All Chapters of ボクらは庭師になりたかった~鬼子の女子高生が未来の神話になるとか草生える(死語構文): Chapter 311 - Chapter 320

351 Chapters

鈴風の物語 その1 千福楼の風鈴(3/3)

 おつとめが済んだ朝、お風呂でくつろいでいると、「風鈴姉さん。お背中流しますよ」 妾と同い年だけど年季が2年遅い露草が洗い場に入って来て言った。妾《あたし》はおつとめのその時だって灯りはお断りしているくらい人に肌を見せるが嫌だ。だから妾がお風呂に入っている間は誰も入れないように、お世話付きの下新造にも言い聞かせている。それなのに露草は浴衣をはしょって桶風呂の妾を見下すように突っ立っている。「ありがたいけれど、もう洗っちまったよ」 失礼なのは向こうなのだからドヤしつけて追い出せばいいのに、楼の一番を滑り落ちて少なからず引け目を感じていた所為で咄嗟に嘘をついてしまった。断られた露草は最初からそれが目的でなかったらしく洗い場から出ていかないで、そのまま桶風呂の縁に寄りかかり話し出した。「風鈴姉さん、柊を放っておくのかい? あんな恩を仇で返すくされ○郎を」 なるほど、後輩遊女のくせに売れっ子で上席の柊をこの機にとっちめてやろうという魂胆か。三毒に犯された露草に同情はするけれど、普段は疎通のないこの遊女の思惑に乗る気はちっとも起きなかった。「放っておくさ。楼主に座らされたと言うんだし」 実はあの席を奪られたのが柊だったことに安堵していた。と言うのも、妾《あたし》も20才。年季が明けるのもあと少し。そろそろ身の引きどころを考えてもいいと思っていた。それで妾の後を襲うのは、よく知らない後輩遊女よりも、ずっと可愛がって来た柊がいいと思っていたのだ。「でもそれじゃあ、下の遊女たちにしめじがつきませんよ。誰の命令だろうが席を奪ったに違いは無いのですから。青墓送りくらいにはしてやろうじゃないですか」 青墓送り。昼でも暗くじめついた辻沢の南に位置する不気味な青墓の杜。草葉の陰に蠢く屍人どもが、踏み入れた者を食い殺すと言われる恐ろしいところ。その青墓へ深夜に連れて行き一人置き去りに
last updateLast Updated : 2025-10-20
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鈴風の物語 その2 女学生遊女 信夫(1/3)

 一般的に妓楼の主人と言えば店主を指す。店主は妓楼の運営を司り、常に見世の奥にいて帳簿を仕切る番頭さんや、遊女を差配するやりてのおばさんに下知をする。けれど千福楼の主人は他にいた。それは楼主でこちらは姿を見たものはごく稀で、店主でさえ雇われた時に一度会ったきりだと言うし、やりてのおばさんたちでさえ会った人はないらしい。まして店の裏のことなど知らない遊女らにしてみれば、いるかいないかわからない存在だった。 昔、見世に出たばかりの綺羅星という遊女が路地面の席から一夜で奥の小座敷に居昇ったことがあった。その異常すぎる出世には何らかの強い力が働いたことを皆が感じて手を出す者はいなかった。ただ後になって噂になったのが、他の遊女付きの下新造が、月の明るい夜にその綺羅星の元へ何者かが忍んで行くのを見たというものだった。それはこの世のものとは思えぬ美しい青年で、その者が去った後には強いクチナシの香りが漂っていたと言う。妓楼名の千福とはクチナシの別名であったから、それはきっと楼主なのだ。楼主が綺羅星をお気に召したのだ。と楼の上も下も皆んなが納得したのだった。 妾が小座敷に居上がる前のこと、とても美しい少女が千福楼に売られて来た。目鼻立ちははっきりとしながらまだ幼さを残した顔、長いまつ毛に金色の瞳。透き通るような肌に真っ赤な唇。これまで見たことないよな異国風情のある子だった。本来ならば下新造としてやりてのおばさんに躾を学ぶ見習いの時期があるのに、どういう事情か、その子はすぐに見世に出ることになった。女学校を中途で辞めたばかりとかで、衣装や化粧道具等の準備をする暇もなく、それらが揃うまでは見世には女学校の制服を着て出ることになった。そんな格好で妓楼にいる事自体教育的犯罪と言う人もいたけれど、そこは警察とすぶすふな辻沢なので見逃された。その女学校というのが良家の娘が通う青洲女子学校だったものだから、酔客の好奇の目を集め、その娘が見世に出た時は、路地が通れぬほど人が寄って来て、場所取りや喧嘩
last updateLast Updated : 2025-10-21
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鈴風の物語 その2 女学生遊女 信夫(2/3)

