元夫の初恋の人が帰国した日、私は彼の兄嫁になった のすべてのチャプター: チャプター 601 - チャプター 610

744 チャプター

第601話

月子は電話を切り、すぐに洵に電話をかけたが、繋がらなかった。そして陽介に電話をかけると、今度は繋がった。月子は電話で陽介に事情を説明した。陽介は困惑した様子で言った。「洵は今日、仕事の後で取引先と会う約束をしていたんだ。俺もずっと連絡を取っていなかったから、誰と喧嘩になったのか、さっぱり分からない。一体誰となんだ?」「分かった。洵は大丈夫みたいだから、心配しないで。私が様子を見てくるよ」そう言うと、月子は電話を切った。洵と天音は、やすらぎの郷で一度会ったきりだった。その時、二人は少し口論になったようだが、そこまでわだかまりがあるように思えなかった。洵は天音と関わりたくないだろうし、天音だって洵を眼中に入れていないはずだ。そんな二人がどうして喧嘩になるんだ?洵は短気だけど、分別はあるほうだ。口では色々言うけど、実際に行動に移すことはほとんどないし、まして女性に手を上げたなんて話は今まで聞いたことがなかった。むしろ、余裕があれば困っている女性を助けたりすることもあるくらいで、彼はただ、性格がクールなだけなんだ。そう考えていると月子はふと、あることを思い出した。天音は正雄に罰として、2週間、実家で謹慎させられていたんだ。確か、もう解放されている頃だろう。もしかして、天音は鬱憤が溜まっていて、誰かに当たり散らしたくなったのかも……でも、八つ当たりするなら、自分にするはずだ。何の関係もない洵に当たるのは一体どうしてだろう?もしかしたら、二人が偶然出会って、ちょうど天音の機嫌が悪かったから、口論になって、つい手が出てしまったのだろうか?いずれにしても、怪我をしたのは天音だ。この件は、穏便に済ませるのは難しそうだ。自分が行かなきゃ。萌に簡単に事情を話すと、月子は詩織から送られてきた病院の住所へ向かって車を走らせた。場所はそれほど遠くなかったので、すぐに到着した。救急外来では、医師が天音の傷を縫合していた。入口の外には、詩織と、数人の鼻や顔が腫れ上がった若者が立っていた。どう見ても、天音の仲間だろう。一方で、洵は廊下の椅子に堂々と座り、目を閉じていた。目をつぶっていても、その表情には隠しきれないイラつきがあった。そばに立っている若者たちも洵に対してむかつきはあっただろうが、誰も前に出て来ようとは
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第602話

人を見下していた天音だが、実際のところは大したことなかったな。静真の実の妹だけあって、二人とも同類で、見るからに嫌気がさすような人間だなと洵は思った。ざまみろってところだな。月子は状況を把握すると、詩織の方を向いて尋ねた。「植田さん、事情は分かった。静真には報告したの?」「入江社長には既に報告済みです。ですが、天音さんが怪我をされているので、然るべき対応をしていただかなくてはなりません」月子は眉をひそめた。「それなら先に、天音が複数で洵を襲わせたことを説明すべきじゃない?」「入江社長とご相談ください。ですが、怪我をされているのは天音さんですので、社長が本気で追及すれば、事態は深刻になるでしょう」それを聞いて月子の顔色は悪くなった。どうやら相手は、ほんの少しのことでも言いがかりをつけて徹底的に追及するつもりのようだ。もし天音が怪我をしていなければ、ただの嫌がらせで済んだのに。むしろ、天音に謝罪させることだってできた。しかし、天音は怪我をしてしまった。彼女の自業自得とはいえ、怪我をしたのは事実だ。入江家は、たとえ些細なことでも自分たちが脅かされるのを許さないだろう。ましてや、天音はわがままに育てられてきたのだ。縫合するほど怪我を負ったともなれば、入江家は黙っているはずがないのだ。なにせ、天音にとってこれはかなりの一大事なのだから。洵は詩織の言葉に全く納得がいかなかった。どう考えても、天音が計画的に自分を襲わせたんだ。もし自分が強くなかったら、今頃病院に搬送されていたのは自分の方だっただろう。なのに、まるで自分が悪いと言わんばかりの上から目線で、さらに報復までするとは、あまりにも横暴すぎる。やっぱり入江家の人間はみんな鼻持ちならないな。しかし、そうは思ってても洵は軽率な行動は慎んだ。月子がここにいる手前、これ以上事を荒立てるわけにはいかない。しかも、自分が衝動的に行動すれば、事態を悪化させる可能性だってあるのだから、月子に指示された時だけ動く。それは月子との約束でもあるのだ。彼はただ迷惑をかけるばかりではなく、月子を守れるような弟でありたかった。とはいえ、また面倒を起こしてしまった。悪いのは自分ではないとはいえ、厄介なことに巻き込まれたことには変わりないのだ。洵は自分で何とかすると言ったが、月子が
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第603話

