《茶庭 結》の戸を押して入ると、外の光がすぐさま静かな木の香りと畳の気配に吸い込まれていった。夕方の街はまだ音を残していたが、この店の中ではすべてがいったん宙に浮き、呼吸も声も、少し遅れて届くような気がした。尾崎はその感覚に、いつものように肩をわずかに落とす。ほっとする、というよりは、ようやく仮面を外してもいいと体が判断している、そんな静かな脱力だった。佐野は奥から出てきて、気づいたように微笑んだ。無言のまま小さく会釈する。言葉はなかったが、それで充分だった。尾崎はいつもの席に歩を進める。右側に障子越しの光が淡く差し込む一角。そこだけが、なぜか時間の粒が大きく、ゆっくり流れているように感じられる場所だった。腰を下ろし、静かに息を吐く。今日の空気は乾いていて、夕方の肌寒さがまだ指先に残っていた。ジャケットの袖をそっと引き直しながら、尾崎は卓の木目に視線を落とした。しばらくして、抹茶を点てる音が、奥のほうから微かに聞こえた。茶筅の擦れる柔らかな音、湯の落ちる静かな音。そうしたひとつひとつの気配が、尾崎の中の喧騒をなだめていくようだった。ふと、佐野の声がした。「なんや……あんさんの目ぇ、やっと息しとるわ」尾崎はその瞬間、顔をわずかに上げた。声が届いたというより、身体の芯のどこかを突かれたように、心が瞬間的にざわついた。何を言われたのか、すぐには理解できず、だがその語尾のやわらかさと京ことばの間に、なぜか否応なく安心が滲んでいた。「……目が?」少し遅れて反応した尾崎は、わずかに目を瞬かせる。その仕草には、照れ隠しでも困惑でもない、ただほんの少しの“動揺”が含まれていた。けれどそれは、かつて東京で味わった種類のものとは違った。何かを責められたり、測られたりするのではないということが、佐野の声色から明確に伝わってきた。だからこそ、尾崎は笑わなかった。笑うという逃げ場を選ばず、ただ視線を落としたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、それが不思議と深く、胸の奥にまで届く感覚があった。「目で呼吸する、なんて初めて言われました」
Terakhir Diperbarui : 2025-07-04 Baca selengkapnya