十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 62

62 チャプター

新たな客

引き戸の木がゆっくりと動く音が、春の空気の中にわずかに響いた。微かに軋むその音に、尾崎はふと顔を上げる。佐野も同じように手を止め、そちらへと視線を向けていた。白椿の香りとほうじ茶の余韻がまだ残る中、店の入り口に立っていたのは、見慣れない若い女性だった。ショートボブの髪がわずかに揺れ、眉間にほんの僅かに緊張の影が浮かんでいる。服装は控えめで、袖口を指で掴むようにしながら、躊躇うように一歩を踏み出した。「…こちら、占いもしていただけるんですか?」その問いは思い切ったように発せられたものの、声はか細く、どこか確信を持てずにいた。店内の静けさがその声をすぐに吸い込み、空間に新しい気配だけが残された。佐野は席を立ち、湯のみを盆に戻す手を自然な動きで止めると、女性に向き直る。口元には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。光の差す方向が変わったことで、作務衣の袖が少し金色を帯び、彼の輪郭がほんのりと温かく見える。「はい。よければ、お茶でも飲んでからにしましょか」その一言に、店の空気がすっと和らいだ。女性の肩がふと下がり、眉間の緊張が溶けていく。視線を床から佐野の顔へと移した彼女は、戸惑いながらも頷き、そっと履物を脱ぐ。畳の感触に戸惑うように足を運ぶその様子は、初めての場所に馴染もうとする誰かの姿そのものだった。尾崎はそのやりとりを静かに見守りながら、茶をすすっていた手を膝に戻した。自然と目が佐野の背中を追う。細身の肩幅、静かに動く肩甲骨、客へと向かう歩幅の均整。それらすべてが、ごくあたりまえのもののように、場に溶け込んでいた。かつては少し背負いすぎていたようにも見えたその背中が、いまは肩の力が抜け、自然体に見える。女性は店内の空気に少し安心したのか、近くの椅子に腰をかけた。佐野は湯を新たに沸かしながら、声をかけるでもなく、背を向けて準備に取りかかっていた。無言のうちに伝わるものがある。湯が沸く音、茶葉を計る音、そして器を置く音。どれもが丁寧で、日常の一部としてそこに存在していた。尾崎はそっと視線を中庭に移した。椿はまだ咲き誇り、風が枝を撫でている。光が射し、影が動き、ふと風が止まると、白い花弁がひとつ、音もなく地に落ちた。その落ちる様が、何かを終わ
last update最終更新日 : 2025-08-01
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変わらぬ場所、変わった空気

佐野は穏やかな声で、「どうぞ」と新たな客を奥の間へと誘った。畳を踏む足音が遠ざかっていくなか、尾崎は再び椅子の背にもたれ、視線を中庭へと戻した。障子越しの光がいくらか強まり、白椿の花がひときわ鮮やかに浮かび上がっている。風が枝をゆるやかに撫で、葉のあいだから射す光が花弁に細かく散った。その瞬きのような揺らぎが、時間の輪郭をぼかしてゆく。この場所は変わらない。静けさ、茶の香り、湯気の温もり、柔らかな光。そのすべてが、初めてこの扉をくぐったあの日と変わらずそこにあった。けれど、そこに身を置く自分自身が、もう以前の自分ではないことを、尾崎ははっきりと感じていた。誰かの顔色を伺いながら、必要とされることを自分の居場所だと錯覚していた頃の自分。その癖は、今も完全には消えていない。仕事の場では、気づかぬうちに笑顔を貼りつけることもある。けれど、それでも、あの夜から少しずつ、確かに何かが変わったのだ。佐野と目を合わせるようになった。言葉にしなくても、彼の視線の先にいるのが自分だということが、確かな実感として心のなかにある。ぬるい不安を隠すために笑うのではなく、あたたかい気持ちをそのまま表に出せるようになった。そして何より、自分の未来を、他人に委ねずに選ぼうとしている。そのことが、何よりの証だった。障子の影がふと動いた。佐野が奥から戻ってくる気配がする。尾崎は振り返らずにそのまま椿を見ていたが、微かに聞こえる足音に、自然と呼吸のリズムを合わせていた。歩く音が近づくにつれ、部屋の空気に馴染むように、静かな温度が戻ってくる。佐野が再び席に戻ったとき、ふたりのあいだには言葉はなかった。ただ、お互いの存在が、ごく自然にそこにあるという事実だけが、くっきりとした輪郭で空間を満たしていた。ふと視線を向ければ、佐野の表情もまた変わっていた。目元にはあいかわらず穏やかな弛みがあるが、その奥にある深い揺らぎは、以前よりもさらに静かになっていた。「白椿、落ち始めたな」佐野がぽつりと漏らす。その声は日常の延長にある、何気ない響きを持っていたが、尾崎にはどこか名残惜しさのような感情が滲んで聞こえた。尾崎は軽く頷いた。「でも、落ちた花も、綺麗ですよ」それは彼の
last update最終更新日 : 2025-08-02
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