 そんな信夫と深く知り合ったのは夏も終わりかけた月明かり眩い夜だった。「風鈴姉さんは、ここが好き?」 その時妾は内庭の縁側に出て、誰の目もないことを確認してから火照った体を冷まそうと浴衣の襟を大きく開いて風にあたっていた。だからその呼びかけが、あの世から響いて来たような不思議な感覚に襲われたのだった。妾は咄嗟に青白く浮かぶ月を見上げて、「好きじゃあない」 と応えたけれど、声の主は乳白色に染められた内庭に佇んでいて、真紅の唇にうっすらと開いた瞳が金色だったので信夫とわかったのだった。その姿は月明かりの下でおぼろにゆらぐ薄衣を身につけているせいで、裸が透けて見えていて、まるで月の精が舞い降りたかのようだった。「好きになってもらいたいな」 そう言いながら信夫は舞うように階を昇って妾の側まで来た。そしてやわらかな薄衣の袖で妾の体を包み込むと真っ赤な唇を妾の耳元に近づけてささやいた。「だって妾、風鈴姉さんを愛してるから」 前から知っているはずもなく、なんの前知識もない今会ったばかりの人から愛を告げられる。初対面の人にそんなことを言われても軽くいなせるのが遊女の嗜みなのに、その時の妾は心の底から動揺してしまった。きっと肌ぬぎしていて普段押さえている気持ちが開けっぴろげだったからだろう、その一言で、忘れていたけれど妾の中にきっとあるものをわしづかみにされた気がしたのだ。それは、無条件に愛されると言うこと。誰でもない妾をまんま愛してくれるという、当たり前のはずだけれど妾には許されず、どこかに置き去りにして来たと思っていたことだった。 甘い香りがする信夫の吐息が耳元から頬に移り、妾の唇の上で、一つ、二つ、三つと呼気をくり返す。そのたびに妾の魂は信夫の神聖と交感し、その人が何百年も生きた神であることを確信した。「あなたを愛しています」 
last updateLast Updated : 2025-10-21
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鈴風の物語 その2 女学生遊女 信夫(3/3)

 ずいぶん長いこと寝てしまったらしい。目を覚ますと妾は一人でいて、日は傾きかけ秋の風が枕を涼しく撫でていた。昨晩の揺蕩うような逢瀬に胸の痛みを感じながら布団を抜け出し支度部屋へ向かう。お勤めまでまだ少しあったけれど、もしや信夫にあえやしないかと思ったからだ。楼の廊下をゆっくり渡って行くと目当てとは違う人と出会った。進駐軍のような黒サングラスをして辻沢を睥睨する眼力を隠し、紺綴が似合う恰幅良い大人。店主の伊礼氏だ。楼主に請われて店主に収まると、あれよあれよと全国に知らぬもののない名妓楼にした男が、「風鈴や。今日から小座敷にあがりなさい」 と言った。それは、妓楼の店主が決定事項を伝える時の威圧感がなかった。むしろ予め決められていたことを促すような自然さがあった。それで一瞬だけ了承しかけたけれどすぐに思い直した。席順は妾だけのことではないからだ。「それは出来かねます。小座敷には今、糸子姉さんがおられますし、妾は5番手になったばかりです。妾が居上がれば見世はまとまらなくなるでしょう」 そう答えた妾を伊礼氏はまるで手水鉢の雨蛙がしゃべったのを見たかのように、サングラスを下げて凝視した。暫時そのままでいたけれど再びサングラスをかけ直すと妾の言葉など聞かなかったかのように、「では、後ほど見世で」 と廊下を去って行ってしまった。 で? 妾はどうすればいいの? 廊下のはじの新造部屋をそれとなく覗き、信夫の姿をさがす。ほんとうなら、昨夜あんな痴態を見られた当人に顔など見せられないはずが、魂を射すくめる信夫の金色の瞳を見たくてしかたないのだ。けれど見当たらない。ザワザワする気持ちのままそこを素通りして支度部屋にむかう。階を上がる前に見世を覗いたら、まだ早いから誰もいないと思ったのに、空色の制服に身を包んだ信夫だけが小座敷前のテーブル席に座って格子の向こう
last updateLast Updated : 2025-10-21
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鈴風の物語 その3 柊受難(1/4)

