All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 81 - Chapter 90

100 Chapters

第81話

拓海はいつもこのように軽い感じだった。玲奈がすでに結婚して子供もいる女性であるのに、誘うような言葉をかけてくるのだ。彼なら雌であれば他の動物にでも、思わず口笛を吹いて声をかけるかもしれない。このようなタイプの男だから、その口から出てくる言葉など信じられるだろうか。しかし、今は拓海の人となりがどうであれ、昔彼女を助けてくれた事実には嘘偽りなどないのだ。その恩を玲奈はずっと忘れていない。彼女の車の隅のほうに縮こまり、拓海が山のように彼女の体に覆いかぶさっていた。彼の容姿はかなり良いのに、道徳的にどうかと思うようなことをしてくるのだ。この頼りない男を前にして玲奈は思った。完全に無視してしまえば、この男は萎えてしまうのだろうか。いっそ、彼女は目を閉じて、拓海の話など聞こえないふりをした。田舎の街灯はとても薄暗く、ほのかな光が車の窓から玲奈の美しい顔に降り注いだ。彼女が目を閉じた時、その長く艶やかなまつ毛がふるふると小刻みに震えていて、怖がっているのは明らかだった。拓海はそれを見て、突然優しい笑みを浮かべた。彼は手を伸ばし、優しく鳥肌の立っている玲奈の顔に触れた。しかし、玲奈が自分に対して恐れを抱いているのを思い、我慢できずに笑い声をあげた。本気でそこまで怖がっているのか?女性に対して、拓海は昔から優しく聞こえのよいセリフばかり吐いているというのに。容姿がイマイチな女性の場合は、スタイルが良いと褒め、あまりスタイルが良くない女性には、瞳が綺麗だと褒めた。目の小さい女性には笑うととても優しいと褒め、あまり笑わない女性にはクールでカッコイイ女性だと……だから、多くの女性たちは、彼のことをイケメンで格好良く、ユーモアがあって面白い人だと褒めていた。そんな彼のことを怖がる女性は、玲奈がはじめてだった。それを考え、拓海はやはり体を起こして姿勢を正し、玲奈に触るのはやめておいた。しかし、この時、車の外に突然人影が現れ、助手席のドアが瞬時に外から開けられた。「玲奈、降りて」昂輝が来たのだ。その声を聞いて、玲奈は目を開け、昂輝の手を掴んで素早く車の外へ降りた。彼女は、のこのこと拓海の車に乗り込んだわけではなく、拓海が田舎には蚊が多いから、車の中で話そうと言ったからだった。それで玲奈は車に乗った
Read more

第82話

角を曲がって玲奈たちの姿が見えなくなるまで、拓海の笑い声は聞こえていた。昂輝もその足を止め、玲奈のほうを向いて尋ねた。「玲奈、君は俺のことが信じられない?」薫たちは絶対に昂輝に病院に戻ってきてほしいと言ってくると彼女には何度も伝えていたのに。しかし、彼のその言葉を玲奈は信じてくれていないらしい。玲奈は昂輝の瞳に映る失望に気づき、不安になってこう言った。「いいえ、私はただ、こうなったのは私のせいだから、それで……」彼女が話し終わるのを待たず、昂輝は軽く彼女の肩に両手を置き、とても真剣な顔をして彼女に言った。「玲奈、今回は俺を信じてくれ。自分でどうにかするから」昂輝がこのように言うので、それ以上は玲奈も何も言わず、微笑んで彼に言った。「ええ、分かりました。先輩を信じます」すると昂輝はすぐに微笑んだ。「そんなに時間はかからないから」玲奈は頷き、心の中でほっと一息をついた。昂輝の家は権力持ちの名家というわけではないが、彼がここまでの地位に就けたのは、自分の力を頼りにひたすら努力してきたからだ。玲奈もこの件をどうやって彼が解決するのかは分からなかったが、彼がこのようにはっきりと言ってきたので、彼を信じるほかなかった。……小燕邸の書斎にて。智也は電話を切った後、暫くの間もう鳴らない携帯を見つめていた。彼の心の中はなぜか悶々としていて、形容し難い不快感を感じていた。さっき電話の向こうから聞こえてきた小さく漏れる玲奈の声を思い出し、彼は不機嫌そうに目を細めた。もし薫の情報が正しければ、あの時、彼女が一緒にいた男はあの須賀拓海だ。玲奈が誰と一緒にいても構わないが、それはあの須賀拓海を除いてだ。それを考え、智也は携帯を手に取り、勝に電話をかけた。「春日部玲奈の動向を探ってくれ」勝がその返事をするのを待たずに智也は電話を切ってしまった。そしてすぐ、勝はすぐに折り返し電話をかけてきた。智也はすぐに電話を取り「新垣社長、奥様の動向を探ることはできません」と勝から言われてしまった。暫く考えてから、智也はまた口を開いた。「じゃあ、須賀拓海を調べてくれ」そしてすぐに勝がまた電話を返してきた。「社長、須賀拓海の動向も調べられません」それを聞いた智也は腹を立て、一言もしゃべらずに電話を直接切ってしまった。そ
Read more

