All Chapters of 幸福配達人は二度目の鐘を鳴らす: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

しかしながら今日僕が離婚もせずに会社を維持できているのはみんな重光のおかげだ。営業も重光がほとんど一人でこなし、僕はあくまでその他雑務をこなした形だけの社長に過ぎない。「社長、やっぱ社長のシャツがしわだらけっていうのはどうかと思いますよ。その、会社のイメージにも関わりますから」「あ、ああ、すまない。気を付けるよ。どうも……アイロンってやつはニガテでなあ」妻がいなくなって一か月。私生活において大きな変化はない。食事は外で済ませるし、帰って寝るだけの生活では掃除もほとんど必要ない。強いて言うなら洗濯が厄介だ。ボタンを押せば廻ると思っていたはずのドラム式洗濯機。妻が欲しいと言って買ったものの、買って三日後にはサイズが大きすぎると不平をこぼしていた洗濯機は男のひとり暮らしではいよいよもって邪魔過ぎる。このサイズを有効活用しようというのならばおそらく一週間分の洗濯ものをためてもまだ足りないくらいだろうが、あいにく僕はそれほどの衣服の替えは持ってはいない。「まあ、無理もないっすよね。社長、いっそのこと新しい奥さんでも貰ったらどうですか」「いや、別に僕は離婚したわけじゃないから」「いや、離婚なんてしなくても関係ないですよ。家事とかやってくれる新しい奥さん迎えればいいだけじゃないですか。それにその人と子供つくれば税金対策にもなりますよ。そのくらいやる稼ぎは社長なんだからあるでしょう」「重婚……か。そういえば重光はもう二人目の奥さんをもらっているだったな」「はい。でもまだ子供は生まれてないんでどっちも税金対策にはなってないっすけどね」「どうも……な。僕らの歳じゃあその……重婚っていうのに馴染みがないというか、そもそもそういう考え方がないんだよな。重光は奥さんが二人もいてしかも三人で同居しているんだったよな…… その、揉めたりなんかしないのか? それこそ嫉妬とか大変そうな気がするんだが……」「いやあ、うちは特別な方だと思いますよ。そもそも嫁二人がすごく仲がいいんで…… もしかしたら俺がいなくても別にいいんじゃないですかね。でも、まあ、うちは特例だとして社長は新しい奥さん見つけて家に住まわせてもいいんじゃないですかね。だって奥さん自分から出て行ったわけですし…… 文句言えないでしょ」「おい、そこまで言うなよ」「……あ。そうっすね。すいません」「なあ、重光。お前のところの家事は誰がやって
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第32話

 家族のいない五月の連休に一人で家に居たくはなかった。妻と子供のいる田舎に行こうかとも思ったが、妻は「新生活に慣れていなくて色々と忙しから」と、はっきりしない理由で僕がいくのを拒んだ。気を紛らわせるために連休中はずっと無理矢理に仕事を入れて会社のオフィスに閉じこもっていた。最終日にだけ休暇を取り、その日は朝から少し汗ばむくらいの五月晴れだった。朝からゆっくりと洗濯でもしようとしたところで洗濯機が壊れた。 もしかすると壊れてなどいないのかもしれないけれど、とにかくいろんなランプが点滅していて動かなくなった。取扱説明書は家のどこかにあるのだろうがまるで分らない。そんなことで妻に電話をかけて聞くとなるときっと随分バカにされるのだろう。以前ならあえて時々はそうやってバカにされるよう心掛けて、妻の自信を保つようにしていたのだが、今となってはバカにされるのはただただ腹だたしい。メーカーに電話をしても修理に来られるのは数日後だという。仕方ないので洗濯物をまとめて近所のコインランドリーに持って行くことにした。コインランドリーなら使い方がよくわかる。 連休中とはいえ、その日は平日の午前、コインランドリーの中には僕しかいなかった。一人ぼっちの公共の空間でひとり、にぎやかに廻り続ける機械を眺めている。そういえば妻はよくこうやってまわるドラムの中をただひたすらずっと見つめていることがよくあった。「こうして見てないと時々サボってたりするんじゃないかと」という妻の言葉は好きだった。