Semua Bab 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に: Bab 11 - Bab 20

62 Bab

ケルトの十字、痛みの現在

佐野の指が、次のカードへと伸びた。畳の上に広がる十枚のケルト十字。その中央に重ね置かれた「剣の9」は、すでに尾崎の内側に静かな余韻を残していた。まるで、過去から流れ込んだ痛みの記憶を、視覚と共に胸の奥に刻みつけたような感覚。けれど、ここから先は、さらに深く、それでも静かに、自分というものの底に触れてくることになると尾崎はどこかで理解していた。佐野は何も言わず、三枚目のカードをめくった。横に並べられた一枚。過去を示す位置に、それは置かれた。「……“塔”やな」声が、畳に吸い込まれるように低く落ちた。その言葉に尾崎は無意識に眉を動かした。塔のカード。タロットに詳しくなくとも、その図柄は印象的だった。稲妻が走り、燃え落ちる石造りの塔。崩れ落ちる人々。絵柄は明確な破壊と衝撃を物語っていた。「こないなカードはな、普通、あんまり嬉しないもんやけどな」佐野の指が、塔の上部をなぞる。そこには真っ二つに割れた屋根と、そこから投げ出される人影。「でも、壊れたいうことは、それまでずっと無理して積み上げとったっちゅうことや。積んだもんがあかんかったんやない。ただ、あんさんがそのままやったら潰れてまうほど…ぎりぎりまで背負ろてたんやろな」尾崎の胸がきゅう、と締めつけられる。呼吸が少しだけ浅くなる。だが、それは不快なものではなかった。痛みそのものに対する抵抗ではなく、それを認めることへの戸惑いだった。「……そうかもしれません」絞るような声で、尾崎はそう言った。それは同意ではなく、確認のようだった。自分に、あるいは過去の自分に。佐野は頷き、次のカードに目を落とした。それは十字の左下、無意識の位置に置かれた一枚だった。「……“吊るされた男”や」尾崎の視線が自然とそこへ移る。逆さ吊りにされた男が、木の枝に両足を括り付けられたまま、微笑んでいる。その表情には、苦痛よりもどこか諦観と、静かな受容が感じられた。「無意識の底にこれがあるっちゅうことはな&h
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-24
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不思議な余白

店を出た途端、尾崎は思わず足を止めた。暖簾が背後で音もなく揺れている。木の戸が静かに閉まったあと、しばらくのあいだ、背中を預けるように立ち尽くした。外は昼下がりの光が、町家の瓦屋根を斜めに照らしていた。午後の空は、まだ雲が残りつつも、朝よりいくぶん晴れている。遠くから聞こえる鳥の声、風に揺れる葉音、通り過ぎる自転車の軽いブレーキ音。それらが重なって、今ここに自分が“現実”として立っていることを、ようやく思い出させた。だが、足が動かない。何も強い衝撃を受けたわけではなかった。むしろ、あの短い占いの時間は、驚くほど静かで、やさしかった。けれど今、尾崎の体はどこかで“混乱”していた。自分が思っていたよりもずっと、自分の内側に「感じる」余地が残っていたことに、初めて気づかされたような不思議なざわめきが、胸の奥からじわじわと広がっていた。鞄のポケットに手を差し入れると、指先にざらりとした名刺の紙の感触が触れた。取り出して見た。《佐野透》と、端正な活字で印刷された名前。その下に、「タロットリーディング/茶庭 結」とだけ添えられている。電話番号もメールアドレスも書かれていなかった。ただ、手のひらに収まるその一枚が、尾崎には妙に“生きた”ものに思えた。紙の上の文字は、ただのインクのはずなのに、どこか柔らかく、にじむように目に届いた。白地に淡く浮かぶ金色の縁取りが、陽の光を受けてわずかに光っていた。ふと、指の先でそれを撫でる。佐野が、何も言わずにこの名刺を差し出したときのことを思い出した。「今日はな、お試しでええよ」あのとき、笑っていた。無理に笑顔を作ったのではなく、声の延長のように口元が緩んだ自然な表情だった。そして、会計も請求もせずに、ただ「またいつでもおいでやす」とだけ言った。あの“また”という言葉が、今になって胸に引っかかっている。尾崎はこれまで、誰かに「またおいで」と言われて、それを信じたことがあっただろうか。それは形式上の言葉で、実際には二度目など望まれていない、そういう場面の方が多かった。けれど、佐野のその一言は
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-25
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薄曇りの午後、足が向く場所