第83話

智也は玲奈の声がだいぶ穏やかになっていたので、それ以上とげとげした態度を取らずに淡々とした口調で彼女に言った。「明日帰ってきてくれないか、話したいことがあるんだ」玲奈は「何か言いたいことがあるなら、電話で言えばいいじゃない」と言った。彼女はベッドの頭部分に寄りかかっていた。智也の顔も見たくなかった。彼に自分を見られることも嫌だった。彼らは必要がなければ、会わなくてもいいだろう。どうせ彼は自分のことが嫌いなのだから、彼女もこれ以上彼と一緒にいるつもりはない。智也は突然口を開いて言った。「愛莉のことなんだ」玲奈の態度はひたすら淡々と冷たかった。「智也、もう言ったはずだけど、愛莉の普段の生活に関しては、何か大ごとじゃない限り、別に私にいちいち報告しなくていいってば。あなたが決めてあげればいいの」智也が愛莉のことを持ち出したのは、玲奈は娘に対してだけは無情ではいられないと思っていたからだ。しかし、それがまさか玲奈は本当に娘のことをどうでもいいと思っているらしい。「玲奈、お前……」彼はこの瞬間どうすることもできず、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。この時、玲奈がまた話し始めた。「何か特別なことがあるなら、私がそっちに帰ってから話してちょうだい」帰ってから?智也は何かに気づき、急いで尋ねた。「お前、今どこにいるんだ?迎えに行こうか」これがはじめて彼が玲奈を迎えに来てくれるという言葉を出した瞬間だった。玲奈もそれに驚いたが、急いでおかしくなって言った。「智也、あなたが私にどこにいるか聞いてるわけ?」智也「ああ」玲奈は苦しげな笑い声をあげた。「私がどこにいるのか、はっきりと分かっているくせに。私にそんなこと聞いて何がしたいのよ?」その言葉の中には彼女の怒りが読み取れる。智也は戸惑っていた。「どういう意味だ?」玲奈は彼に大きな声で吠えた。「智也、自分は真っ白だってふりなんかしなくていいのよ。私たちが今こんなふうになったのは、一番の元凶はあんたでしょ。私はあんたなんかに会いたくない。今後、何もないなら、二度と電話をしてこないでよね」そう言い終わると、彼女は勢いよく電話を切った。書斎にいた智也は突然切られた携帯の画面を見つめ、心に沸々と怒りが込み上げてきた。画面はすでに暗くなっている。彼は携
Read more