今となっては疲れ果てた中年の姿が写る機械のアクリルカバーに泣きたくなってくる。 僕は持ってきた文庫本を開き、読書を始めた。随分昔に買った本だ。久しぶりの休暇で続きを読もうかと思ったが、どこまで読んだのかさえ思い出せず、仕方なく初めから読むことにした。そこでどのくらい読んでいたのは定かではないが、とにかくコインランドリーに新たな客が入ってくるのを察知した僕は本を閉じて脇に置いた。 コインランドリーの入り口には小柄な女性が大きな布団を抱えて自動ドアの向こう側に立っている。布団が大きすぎて顔はまるで見えない。まるで布団に足が生えて歩いているみたいだ。 どうやら正面に抱えた布団がつっかえてうまく自動ドアが開かないらしい。僕は急いで立ち上がり、内側からセンサーを作動させてドアを開き、「だいじょうぶですか? 持ちますよ」 と
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第33話

「あれ。もしかして折田君なの?」 「あ…… ああ」  もし、こんなことが偶然に起きたのならばもう少し気の利いた言葉をかけられるだろうとシュミレーションをしたことは過去にあったような気もするが、いざ起きるとどうにもうまく言葉など出せなかった。  二十年ぶり…… いや、もっとだな。年のせいもあって少し太りもしただろうか、しわもずいぶん増えたようだが、そのしわのつき方は当時の彼女の笑顔を思い出させるに十分だ。相変わらず笑うと吊り上った眼が狐のお面のように線になる。僕は学生時代、彼女に恋していた。 「変わらないね、中野さん」 「あら、そんなことないわ。随分変わったはずよ。わたしも、あなたも…… それにもう中野じゃないしね」 「ああ、そ、そりゃあそうだね」 「今は菅野よ。菅野誓子。だから昔みたいにせっちゃんでいいわ」 布団を丸ごと洗濯機に押し込み、スイッチを押したせっちゃんは僕と並んでベンチに腰かけた。少しふれた指先が二十年以上の時間を巻き戻す。僕の目の前で回る洗濯物を眺めながら彼女は優しく語りかけてきた。 「折田君はこんなところで何してるの」 「せ、洗濯機が…… 壊れたんだ……」 「せんたくきが壊れた……」そこでいったん黙って、「うん」と一呼吸。つづけた言葉は、 「つまりそれは優柔不断な折田君を表すメタファー? 選ぶ『選択』と洗う『洗濯』をかけて」 「な、なんだよ」 「昔の折田君ならきっとそんなことを言ってたのかなって……」 「昔の僕はそんなにひどかった?」 「そんなだったけど、ヒドイとは思ったことはないよ。キライじゃなかった」 「嫌いじゃなかったか…… 僕は好きだったよ。せっちゃんのこと」 「……うん、しってる」 不思議なものだ。二十年前、どうしても言えなかった言葉が今なら何のためらいもなく言える。器用に年を取ったのか…… それとも単にすさんでしまったのか……  高校時代、友達の彼女のその友達として出会った彼女のことを、最初は生意気なやつだと思っていた。ある夜ふざけた勢いでキスをして、それから落ちて行くように彼女に恋をした。  でもその時、彼女にはすでに恋人がいた。そのまま封印すればよかったのだが、せっちゃんが恋人とのことで悩んでいて、僕は相談に乗っていた。 「……ああ、あたし、折田君ともっと早くに出会いたかったな」  そ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第34話

「折田君、柔軟剤使わないの?」ふいに掛けられた言葉に戸惑った。一瞬言葉の意味も解らなかった。「あ、ああ。柔軟剤ね。実は使ったことがないんだ……」「え? ないの?」「じ、実は息子がアトピーがあってね…… それで家に柔軟剤は置いていない……」「へえー、子供、いるんだ」「そ、そりゃあね。一応二人。せっちゃんは?」「うちは娘がひとり。でも、結婚してる折田君が何で今日はひとり分の洗濯?」「い、いや……実は少し前に妻が出て行ったんだ。それで今はひとり暮らし……」「ふーん。やっぱいろいろと苦労してるんだ」「やっぱ?」「そりゃあ、あたしだってそれなりには苦労してるよ。