Semua Bab 十枚の未来(ケルトクロス)~視えない恋を、選んだ先に: Bab 41 - Bab 50

62 Bab

夕映えのガラス

午後五時過ぎ、雨上がりの空は、まだ湿り気を帯びた曇天の合間に、夕焼けの名残をわずかに滲ませていた。京都支社の会議室前、尾崎は誰もいない廊下の窓辺に立ち、外の石畳が淡く光を返すのをじっと見つめていた。ガラスには彼の指先が静かに触れていた。なぞるように動かしたその跡は、すぐに曇りに消え、また淡く滲む。何かを描くわけでもなく、何かを伝えるでもなく、ただそこに在ることを確かめるように。彼の背後、すぐ近くの応接室では、くぐもった声がぶつかり合っていた。社外のクライアントと思われる声が強く響き、途中から若い社員の声がそれに重なった。声の調子から、言葉の端々から、尾崎にはすぐに状況が見えた。理不尽なクレーム、それに動揺する部下、そして黙って見過ごす選択を迫られる自分。尾崎はその場から一歩も動かず、窓の外に視線を向けたままだった。彼は言葉を発しないまま、心の中で何度も天秤を揺らしていた。あの部下は、まだこの支社に来て半年。慣れない業務と独特の取引慣行に戸惑いながら、それでも誠実に仕事に向き合っている。ミスをしたのなら、指導で正せばいい。ただ、今応接室で飛び交っている言葉は、それでは済まない類のものだった。社内で波風を立てたくないという意識が、尾崎の足を留めた。かつて東京本社で、ある言葉が一瞬にして自分を破壊したように、たった一度の判断が人の評価を変えてしまうことを、彼は嫌というほど知っていた。だが、それでも。このままやり過ごすことが、かつての自分のような後悔を、誰かに背負わせることになるなら。尾崎は眼鏡の奥で目を伏せ、ひとつ息を吐いた。その視線はもう曇っていなかった。迷いという名の靄を抜けて、今そこにあるのは、誰かを守るという選択肢にすでに手をかけている男のまなざしだった。応接室の扉を、静かにノックした。乾いた音が三度響き、ややしてから中から声が返る。尾崎は躊躇わずに扉を開けた。中には、顔を紅潮させた中年の男性と、頭を下げている若手社員。その場に流れる空気は一触即発というよりも、すでに押しつぶされた後の重苦しさがあった。「失礼します。尾崎です」 尾崎は穏やかな声で名乗り、部屋の奥に進んだ。若手社員の目が驚きと
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-12
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濡れた袖、灯る湯気

《茶庭 結》の引き戸を開けると、かすかに湿った空気の匂いが尾崎の鼻をかすめた。夕方の雨上がり。軒先に吊られた風鈴が、乾ききらぬ風に小さく鳴った。石畳を踏んで来たせいで、スーツの袖口はしっとりと濡れていたが、それさえもこの場所の空気に馴染む気がした。店内はいつもと同じように静かで、いつものように佐野がいた。奥の間ではなく、今日は手前のカウンターで茶器を扱っていた。薄く灯された照明が、木目のカウンターをやわらかく照らしていて、茶釜の湯気がほのかに揺れていた。「…いらっしゃい」佐野は目を上げ、柔らかく言った。その声音に、尾崎は気づかぬうちに息をついていた。張りつめていたものが、ほぐれるような感覚だった。言葉にされないだけで、迎え入れられていると分かる空気があった。「今日は、混んでないんですね」「そうやね。雨あがりやし、ようけ歩こうとは思わんやろな」尾崎はカウンターの端に腰を下ろし、濡れた袖をさりげなく払った。佐野はその仕草を見ていたが、何も言わずに手元の急須に静かに湯を注いだ。白い湯気が一筋、ふたりの間に立ち上る。その手の動きには、無駄がなかった。淹れる、というより、注ぐ、でもなく、まるで茶の気配を聞くように、器と対話しているような静けさだった。「今日のあんた、ちょっとちゃうな」佐野がぽつりと呟いた。尾崎は一瞬、返事に迷った。黙っていたのに、いや、むしろ黙っていたからこそ、何かが伝わっていたのだと気づく。「…そう、見えますか」「見える、て言うより、気ぃが違う。澄んどるけど、芯がある。そんな感じや」湯のみを差し出されて、尾崎は受け取った。指先が器の縁に触れる。あたたかさが、皮膚よりも奥に染みていく気がした。「今日、少し…動いたんです。いつもなら、黙って見てたかもしれないけど。でも、それじゃだめな気がして」自分でも、どうしてここでその話をしたのか分からなかった。話すつもりはなかった。けれど、湯気の向こうにいる佐野の佇まいが、そうさせた。何も強要しないのに、ただ黙ってそこにいてくれる存在。言葉が漏れても、責めも否定もせずに、それを受け止
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-13
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視ないひと