第84話

愛莉はその小さな顔をしかめていた。「だったらママがパパを怒らせたの?」智也は表情を厳しくさせて言った。「愛莉、考えすぎた。ママはパパを怒らせるような資格すらないんだからな」愛莉は顔を下に向け、気落ちした様子だった。「だけど、パパ、私もうかなりママに会ってないよ」智也は心が締め付けられる思いで娘を抱きしめて尋ねた。「ママが恋しい?」愛莉は頭を左右に振った。「よく分かんない」智也は娘の気持ちが分かり、優しい声で彼女を慰めた。「パパが時間を作ってママに話してみるから」愛莉はそれを聞いて頷き、智也のほうへ何度も振り返りながら自分の寝室へと戻っていった。ララちゃんはすごく良くしてくれる。それはパパも同じだ。それだけじゃなく、ママからも優しくしてもらいたい。翌日、智也は勝に玲奈が働く場所のアドレスを尋ねた。彼は会社の仕事を終わらせると、車を走らせて病院の前までやって来た。そして玲奈が仕事を終えて出てきたら、彼女を連れて車で話そうと思っていた。しかし暫く経ってシフトの交代の時間が過ぎても、玲奈の姿は現れなかった。すると、彼はまた車を走らせて春日部家までやって来た。ここなら必ず玲奈に会えると考えたのだ。しかし、夜8時になっても、玲奈は帰って来なかった。彼は玲奈に電話をかけてみたが、彼女は電話に出なかった。智也はこれ以上待っていられず、車を降りて、直接春日部家の門をくぐった。使用人が彼を止めようとしたが、彼の身分を考えて、それを諦めた。彼がリビングの入り口まで入ってきた時、陽葵が智也に気付いた。「あんた、なんで入ってきたの?さっさと出て行ってよ。ここは心のない人間はお呼びじゃないのよ」陽葵は智也のことが嫌いだった。だから、彼を見た瞬間、容赦なく彼を追い出そうとした。秋良は部屋にいて、陽葵が誰かを追い出そうとしている声が聞こえると、すぐに彼女のもとへ駆けつけた。そして智也に気付いた時、本来機嫌のよかったその顔が一瞬にして笑みを失い、少しも気にかけるような素振りを見せず、直接大きな声で怒鳴りつけた。「さっさと失せろ!」智也は冷ややかな顔で、陽葵と秋良の無礼には構うことなく、直接尋ねた。「玲奈は?彼女に会いたいんだ」陽葵は腹を立てた。「よくまあ、おばちゃんのことが聞けるわね?この悪魔、おばちゃんをあんな遠い
Read more

第85話

春日部家を後にして、智也は愛車のロールスロイスに乗った。彼は窓から手を出しタバコに火をつけた。夜風はこの時期まだ熱を帯びていた。タバコの煙を吐き出し、その危険な瞳を不機嫌そうに細めていた。そして薫が見せてきたあの動画を思いだし、また突然タバコの煙を消した。携帯を取り出すと、彼は再び玲奈に電話をかけた。呼び出し音が鳴り響くばかりで、相手は全く電話に出る気配はない。智也の我慢の限界がもうすぐ来ようとしていた。しかし、突然、彼はあの動画は薫が見せて来たことを思い出した。そして彼は薫のほうへ電話をかけた。「智也、なんか用か?」薫は秒でその電話に出た。向こうからはガヤガヤと音楽の音が聞こえてくる。智也は尋ねた。「どこにいる?」薫が住所を送ってくると、智也は言った。「分かった、今から行く」智也が薫の送ってきた住所のところに到着した頃にはあれから30分以上が過ぎていた。来たのは智也だけでなく、そこには洋の姿もあった。二人が個室に入っていった時、不機嫌そうだった。薫は立ち上がって彼らを迎えた。「智也、洋」智也は薫と一緒にいた数人をサッと睨んで言った。「全員出て行け」薫は少し様子がおかしいと思ったが、多くは尋ねず、智也はきっと何か重要な話があるのだろうと思っていた。そして最後の一人が個室から出て行く時、その人間に向かって言った。「ドアを閉めていけ」彼はとても落ち着いていた。しかし、あまりに落ち着き払っているものだから、薫は逆にそれにビクビクとしていた。ドアが閉まると同時に智也は薫の隣に腰かけた。薫も彼と一緒に腰をおろした。「なんだか様子がおかしいけど、一体どうしたんだ?」彼は智也を見て、それから洋のほうへ視線を向けた。二人はどちらも恐ろしいくらいに淡々と落ち着いていて、どうも普段とは様子が違っている。洋は椅子に座ることなく、ローテーブルを挟んで薫に詰問を始めた。「智也が玲奈さんを一日中探しまわったが、見つからなかった。彼女がどこにいるのかお前は知っているんじゃないのか?」ただ玲奈の行方を尋ねただけなのに、薫は明らかに慌てた様子だった。彼はソファの背もたれに寄りかかり、ソワソワしてそれに返事をした。「お……俺、彼女がどこにいるか知ってるわけないだろ?」洋は表情を暗くして言った。「ちゃんと
Read more