少ししてから、月子と洵は立ち上がった。静真はずっと月子を見ていて、その視線は以前のような露骨な怒りはなく、何か秘めたる感情が渦巻いているようだった。彼が何を考えているのか分からないが、月子は深く考えるつもりもなく、とりあえず問題を解決する方が先決なのだ。そう思って月子は「天音が洵に八つ当たりしたのは、彼女に原因がある。彼女こそ洵に謝罪すべきよ」と言った。それを聞いて、静真は唇をあげた。「いいだろう」月子はきょとんとした顔になった。こんなに簡単に承諾するなんて?詩織も少し驚いた。しかし、次の瞬間、静真は言った。「だが、天音の怪我はどうしてくれるんだ?」その言葉を聞いて、月子の眼差しは鋭くなり、彼が続けるのを待った。「同じ傷を負わせろ」静真は言った。月子は拳を握り締めた。やはり静真が簡単に済ませるわけがないのだ。しかし、こんな要求を承諾するわけにもいかない。片や、それを聞いた洵の表情一瞬にして凍り付いた。「いいよ。だけど、こっちも天音に頭を下げて謝罪してもらうまでだ!」それを聞いて、静真は目を細め、初めて洵をまともに見た。この小僧も意外に強情だなと思った。離婚前なら、本当の姉弟なのにどうしてこんなに性格が違うのかと思ったけど、今の月子の性格からすると洵がこんなことを言うのも当然だろう感じた。その言葉に静真が口を開く前に、詩織が先に注意を促した。「月子さん、問題を解決したいなら、あなたの弟さんに言葉を慎むようにお願いします」それを聞いて月子は洵の前に立ちはだかり、一歩も引く気はなかった。「洵に同じ傷を負わせても、問題解決にはならないでしょ」それを聞いて、静真は尋ねた。「じゃあ、話にならないってこと?」月子は落ち着いた声で言った。「天音が出てきたら、彼女と直接話し合うよ」静真は冷笑した。「天音の性格だ。お前が話せば済むと思っているのか?」「それは心配無用よ」静真の顔色は曇った。月子は彼をまっすぐ見つめた。静真は何か言いたげだったが、ぐっと堪えているようだった。こんな我慢している姿は、意外で奇妙に感じた。突然の沈黙に、気まずくて息苦しい空気が流れた。月子はしばらく待ったが、静真は何も言わなかった。これで解決できると分かった。結局、天音が先に手を出したことは明白だ。静真も強気に出られないだろう。
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第604話