賀茂川沿いの小道は、午後の曇天に包まれて、静かに息を潜めていた。春の終わりを告げる風が肌を撫で、桜の花びらもほとんどが枝から姿を消している。花の名残はアスファルトの隅に湿った紙片のように貼りつき、足元の水たまりが淡くその色を映していた。尾崎は、休日の午後を持て余していた。部屋にじっとしているには空気が重たく、けれど何か目的を持って出かける気力もない。ならば、ただ歩くことにした。方向は定めず、ただ目の前の道に沿って足を動かす。それが彼のこの数週間の過ごし方だった。京都に来てから、休日はこうしてひとりで過ごすことが多くなった。東京では常に誰かの視線と会話のなかで時間が過ぎていたが、ここでは誰にも名前を呼ばれることがない。それが不安かといえば、そうでもなかった。ただ、何も感じないというその鈍さが、自分の中で静かに広がっていることに気づいてはいた。道沿いに並ぶ家々の瓦が、鈍い光を受けて灰色に沈む。湿気を帯びた風が髪を揺らし、シャツの袖口にひやりとした感触を残す。まばたきが増える。目の奥に、どこか不安定な重さがあることに、尾崎自身も気づいていた。けれどそれを振り払う手立てがない。いつの間にか、小さな路地に足が向いていた。入り組んだ細い道を辿りながら、目に馴染みのある暖簾がふと視界に入る。木造の低い建物。白い和紙に墨で書かれた《茶庭 結》の文字が、風にふわりと揺れている。あ、と思った。足を止めた瞬間、胸の奥に何かがひそやかに揺れた。意識して向かったわけではなかったはずだ。気づけばここに来ていた。それがどういう意味を持つのか、まだ自分でもうまく整理がついていない。ただひとつだけ確かなのは、あの空間にもう一度触れたかったという欲求が、いつの間にか自分の中に芽生えていたということだった。尾崎は暖簾をくぐった。木の扉に手をかける。節の浮いた木目が、しっとりと手に馴染んだ。扉を押すと、軽い軋みとともに店内の空気が流れ込んでくる。その瞬間、喉の奥で微かに息が漏れた。自分でも気づかないほどの小さな呼気。だがそれは、どこか決意のようにも感じられた。店内には、いつものように静かな音楽が流れていた。琴の音に似た旋律が低く漂い、木の壁と畳の匂いが心を撫でるように立ち上っていた。客はほ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-25
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お茶と沈黙

茶碗の中で揺れる抹茶の表面に、尾崎は静かに視線を落とした。濃く立ちのぼる香りが鼻をくすぐり、ゆっくりと呼吸を促す。茶の熱は手のひらをじんわりとあたため、肩に残った緊張が少しずつほどけていくようだった。「今日は、見んとこか」佐野の声が、ふと降りてきた。背後からではなく、横手の柱の陰、いつの間にか気配が近づいていたことに尾崎は気づかなかった。その声には、問いかけも命令もなかった。ただ、「今日はそうやろな」とでも言うような、淡い肯定のような響きがあった。尾崎は顔を上げなかった。うなずくでもなく、首を振るでもなく、ただ茶の表面に意識を預けていた。それでも佐野は、それ以上何も言わなかった。視線を向ければ、あの柔らかな目がこちらを見ていたのかもしれない。けれど、尾崎はそれを確かめることができなかった。見られるのが怖かったのではない。ただ、今この沈黙が壊れてしまうことを、どこかで恐れていた。抹茶の苦みが舌に残る。けれど、その苦みさえ、今は心地よかった。「よう冷えるねえ、今日は」佐野がそう言って、そっと障子の桟に手をかける音がした。尾崎の視線の端に、細い指先と、着物の袖が揺れたのが映った。白地にうすく灰青が走る和服。すっきりとした装いで、余計なものを一切纏っていない。なのにその姿には不思議と目を引く力がある。雨は降っていなかった。けれど、空気は湿っていて、季節の変わり目らしい曇天が、庭の青苔を重く照らしていた。尾崎は、ようやく一度、まばたきをした。今日、この店に来た理由を、彼はまだ明確に言語化できていなかった。けれど「占ってもらうため」ではないということだけは、はっきりしていた。ほんの少し静けさが欲しかった。それだけだった。誰にも踏み込まれず、誰も踏み込まず、ただ呼吸できる時間と場所。そのささやかな贅沢を、佐野は何も問わずに与えてくれていた。「……すみません」尾崎の唇から、不意に言葉がこぼれた。反射のようなひとことだった。意味を伴っていたわけではない。ただ、今この空間にいることを自分なりに表現したかっただけだった。佐野はふわりと笑った気配を残し
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-26
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距離の温度

