All Chapters of 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に: Chapter 51 - Chapter 60

62 Chapters

月の下の部屋

障子越しに、外の雨が淡い光をまとっていた。街灯の明かりがぼんやりと室内に滲み、和紙の面に、流れるような雨の影を映し出していた。畳の上には座布団が二枚、間隔を開けて並べられている。それ以外の家具らしいものは見当たらず、まるで言葉を置く余地のような静けさが、部屋の空気を満たしていた。佐野の私室は、店の顔である《結》の表とは違い、どこか素の匂いがした。香を焚いた気配もなく、飾り気のない空間。ただ、それでもどこか温かさがあった。床の間には、小さな花がひとつ挿されている。名も知らぬその花が、この部屋で時間を過ごすということの意味を、わずかに教えていた。尾崎は畳の上に膝をつき、濡れた髪の雫が顎を伝って首元に落ちるのを感じていた。服の肩口も、まだじんわりと湿っている。彼は無意識のうちに髪をかき上げたが、湿気を含んだ指先は思うように動かない。少しだけ乱れたその姿を、佐野は黙って見つめていた。やがて、佐野がそっと立ち上がり、奥からタオルを持って戻ってきた。その動きに特別な意味はなかった。けれど、そのまま何も言わず尾崎の背後に回り、腰を落とすと、静かにタオルを尾崎の髪にあてた。「冷えたら、あかんから」その声は、いつもの調子と変わらなかった。けれど、音の深さが少しだけ違っていた。低く、胸の奥を震わせるような響きがあった。尾崎はその言葉に返すことなく、ただタオルが髪を撫でる感触を受け入れていた。ゆっくりと、水気を吸い上げる布地の感触と、タオル越しに伝わる佐野の手の体温。それらが、皮膚よりももっと内側の部分をほぐしていく。「…ありがとう」ぽつりと尾崎が言うと、佐野は動きを止めなかった。むしろ、そのままもう一度、優しく髪の先に触れた。指がほんの一瞬だけ耳の後ろにかすったが、わざとではないことは伝わってきた。佐野の手はただ、拭うことだけに集中している。だが、それでも尾崎の胸の奥には、小さな波紋が広がっていった。ふと、タオルの動きが止まり、佐野がそのまま尾崎の側に座った。距離は近くもなく、遠くもない。二人の間に置かれた湯のみからは、まだ微かに湯気が立ち上っている。それはもう熱いというよりは、温もりの名残のような気配だった。目が合った。
last updateLast Updated : 2025-07-22
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触れたのは願い

障子の外では、雨の音が変わらず続いていた。一定のリズムを刻みながら、ときおり強く、ときおり弱く、夜の静けさにその存在を染み渡らせていた。灯りの届く範囲は限られていたが、それでもふたりを包むそのわずかな明かりは、過不足なくすべてを照らしていた。佐野の部屋の中央、畳の上に並んで座った尾崎と佐野の膝と膝が、触れそうで触れない距離にある。尾崎は視線を落とすことも逸らすこともせず、ただ佐野の顔を見ていた。佐野のまなざしは、これまで何度も向けられてきたはずなのに、その夜だけは違っていた。やさしさを含みながらも、奥に何か、言葉にしがたい緊張を孕んだ光がある。それはまるで、決して触れてはならないものに指を伸ばすような、恐れと祈りのまなざしだった。静かに、佐野が尾崎の頬に手を伸ばした。ためらいも、急ぎもなかった。ただ、時間の流れをすくい取るようなやさしさで、その指先が尾崎の肌に届いた。何の言葉もなかったが、尾崎はまばたきもせず、その手の感触を受け止めた。ぬくもりよりも、震えのほうが先に伝わってきた。佐野の指が、わずかに揺れた。目を見開いたまま、声を出すこともなく、その手だけが尾崎の頬に触れている。尾崎の視線は佐野の瞳に釘づけになった。そこには、たしかに震える感情があった。いつも他人の感情を読み取る側のその目が、いまはまるで、自分自身の内側に揺れる何かに戸惑っているようだった。「恋って…こんなに、恐ろしいんやな」その言葉が落ちたとき、尾崎は軽く息を飲んだ。佐野の声は、低く、かすかに掠れていた。言葉として口にするまでに、どれほどのためらいを超えてきたのか、語尾の揺らぎがそれを物語っていた。恋という単語が、この空間にこんなに静かに響くのかと、尾崎は思った。震える指先が、尾崎の頬に沿って動いた。そのかすかな動きが、なぜか尾崎の胸を締めつける。怖れているのは自分だけではない。いまこの瞬間、佐野もまた、触れることに覚悟を必要としている。そのことに気づいた瞬間、尾崎は自分の肩の力が抜けるのを感じた。「怖くても、構わないです」その言葉は、声になっていたかどうかさえ定かではない。けれど、佐野には確かに届いた。尾崎は、頬に添えられた手のひらに、自らの顔をそっと預けていった
last updateLast Updated : 2025-07-23
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ことばより先に