 それ以降、信夫は妾の元に現れることはなかった。それどころか、辻沢遊郭の者も馴染客も誰も千福楼に女学生姿の遊女がいたことを覚えていないのだった。ただあたしが月を眺めながらぼんやりしている時などに、下世話人の赤さんが時折り、「懐かしゅう御座いませんか?」 と欄干の下から声をかけてくれることがあった。ちなみに下世話人というのは辻沢にしかいないそうで、遊女の腰から下の面倒を見る人たちのこと。遊女の血にまつわる、月のものから流した子の始末まで一切を引き受ける。その下世話人が、どうして信夫を覚えているのかわからなかったけれど、その言葉は妾に少なくない安堵を与えてくれた。あの愉悦は幻でなく本当にあったんだと。 年の瀬も迫ったある日の夕方、支度部屋に柊と並んで化粧を直していると、「風鈴姉さん。見てくださいな、これを」 と言って化粧箱の底から熨斗袋を出して渡してきた。そこには立派な墨書で、「柊讃江」 と書かれていて、小座敷に居上がったことに対する馴染客からのご祝儀のようだった。柊が小座敷に居上がって2ヶ月、柊の馴染みの客も一巡して御祝儀も貰い尽くしただろうから、今さらな感じは否めなかった。「こんなに遅くに野暮な男がいたもんだね」 妾が柊の気持ちをくんでそう答えると、「違うのよ、風鈴姉さん。これ、中身」 と熨斗袋を裏返して見せた。そこには、やはり立派な墨書で、「金 壱萬圓」 とあった。ご祝儀に一万円とはずいぶん弾んだものだが、今や柊は千福楼の筆頭遊女。あってもおかしくない額で、ならば何を違うと言っているのか?妾が理解の届かない顔をしていたからだろう、柊は妾の手から一万円の熨斗袋を取り上げると、水引を解いて中身を取り出して見せた。それは聖徳太子が描かれた紙幣だった
last updateLast Updated : 2025-10-22
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鈴風の物語 その3 柊受難(2/4)

 しばらくそうして柊の残像に圧倒されたままでいたら、「ったく。生意気なんだよ。ねえ、風鈴姉さん」 背中から同意を求める声がした。声の主は、いつぞや風呂まで押しかけてきて柊を糾弾してやろうとそそのかした露草だった。いつのまにそこにいたのか、妾と柊の真後ろの鏡台の前にいて、鏡の中からあたしの表情を読み取ろうとしていた。「まあ、ここの一番なんだからあれくらいじゃないと」 自分の薄暗い気持ちを見透かされやしないかと咄嗟に答えたけれど、露草の狡猾な目はすでに本心を掴み取られたような気がした。「でも、癪に触るからイタズラくらいしていいだろ? 風鈴姉さん」 その時、妾は露草の毒気にやられてしまっていたのだ。そうでなければ、「あのご祝儀袋、隠してしまうってのはどうだい?」 と言われた時、「そうだね。それくらいなら。でもきっと返すんだよ。いいね」 なんて言わなかった。そしてそれが柊のことを向こうの世界に追いやることになってしまうなんて想像もしなかった。 その夜は満月だった。さやけき月影が辻沢の街を絹のように包み込み、その魔法のせいで千福楼は悠久の時の中に揺蕩っているかのようだった。妾はその乳白色の月光に誘われて窓辺に寄りかかり、中庭に美しい信夫が降り立ちその後、情事に至った全てを思い出していた。「信夫様のお声がかかる時が参りました」 突然、人の心に踏み入ってきたのは下世話人の赤さんの声だった。「何と言ったの?」 虚を突かれ心中を晒してしまった気がして、一旦聞こえなかったふりをした。「信夫様がお呼びになる頃かと申し上げました」 信夫が妾を呼んでいる。その声を思いだすだけで脳髄が痺れるような愉悦の境地へ引き摺り込まれそうになる。気が遠くなるのを必死で我慢しながら、これだけは確かめたいと思って欄干から身を乗り出して、
last updateLast Updated : 2025-10-22
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鈴風の物語 その3 柊受難(3/4)

