惨めな添え物に成り下がる。勇はこの考えを清子に打ち明け、二人はすぐさま意気投合した。その頃、客席に座る審査員たちは、長丁場の演奏にすっかり疲れを見せていた。額を押さえたり、あくびを噛み殺したり、表情には倦怠が色濃く浮かんでいる。小さな子どもたちも、待ち時間の長さにまぶたが重くなり、舟を漕ぎはじめる者もいた。観客の中には、席を立って外に出てしまう人さえいた。だが――清子の指先から紡ぎ出された美しい旋律が流れた瞬間、会場の空気が一変した。張りつめていた眠気が吹き飛び、聴衆の意識が一斉に引き戻される。軽やかで澄んだ音色は、まるで跳ねる精霊のように会場を駆け抜けた。彼女の指先には、まるで命が宿っているかのようだった。頭上からのスポットライトが彼女の姿を照らし出す。胸に抱くヴァイオリンは水晶のように透きとおり、蒼い光を放って神秘的に輝いていた。それは、まるで海を閉じ込めたかのように美しい、青色のヴァイオリンだった。そこから溢れる旋律は小川のせせらぎのように優しく、聴く者の心を深く潤していった。「ちっ......!」彩香は思わず毒づいた。「あのヴァイオリン、星の夏の夜の星よりよっぽど良いじゃない!そんなのを持っていながら、まだ夏の夜の星を欲しがるなんて......!」影斗もまた、その音色にしばし心を奪われ、はっと我に返ると彩香を見やった。「夏の夜の星は世界的に名を知られた十本の名
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第176話

客席ではざわめきが広がっていた。「すごい!まさか小林さんのヴァイオリンの腕がここまでとは!」「このレベルなら、うちが家に呼んでる先生よりずっと上だわ」「私の友人にヴァイオリニストがいて、業界でも実力は上位に入るのに......小林さんの半分にも及ばないなんて」「道理で雅臣が彼女を大事にするはずだ。疲れている時や気分が沈んでいる時、彼女の演奏を一曲聴けば、心が洗われる」審査員たちの評価もまた一致して、99.9点という超高得点をつけた。――なぜ満点ではなかったのか。理由はただひとつ、翔太の存在である。清子の演奏だけなら文句なしの満点だ。だが二重奏である以上、翔太の演奏はどうしても彼女に比べて劣って見える。そのため0.1点を減じたのは、翔太への評価だった。清子と翔太の得点は一気に全体の首位に躍り出た。清子は自分の出来栄えに大満足し、翔太の手を取ってゆっくり一礼すると、勝ち誇った笑みを浮かべて舞台を降り、観客席へと戻った。勇は親指を立てて称賛する。「見事だ!これで誰もがお前の演奏に酔いしれてる。次に星が出ても、相手にされるもんか!」そう言うなり、ふと何かを思いついたようにスマホを取り出し、ライブ配信を始めた。「星......調子に乗った報いを受けろ。この恥ずかしい姿を、世界中のネット民に晒してやる!」予想通り、勇の言葉は現実となった。舞台の照明が落ちた後も、客席ではあちこちで清子の演奏についての談笑が続いていた。照明が再び灯り、星と怜が舞台に現れても、視線は彼らに向かわず、依然として清子の方へと注がれていた。彩香は、囁き合いながら星を完全に無視する観客たちを見て、顔をしかめる。――その瞬間、清子が星より先に演奏した意図に気づいたのだ。「卑怯な......!」彩香は怒りを噛み殺した。だが影斗は動じることなく、静かに舞台を見つめていた。ヴァイオリンの音が奏でられ始めても、観客の多くはまだざわめいていた。しかし演奏が続くにつれて、いつしか囁き声は小さくなり、ついには完全に消えた。全員の視線が、舞台に立つひとりの女性に吸い寄せられる。つい先ほどまで、彼らも星の存在を知ってはいた。なにしろ、清子との醜い争いを繰り広げた場面を、多くの人が見ていたのだか
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第177話