あたたかい湯のみを両手で包んだまま、尾崎はゆっくりと口をつけた。舌の奥に残る微かな渋みと、喉を下る温度が心地よかった。いつもより少し長めに茶葉を蒸らしたのか、香りが深い。店内には他の客の気配はなかった。夕方の薄明かりが障子の隙間から入り、畳の縁を淡く照らしていた。佐野はカウンターの向こうで、茶器の整理をしていた。派手な動きは一切ない。ただ、湯の温度を確かめるように指先を添えたり、茶筅を丁寧に布で拭ったり、そうした静かな所作のひとつひとつが、この場所の空気そのものになっていた。ふいに、尾崎は自分の口が開くのを止められなかった。「…佐野さんって、自分のこと、占わないんですよね」音のない空間に、ぽつりと落とした言葉だった。問いというにはあまりに小さく、確認というにはあまりにあいまいで、けれど確かに、ずっと抱えていた疑問だった。佐野は手を止めなかった。代わりに、そっと湯のみを持ち上げて、ひと口、茶をすする。その動作にまったく乱れはなかったのに、尾崎にはそれが、ひどく遠い動きに感じられた。何も言わず、何も否定せず、ただお茶を飲むだけ。だが、その沈黙は、あまりに輪郭がはっきりしていた。尾崎は何かを見透かされたわけではなかった。むしろ、自分が踏み込んではいけない領域に、言葉を滑らせてしまったのだと気づく。そのことを、佐野の沈黙が静かに教えていた。「すみません」 謝るつもりはなかったのに、自然に口をついて出た。尾崎は目を伏せ、両手で包んでいた湯のみの縁を、親指でそっとなぞった。ざらりとした感触が、ひと筋指先に伝わる。釉薬の境目。茶器の個性。そう思えばそれだけのことだったのに、そのときの尾崎には、それがまるで自分の感情の輪郭のように思えた。指の動きが止まった。何もなぞらなくても、器の形は変わらない。だが、自分の中で、何かが確かに変わりはじめていた。視られることに慣れすぎていた自分が、今初めて“視ようとしている”のかもしれないと、ふと思った。佐野は、依然として視線を上げなかった。けれど、その横顔がどこか遠くを見ているようで、尾崎はそれを黙って見ていた。中性的な輪郭に
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-14
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選びたいということ