《茶庭 結》に通うようになって、尾崎の生活にはひとつの“余白”ができていた。誰かと深く関わることもなく、会話の必要もない。それでいて、自分が受け入れられていると感じられる場所。佐野のカフェには、そんな不思議な静けさがあった。平日の仕事が終わったあとや、土曜の午後。特に予定もない日は、ふらりとあの町家の前まで足が向く。自分では意識していないつもりでも、気づけば歩いていた。疲れが表に出ないように、仕事では常に笑顔を貼りつけている。その笑顔が落ちてしまいそうなときに、尾崎はこの場所に逃げ込んでいた。その日も、少しだけ湿気を帯びた風が吹く午後だった。京都の春は長くて、季節が移ろいきるまでに何度も服装を迷わせる。薄手のジャケットを羽織って歩いてきた尾崎は、いつものように入り口で足を止めた。暖簾がわずかに揺れ、その奥に静かな影が見えた。木戸を開けると、あたたかな空気が出迎える。靴を脱ぎ、足元に敷かれた滑らかな石畳の感触に、少しだけ背筋が伸びる。スタッフが気配を察して軽く会釈する。尾崎はそれに無言で応え、見知った畳敷きの席に歩を進めた。座った瞬間、背中から力が抜けていくようだった。いつも通りの抹茶が、ほどなくして運ばれてくる。香りは控えめで、それがかえって心地いい。尾崎は茶碗に手を伸ばし、ひと口ふくんだ。苦みと旨味が、舌の奥に残ったまま、ゆっくりと胸に沈んでいく。そのときだった。ふと、向かいから視線を感じた。顔を上げると、佐野がいつの間にか隣の仕切りに座っていた。彼もまた、何かを言おうという気配はなく、ただ微かに笑っていた。「よう通ってくれはるけど…あんさん、あんまり人と喋らはらへんなあ」柔らかい京言葉が、湯気のように漂った。問いというより、観察のような響きだった。尾崎は少しだけ間を置いてから、いつもの笑顔を浮かべた。上唇の端をわずかに持ち上げて、目尻の筋肉を使わない、整った表情だった。「仕事で喋りすぎてるんで、プライベートくらいは静かにしてたいんです」ごまかすように、そう答える。語尾は軽く、冗談めかしていた。自分でも、取り繕うときのテンプレートになっているなと薄々感じながら。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-26
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支社という仮面の場所

京都支社のオフィスは、東京本社に比べるとずっと簡素だった。古い雑居ビルの二階。天井は低く、窓から差し込む光もどこか弱々しい。エアコンの音が妙に耳につくのは、社内がそれだけ静かだからなのかもしれなかった。午前九時半、尾崎はいつものように自席に座って、PCを立ち上げる。デスク上は整然としていて、必要以上のものは置かない。備えつけの電話、ボールペン数本、業務用のメモパッド、そしてスケジュール帳。まるでどこかのショールームの一角のように、すべての配置に無駄がない。静かな空間に、キーを打つ音が小さく響く。手は慣れた速さで資料を整理し、送信すべきメールを淡々と打っていく。東京で積み重ねた“効率”が、そのままこの場所でも役に立っていることはわかっていた。ただ、その代わりに、他者と関わる余地は極端に少なくなる。「尾崎さんって、何考えてるかわからへん時あるわー」隣の席からふいに声がかかる。和やかさを含んだ調子で、嫌味ではなかった。同僚の森下が、ペットボトルの水を机に置きながら笑っている。尾崎は顔を上げ、すぐに笑顔を作った。「それはよく言われます」口角が滑らかに上がる。目尻にわずかなシワが寄るように見せる。けれど、そこには感情の熱はなかった。反射で浮かべるだけの、貼りつけたような表情。それが、ここに来てから自然と身についてしまった。森下は「いや、悪い意味やないんやけどな」と付け足し、苦笑気味に肩をすくめて去っていった。尾崎は軽く会釈し、再び画面に目を戻す。自分が誰にも内面を見せていないことは、本人が一番よくわかっていた。だが、それが悪いとも思っていなかった。何を考えているのかわからない人間として、適度な距離を保たれる方が都合がいい。それが、東京で生き延びるために覚えた“対人スキル”だった。それでも、ふとした瞬間に疲労を覚えることがある。たとえば今のような何気ない一言が、無意識の仮面を意識させる。そうした言葉の一つひとつが、尾崎の内側を静かに軋ませていった。他の社員たちは、昼休みに和やかに談笑している。関西らしい距離の近さで、話しかけ合い、冗談を言い合い、互いの生活に自然と触れ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-27
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視線の鋭さ