なのに、洵は怖いもの知らずのように反抗をしてくるなんて、その生意気な態度はとても気に障ったのだ。だけど所詮はなんの後ろ盾もないんだから、どんなに強情を張っても自分の前で大人しく頭を下げて従うべきじゃないのかと天音は思った。だから、天音は本当は怪我なんてしていなかったんだ。倒れた瞬間に、こっそり手を伸ばして腕に傷をつけた。そうでもしないと、今日、洵を懲らしめる理由が、運が悪かっただけになってしまうから。痛い、本当に痛い。でも、洵に仕返しできないで泣き寝入りする方がもっと嫌だった。そう思うと少しぐらいの怪我なんて、天音にとってどうってことないのだ。そして、怪我をしたおかげで、洵は生意気な口をきけなくなったし、月子もやってきて、ペコペコしながら自分をなだめようとして、機嫌を取る方法まで考えなきゃいけなくなった。まさに一石二鳥。とはいえ、最初から洵がそこそこの腕前があるって分かっていたら、ボディーガードを連れて行ったのだが、そうすればこんな目に遭わなくても済んだのに。とにかく目的は達成できたし、天音は上機嫌だった。だから彼女はしばらく洵の様子を見てから、悔しそうな顔をして、大げさに静真に泣きついた。洵は、それを見るごとに顔が険しくなった。この女、全ての責任を自分に押し付けようとしているんだ。月子は、天音の泣き言が終わるまでじっと待ち、それから口を開いた。「ちょっと話そうか」それを聞いて、天音は不機嫌そうに月子を睨みつけた。「あなたと話すことなんて何もない。っていうか、月子、この件、あなたに関係ある?私に痛い目を合わせたのは洵よ。なのに彼はまるで役立たずみたいにあなたの後ろに隠れて、本当にどうしようもないわね」そう言うと彼女は洵に軽蔑の眼差しを向けて、わざと挑発するように言った。「役立たず」洵は生まれてこのかた、天音ほど嫌な女に出会ったことがなかった。入江家の人に対する嫌悪感は、おそらく生まれつき備わっていたものなのだろう。一方で、そう言われた月子は天音に散々罵倒されたことがあったので、彼女の口の悪さには慣れていた。しかし、洵はきっと慣れていないだろうから、月子は冷たい表情で天音の話を遮った。「なぜ洵にちょっかいを出したの?」それを聞いて、天音は面白がるように言った。「理由なんている?単純に気に食わないだけよ。彼は言葉遣
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第605話

「洵から聞いたけど、彼はあなたを脅かしただけで、あなたが自分で転んで怪我をしたんでしょ?傷つけるつもりはなかったんだから怪我はただ事故よ」と月子は言った。天音は洵を遠くから見て、冷笑した。「だったらなんだっていうの?」彼女は振り返り、あからさまに傲慢な態度で言った。「月子、洵が反抗したってことは、私を怒らせたってことよ。それに、私が怪我をしたのは彼のせいだし、あなたが何を言おうとその事実は変わらないんだから、あなたと洵は私に謝罪すべきよ。そうすれば、私の気が済んで許してあげれなくもないかもね……」「あなたの誕生日は、おじいさんの誕生日とそれほど変わらないわよね?同じ月だったはず。確か、明後日だったかしら」と月子は言った。それを聞いて天音は意外そうな顔をした。「言われなかったら、忘れてるところだった。いいアイデアをありがとう。誕生日はたくさんの人を呼んで、盛大にお祝いするつもりよ。みんなの前で、あなたと洵に謝罪してもらうのも悪くないかもね」天音の左手首には、高級ブランドのカスタムメイドのレーシング風ブレスレットが飾られていた。ダイヤモンドでサンの英語名前が刻まれている。こう見るとやはり天音は本当にサンの熱狂的なファンだ。そう思った月子は顔を上げて言った。「天音、あなたって本当に甘やかされて育ったのね」「私たちが知り合ってから私はずっとこうだったじゃない。だから、あなたと洵は私に媚びへつらうことを覚えるべきよ。なのに、いつも私を怒らせるんだから」天音は長い間、月子にいいようにされてきた。今日はやっとチャンスが巡ってきたんだから、今までの鬱憤を晴らすかのように、ここぞとばかりに威張って、すべてを吐き散らしてスッキリしたかったのだ。だけど、月子は気にせず笑った。「でも、私にもあなたを二度と威張れないようにする方法があるのよ」それを聞いた天音は驚き、顔には衝撃の色が浮かんだ。「冗談でしょ、月子。兄さんと離婚したショックで、頭がおかしくなったんじゃないの?あなたにそんなことができるなんて全く想像つかないけど!」月子は言った。「今後、洵にちょっかいを出さないと約束するなら、サンに会わせてあげる。誕生日のサプライズプレゼントにちょうどいいでしょ?」天音がサンの大ファンだということを知っている月子はよほどのことがない限り、正体を明かした
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第606話