空気の温度が、少しだけ変わった気がした。季節の変わり目に吹く風のように、はっきりとした輪郭はないが、確かに肌の上をなぞっていくもの。尾崎は手の中の湯のみを見下ろしていた。茶の表面には、もう湯気はほとんど残っていなかったが、器自体はまだほのかに温かく、掌にしっとりと吸いつくような感触があった。沈黙が、ふたりのあいだに落ちていた。ただ、それは気まずさではなかった。言葉を急がずとも、そこに在ることだけで通じるような、そんな種類の静けさだった。尾崎は、佐野の視線を感じていた。けれど、目を合わせるには、もう少し勇気が必要だった。視られることには慣れているつもりだった。だが今この場所で、この人の目にまっすぐ映るには、自分が自分としてそこにいなければならない。それが、少し怖かった。「…俺は」声は思ったより低く、けれど、かすれることなくまっすぐに出た。「俺は――選びたいんです」湯のみの縁に触れていた指が、わずかに震えた。言葉の最後にほんの少しだけ間を置いたのは、意図的だったのか、感情がそこに滲んだからか、自分でもはっきりしなかった。佐野の動きが止まった。茶器を拭いていた手が、そのまま空中でぴたりと固まる。ほんの一瞬。けれどその静止には、茶の作法や所作では表せない、素の人間としての“驚き”がにじんでいた。尾崎は、ようやく視線を上げた。佐野の目を、正面から見た。その瞳は、いつものように穏やかで、どこか遠くを見るような曖昧さを湛えていた。けれど、その奥に、かすかな揺らぎがあった。湯の波紋のように、小さく、それでいて消えることなく広がっていく。占い師としての顔ではなかった。静かに整った顔立ちの中に、はじめて見る色があった。恐れか、戸惑いか、それとも何かを受け入れようとする迷いか。言葉にならないそのすべてが、まなざしに表れていた。「…選びたい、って、思うんやな」佐野は茶器をそっと置き、指先をカウンターの縁に添えた。それは、自分の手が震えていないか確かめるような、そんな微細な動作だった。「はい」尾崎の返事は短かった。でも、その声の奥に積み重なった時間が
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-15
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雨の奥の間

雨は細く、ひたすらに静かだった。水を含んだ石畳が足音を柔らかく吸い込んでいくなか、尾崎は傘も持たずに《結》の暖簾をくぐった。開いた戸の向こうから、ふわりとした抹茶と湿った木の香りが混ざって流れてくる。濡れた髪の隙間から、額の肌がうっすらと透けていた。スーツの肩にも水滴が残っており、彼の佇まいはどこか薄明かりのなかに溶け込むようだった。店内には客の姿はなく、照明も落とされていた。時刻は夜の八時を少し回った頃。雨脚は弱いが止む気配はなく、ひと晩中このまま降り続きそうな空だった。暖簾を閉めて一歩足を踏み入れると、しんとした静寂が尾崎の耳を包んだ。冷たくはないが、どこか肌に触れる気配を持った静けさだった。佐野の姿は、いつものようにカウンターにはなかった。厨房の明かりも落とされており、手前の間はほとんど灯が消されている。かすかに障子の向こうから、柔らかな灯りの気配があった。尾崎は靴を脱ぎ、そっと足音を忍ばせるようにしてその光を目指した。奥の間に入ると、佐野がひとり、タロットクロスをゆっくりと畳んでいた。灯りは天井の照明ではなく、小ぶりの間接照明がひとつだけ。布張りの柔らかなシェード越しに、琥珀色の光が空間を包んでいる。壁には雨音だけが届いており、それ以外に音はなかった。「…こんばんは」声をかけると、佐野は少しだけ顔を上げた。変わらぬ微笑を浮かべていたが、その目元には、わずかな疲れの色が滲んでいた。睫毛の下に、淡い影が差していたのは、照明の加減のせいだけではないように思えた。「来てくれはったんやな」佐野の声は静かだった。だが、その語尾にほんの少しだけ安堵のようなものが滲んでいた気がした。「雨、すごいですね。傘、忘れてて…そのまま来てしまいました」「濡れてもうたんやね。ちょっと、待ってて」佐野はそう言うと、そっと立ち上がり、隣の間から柔らかなタオルを持って戻ってきた。尾崎の前にしゃがむようにして、濡れた髪の先にそっと布を当てる。「ええんです、そんな」「風邪引いたら、あかんから」言葉にとげはなく、ただ当たり前のことのように言われた。尾崎は少し身を引きかけたが、タオルを当て
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-16
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見てしまった夜