人々の耳には、もはや他の音は一切届かず、ただ天籟のごとく美しく澄んだヴァイオリンの音色だけが脳裏に反響し続けていた。会場はしんと静まり返り、全員が呆然と星を見つめ、瞳には驚愕と信じがたい思いが浮かんでいた。観客席でスマホを握りしめ、星の醜態を全世界に生配信してやろうと意気込んでいた勇さえも、気づけばその演奏に引き込まれていた。星を徹底的に地に落とすため、勇は事前に大金を投じていた。数千万円を注ぎ込み、人気配信の広告枠を買い上げ、トップページの一番目立つ場所に強制的に押し上げたのだ。そのため、配信を開始するや否や数万人が流れ込んできた。演奏前、視聴者たちは現場のざわめきや騒音ばかりが聞こえてきたので、「事故でも起きたのか?」と勘違いしたほどだった。ネットが発達した今、最も好まれるのはゴシップ。彼らは面白半分に覗き始めた。だが、星が弾き始めると――コメントも弾幕も、数分間は不気味なほど沈黙した。そして演奏が終わった瞬間、コメント欄は一斉に爆発し、勇の最新機種のスマホですら処理が追いつかずフリーズしかけた。【うわあああ!こんなに美しい音色があるなんて!音楽に詳しくない私ですら、息を呑んで聴き入っちゃった!】【私は音楽専攻だから、分かる。彼女の実力は川澄奏より上!あの大バズりした川澄奏を、みんな知ってるでしょ?】【やばい、聴き入ってて録画し忘れた!誰か録った人いない?お願い、送って!恩に着る!】【すごい美人だなって思ってるの俺だけ?名前知ってる人いる?】【きれいすぎる......画面越しにキスしたい!】【配信者さんフォローしたよ!カメラもっと寄せて、彼女の顔をちゃんと見せて!】【ギフト送るから!もう一曲弾いてもらえ!】勇が我に返ったとき、画面には視聴者の狂乱コメントがあふれていた。ライブの視聴者数を見て、彼は目を疑った。――たった五分足らずの演奏で、数百万人が流入していた。しかもフォロワー数は数十万単位で急激に増え、なおもとどまることなく増え続けていた。気づけば、彼の配信はリアルタイムのホットランキングで一位に躍り出ていた。その一方、他の大手配信者たちは視聴者が急激に減少しているのを目の当たりにし、困惑していた。【え、みんな?こっちの回
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第178話

勇は歯を食いしばり、今すぐ配信を切ろうとした。だが、怒りのせいか、それとも星の実力に圧倒されたのか、指先が震えてボタンを押せない。何度も深呼吸を繰り返し、ようやく少し落ち着きを取り戻すと、激しく閉じるボタンを押した。ところが、その瞬間にスマホが再びフリーズした。画面にはコメントや弾幕、ギフトのエフェクトが次々と溢れ、美女の演奏をひと目見ようとする視聴者が雪崩のように押し寄せてくる。勇のスマホどころか、配信サーバーすら悲鳴を上げていた。「ちっくしょう!切れ!切れって言ってんだよ!」半狂乱で連打し、ようやく配信を終了させた。清子の演奏のとき、観客はすぐに正気に戻り、盛大な拍手を送った。だが星の演奏が終わったあと、会場は一分近くも水を打ったように静まり返った。――ぱちん。客席のどこからか、不意に拍手が起こった。それを皮切りに、雷鳴のごとき大きな拍手が場内を揺るがした。もし身分や体面に縛られていなければ、観客たちは歓声を上げ、口笛を鳴らしていただろう。それほどまでに、この演奏は圧巻だった。耳に響く音色の美しさは言うまでもなく、視覚的にも目を奪う。彼女の家柄を嘲笑い、学歴を侮ってきた人々も、この瞬間ばかりは誰ひとりとして彼女の美しさを疑わなかった。――いや、美貌以上に、彼女は今、まばゆい光そのものだった。燦然と輝き、息を呑むほどに。審査員たちは興奮のあまり体を震わせ、顔を紅潮させていた。誰一人として相談することなく、あるいは考えることすらなく、一斉に百点満点の札を掲げたのだ。「信じられん......こんなにも心を打つ音色は、今まで聴いたことがない」「さっきの清子でさえ、彼女の十分の一にも及ばない」「誇張じゃなく、私が見てきた演奏の中で、最も素晴らしかった!」「これこそ三日経っても消えぬほどの余韻が残るというやつだな」一人の審査員が細やかに評した。「そういえば、榊怜くんのソロが途中にあったな......驚いた。まったく違和感がなかった。むしろ完璧に調和していた」「まさに非の打ち所がない演奏だった!」「そうだ、さっきの神谷翔太くんの演奏は、ソロがなかったじゃないか」しかも翔太の場合、曲全体の三分の二が清子のソロで、合奏は三分の一に過ぎなかった。も
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第179話