天音は歯を食いしばって、こう言った。「どうしてあなたを信じられるっていうのよ?」月子は静かに言った。「嘘なんてつかないさ」「いや!会うだけじゃなくて、サンの運転する車に乗せてもらわないと!」天音は駄々をこねた。「約束してくれないなら、私もあなたの言うこと聞けないから!」月子は彼女を見て言った。「いいわよ」天音はまだその大きなサプライズに浸っていた。その様子を見て月子は首をかしげた。「これで話がまとまったってことでいいの?」天音は冷たく言い放った。「でもサンに会うまでは信じないから。だって、あなたが嘘をついているかもしれないじゃない!」月子は落ち着いた声で言った。「約束はちゃんと守るから安心して」それから、月子は少し首を傾けて言った。「静真に話して、この件はこれで終わりにしよう。それでもあなたもしくは静真が納得しないなら、おじいさんに言って。そもそも、洵を挑発したあなたが悪いんだから、これであなたが怪我をしていなかったら、私もこんな約束はしなかったけどね」4センチもの切り傷で、しかも縫合が必要なほどの傷は相当な大怪我だから。月子は、誰かが怪我をするのを見るのは耐えられなかった。これで天音も、それなりに痛い目に遭ったってことだ。しかし、天音がトラブルを起こしたのは事実なのに、怪我をしたせいで逆ギレされる筋合いはない。だから月子は、甘やかされて育った令嬢のワガママに付き合わなかった。それよりも、彼女をひきつける方法を選んだのだ。天音は、サンに会えるなら、月子の嫌味にも耐えられた。「サンと知り合いじゃなかったら、あなたのいうことなんて聞いてなかったんだからね!」月子は厳しい口調で言った。「それから、洵に謝罪して」そう言われて、天音はすぐに顔色を変えて叫んだ。「それは絶対に嫌よ!怪我したのは私のほうよ!」月子は冷静に言った。「あなたが怪我をしたのは事実だけど、先に仕組んだのも紛れもない事実でしょ。もし洵があなたと同じようなことをしたら、たとえそれで逆に怪我を負ったとしても、入江家が穏便に済ませるわけがないんだから、あんたがこの件で先に洵に謝罪するのが筋じゃない」それを聞いて天音の顔は怒りでいっぱいだった。月子は続けた。「サンに会いたいんでしょ。これから私たちが関わる機会はたくさんあるんだから、私の言う
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第607話

「あなたを偉そうに説教する資格なんて、私にはない。私はただ、姉として弟を守りたいだけ。彼が被った悔しさを、私だけには分かるから。だから見て見ぬふりはできない。姉として彼の気持ちを考えないと、それを蔑ろにして彼に謝らせるわけにはいかないから」天音は、怒りから驚きへと表情を変えた。月子は意外そうに尋ねた。「そんなに驚くこと?あなたにも守りたい人がいるでしょ?」今まで月子と話すことなど全く考えたこともなかった天音は、初めて彼女からこんなに話を聞かされ、どう返していいのか分からず、ただ、ただ……少し離れたところにいる静真を見て、天音は突然、叫びたくなった――あなたは、いい女逃したわよ。月子はもうこれ以上話すこともないと思ったので、話を切り上げようと尋ねた。「それで、納得した?」天音は息を深く吸い込んだ。結局、自分が折れないといけないのかと思うと、さらに憂鬱になった。悔しくてたまらない。でも、彼女もバカじゃない。月子は自分の我儘が全く通用しない相手だと分かっていたからだ。実際、月子みたいなタイプが一番とっつきにくいのだ。冷静で揺るがない口調。弱点なんて見当たらない。彼女の考えを変えるのは至難の業だ。とにかく、天音は月子に完敗だった。付け入る隙なんてどこにもない。自分の望みを叶えるには、月子の言うことを聞くしかないようだ。ちぇっ、こんな風に主導権握られるの、本当に嫌い。でも、仕方ない。「分かった、洵に謝る!」天音は月子を睨みつけた。「サンに会えたら、もうあなたと洵にちょっかいは出さないから!」それを聞いて、月子は軽く笑った。「約束よ」天音は月子と一緒に歩き出したが、時折、彼女をチラチラと見ていた。今日初めて、月子にはしっかりとした信念があって、簡単に操れるような相手じゃないってことを思い知った。でも、かつての彼女は兄に対して、全くそんなところは見せなかった。何というか、天音みたいに楽天的な人間ですら、何かが変わってしまったような気がした。月子は月子のままだ。でも、以前の彼女とは違う。まるで全てが変わってしまったみたい。少なくとも、昔の自分なら、月子のこんな馬鹿げた要求に絶対に応じなかった。なのに、今は妥協している。天音も急に自己中な性格から聞き分けがよくなったわけじゃない。全ては月子が変わったからだ。天音は数歩
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第608話