室内の灯りは変わらず、障子越しに淡くふたりの影を浮かび上がらせていた。雨音はもう遠いもののように響き、畳の上の静けさが、時間の密度だけを濃くしていく。息を吸うたびに、空気がゆっくりと入れ替わる。それはまるで、この夜だけの空間に、ふたりの呼吸だけが存在しているかのようだった。佐野の手が、尾崎の襟元にそっと触れた。指先は力まず、衣服の端をつまむような控えめな動きだった。尾崎は一瞬だけ肩を揺らしたが、すぐにその動きを止めて、抵抗することなく身を任せた。喉の奥が小さく鳴る。けれど声にはならない。視線だけが、佐野の手の動きを静かに追っていた。ゆっくりと、襟元がほどかれていく。佐野は何も言わない。ひとつひとつの動作に、無理のない間を置きながら、尾崎の肌へと触れていく。その指先が、服越しではなく、素肌に触れた瞬間、尾崎の身体は微かに震えた。だがそれは、拒絶ではなかった。むしろ、長い時間の中でようやく手に入れた、誰かの手を受け入れるための準備のようだった。佐野の手は、壊れ物を扱うように丁寧だった。まるで言葉では伝えきれないものを、指先だけで伝えようとしているように、慎重で、それでいて確かな意志を宿していた。背中へまわされた手が、優しく尾崎を引き寄せる。けれど、力は入っていない。逃げたいと思えば、いつでも逃げられる余白を残していた。尾崎は目を閉じた。すべてを預けるように、ただそのぬくもりを感じる。佐野の指が首筋に、鎖骨に、静かに触れていくたびに、呼吸が浅くなる。何かが壊れるのではないかという恐れも、これ以上は進めないかもしれないという不安も、いまはこの静かな時間の中で、すべて薄れていった。ふたりの間に、声はなかった。けれど、呼吸だけが静かに重なっていく。息を吐く音、吸う音、それぞれが夜の空気に紛れて消えていく。時折、尾崎の唇からわずかな熱い息が漏れ、それに呼応するように、佐野の呼吸もまたわずかに速まる。何も言わなくても、すべてが伝わるような感覚。佐野は、尾崎の背中にそっと手のひらを滑らせた。その掌が熱を帯びて、尾崎の肌をゆっくりと撫でる。そのたびに、尾崎の身体は自然と反応してしまう。目を閉じたまま、佐野の手の動きに神経を澄ませ、どんなに小さな触れ合いも逃さず受け止める。
last updateLast Updated : 2025-07-24
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夜を抱いて、生きている