第86話

智也はこの日、何度も電話をかけてきて、玲奈はそれに出たくなかった。最初は電話がかかってくればそのまま切っていたのだが、後からはマナーモードにして放っておいた。それを見なければ、心は幾分も楽になった。彼女が30分ほど川で水遊びをしていると、昂輝もそこへやって来た。二人は川べりで8時過ぎまで過ごし、さて帰ろうとした瞬間、昂輝が何かを踏んでしまったようで、川の水がその瞬間真っ赤に濁っていった。玲奈は気付いた瞬間とても心配した様子で尋ねた。「どうしたんですか?」昂輝は笑って言った。「たぶん、ガラスの破片か何かを踏んじゃったんだと思う」玲奈は彼が怪我をしてもへらへらと笑っている様子を見て、余計なことは言えなかった。「一緒に病院へ行きましょう。傷の手当をしなくちゃ」二人とも医者だから、この傷がどれほどのものかはもちろん分かるのだ。破傷風の注射を打つ必要はある。昂輝も強がらずに玲奈に賛成した。病院で傷の手当を済ませた後、玲奈は昂輝を自分の宿舎に連れていって、何か作って食べさせることにした。田舎だから、口に合う料理があまりなかったのだ。何か食べたい物があれば、自分で作るしかなかった。昂輝はもちろんそれを断ったりせず、彼女についていった。食事を終えると、昂輝は汗をかいて気持ち悪いからシャワーを浴びたいと言ったので、玲奈はそうさせてあげた。ただ、昂輝がバスルームに入ってすぐ、玄関のドアをノックする音が聞こえてきた。玲奈は隣の人が来たと思っていた。彼女がこの村に来てから10日が経ったのだが、隣の住人はとても親切で、よく新鮮な野菜を持って来てくれていたのだ。だから誰なのか尋ねることもなく、彼女は直接玄関のドアを開けた。しかし、訪ねて来た人物を見た瞬間、彼女の優しい微笑みは綺麗に消えてなくなってしまった。「智也?」彼女は怪訝そうな声を出した。その言葉には喜びも悲しみも、いかなる感情もなく、ただただ彼を見てとても意外に思っているだけのようだった。智也と一緒にそこには薫もいた。智也が何か話し始める前に、昂輝がシャワーを終えてバスルームから出てきた。それを見た薫が玲奈に向かって怒りをぶちまけた。「いいご身分だな。こんな田舎に左遷されてもお前にとっては好都合だったってわけだ。親密な関係の男を連れて田舎で同居生
Read more

第87話

玲奈は薫を凝視していた。その瞳は正直だった。「だったら、教えてよ。一体何が違うわけ?」薫はどう答えたら良いのか分からず、黙ってしまった。それに対して玲奈は堪らずすぐにまた尋ねた。「彼が深津沙羅と仲良さそうにして、彼女をいろんなところに連れて行ってみんなに紹介している時、この男は春日部玲奈の夫だってこと考えたことあんの?」薫はそう迫られて打つ手がなくなってしまった。「お前、そりゃあ、ただのこじつけだろうが」それを聞いた玲奈はただ苦笑するしかなかった。「なに?立場を変えて考えてみたら、そんな言い逃れをしだすわけ?」この時、玄関先でずっと立って全てを見ていた智也がようやく口を開いた。「もういい」薫はそれを聞いて、しぶしぶと後ろに下がった。玲奈はまた智也のほうへ目を向けると、彼は冷ややかな表情で、そこからは如何なる感情も読み取れなかった。ただ、彼はゆっくりと玲奈たちのほうへと近づいてきた。さっきのように玲奈はずっと昂輝の前に立ちはだかり、智也に尋ねた。「あなた、一体何をする気?」智也は一言も発することはなく、ただ一歩、また一歩とにじり寄ってきた。この時の彼の気迫は相当なもので、着々と相手を圧迫するようなオーラを放ち、威嚇してくる。昂輝が玲奈の手を掴み、彼女を自分の後ろに下がらせようとした時、玄関先から突然クククと喉の奥の方から笑う男の声が聞こえてきた。「おや、これはこれは誰かと思ったら、よく見りゃ、深津沙羅の彼氏さんじゃあないですか」拓海の声が玄関から響いてきた。話しているその口調の調子は変化に富み、まるで小説の読み語りのように熱の入った様子だった。智也はその瞬間足を止め、後ろを振り返った。薫は怒りを抑えられず入り口にいる拓海に向かって言葉を放った。「黙れ、ペチャクチャと女みてぇに煩い男だな」拓海は玄関の壁に両腕を組んで寄りかかり、余裕を持った偉そうな態度で薫を一瞥もせず、視線を左右にきょろきょろと向けてその声がしたところを探しているようだった。暫くしてから、彼は手を耳の後ろに当てて、よく耳を凝らして聞いているような仕草をしてみせた。「どこから犬の遠吠えが聞こえてくるんだ?鳴き声は聞こえるってのに、姿が見えないぞ」その瞬間薫は頭に血がのぼり、大股で拓海の前までやって来た。「てめぇ、須賀、なに俺が見えてねぇふりし
Read more