「今回、星は新しい編曲を施し、怜くんの個性と強みを生かして再構築したのよ。これからは、この白い月光も合奏曲として演奏できるわね」影斗がふいに口を開いた。「......今になって、ようやく信じられる」客席はまだ暗く、彼の表情は見えない。ただ、低くかすれた声だけが闇の中に響いた。「彼女は......本当に、素晴らしい」彩香は神谷家の席を横目に見て、冷ややかに笑った。「星が清子の真似をした?――笑わせないで。これこそが本物の白い月光よ」一方、綾子と雨音も、目を見開いて舞台を凝視していた。演奏の冒頭こそ、二人は嘲笑混じりに星を貶めていた。だが、いつの間にかその声は消え失せていた。雨音の口がぽかんと開く。「お母さん......星って何もできない無能だって聞いてたよね?なんであんなにヴァイオリンが弾けるの?」しかも、弾けるなんて言葉では到底足りない。あれほどの演奏は、もはや神技の域だった。綾子もまた、信じられないという色を隠せない。ヴァイオリンを知らない者なら「清流のように耳に心地よい」と思うだろう。だが心得のある者なら、「神技」としか形容できないほどの演奏だった。星は何もできないのではなかったのか?どうにか一曲弾けても、せいぜい耳障りでしかないはずではなかったのか?――これは、一体どういうことなのか。清子は呆然と立ち尽くし、唇を噛みしめ、見開いた瞳を震わせていた。小さく首を振りながら、かすれ声を漏らす。「そんなはず、ない......」彼女は自分の技術に絶対の自信を持っていた。世界の頂点に届くとは言わないまでも、神の域にいると信じて疑わなかった。音楽学院でも、常にトップ十に入っていたのだ。A大への合格が、その証だった。容姿では星に敵わないことは、重々承知していた。だがヴァイオリンだけは、絶対に勝てると信じていた。心の奥底で、清子はいつも星を見下していた。――結局は男の寝床に取り入ってのし上がっただけの存在。美貌以外に何もない、出産の道具にすぎない。雅臣の妻にふさわしい資格など、あるはずもない。もしあのとき、綾子に反対されなければ、今ごろ神谷家の妻は自分だったはず。だから戻ってきた今、すべてで星を打ち負かし、自分の前で自らを卑
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第180話

来た人物を見て、怜はすぐに察し、星に言った。「星野おばさん、僕は先に休んでるね。お話が終わったら迎えに来て」星は穏やかな声で応えた。「ええ、先に行ってて」――母の形見のネックレス。必ず取り戻す。清子や雅臣が約束を守るかは分からない。だが、たとえ反故にされたとしても構わない。無恥な人間に対しては、最初から手を打ってある。ネットの話題なんてすぐに忘れ去られるけど、彼らをもう一度炎上させるくらい、いくらでもできるのだから。「......ヴァイオリン弾けたのか?」雅臣の低い声が響き、瞳には彼女には読み取れない感情が宿っていた。星は否定しない。「ええ」「どうして一度も言わなかった?」「あなた、一度でも私に尋ねたことがあった?」星は唇に皮肉な笑みを浮かべる。「出産のあと、働きたいと言った時も子どもを他人に預けるのは不安だから、家にいて世話をしろの一言で済ませたじゃない。あの時だって、私がどんな仕事をしたいのかすら聞かなかった」雅臣は黙り込む。――そうだ。彼は一度も尋ねなかった。なぜなら、彼女に関心がなかったからだ。この瞬間、彼は気づいた。自分は星について、あまりにも無知だったのだと。星はもう彼と無駄な言葉を交わすつもりはなかった。「結果はもう出たわ。約束どおり、清子は母のネックレスを返してもらうわ。神谷さんが今さら約束を破るなんてこと、ないでしょうね?」本来なら清子に直接言うべきこと。だが、彼女を後ろから支えている最大の力がこの男だった。もし彼がいなければ、清子がこれほど好き勝手できるはずもない。――皮肉なことに、この男は自分の夫なのだ。雅臣の黒い瞳がさらに深みを帯びる。「お前はいつも、俺を悪人として扱う」「人を悪く見すぎてるのは、あなたの方よ」星は冷ややかに言い放つ。「いつだって清子に何かあると、真っ先に私がいじめたって決めつけてきたじゃない」言葉を失った雅臣は、数秒の沈黙のあと、静かに口を開いた。「一緒に清子のところへ行こう」星は拒まなかった。だが同時に、彩香へ密かにメッセージを送っていた。清子の周りには勇、翔太、綾子、そして腹の底を探れない雅臣までいる。自分ひとりでは荷が重い。援軍が必要だ。
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