祖父や兄がいる手前、天音はいい子を演じている。そうすれば自分に都合がいいからだ。彼女はそんな風に立ち振る舞うことに慣れっこで、こんな発言をしても恥ずかしいなんてこれっぽっちも思っていない。むしろ、目的を達成するための手段としか考えていない。羞恥心のかけらもない。おまけに、自分がわざわざ頭を下げてやったんだから、洵はそれを素直に受け入れて、逆に自分に媚びへつらうべきだと思っているんだ。そう思いながら天音は、当然起こるべきことが起こるのを待っていた。しかし、彼女のこの言葉とさっきの態度があんまりにも違っていた。それには天音の子分たちも、皆驚き、手のひら返しの上手い天音に感嘆していた。ただ桜だけは冷静だった。彼女が月子と知り合って以来、天音が月子に勝ったためしはないことを知っていたからだ。今日も、天音が怪我のふりをして月子をやり込めるかと思いきや、こんなに早く形勢逆転してあの厄介な天音を黙らせたなんて、さすが月子だ。静真は、月子をより深い視線で見つめていた。「洵、私の謝罪を受け入れないつもり?」天音は、しばらく待っても洵からの歩み寄りがなく、不機嫌になった。自分が侮辱された時と同じように、腹が立ったのだ。自分に謝罪してもらえたのは、全て月子のおかげだということに、洵は気づいているのだろうか。彼自身には何の力もないくせに。姉の庇護のもとで生きているだけの役立たずなら、少しは低姿勢でいるべきじゃないのか。しかし天音にそう思われている洵は彼女の謝罪を聞いて、鼻で笑ってこう言った。「分かってるならいいんだ」天音は一瞬言葉を失い、我に返ると、目を丸くした。「なによその反応!」「他にどうしろって言うんだ?」洵は冷酷な表情をしていた。他にどうしろって?頭を下げて謝ったことを素直に受け入れ、逆に感謝するべきじゃないのか?天音は怒り心頭で、怪我をした手を突き出した。「私が怪我したんだから、あなたも謝って!」洵は天音の傷跡を一瞥し、冷たく言い放った。「ざまぁみろ」天音の顔色は、見るからに陰鬱だった。なんて横柄なやつだ、どうして彼は、自分にこんな態度をとれるのだろうか?天音は月子の方を向き、落胆した様子で言った。「何とか言ってよ」落胆しているのは演技だ。サンのことがなければ、とっくに殴りかかっていた。月子は目で洵に落ち着く
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第609話