「柊が逃げた。客を刺して逃亡しやがった!」 深夜、静まりかえった楼に誰かが叫ぶ声が響き渡った。続いてドタバタと廊下を走り回る音がして、あちこちの遊女の部屋の扉が開く音がした。柊は羽振りのいい鉄道関係の客がついて部屋に上がったのは知っていた。逃げる? 客を刺した?柊がそんなことするわけない、と考えていたら、体を酷使しすぎて大いびきをかいていた馴染み客も流石に目を覚ました。「何事?」「遊女が一人抜け出したようです。心配いりませんよ。すぐに掴まります」 と言うと、馴染み客はそのまま目を閉じて寝息を立て始めた。妾はそれを見て寝床を抜け出し、柊の部屋へ向かった。 柊の部屋の前には人だかりが出来ていた。こういう時、遊女は部屋で客を取りなす決まりで部屋にいなければいけないのに、男衆や客に交じって数人の遊女が中を覗いていた。妾は人だかりの後ろからその中の一人の肩を掴んで振り向かせた。それは露草だった。ニヤけた笑いを顔に張り付けたままだったのが、妾の顔を見て小難しそうな顔に変わった。「あら、風鈴姉さん。柊のやつ、イタズラする前に逃げちゃいましたよ。残念です」 妾は露草の周りの遊女たちの顔を確かめた。みんな露草の取り巻きだった。それで部屋の中を確かめる必要がなくなった。露草の胸ぐらを掴み、「柊をどうした。言わないと酷いよ」 と脅しを掛けた。「知りませんよ」「シラを切るな。言わないと楼主に頼んで路地裏行きにしてもらうよ。あすこへ行けばさぞや酷い扱いをされるだろうね」 もちろんはったりだ。あれ以来信夫に会っていない妾に進言する方法などない。けれど小座敷に上がった遊女は楼主と特別の関係があると思われているので十分威力があった。流石の露草も震え出し、「妾は知らないけど辻沢で行方
last updateLast Updated : 2025-10-22
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鈴風の物語 その3 柊受難(4/4)

 妾は返事を待たずに廊下を駆けて部屋に戻ると、馴染み客が不思議そうに見ているのを尻目に、外行きの浴衣に着替えお札が詰ったガマ口を懐に突っ込むんだ。そして再び廊下を駆けて路地に出ると、路地に一台だけ停まったオートバイタクシーを拾い、「青墓まで」「こんな時間に? 屍人がうじゃうじゃいるってのに?」 驚いている運転手は顔見知りの気のいい男だった。「お願い」 頭を下げたが、「いくら太夫の頼みでもいやですよ」 頼みはこのオートバイタクシーしかない。妾はすぐさま懐のがま口を出して1000円札を5枚取り出し、「これでお願い」 と言った。流石に大金なので運転手はそれを受け取りながら、「近くまでですよ」 と言うとサイドカーの扉を開いて妾を乗せてくれた。そしていやそうにオートバイにまたがると青墓に向けノロノロと出発したのだった。 昼でも暗い青墓の夜は、奈落の深黒が滲み出しているかのようだった。オートバイは青墓前のバス停の近くで停まり、「ここで勘弁してください。太夫」「妾が出てくるまでここで待っててください」 運転手は血相を変えて、「それは絶対に嫌です」 妾が懐に手をやると、「お金の問題じゃない! こんなところで屍人に喰われたら家族が路頭に迷うことになる」 これ以上は無理だと思ったので、「じゃあ、夜が明けたらここに迎えに来てくれる?」 夜明けまで1時間くらい。それも断られるかと思ったけれど運転手が妾の懐をちらっと見たので、ガマ口から残りのお札を出して渡した。すると、「では、夜明けに」 走り去るオートバイタクシーの後ろ姿を見送って振り返ると、青墓の闇が夜空を覆い妾に乗りかかるように大きな口を開けて待ち構えていた。そしてその闇の中から、こ
last updateLast Updated : 2025-10-22
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鈴風の物語 その4 青墓の杜の中(1/3)