世の中って……折田君みたいに優しくなんてないから」「僕みたいに優しい? それは、喜んでいいのかな……」「難しく考えなくってもいいわよ。……ねえ、もうひとりなんだったら柔軟剤使ってみたら? もう、気にする必要ないんでしょ。これ、あたしの使ってくれたらいいよ」 僕はせっちゃんに借りた柔軟剤を借りて機械をまわし続けた。僕はせっちゃんの洗濯が完了するまで待ち、布団を彼女の車まで運んだ。「あー、もうほんとおねしょだけは勘弁」 彼女の口から出るそんな言葉が嫌に生活じみていて少し嫌になった。「ねえ、ところで折田君。今、何やってんの?」 言われて、あわてて名刺を取り出して渡した。休日なのに名刺を持ち歩いている自分が情けない。仕事とプライベートを分けられないと妻に言われ続けてきたことを思い出す。「あ、この会社あたし知ってるよ。へえ、社長なんだ。すごいね」「別にすごくなんかないよ。借金まみれなだけだ」なんて言いながら少し気取っていたかもしれない。「それでもすごいよ。あたし、結婚相手間違えちゃったかな。あはははは」 僕の方は笑えない。きっと僕は結婚相手を間違えたのだろう。  家に帰ってから、しまったと感じた。せめてせっちゃんの連絡先くらい聞いておけばよかった。洗い立てのポロシャツに袖を通すと、いつも着ている服と同じはずなのに、全く別の香りがした。その香りを僕は柔軟剤ではなく、せっちゃんの香りだと思いたい。それから毎日、コインランドリーの前を通る度、中を覗いてしまう。だけどあいにく彼女の娘はそうそうおねしょはしないらしい。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第35話

数日が立ち、突然の再会に胸が高鳴ったことも忘れはじめた梅雨入りの頃。会社で事務仕事をしているとき、受付から内線で、「社長。奥さんがいらしてますよ」と言った。いったい何事だろうと思い、受付まで出て行った。「あは。奥さんだって」 はにかんで見せるせっちゃんの姿に受け付けは「あ、ち、違ったんですか。も、申し訳ありませんでした」と平謝りをしていた。「やあ、どうしたの?」「へへ、実は今日は商談にやってきました」「商談?」「あ、この間会った時に言うの忘れていたんだけどね、あたし今、ケーキ屋さんを経営しているんだよ。ちょっとしたレストランも併用したやつ」「あ、それじゃあ……」昔話を思い出す。学生時代に彼女と語り合った将来の夢。「夢をかなえたんだね」「うーん。いちおう……ね。あの頃想像していたものとはずいぶん違うけれど」「それでもすごいよ。夢をずっと追い続けていたなんて…… 僕は…… 駄目だな。今じゃあ書くどころかもうほとんど読むことすらしなくなった」「でも、まあ、いいじゃない。こうして立派な社長さんになったんだし…… あ、いけない。社長さんを足止めなんかして……」 せっちゃんは申し訳なさそうに言って、それから社の取引業者の申込書に必要事項を書き込んで早々に立ち去った。 僕としてはもう少し話をしていたかったのだが、彼女にしても忙しいらしかったので引き止めることはできなかった。「へえ、瀬戸口が奥さんと見間違えるのも無理ないっすよね」デスクに戻るなり専務の重光がそう声を掛けてきた。ちなみに瀬戸口と言うのは受付の女子社員のことだ。「さっきの人、もしかして社長の昔の恋人とかですか? マジ、奥さんに似てますよねえ」「おい」「あ、すいません。また俺、余計なコト言いました」 ――とはいうものの、重光の言うことはわからなくもない。現に受付の瀬戸口は僕の妻に二、三度くらいはあったことがある。その時におぼろげな印象だけではせっちゃんを妻だと勘違いしたこともわからなくもない。たしかに僕の妻と似ていると言えば似ている。しかしそれは単に偶然のことだ。決してせっちゃんに似ていた妻を彼女の代替えとして好きになったわけではない。それでもおそらく根本的に好みの顔だったということなのだろう…… と、思ってはいる。 そのこと自体、妻は認識していたのかどうかはわからない。せっちゃんの写真を僕の若いころのアルバムから
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第36話