その日は雨が降るでもなく、晴れるでもなく、空全体が一枚の鈍い灰色に覆われていた。まるで音を吸い込むような曇天のもと、《茶庭 結》の店内には、いつも以上に静かな空気が流れていた。尾崎は、いつもの席に腰を下ろしていた。何かを待っているわけでも、特別な気分に浸っているわけでもなかった。ただ、ここにいるという事実だけが、日々のどこかから逸れた自分を、微かに肯定してくれているようだった。淡く立ちのぼる湯気の向こうに、佐野の姿があった。畳敷きの奥に座り、帳面のようなものを静かにめくっている。時折、抹茶の香にまぎれて、わずかに紙の乾いた匂いが鼻先をかすめる。尾崎は茶碗を両手で包み、ふうと息を落とした。そして、その視線に気づいたのは、何の前触れもなかった。佐野が、じっとこちらを見つめていた。声をかけるわけでもなく、手を振るでもなく、ただ目線だけを向けてくる。その目は、不思議なほどにまっすぐで、温度を持っていた。尾崎は少しだけ首をかしげて、苦笑のような笑みを浮かべた。「……何ですか」穏やかに問うつもりだったが、声はいつもよりわずかに上ずっていた。自分でも気づかぬうちに、何かが揺れていた。佐野はそのままふっと笑った。柔らかく、しかしどこか含みのある笑みだった。「いやあ……あんさん、あんまり顔のこと気にしてはらへんやろ」一瞬、意味がつかめなかった。「……え?」尾崎が問い返すと、佐野はやや体を傾けて、さらに声を低めた。「うちに来はる常連さん、何人かが言うてはってん。“最近、ものすご綺麗な人、通うてはるなあ”って」その言葉を聞いた瞬間、尾崎の身体がぴたりと硬直した。抹茶の香りが、急に遠くへ引いていくようだった。一拍遅れて、まぶたが揺れた。目線を保てない。佐野の顔を見ていられず、尾崎はゆっくりと目を伏せた。湯呑の縁に指を添える。その指先もわずかに震えている。いつもならすぐに笑顔が浮かぶはずなのに、なぜか今日は、それが間に合わなかった。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-27
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無意識の拒絶と、微かな希望

名刺は、財布の中に収めたままだった。渡されたその日から、何度も見返したわけでもない。けれど、たまにふとした拍子に取り出してしまう。そういう“癖”のような動作になりつつあった。薄い名刺の表面には、やや赤みがかった金文字で《茶庭 結》のロゴと、佐野の名前、そして「タロット占い師」とだけ記されていた。肩書きの簡素さとは裏腹に、その字体には妙に品があった。指でなぞると、少しだけ凹凸があるような、上質な印刷だった。尾崎は、それをまたそっと財布に戻した。そして、ため息の代わりに、ひとつ小さな呼吸を吐いた。あのとき佐野に言われた「綺麗な人や」という言葉が、まだ身体のどこかに残っていた。忘れようとするたびに、なぜか鮮明に思い出される。押し込めようとするほど、その響きが皮膚の下から蘇ってくる。“綺麗”と表現されることに、嫌悪はなかった。少なくとも、表立った拒絶は抱いていない。ただ、そこにはいつも“居心地の悪さ”がついて回る。自分を正確に見てくれる人間などいないという思い込みが、ずっと根を張っていたからだ。佐野の言葉は、そうした拒絶の隙間に、するりと入り込んできた。「……ほんま、ずるいな」尾崎は誰にも聞こえない声で呟いた。カフェの畳敷きの空間は、穏やかな午後の光に包まれていた。佐野は今、別の客の相手をしている。自分に向けられていた視線は、もうない。けれど、それでも尚、肩の内側に熱が残っていた。誰にも触れてほしくなかった部分に、気づかれてしまった。そのざらつきは、心地よさとは程遠い。むしろ、軽い恥辱のような感覚があった。だが、それは否定ではなかった。ただの“痛み”だった。それなのに、どうしてこんなにも、記憶に残ってしまうのか。尾崎はふと、カップのふちに触れていた指を止めた。まだ温かさが残る陶器の感触。そのぬくもりが、まるで誰かの掌に触れられているように思えて、急に胸が締めつけられた。無意識に、他人の視線を拒んできた。だから、誰からも“そう”見られないように生きてき
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-28
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水面のような午後