第88話

拓海はそう言うと、また昂輝のほうへ目をやり、彼はこの部屋から去る意思はないことを感じ取って不満げに言った。「そこの紳士はさっきの言葉の意味が理解できないんだろうかね。ハニーが出てけって言ってんのに、まったく!まだ分かんないのか?」昂輝は拓海の言葉など一切耳には入れず、玲奈のほうに目を向けた。玲奈も彼を見つめて、この時彼にも言った。「先輩も帰って休んでください」昂輝は彼女のことが心配だった。「もし、あいつらがまたここに来たら?」玲奈は笑って言った。「あの人のことはよく分かってます。一度去ったら戻っては来ませんよ」玲奈が彼をここに留めるつもりがないので昂輝も仕方がなかった。そう言われてここにいつまでもお邪魔しているわけにはいかない。それに、付き合ってもいない男女が共にいるのもあまりよろしくないだろう。結局、拓海と昂輝は一緒に部屋を出て行った。玲奈はソファに腰かけていた。彼女は暫くただそこに座っているだけで、心の中はそわそわと落ち着かなかった。智也がさっきここを去る時に脅迫するように吐き捨てていったあのセリフ、彼女は彼が本気でそのようなことをする人間だと分かっていた。……車に乗っても、薫はまだ疑問が拭えていない様子だった。「智也、本当にこれで終わりでいいのか?」智也は助手席に座っていて、いつもと変わった様子はなく、その声もとても落ち着いていた。「ああ」薫はそれが不満らしい。「お前は新垣智也なんだぞ。あの女に浮気されて黙ってるつもりか?しかも二人の男とだぞ」智也はタバコを指に挟み、窓の外を眺めていた。夜の暗闇にタバコの火の赤がくっきりと浮かび上がっている。智也がこの時どのような表情をしているのかは、暗がりの中からは読み取ることができなかった。彼は小さな声で言った。「彼女は愛莉の母親だ。愛莉にはあいつが必要なんだ」薫はさらに不満をつのらせた。「智也、深津さんじゃダメなのか?沙羅ちゃんがいるってのに、あの女を捨てないで何やってんだよ?」智也は暫く黙ってから、やっと薫の質問に答えた。「彼女が愛莉を産んだ人間だ」「だけど、お前はこのまま黙っていられるのか?」智也は「俺はただ愛莉のためにしか考えていない」と言った。口ではそうは言ったものの、心の中はどうも落ち着かなかった。彼はそれがどのような感覚な
Read more