  数日後に仕事を早めに切り上げた僕は帰宅途中に寄り道をしてとあるケーキ屋に立ちよった。『リリス』という名のヘビとりんごとがデザインされた看板は自宅近くの人気の少ない路地裏で発見した。それはちいさなちいさなケーキ屋だった。店自体は白を基調とした店内で清潔に保たれてはいるが、建物自体は老朽化した木造二階建ての古い住宅で、その一階を店舗として無理やり改造しているような印象を受ける。 店内に入るとすぐ正面にケーキの並べられた冷蔵ショーケースがある。時間も時間と言うことで、半分以上の商品が売り切れになっている。右側の壁にはクッキーやマドレーヌと言った焼き菓子が個包装されて陳列されている。 少しいて奥の方から「はーい」と言う声が聞こえてきて、せわしなさげな女性店主が駆け出してくる。ベージュのシャツに黒の鳥打帽をかぶり、同じく黒のソムリエエプロンをつけた旧友は数日前にあった私服姿よりいくぶん若く見えた。他に店員はいないようだ。おそらく一人で切り盛りしているのだろう。「あら、折田君」「やあ。ここ、食事が…… できるのかな」「もちろん、どうぞ、奥へ」 ケーキの冷蔵ショーケースの脇から奥に通されるとこじんまりとした空間にテーブル席が二つとカウンター席が六、七人分くらいが並んでいる。カウンター席のすぐ向かいがキッチンになっており、その奥に別の部屋があるのがわかる。おそらくケーキの作業場だろう。あるいはプライベートルームかもしれない。建物が二階建てだったことを思い出す。 お客さんは誰もいなかった。カウンター席の隅の席に座り、持ってきた小箱を差し出す。「とりあえず、これ」「あら、なにかしら?」「いや、うちのサンプル商品だよ。人工バニラペースト」「ああ、そうだったわね」「今日はこれを持ってくるのが目的」「そう…… でも、次回からはあたしが目的でもいいのよ」「あ、ああ…… そうだね」「ふふふ、かわいい。折田君は相変わらずなのね。……ビールでいい?」「あ、ああ」 料理はメニューを開いて悩むのも無粋かと思い、彼女のお任せにした。店内はどことなく生活感もにじみ出ていて、勝手にどこか家庭料理的な印象を持ってしまっていたが、出された料理は随分と本格的なフランス料理だった。メイン料理の若鶏のフリカッセにはビールではなく白ワインの方が相性がいい。一杯しか飲むつもりはなかったが、どうしてもワインが飲みたく
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第37話

「ねえ、このバニラペーストって……」僕の持ってきた小箱からサンプル用の小さな小瓶を取り出し、天井のダウンライトに透かしながら意地悪そうに笑う。「牛の糞から抽出したものなんでしょ」「よく知ってるね……」「それってあんまりな言い方だわ。ちゃんと会社のパンフレットには書かれているわ。それにむかしイグノーベル賞の話を折田君にしたのはあたしだよ」「そ、そうだったっけ……」「そうよ。それにしても思い切ったね。まさか牛の糞からつくったものをケーキの香料の代用品にするなんて……」「時代の問題さ。僕たちは別に隠しているわけじゃないけれど…… そしてそれを使っている洋菓子店も別に隠しているつもりじゃあないのだろうけれど、最終的のそれを手にする消費者はあんまり知らないのだろう」「まあ、知らなければそれで幸せなことをわざわざ教えなくてはならない法はないわ。世界一高級なコーヒー豆のコピ・ルアクもジャコウネコの糞から採集する豆を使っているし、マッシュルームにしたって牛の堆肥の上に植えた菌を繁殖させて育てるのよ。知らなければ幸せなことはたくさんあるわ」「違いない……」「それにしても、折田君は相変わらず代用品を扱うのが得意なのね」「代用品?」「そうでしょ。……あの時だって、彼女をあたしの代用品にしたんでしょ」「そ、そんな……」 ――彼女の代用品。そう言われてまっさきに思い立ったのは高校の時の恋人ではなく、妻のほうだった。まさかせっちゃんが僕の妻のことなど知っているはずもない。せっちゃんの言う彼女とは学生時代の恋人のことを指すのだろうが、まっさきに妻のことを思い出してしまったのは、やはり自分の中にそういう想いがあったからなのかもしれない。