障子越しに、外の雨が淡い光をまとっていた。街灯の明かりがぼんやりと室内に滲み、和紙の面に、流れるような雨の影を映し出していた。畳の上には座布団が二枚、間隔を開けて並べられている。それ以外の家具らしいものは見当たらず、まるで言葉を置く余地のような静けさが、部屋の空気を満たしていた。佐野の私室は、店の顔である《結》の表とは違い、どこか素の匂いがした。香を焚いた気配もなく、飾り気のない空間。ただ、それでもどこか温かさがあった。床の間には、小さな花がひとつ挿されている。名も知らぬその花が、この部屋で時間を過ごすということの意味を、わずかに教えていた。尾崎は畳の上に膝をつき、濡れた髪の雫が顎を伝って首元に落ちるのを感じていた。服の肩口も、まだじんわりと湿っている。彼は無意識のうちに髪をかき上げたが、湿気を含んだ指先は思うように動かない。少しだけ乱れたその姿を、佐野は黙って見つめていた。やがて、佐野がそっと立ち上がり、奥からタオルを持って戻ってきた。その動きに特別な意味はなかった。けれど、そのまま何も言わず尾崎の背後に回り、腰を落とすと、静かにタオルを尾崎の髪にあてた。「冷えたら、あかんから」その声は、いつもの調子と変わらなかった。けれど、音の深さが少しだけ違っていた。低く、胸の奥を震わせるような響きがあった。尾崎はその言葉に返すことなく、ただタオルが髪を撫でる感触を受け入れていた。ゆっくりと、水気を吸い上げる布地の感触と、タオル越しに伝わる佐野の手の体温。それらが、皮膚よりももっと内側の部分をほぐしていく。「…ありがとう」ぽつりと尾崎が言うと、佐野は動きを止めなかった。むしろ、そのままもう一度、優しく髪の先に触れた。指がほんの一瞬だけ耳の後ろにかすったが、わざとではないことは伝わってきた。佐野の手はただ、拭うことだけに集中している。だが、それでも尾崎の胸の奥には、小さな波紋が広がっていった。ふと、タオルの動きが止まり、佐野がそのまま尾崎の側に座った。距離は近くもなく、遠くもない。二人の間に置かれた湯のみからは、まだ微かに湯気が立ち上っている。それはもう熱いというよりは、温もりの名残のような気配だった。目が合った。
Last Updated : 2025-07-22 Read more