布団の中には、夜の名残りのような静けさと、ふたりの体温だけが残っていた。雨音はまだ障子の向こうで続いているが、窓際に落ちる水の音は遠く、もうふたりの肌を濡らすことはない。畳の香りと、湿り気を含んだ空気と、誰かと肌を重ねたあとの微かな匂いが、ゆっくりと部屋の隅々に滲んでいく。佐野は仰向けのまま、静かに尾崎の方を向いていた。髪はまだ少し乱れ、まぶたの下にはほのかな影が落ちている。目が濡れているのは涙のせいなのか、それともこの夜が長すぎたからなのか、尾崎にはわからなかった。けれど、そこには悲しみの色はなかった。ただ、静かにすべてを見つめるような、やさしい眼差しだけがあった。尾崎は、少しだけ息を吸い込んだ。自分の胸の奥から湧き上がってくるものが、いまなら言葉になる気がした。佐野の肩の上に置いた手のひらは、わずかに汗ばんでいた。温度が移るごとに、ふたりの境界がもう元に戻らないものに変わってしまったのだという実感が、ゆっくりと満ちていく。「…生きてて、よかった」それは思わず漏れた言葉だった。誰に向けたわけでもなく、ふたりのあいだに沈む夜そのものに向かって投げられた一言。その声の響きが空間に落ちたとき、佐野は応えなかった。ただ、顔を少し近づけて、そっと額を尾崎の額に重ねた。触れ合った部分から、また新しい温度が生まれる。涙ではなく、熱でもなく、ただ「ここにいる」という確かさがそこにはあった。息が混じり合い、鼓動の音だけが耳に残る。言葉よりも先に、身体が互いを受け入れているのを、尾崎は全身で感じていた。しばらく、そのまま時間が流れる。夜は深く、外の世界はまるで遠いもののようだった。布団の中は、もう雨音すら届かない別の場所になっている気がした。やがて、佐野がぽつりと呟いた。「タロットには…これ、視えんのや」その声は、ほとんど耳元で漏れた。深い夜の奥底からすくい上げられたような、弱いがまっすぐな音色。佐野の指が、尾崎の肩をゆっくり撫でる。まるで触れたものの輪郭を確かめるように、その動きはゆったりとしたリズムを刻んでいた。「それでいいと思います」尾崎は、迷いなく答えた。自分の声が想像よりもしっかりしていたことに
last updateLast Updated : 2025-07-25
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静けさの余白

朝の気配がゆっくりと部屋の隅から忍び寄ってくる。夜明けを告げるような、まだ淡い光が障子を透かして入ってきていた。雨はいつの間にか止み、町家の屋根を撫でていた湿気がほんのりとやわらかい空気となって漂う。奥の間の畳の上、ふたりは並んで座っていた。互いの距離は近くも遠くもなく、ただ夜の余韻が残る空気を、静かに分け合っている。佐野は淡い藍色の作務衣に着替えていた。昨夜までの和装のやわらかな布地よりも、少しだけ背筋を伸ばす色合い。その袖口から見える手の甲に、微かな水脈のような青い静脈が浮かんでいた。動くたびに、布地がさらさらと擦れる音がした。それは日常のなかに戻りつつある合図のようにも思えた。尾崎は、昨夜と同じ白いシャツを着ていた。シャツの袖を軽くまくり、露わになった腕には、夜のぬくもりの痕跡がうっすらと残っていた。髪はまだ少し乱れていたが、それを気にする様子もない。静かに膝の上で手を組み、視線はまっすぐ前に投げ出していた。ふたりは互いを見るでもなく、ただそこに「いる」ことを選んでいた。言葉を交わす必要はなかった。夜のあいだに何度も肌で語ったことが、今のこの沈黙を満たしていた。深く満ち足りた余白。呼吸の間も、指先の動きも、ひとつひとつが重ならずに並んでいる。その距離感が、むしろふたりの親密さを強調していた。障子の外では、鳥の声が小さく響く。季節が変わり始めたことを告げるような、かすかなさえずり。佐野は耳を澄ませているのか、時折まぶたを伏せ、首を傾げる。その横顔はどこかやわらかく、だが夜の静けさをまだほんのり引きずっている。尾崎はその様子を正面から見つめることはせず、窓辺の光を受けて淡く白んだ畳の目をただじっと見つめていた。夜のあいだ、語らなかったことがいくつもあった。伝えようとすれば簡単なはずの言葉が、いまはもう必要ではなかった。ただ静かに過ごす朝、その中で尾崎の胸の奥に、ゆっくりとあたたかいものが溶けていく。自分が何かを所有したとか、確かめたとか、そんな感情ではない。ただ、誰かのとなりで「生きている」実感が、しずかに沁みていく。佐野の指が、ふいに布の上で動いた。畳の目をなぞるような小さな動き。その手のひらが、何も語らずに「ここにいる」と告げている気がした。尾崎はそれを目の端
last updateLast Updated : 2025-07-26
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最後のカード