「ねえ、そういえばあの時…… 今みたいな重婚制度があったなら、あたし、折田君とも付き合ってたと思う」「……」「どう思う?」「どう…… 思うと言われても……」――正直な話。僕はその言葉をうれしいとは思えなかった。当時の彼女と僕の決定的な齟齬だ。せっちゃんは当時に重婚制度があったなら付き合っていたと言ったが、僕としては重婚制度がなかったとしても付き合いたかったのだ。僕にとって彼女は一番で、彼女にとって僕は一番ではなかったということだ。むしろ改めて今一度フラれたようなものだ。二の句が継げずにまごついてしまう僕にせっちゃんはさらに迫る。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第38話

「ねえ、このバニラペーストって……」僕の持ってきた小箱からサンプル用の小さな小瓶を取り出し、天井のダウンライトに透かしながら意地悪そうに笑う。「牛の糞から抽出したものなんでしょ」「よく知ってるね……」「それってあんまりな言い方だわ。ちゃんと会社のパンフレットには書かれているわ。それにむかしイグノーベル賞の話を折田君にしたのはあたしだよ」「そ、そうだったっけ……」「そうよ。それにしても思い切ったね。まさか牛の糞からつくったものをケーキの香料の代用品にするなんて……」「時代の問題さ。僕たちは別に隠しているわけじゃないけれど…… そしてそれを使っている洋菓子店も別に隠しているつもりじゃあないのだろうけれど、最終的のそれを手にする消費者はあんまり知らないのだろう」「まあ、知らなければそれで幸せなことをわざわざ教えなくてはならない法はないわ。世界一高級なコーヒー豆のコピ・ルアクもジャコウネコの糞から採集する豆を使っているし、マッシュルームにしたって牛の堆肥の上に植えた菌を繁殖させて育てるのよ。知らなければ幸せなことはたくさんあるわ」「違いない……」「それにしても、折田君は相変わらず代用品を扱うのが得意なのね」「代用品?」「そうでしょ。……あの時だって、彼女をあたしの代用品にしたんでしょ」「そ、そんな……」 ――彼女の代用品。そう言われてまっさきに思い立ったのは高校の時の恋人ではなく、妻のほうだった。まさかせっちゃんが僕の妻のことなど知っているはずもない。せっちゃんの言う彼女とは学生時代の恋人のことを指すのだろうが、まっさきに妻のことを思い出してしまったのは、やはり自分の中にそういう想いがあったからなのかもしれない。「ねえ、そういえばあの時…… 今みたいな重婚制度があったなら、あたし、折田君とも付き合ってたと思う」「……」「どう思う?」「どう…… 思うと言われても……」――正直な話。僕はその言葉をうれしいとは思えなかった。当時の彼女と僕の決定的な齟齬だ。せっちゃんは当時に重婚制度があったなら付き合っていたと言ったが、僕としては重婚制度がなかったとしても付き合いたかったのだ。僕にとって彼女は一番で、彼女にとって僕は一番ではなかったということだ。むしろ改めて今一度フラれたようなものだ。二の句が継げずにまごついてしまう僕にせっちゃんはさらに迫る。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第39話

「あたしが言いたいのはね…… あの時は重婚制度がなかったから仕方がなかったのだけど、今はある。と言うことなのよ」「そ、それはつまり……」「もう、皆まで言わせるつもり? そのくらい察してよ。そんなだから小説家になんてなれなかったのよ」「そ、それはもう言わないでくれ……」「あ、ああ、ごめん」「そ、そういえばせっちゃん、旦那さんは? あまり一緒に住んでいる……って様子は感じないんだけど……」「お察しの通りよ。何年前だったかな…… ある日突然出て行っちゃったわ。今はどこで何してるのかなんて知らない。まあ、制度のおかげで毎月いくらかの振込、いわゆる給料の三割が振り込まれているから、どこかで生きているには違いないのだけれど、額はまちまちだし、時々数か月振り込みが無かったりするの。要するに未だに安定した仕事はしていないってことね。へんな話だけど、あの振り込み明細だけがあたしと旦那とのつながりみたいなもの。