佐野は立ち上がり、棚の上に置かれた急須に手を伸ばした。音を立てずに湯を汲み、茶葉を入れた器に注ごうとしたそのときだった。ふと、その手がわずかに揺れた。静かに注がれるはずだった湯は一筋、器の縁を外れ、木の盆の上に跳ねた。ぽとり、と落ちる水音はささやかだったが、尾崎の耳にははっきりと届いた。佐野の指先が、すぐに止まる。驚いた様子ではなかった。ただ、ああ、と小さく息をつくようにして、注ぎ口を戻した。尾崎は、自然に体が動いていた。座ったまま手を差し出し、佐野の手首の辺りに、そっと触れた。「無理しなくていいですよ」声に張りはなかったが、それがかえって空気に溶け込むようだった。湿った夜の静けさのなかに、まるでひとしずくのあたたかさが落ちたような感覚。佐野は、その手の上に自分の視線を落とした。何も言わず、ただその指のかたちを見つめたまま、一度だけまばたきをして、目を伏せる。「…ありがとう」その声もまた、かすかだった。指先はほどなく湯の入った器を盆の上に置き直し、佐野は正面に座り直した。尾崎はまだ手を引っ込めず、そっと膝の上に戻したとき、佐野がぽつりと語りはじめた。「中学生のときな。…ある子を、視たことがあるんや」語尾をやや置きながら、佐野の声はまるで独り言のように響いた。目は尾崎を見ていなかった。正面の空間をゆっくりと眺めるようにして、静かに言葉を継いだ。「うちの家系、ちょっと変わっててな。子どもの頃から、カードを触らされてた。遊び感覚で始めたんやけど、だんだん、“あんた、視える子や”って言われるようになって…」そこにある声は、恨みでも後悔でもなかった。ただ、昔のことを、ようやく形にして話しているだけのような声音。けれどその中にある温度の不在が、むしろ彼の痛みを際立たせていた。「その子はな、好きな子との関係に悩んでて。私はどうなる?って、聞いてきたんよ」佐野のまつげが少しだけ震えた。尾崎は黙って聞いていた。問い返さず、相槌も打たず、ただその声が終わるのを待った。「カードは、…“終わり”を示す位置に『死神』が出た。私は、それを言ってしもた。言葉を濁さずに、
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-17
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それでも、信じたい

雨音が、部屋のすみずみまで滲み込んでいた。障子の向こうにぼんやりと揺れる光が、静かに呼吸しているように感じられる。佐野の言葉が落ち着いたあと、尾崎は何も言わなかった。ただ、その沈黙に意味があることを、自分でも分かっていた。一息、呼吸を置いてから、尾崎はゆっくりと立ち上がり、佐野の正面ではなく、その隣へと歩を進めた。背筋を伸ばしたまま座る彼の横に、すこしだけ距離を残して膝を折る。床の冷たさが膝裏に触れたが、それもすぐに意識の外へと追いやられていった。佐野の指先は、まだ茶器の縁にかけられていた。静かに置かれたその手の甲に、尾崎は迷いなく、指先を伸ばした。触れるか触れないかの力で、そっとその肌に指を重ねる。手を包むことはしなかった。ただ、存在を知らせるように、体温を分けるように、静かに接しただけだった。佐野の肩が、わずかに動いた。呼吸か、驚きか、それとも緊張か。どれとも言えない微細な揺れだったが、尾崎の指先にははっきりと伝わった。「佐野さんが、視えてるものが何であっても…俺は、それで変わったりしません」声に濁りはなかった。言葉を選びすぎず、飾りすぎず、それでもどこかに丁寧な決意を含ませていた。佐野は、目を伏せたままだった。けれど尾崎は、構わず続けた。「俺だけは、視えても視えなくても、あんたを信じる」雨音が、少しだけ強くなった気がした。外の雨脚は変わらないのに、ふたりのまわりにある空気が、ほんの少しだけ軋んだような、そんな錯覚。佐野はゆっくりと、尾崎のほうを向いた。初めて、真正面から尾崎を見る。そのまなざしに、これまでのような曖昧さはなかった。人の感情を読み取る者としての視線でもなく、占い師としての距離感でもなかった。まっすぐに、ただ目の前にいる人間として、尾崎の目を見つめていた。その目に、ひとつ、光が宿っていた。表情は変わらず穏やかだったが、睫毛の奥に湛えた光が、ごく微かに揺れた。感情が滲みそうになる瞬間の、ぎりぎりの境目。その内側に踏みとどまりながら、それでも逃げようとしないまなざしだった。尾崎の指先は、まだ佐野の手に触れたままだった。重ねたわけではない。けれど、その接触は佐
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-18
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沈黙の涙