第89話

久我山に帰った後、昂輝は玲奈を春日部家に送った。玲奈の両親は昂輝に一緒に夜食でも食べようと留めようとしたが、玲奈がそれを断った。「お父さん、お母さん、先輩は帰って休まないと。こんなに遅いんだし、引き留めちゃダメよ」昂輝は玲奈がこうやって急いで帰ってきたのは、昨日智也に脅されたから、玲奈は家族と何か話さないといけないのが分かっていた。だから、彼は事情を理解して彼女たちの邪魔にならないようにした。「おじさん、おばさん、また今度改めてお伺いしますね」玲奈の両親も無理やり彼を留める気はなく、笑顔で昂輝が車で去っていくのを見送った。翌日の朝、玲奈は起きてダイニングで朝食を取った。彼女は本来、朝のこの時間を利用して家族に状況を確認しようと思っていたのだが、綾乃と秋良はその場にいなかったのだった。それで、彼女は病院に出勤するしかなかった。夕方、仕事を終わらせ、玲奈が一番に春日部邸に帰ってきた。8時まで待って、家族がようやく次々に家に戻ってきた。使用人が夕食を用意し、一家はいつもと同じ様子で食事をしていた。陽葵はキャッキャととても楽しそうにしていて、玲奈にエビの殻を剥いて、お茶も入れてくれた。それにおばちゃんが家に帰って来ておめでたいなどの言葉を述べた。これから家族はみんな一緒にいられるのだ。綾乃も笑っていたが、それは表面的な笑みで、心から楽しそうに笑ってはいないようだ。秋良も彼女と同じように、わざと平静を装っているようで、逆に変な空気になっていた。父親と母親も多くは話さず、何事もなかったかのように取り繕っている様子がさらにその場の空気をおかしくさせていた。彼らは何も言わなかったが、玲奈はすでに何があったのか勘づいていたのだ。兄の秋良とその妻の綾乃は、少なからず仕事上で智也の影響を受けているはずだ。彼らは玲奈を心配させたくないから、わざとこのように何もないように振舞っているのだ。この食事中、玲奈はずっと複雑な思いで辛かった。家族みんなが箸を置くと、彼女は最後に立ち上がって上にあがっていった。玲奈は智也が彼女に警告を鳴らしていることが分かっていた。やっとのことで一家揃ったというのに、玲奈はこの温かい日々を壊されたくなかった。それで彼女は智也に電話をして一体どういうことなのか尋ねることにした。彼はあの日
Read more

第90話

「パパ、私もララちゃんみたいに大人になったら美人になれるかな?」「それは、愛莉が大人になってみないと分からないよ」三人が楽しそうに笑う声が上から階段を伝わってきて、玲奈はその声のしたほうを向いた。沙羅と智也が愛莉を挟む形で手を繋ぎながらゆっくりと彼女の視界に入ってきた。彼らが暗いところから現れてきて、それを一目見ただけでも仲良い三人家族に見える。玲奈はこの時食卓に座っていて、目立つので三人はすぐに彼女の存在に気が付いた。愛莉は無意識に智也と沙羅の手を離した。そして彼女はダイニングに静かに座る母親を見て言った。「ママ?」玲奈は顔をあげて彼女のほうを向いて言った。「朝ごはんを食べにおりてきて。あなたが好きなものを作ったから」愛莉はとても嬉しくて「パタンパタン」と足音を立てて上から駆けおりてきた。そして食卓の前にやって来ると、小さな手でまだ熱々の料理を扇いでその匂いをしっかりと嗅いでいた。「わあ、ママが作ったご飯、もうずっと食べてなかったわ。ありがとうママ」子供はすぐに忘れるものだ。以前玲奈が沙羅を叩いたことなど、この時すっかり頭の中から抜けていた。それで春日部家で母親に腹を立てたことなど記憶になかったのだ。愛莉は玲奈が産んだ子供だ。玲奈も実の娘に対していつまでも腹を立てているようなことはなく、優しい声で笑って言った。「愛莉が好きならそれでいいわ」腰をかけた後、玲奈は愛莉の分をお皿に分けてやり、愛莉が一口食べると満足そうに足を鳴らした。そしてくるりと沙羅のほうへ向いてこう言った。「ララちゃん、ママが作ったご飯を食べてみて。とっても美味しいのよ」それを聞いて、沙羅は口角を上にあげて言った。「いいわ、愛莉ちゃんが好きならたくさん食べてね」愛莉はまた一口頬張り、頬を膨らませて「うん」と言った。玲奈は愛莉が彼女の作ったご飯を食べている時ですらも沙羅のことを考えているのを見て、心がズキッとした。しかし、愛莉は母親のこの気持ちなど全く知ることはなかった。食べ始めてからずっと愛莉は玲奈を見ることはなかった。母親が小燕邸にいることも別に意外にも思っていなかった。暫くしてから、智也はやっと沙羅を連れて下におりてきた。二人はここで朝食を取る意思はないらしく、そのままリビングのほうへと向かっていった。この時、玲奈が突然立ち
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status