ほんとはね…… そのつながりだって切りたいのよ。子供を置き去りにしてある日突然出て行ったくせにお金だけが振り込まれ続ければ、なんだかそれだけであの人が責任を果たしているみたいでいやなの。わずかばかりのはした金で子供の面倒なんて見きれるものじゃないんだし」「育児給付金、もらわないのか? 言っちゃあ悪いが、こんな小さなケーキ屋を切り盛りするよりもおとなしく育児休業してますって申請した方が収入が安定するんじゃないのか」「いやなのよ」「いや?」「そう、いや。なんだか自分で生んでおいて国や逃げた旦那に面倒見てもらってるっていうのが。あたしは自分の子供くらい自分の手で稼いだお金で育てたいなって……」「つよいな……」「つよくはないわ。意固地なだけ。たぶんどこかで逃げた旦那を見返してやりたいと思ってるのよ」「捜さないの?」「捜してどうなるの? そりゃあ以前は捜そうと思ったことはあったわ。どこで何してるかわからなくても配偶者がいることには変わりないんですもの、離婚したくてもできないのよ。だから見つけ出して離婚届に判を押させて…… それでもう一度人生をやり直す。でもね…… そんな必要なくなっちゃった。重婚制度があればあたしにだってもう一度結婚するチャンスがあるのよね。それは一度目の結婚に失敗してそのまま諦めて残りの人生過ごすよりもずっと希望が持てるんですもの……」「……」「あたしが言ってる意味、解
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第40話

 僕はそれ以来、彼女の店に足しげく通った。元々毎日外食していたのだ。特別なことではないのだが、それでも妻の手料理でさえほとんど食べることがなかったのに、今こうして毎日同じところで同じ人の手料理を食べ続けるということはそれだけでどこか夫婦以上の関係を感じてしまう。それに彼女の作る料理は美味かった。 重光は「最近社長は付き合いが悪い。きっと新妻のせいっすね」と茶化す。「最近社長。いい匂いがしますね。色気づいちゃったんですか?」とも。「子供がいなくなったから遠慮なく柔軟剤を使うようになっただけだ」と言う僕のことばに耳も貸さずにニヤニヤしている。 彼女の経営する店、『リリス』に通うようになってしばらく。彼女があの店の二階に娘と二人で住んでいることを理解していたが、娘と会ったことはなかった。 その日。店に僕以外の客がいなくなった頃。「ねえ、娘を呼んできていい?」 と言い出した。もちろん今更断る理由なんてない。せっちゃんは裏口に向かって大きな声で「芹香――」と呼び、芹香と呼ばれた娘が奥の間からそろそろと出てきた。 見れば身長は150くらいはあるだろうか、僕の上の子が十二歳だが、それよりも少し大きいくらいだ。こうしてならべてみると小柄なせっちゃんとあまり変わらない。黒くて長い髪の毛はしなやかで若々しい。前髪は横に真一文字に切りそろえられており、同じく固く閉じられた薄い唇と平行線を描いている。表情こそは硬いがそこに見える面影は僕が知っているせっちゃんの姿を見ることができる。こう言ってはなんだが、おそらくアラフォーになってしまった今のせっちゃんよりも、僕が以前恋した記憶の中のせっちゃんには娘の方が近い。思わず見とれてしまう僕の視線を迷惑そうに退け、僕とあいだ三つの椅子を挟んだカウンター席に座る。その少し迷惑そうな視線さえも僕は昔何度か体験したことがあっただろう。「え、こ、こんなに大きかったの?」「あ…… 言わなかったっけ?」「い、いや、ほら。コインランドリーで会った時、娘がおねしょしてとか言ってたもんでつい、」「あ、ああ。なるほど」 僕は不注意だった。年頃の女の子を目の前にそんな発言はするべきではなかった。「ちょ、ちょっとママ、なんてことバラシてんのよ!」 少しむくれた様子でカウンターに両肘を立て、そっぽを向いて頬杖をついた。「芹香……ちゃん? 何歳なの?」「十二歳。小6」 芹香
last updateLast Updated : 2025-07-09
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