 オートバイタクシーが去った後、バス停の表示にマッチの火をかざして見てため息がでた。やっぱりそうだ。ここは青墓の杜に入るには厄介な方のバス停だった。 青墓には二つのバス停がある。 一つは、青墓に来るほぼ全ての人が降り立つ青墓北堺。そこで降りれば踏み固められた細道があり、まだ浅い杜の中の広場に出ることができる。その広場は逡巡の広場と言われ、さらに戻るか奥へ進むか、つまり生きるか死ぬかをいったん立ち止まって考えるために用意された場所だ。多くの人はそこで青墓の異様な森相に怖気付き引き返す。さらに踏み込む者はほんのわずかで、入れば二度と戻ってくることはない。 もう一つのバス停は雄蛇ヶ池入り口。そこからは北に位置する雄蛇ヶ池へも南の青墓の杜に入ることも出来る。ただ、青墓へ行くには荒れ野を渡りさらに行く手を遮る黒々とした柊林を通って行かなければならない。そこが青墓でもっとも人を寄せ付けない場所といわれているのは、柊の葉の棘ばかりでなく、沸き立つように砂が踊る流砂穴がその柊の根と根の間にいくつも口を開けているせいだった。一歩間違えて流砂穴に落ちれば、そこは文字通り地獄の入り口で砂に呑まれて永遠に浮き上がって来れない。つまり、このあたりのことをよく知った人間か青墓の住人の屍人でなければ通り抜けることなど不可能なのだった。 妾はもう一度、オートバイタクシーが去った道を振り返り、その後部ランプの赤い光が遠くの暗闇に消えてしまったのを見て、さっきより大きなため息をついた。青墓北堺はあのさらに先だ。いったいどれだけ歩けばいいのか?それより、ぐずぐずしていれば柊が屍人に喰われてしまう。やはりここは危険を犯しても柊林を抜ける他なさそうだった。 妾は意を決して踵を返し拒絶の様相を見せる柊林に向かった。そこまでの荒れ野も一筋縄では行かなかった。蔦が絡まる虎杖の茂みが行手を遮ってなかなか先に進めない。
last updateLast Updated : 2025-10-23
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鈴風の物語 その4 青墓の杜の中(2/3)

 流砂穴を避けながら柊の根を渡っていると時折、暗い鼠色をした表面に獣毛に覆われた砂疱が上がってくることがあった。それは流砂の中をしばらく漂って、弾けることなく再び砂の中に沈んで行く。妾のすぐ足もともに近づいてきて再び沈んで行くのを見たが、大きさといい、形といい、どうみても人の頭だった。もしかして屍人は、昼は流砂の中に潜み、夜になると這い出て来るのではないか? 青墓に屍人がいると言う噂は、辻沢の吸血鬼伝承から来ている。その伝承は辻沢の鎮守社である宮木野神社と志野婦神社の祭神が戦国時代に流れてきた双子の吸血鬼で、その血縁が今も辻沢で脈々と息づいているというものだ。さらに子孫には度々吸血鬼が生まれ、代々夜の闇に紛れて人を襲ってきたと言われている。襲われた人間は死ぬことを許されず濁世を永遠に彷徨う。それが屍人なのだった。 そして古参の遊女が教えてくれたことがある。「青墓はあの世とこの世の狭間にあって、満月になるとそれらが極限まで近づくから成仏したい屍人が青墓に殺到する」 それを潮時と言うのだそうだ。 夜空を見上げると、柊の梢の先に満月が見えていた。今夜はその潮時なのだった。 何度か流砂穴に落ちそうになりながらも、微かに届く月明かりのおかげでなんとか柊林を抜けることができた。ここから先は青墓の杜。いつ屍人が襲いかかって来るかわからない領域だ。それよりまず明かりの心配をしなければならなかった。青墓は鬱蒼と茂った木々のせいで木漏れ日も通さず昼さえ真っ暗なのだ。真夜中の今、月など梢を見上げようとも見る影もない。ここから先どう進めば良いのか、漆黒の闇に慄いていると、「風鈴太夫。こちらへ」 下世話人の赤さんの声だった。すぐ近くから聞こえてきたけれど、またも姿は見えなかった。「赤さん? どうしてここに?」 赤さんの声はそれには答えず、「柊太夫の元へお連れしますので、私めの後へついてきて下さい」
last updateLast Updated : 2025-10-23
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