障子の隙間から差し込む春の光が、畳の目を静かに撫でていた。季節の輪郭はまだぼやけていたが、確かに朝が訪れたのだと、空気の匂いがそう告げていた。湯の音も止んだ《茶庭 結》の奥の間で、ふたりは向かい合っていた。間には、藍の布が丁寧に広げられ、その上にはシャッフルされたタロットカードの束が置かれていた。佐野は何も言わず、目の前のカードにそっと手を伸ばした。指先の動きはいつもと同じように静かで無駄がないのに、なぜかそれだけで、尾崎の胸の奥がゆっくりと熱を帯びていく気がした。昨夜の出来事が幻ではなかったこと。今朝の静けさが、確かにふたりの間にあったこと。それらの実感が、カードの上に積もっていた。佐野の手が、最後の一枚を掬い上げる。重ねられたカードの下から、まるでずっとそこにいたのだというように、淡い模様の裏面が現れる。春の光を受けて、金の縁取りがかすかに光った。手のひらでそれを持ち上げ、ゆっくりと、まるで息を合わせるように回転させる。あと少しで、表が見える。だがそのときだった。佐野の指が、ふと止まった。尾崎は息を呑んだ。音にならない緊張が、ふたりの間に張りつめた。佐野の表情は変わらない。けれどその目の奥に、何かを見ようとして見ないでいる者の、深い迷いが宿っていた。手の中のカードを見つめたまま、佐野はそっと唇を動かした。「……あんたが言わな、意味ないから」その声は、いつものように穏やかだったが、かすかに掠れていた。乾いた風が通り過ぎたあとのような、わずかな脆さが混じっていた。まるで長い間、自分の役割を手放せなかった占い師が、いまようやくその手を離そうとしているようだった。タロットという枠組みの中で人々の未来を読み続けてきた佐野が、今この瞬間だけは、自らの運命を誰かに預けようとしていた。尾崎は、その仕草を黙って見ていた。胸の奥で何かが静かに波を打つ。過去を責め、未来を怖れ、ただ現在をやり過ごすことしかできなかった自分が、今はこうして誰かの眼差しをまっすぐに受け止めている。それだけで、世界が確かに変わった気がした。「これは、俺の未来です」言葉が自然と口をついて出た。硬さはなかった。ただ、静かな確信だけが込められていた。尾崎はそっと、タ
last updateLast Updated : 2025-07-27
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答えのない未来

障子の外から差し込む光が、畳に淡い影を落としていた。朝はすでに深まりかけているのに、奥の間にはまだ夜の余韻がわずかに残っていた。湯の沸く音も、鳥のさえずりも、今はここには届かない。ただ、ふたりの間を満たす静けさがある。少し前までそこにあった不安も、ためらいも、何か大きな流れのなかに溶けてしまったようだった。佐野はそっと目を細めた。口元に浮かぶ笑みは、いつものようにやわらかい。けれどその奥にあるまなざしは、明らかに変わっていた。占い師として他人の人生を読み解くときの冷静さや、誰かを包み込むような距離感はそこになかった。彼はただ、ひとりの男として、尾崎をまっすぐに見つめていた。「ほんま、不思議やな……カードなんかよりも、あんたの声の方がずっと、俺の胸に響くんや」その言葉に、尾崎は目を伏せかけた。だがすぐに、ゆっくりと顔を上げる。答えは言葉では返さなかった。ただ、息を整えるようにひとつ深く呼吸をし、小さく頷いた。その仕草には、何も飾られていない、けれど確かな想いがこもっていた。佐野は尾崎の頷きを、丁寧に受け止めた。ふたりのあいだには、すでに占いやカードの意味を超えたものがあった。これから先、何が待っているかは誰にもわからない。だが、それでもいいのだと、そう思える瞬間だった。障子の向こうでは、春の光がいっそう明るくなってきていた。まるでふたりの時間に呼応するように、日差しがゆっくりと部屋を満たしていく。畳の目に沿って落ちる影が、柔らかく伸びていく。その光景を、尾崎は静かに見つめた。何も語らなくても、今ここにあるものがすべてだと思えた。佐野の手が、そっと尾崎の手を探しに来る。その指先は、昨夜よりも少しだけ力を込めて、尾崎の指を包んだ。まるで、これからの道を共に歩くための確かな意思を込めるように。その感触に、尾崎は自然と微笑んだ。口元だけでなく、目の奥からゆっくりと笑みが広がっていった。どちらからともなく、ふたりは少しだけ体を寄せ合った。触れ合う肩と肩の温もりが、言葉以上の約束を交わしていた。未来には名前がない。答えもない。だが、それを恐れる気持ちさえ、今はどこか遠くに感じられた。「もう、カードに頼らんでもええかもしれへんな」佐野
last updateLast Updated : 2025-07-28
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椿の庭に吹く風