そのあまりにも速く、鋭い動きが醸し出す攻撃性にその場にいた全員が洵の威嚇を感じさせた。天音と友達は、洵を見る目が変わった。みんな、洵は怖気づいて、月子が来たから黙っていたんだと思っていたのに、まさかあんなに激しい反撃に出るとは。洵はどうして静真にあんな口の利き方ができるんだ?体格も静真には及ばないのに、よくも、威勢のいい雰囲気をだせるもんだ。その勢いに一同は圧倒されてしまった。すると次の瞬間、今度は月子は素早く洵の前に飛び出し、彼を庇った。その状況に静真の表情は冷たく、彼は洵の行動に驚いているのは確かだけど、怒っているのかどうかというとそうでもないように思えた。だけどもし静真が怒って、逆上でもしたら……自分に何かしてくるならまだしも、洵に何かをさせるわけにはいかない。それに静真は前にすでに洵に手をだしたことがあったんだから。そう思うと月子は威圧感のある声で言った。「静真、もう話は終わったでしょ?なぜ私を引き止めるの?」月子は顔を向けると言った。「天音、あなたからも説明したら?」だが、天音の視線は洵に釘付けで、どこか上の空で、複雑な表情をしていた。今の洵はあんまりにも凄まじい剣幕で、さっき友達を殴った時とは比べ物にならないほど恐ろしい形相だった。天音はすっかり圧倒されてしまった。そして天音がふと我に返ると、慌てて静真の前に駆け寄った。「洵!兄さんを殴るなんて、ただで済むと思わないで!」そう言ってから、静真の腕に抱きつき、甘えた声で言った。「お兄さん、もう過ぎたことだし、水に流してよ。結局私が悪かったんだし、怪我をしたのも自分のせいなんだから。だからもう気にしないで。あんな短気なやつ相手にすることないよ!」月子は思わず吹き出した。天音はなかなか言葉巧みだな。調子のいいことを言いながら、さりげなく相手を罵倒するとは。静真は唇をきゅっと結んだ。月子を引き止めたのは、天音のことではなく、いつになったら自分のところに戻ってきてくれるのか聞きたかったからだ。もう限界に近かった。でも、こんな大勢の人がいる前で、そんなことを言えるはずがない。もし誰かに恨みがあって天音が襲われたのなら、静真は必ず相手を潰すだろう。入江家に危害を加える者は、誰であろうと、存在を許さない。しかし、今回は天音が自分で招いた災難だ。静
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第610話

月子はそれを見て、すこし笑えてきた。「確かに彼女と約束したことはあるけど、たいしたことじゃないし、私にとっては何のデメリットもないから」洵は疑わしげに言った。「嘘じゃないだろうな」月子は言った。「嘘じゃないわよ。だけど、さっき静真に殴りかかろうとしたのは、ちょっと感動したよ。少なくとも私を守ろうとしてくれたのね。偉いね、洵。頼もしくなったじゃない」洵は月子をじっと見て、何も言わなかった。「私の車に乗って」月子は言った。「方向が違うから、自分でタクシーで帰る」洵はクールな男を気取っていた。しかし、そんな態度は未熟な少女にしか通用しない。月子の目には、ただ頑固なだけに映った。何がそんなに意地を張る必要があるのだろう。彼女は笑って言った。「車に消毒液があるから、手を消毒してあげるわ」洵はそれを聞いて、初めて自分の手が擦りむいていることに気づいた。月子はそんな細かいことまで気づいてくれるなんて。彼は複雑な表情で月子を見上げた。それは、さっき月子が一緒にいてくれた時も感じた。しかし、洵はこの感情を言葉で表現することができなかった。考えがまとまらなかったが、彼は月子と一緒に車に乗り込んだ。月子は消毒液を手に取り、洵の傷口を丁寧に消毒しながら、成一のことを思い出していた。彼のしたことの大きさを、彼女自身もまだ受け止めきれていない。ましてや洵が知ったらどうなるか、想像もつかなかった。洵の傷口から血が滲み出ていた。彼は月子にとって、世界でたった一人、かけがえのない弟だと思うと月子は思わず、小言を言わずにはいられなかった。「洵、これからは怪我しないように気を付けてね。健康でいることが一番大事なの……もしあなたに何かあったら、私はもう、誰かを失うのは耐えられない。分かったわね?」真剣な表情の姉の顔がすぐ目の前にあった。洵の目頭が熱くなった。彼は必死に瞬きをして、こみ上げてくる感情を抑え込んだ。母親の死。その痛みを、この世界で理解してくれるのは月子だけだった。月子の言葉に込められた愛情は、洵にとって掛け替えのないものだった。それによって彼は、自分が月子にとってどれほど大切な存在なのかを、改めて思い知らされた。そして洵はこの時になって、ようやく月子の行動が示す純粋な姉の愛情に気が付いた。それと同時に自分にとって月子は心の支えであり、
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