佐野はひとつだけ、瞬きをした。ゆっくりと、まぶたを閉じて、再び開けるまでに少しだけ時間がかかった。それはまるで、何かを胸の内で呑み込み、言葉に変わる寸前で諦めた人の動作のようだった。そのまま、もう一度まばたきが落ちる。今度は睫毛の先に、かすかな光の粒が浮かんでいた。光でも、雨でもない。尾崎は息を詰めたまま、それが静かに零れ落ちるのを見ていた。ひと粒の涙が、佐野の睫毛の端から滑り落ち、頬をゆっくりと伝っていく。彼自身は、それに気づいたのか、それとも見て見ぬふりをしているのか、どちらとも言えない表情を浮かべていた。手を上げることはなく、拭おうともせず、ただそのままに流させていた。口元には、まだかすかな笑みがあった。穏やかで、ほんの少し形の崩れた笑み。だがそれが、むしろ尾崎にはひどく切なく映った。何も言わないその微笑が、言葉以上に痛みを伝えていた。許しを乞うわけでも、何かを訴えるわけでもない。ただ、誰にも見せないようにしようとする穏やかな表情のまま、彼は涙を流していた。尾崎は、その横顔から目を逸らせなかった。泣くことができる人は、強いと思った。誰にも見せずに泣く人は、なおさらだと。けれど、いま佐野が見せているのは、隠そうとして隠しきれなかった涙だった。静かに、佐野の肩がほんのわずかに上下する。声はない。ただ、呼吸のひとつひとつが長くなっていた。身体の奥で感情を押しとどめるような、その律した呼吸に、尾崎の胸がきゅうと締めつけられる。頬を伝った涙が、あごの先まで滑り落ちた。それでも、佐野は拭わなかった。まるでそれが自分にとって不要なもののように、あるいは、許されたもののように。尾崎は、手を伸ばすべきかどうか、一瞬だけ迷った。けれど、何もせずにそばにいるという選択を、今は選びたいと思った。それが、佐野にとっての救いになるかどうかは分からない。だが、少なくとも“見る”ことはできる。これまで誰にも見せなかったであろう涙を、今ここで受け止めることだけはできる。「泣いていいんですよ」そう言いかけて、尾崎は言葉を飲んだ。声に出してしまったら、何かが壊れてしまう気がした。だから代わりに、そっと呼吸を整えた。沈黙のまま、目を閉じ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-19
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触れられた沈黙