白椿が中庭の陽に透けて、ひとつ、またひとつと花弁に光を集めていた。枝先に宿ったその白は、雪の名残のようであり、けれどもう確かに春の色を帯びていた。椿の葉が、やわらかな風を受けて微かに揺れる。そのたびに陽射しと影が入り混じり、地面に淡い模様を描き出していく。空気は清らかで、どこかに冬の湿り気を残しつつも、ふと鼻先を撫でるものは春そのものの匂いだった。尾崎は窓際の席に静かに腰掛けていた。膝の上には閉じたままの帳簿とペン。すっかり冷めたほうじ茶の湯呑みに、手を添えている。思考は仕事のことから遠く離れ、ただ外の庭を眺めていた。カフェの扉越しに、町のざわめきが遠く微かに伝わってくるが、この小さな空間にはまるで別の時間が流れているかのようだった。奥からは、茶葉を煎る音が小さく響いてくる。香ばしさを伴った湯気が、廊下を伝ってこちらに届く。佐野の動く気配が、誰よりも自然なリズムでこの店の空気をゆるやかに満たしていく。その音も、香りも、今の尾崎にとっては特別な意味を持っていた。ふと尾崎は、窓の外に咲く椿へと目をやった。かつての彼なら、こうしてゆっくりと外の景色を眺める余裕などなかったはずだ。人の目線を避けるように伏し目がちで、静かに呼吸を整えてばかりいた日々。だが今は違う。眼鏡越しに見る白椿は、柔らかい輪郭でそこに咲いていた。尾崎の目元も、ほのかに細められ、そのまなざしには静かな肯定が宿っていた。椿の白が、まぶしくて、けれど痛くはない。生きてここに在ること、ただその事実だけで、こんなにも心が穏やかになるのだと、尾崎は不思議な感慨を覚えていた。店の中を流れる空気はあたたかく、静かで、誰の言葉も要らない。佐野の気配が奥でゆるやかに動き、その音に耳を澄ますだけで、なぜか安心できるのだった。湯呑みを口元に運ぶ。ほうじ茶の温度はもうほとんど失われているが、その香りは変わらずやさしい。飲み干すことなく、ただ少しずつ舌先にのせる。そのたびに心の奥の静かな場所が、ゆっくりと満たされていく。庭の椿は、相変わらず凛とした姿を保っていた。ふと、小さな風が吹く。白椿の花弁がほんのわずかに揺れ、光の粒がそれに踊る。尾崎はそのささやかな揺らぎを、じっと見つめていた。自分の内側にも、確かに新しい風が吹いていること
last updateLast Updated : 2025-07-29
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いつもの音と香り