引き戸を開けると、からん、と控えめな鈴の音が鳴った。その音が、雨上がりの空気を裂いて、わずかに濡れた衣服に染みこむ。尾崎は傘を閉じながら、左の肩にずっと残っていた湿気を払うように軽く肩を回した。まだ冷えが残っている。外気と肌の間に、うっすらとした膜のような感覚が貼りついている。《茶庭 結》の店内は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。入り口からまっすぐ奥に伸びる土間の先、障子の向こうにはやわらかな畳の匂いが広がっている。和紙の照明が低く灯り、柱の影がやさしく床に落ちていた。「ようお越しやす。寒かったやろ」佐野の声が聞こえたのは、その影の奥からだった。抑えた調子の関西弁。その響きには不思議と耳が慣れていて、尾崎の中の“外”と“内”の感覚を切り替えるきっかけになっていた。尾崎は、いつもと同じ席を選ぶ。畳の角がぴたりと整えられた二人掛けの小さな卓。入口に一番近く、柱に背を預けられる位置。誰の視線も気にしなくていい場所。今日もその席は空いていた。腰を下ろすと、畳の感触がじわりと背中に伝わる。身体が軽く沈み、同時にどこかが静かに浮き上がる。尾崎は呼吸を整えるように、視線を机の上に落とした。その視界の端に、佐野の指先が現れる。湯呑を置く動作は、あまりにも静かで、音を立てない。黒の長袖の作務衣に包まれた指先が、白磁の器をそっと押し出す。それだけで、尾崎はふと、呼吸が詰まりそうになる。声を出す必要はなかった。挨拶もしなければ、注文もしない。ただ席に着くだけで、抹茶の香りが運ばれてくる。ここに来る理由を誰かに説明したことはないが、佐野はそれを尋ねてくることもなかった。茶碗の中から上がる湯気が、やわらかく揺れる。その向こうに、佐野がひとつ会釈をして下がっていく姿が見えた。淡く笑う横顔。薄い光に縁どられて、目元に小さな影が落ちている。やわらかな関西弁の挨拶は、今日はなかった。尾崎はゆっくりと、肩を落とした。呼吸をひとつ、深く入れる。けれど、その呼吸はいつもよりも浅く、どこか安定しなかった。まるで胸の奥にある何かが、わずかに揺れている。ふと視線を上げた。佐野の
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-28
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過不足のない手つき

小さな釜から立ちのぼる湯気が、静かな店内に淡く満ちていた。湯を注ぐときの音は、わずかに低く、柔らかな弧を描いて器へ落ちていく。佐野は茶筅を取り上げると、自然と右手が動き出す。動作は迷いなく、無駄がない。回数も、力も、決まりきったように身体に刻み込まれていた。抹茶の泡が細やかに立ち始める頃、ふと、佐野は意識の端にひとつの気配を捉えていた。入口近く、決まった席。尾崎が、今日も変わらずそこに座っている。静かに湯呑に手を添えて、何ひとつ語らず、ただ茶の熱を受け取っている。あの人が最初にこの店に来た日のことを、佐野はよく覚えていた。季節は違ったが、今日と同じように雨が上がったばかりで、空気には水気が残っていた。あのときの尾崎の表情は、誰にも触れさせない硬さがあった。それでも、店の中の何かにほっと息をついたような気配を見せていた。それを見逃さなかった自分を、佐野は一度も後悔していない。静かな水面のような人。そう思ったことがある。目の奥にまで張られた薄い皮膜が、どんな言葉も届かせないような気配を醸しているのに、同時に見てはいけない深さを予感させた。なぜ、気になるのだろう。佐野は自分に問いかけるたび、答えを拒むように目を逸らしてしまう。特別な意味を込めるには、まだ知らなすぎる。けれど、誰よりも静かにこの店の空気に馴染んでいくその姿が、佐野の中に揺らぎを生んでいるのは確かだった。茶筅を抜き取る。白磁の中には、滑らかに泡立った抹茶が、きれいにまとまっている。それを見つめたまま、佐野は少しのあいだ呼吸を止めた。音を立てないように膝をすすめ、湯呑を尾崎の前に置く。所作を乱さないように気をつけながら、指先がわずかに器の縁を撫でるように滑った。「ようお越しやす。寒かったやろ」その声は、ほかの客に向けるものよりもほんの少し低く、ゆるやかに落ち着いた響きを持っていた。意識していたわけではない。けれど、自分でもその変化に気づいたとき、佐野はほんの一瞬だけ唇を噛んだ。尾崎は顔を上げない。いつものように、目元に影を落とし、茶の湯気だけを見つめている。その姿に、佐野はなぜか胸の奥に熱を感じる。感情というにはあまりに曖昧で、曖昧すぎて厄介だと思った。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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