尾崎は、佐野の頬を伝う涙の跡を、目でなぞるように見つめたまま、何も言わなかった。言葉はいくつか喉元まで上がってきていたが、どれもこの沈黙に勝るものではないと直感していた。自分がなにかを言えば、それはきっと佐野を慰めようとしてしまうだろう。あるいは、彼の苦しみに理由を与えようとしてしまう。だが、いま必要なのはそれではなかった。誰かの悲しみに、意味を与えることよりも、意味のないまま傍にいること。その選択を、尾崎は初めて自分の意思で選んでいた。部屋の灯りは変わらず柔らかく、蝋のように静かな光を放っていた。雨音が障子の外から、まるで遠い拍動のように響いてくる。ひとつ、またひとつと落ちるその音が、空間の静けさをさらに深めていた。佐野は、肩を少しだけ落としていた。重さを背負ったわけではなく、少し力が抜けただけのように見えた。涙を拭ってからというもの、彼は一言も発さず、視線はどこか遠くの空間に投げられたままだった。その横顔を見つめていた尾崎は、ゆっくりと体を傾けた。決して大きな動きではなかった。けれど、それは彼の中で確かな決意に似ていた。そっと、佐野の肩に額を寄せた。硬くも柔らかくもない、ちょうどいい温度の布越しに、相手の存在が伝わってくる。頭を置く角度をほんの少し調整してから、尾崎はそこで静止した。抱きしめることはしなかった。腕もまわさず、言葉も添えなかった。ただ、額を預けるという選択。それだけで、充分だと感じていた。佐野は動かなかった。驚く気配も、緊張する様子もなかった。ただ、呼吸のリズムが、ほんの少しだけ深くなった。それは尾崎にも伝わった。額のすぐ下、布越しの肩のあたりから、静かに上下する呼吸の振動が伝わってきた。しばらくして、ふたりの呼吸はぴたりと揃いはじめた。誰が合わせたというわけでもなく、自然と、呼吸の間隔が同じになっていく。尾崎は目を閉じていた。その内側で、何かがすこしずつほどけていくような、そんな感覚があった。過去に人を信じられなかったこと。愛されることを拒んでいたこと。選ばれるだけで、選ぶということをしてこなかった日々。そんなすべての記憶が、佐野の横にいるというこの時間に、静かに染み出していく気がした。佐野の呼吸も
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-20
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階(きざはし)の手前、ふたりの距離

板張りの廊下が、しんとした雨の音を吸い込んでいた。天井の低いその空間には、外からの光も届かず、障子の向こうでしとしとと降る雨がただその存在を知らせていた。奥の間の静けさを背に、尾崎と佐野は並んで座っていた。肩は触れ合わず、指先も遠い。けれど、空気の温度だけは確かに、ふたりを繋げていた。尾崎のシャツの袖は、まだ雨に濡れたままだった。無意識のうちにその布を握りしめていることに、彼自身気づいていないようだった。ぎゅっと握るでもなく、ただ何かにすがるような手の形。水気を含んだ白い布地の中で、尾崎の指先はわずかに震えていた。佐野は、ふと視線を向けた。横目に映ったのは、尾崎の黒髪から滴る一筋の雫だった。濡れた前髪の隙間から覗く額の肌が、微かに明るく、白く浮かび上がっている。見慣れた顔だったはずなのに、その輪郭が今夜だけはどこか頼りなく見えた。ふたりのあいだに言葉はなかった。語るにはまだ、踏み出しすぎていた。触れるにはまだ、躊躇があった。けれど、何も言わない時間の中で、ふたりは確かに同じ雨音を聞いていた。静かで、長く、どこか切ない間。その沈黙が崩れたのは、佐野がふと、思い出したように口を開いたときだった。「場所、変えよか」声は低く、かすかに湿気を含んでいた。それは提案にも、誘いにも聞こえた。けれどその語尾の柔らかさには、どこか逃げ場を作るようなやさしさがあった。この場に留まっていてもいいし、離れてもいい。その余白を残した一言。佐野らしい、強制のない誘導だった。尾崎は、その言葉を聞いた瞬間に一度だけ瞬きをした。視線が佐野の横顔を捉え、そしてすぐに伏せられる。目元が、ほんのわずかに揺れていた。長く伏せた睫毛の影が頬に落ち、濡れた髪の奥に隠された表情は読み取りづらい。けれど、握っていたシャツの袖の力がすっと緩んだ。「うん」その答えは、小さく、けれど確かにそこにあった。語尾は震えていない。ただ、静かに響いた。尾崎は立ち上がるわけでもなく、まだその場に座ったまま、言葉だけを先に差し出した。佐野はそれを受け止めるように、ゆっくりと顔を向けた。表情には微笑も、驚きもない。ただ、受容の気配だけがあった。何かを変えるわけでも、無理に進めるわけでもない
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-21
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