湯の沸く小さな音が途切れ、ほうじ茶の甘い香りがふわりと漂った。奥の厨房から佐野が現れる。淡い藍の作務衣の袖を肘まで軽く捲り、木の盆に湯のみ二客と急須を載せている。歩みは静かで、畳を踏むたびに布の擦れる音がわずかに揺れた。盆から立ち上る湯気は細く白い筋となり、差し込む春の光に触れてほどけ、やがて空気へ溶け込んでいく。尾崎は窓際で帳簿を閉じ、視線を佐野へ向けた。湯気が流れる先で、佐野の輪郭がやわらかく歪む。その影が近づくたび、ほうじ茶の香ばしさがいっそう濃くなる。佐野は盆を卓に置くと、湯のみをひとつ尾崎の前へ滑らせ、もうひとつを自らの席に据えた。湯面に映る椿の白がゆらりと揺れて、淡い金の縁が微光を返す。「白椿、よう咲いとるな」佐野の声は相変わらず穏やかだったが、目尻の皺がいつもより深く、頬の緊張も少しゆるんでいた。長い睫毛の先で光を受け、瞳がほんのりと濡れた茶色にきらめく。尾崎は頷きながら視線を中庭へと戻した。白椿の花弁が朝日を透かし、淡い影を石畳に落としている。緩やかな風が枝を揺らすたび、椿の花はふわりと首を傾け、葉に落ちた露を細く弾いた。「まるで、ここだけ冬と春の境目みたいですね」尾崎はそう言いながら湯のみを持ち上げた。湯気が眼鏡のレンズを曇らせ、彼はゆっくりとまぶたを閉じる。鼻腔に満ちる焙じ茶の香ばしさは土の匂いを帯び、それが温度を伴って胸に降りていく。かつては熱い飲み物でさえ急いで飲み干そうとしていた自分が、いまはこうして香りだけを味わっている。指先に伝わる器の温もりがささやかな安堵となり、肩の力がじわりと抜けた。佐野も湯のみを傾け、軽く唇をつけた。彼は飲み込む前に一度息を含むように口内で湯を転がし、喉へ送る。動作は滑らかで、湯を置く音もわずかだった。盆の縁に指を添え直す仕草がゆるやかで、そこに昨夜まで纏っていた気負いはない。佐野が視線を白椿へと移すと、薄い唇の端がほんのわずか上がった。それは笑みともため息ともつかぬ小さな動きだったが、尾崎にははっきりと伝わった。「椿は冬に咲く花やと思われがちやけど、ほんまは春先に咲く花やね。、季節が混ざり合う瞬間みたいやな」佐野の言葉は、湯気の中で溶けるように静かだった。尾崎は湯のみを卓に戻し、
last updateLast Updated : 2025-07-30
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未来を語らない会話

佐野は湯のみを卓に置くと、尾崎の隣の椅子に静かに腰を落ち着けた。窓際の障子から差し込む陽は少しずつ角度を変え、白椿の影を畳のうえに濃淡で描き出している。湯気がまだ細く立ちのぼり、ふたりの視線がその揺らぎの真ん中で柔らかく重なった。ひと呼吸置いてから、尾崎は湯のみをそっと持ち上げた。佐野もほぼ同時に手を伸ばす。口をつけるタイミングまでが不思議と重なり、湯が喉を通るわずかな時間で、短い沈黙がふたりの心拍を揃える。湯の熱が胸の奥におりる。ほうじ茶の香ばしさとほのかな甘みが鼻腔を満たし、それが静かに広がると、昨日までの緊張はどこかに滲んで消えた。佐野は湯のみを卓へ戻し、掌で器の縁を一度撫でてから窓外を眺めた。外の風が再び椿の葉を揺らし、葉陰がかすかなざわめきを立てる。その音を聞きながら、佐野は唇の端をなだらかに上げ、声をひそめるように話し始めた。「せやな、未来って、なんやようわからんからこそ、愛しいんやろな」声は掠れず、けれど低く落ち着いている。語尾にかけてわずかな吐息が混ざり、それが湯気と共に薄く消えていった。尾崎はひとつ息を吸い、湯のみを持ったまま視線を落とす。睫毛の影が頬に落ち、眼鏡のフレーム越しに見える瞳がゆっくりと細くなる。今ではその伏し目は、人目を避けるためではない。静かな照れと、佐野の言葉を胸の内で噛みしめるための所作だった。頬はうっすらと赤みを帯び、それが春の光と相まって柔らかな色を生み、佐野に小さな満足を与えた。尾崎は湯のみを卓へ戻し、卓を挟んでいるにもかかわらず、指先がほんのわずかに佐野の手の近くをかすめる。触れたわけではない。しかし、それで充分だった。ふたりの間にはもう、占いも説明も要らなかった。未来はカードに描かれるものではなく、いま重ねた呼吸の中に、すでに芽吹いているのだと知っている。尾崎は低く笑った。声はほとんど漏れず、喉の奥でころがるだけのかすかな笑い。それでもその音色は、佐野の胸に柔らかな弦の震えを走らせる。湯気が二人の間を漂い、淡い陽がそれを透かして虹色の輪郭を与える。佐野はその靄を指先で掬うように、卓の上で軽く手を動かす。その仕草は茶を点てるときのように滑らかで、尾崎はその動きを視線で追う。追いながら、心の中でそっと呟く。過去も未来も、いまは一度脇に置い
last updateLast Updated : 2025-07-31
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