All Chapters of 幸福配達人は二度目の鐘を鳴らす: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

 休日の前夜。仕事も早く終わり久しぶりに重光と食事に出かけることにした。「めずらしいっすね。今日はいいんすか?」 重光はネクタイを緩め、手を拭いた後のおしぼりで顔まで拭きながら皮肉交じりで言う。「たまには男同士でビールと枝豆というのが恋しくなるんだよ。お前だってそうだろ。いつも二人の奥さんと食事よりはこうして男同士というのがいいと思うことがあるんだろう? だから今日もこうして付き合ってる」「違いないですね」「それに……」「それに?」「明日は二人と出かける予定だしな」「マジっすか? なんかもう本当の家族みたいっすね。どうするんですか? 本気で結婚するつもりなんですか?」「うん…… どうなんだろうな……」「どうしたんすか?」「どうもな…… 罪悪感があるんだよ。ほら、僕はあくまでも既婚者で、彼女も既婚者だ。これは不倫なんだろうか……」「はあ? なに言ってんすか。もう不倫なんて死語っすよ。今の世の中じゃあ不倫なんてめったに成立しないですよ。 いいですか。倫理に反するから不倫であって、今は結婚しててもさらに結婚できるんです。だから法律的に見ても倫理に反してるとは言えませんよ。そりゃあどっちかがすでに二人と結婚しているんならそれもあるんでしょうけど」「僕の時代にはそういう考えがなかったからなあ、どうも……」「古いっすよ。それにそもそもオスという生き物は同時に複数の相手を愛することができる生き物なんですよ。そりゃあメスっていうのは哺乳類の場合、妊娠中は他の精子は拒むわけで、だからこそ相手を独占しようとする本能が起こりますよ。でも、オスっていうのは同時にいくつもの相手に精子を撒くことができる。つまりこれこそがオスが同時に複数の相手を愛することができるという理論です。だから生物としての本懐からすれば妻と夫が一人対一人と言う関係性はオスからすればその方が倫理に反する行為なんですよ」「ま、まあ、それはそうなんだが……」「それに、モルモン教やイスラム教では一夫多妻は当然ですよ。強いオスが多くの相手と交わり多くの子孫を残すのは生物の生存競争の上で必要なことです。猿やオオカミの群れだってそうです」「君は…… 女の敵だな」「そうっすか? でも、法律はオレの味方っすよ」「ふう……。でも、僕は人間だよ…… 猿やオオカミの例を持ち出されても…… それにイスラムなんかでは男が戦争で死ぬことが多く、どう
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第42話

 翌日、準備を整えた僕がリリスに到着し、『close』の看板のかかっているドアを開け、店内に入ると、カウンター席にはいつもよりも丁寧に髪を梳かした、白いワンピースの芹菜が少しむっとした表情で座っている。一方、カウンターの内側では仕事用のコック服を身にまとったせっちゃんの姿が…… せっちゃんは僕の姿を見るなり、申し訳なさそうに「ごめんなさい」と言った。 急な予約で、どうしても断れない上得意からの注文が入ったそうだ。「美術館、楽しみにしていたのに……」 とふてくされる娘をなだめていたせっちゃんは終いに、「じゃあ、芹香、今日は折田さんと二人で行って来たら?」と言い出した。「迷惑じゃないかしら?」僕の方を向いて質問する、というよりは同意を求めてせかしているような目つきだ。「め、迷惑じゃないけれど……」 僕はそう言いながら芹香ちゃんの方に目をやった。彼女はわざと目を反らし、「じゃあ、わかった。そうする……」  結果、その日は二人で出かけることになってしまった。 芹香ちゃんは行の車の助手席で伏し目がちにぽそりと言った。「ねえ、折田さん。今日一日、折田さんのこと〝おとうさん〟って呼んでいいかな」「え……」「だって…… ほら、へんでしょ。アタシが外で〝折田さん〟なんて他人行儀な呼び方してると、周りの人はいけない関係なんだとおもうよ、きっと」「そう、かな……」「そうよ。だから〝おとうさん〟の方がずっと自然。いや?」「嫌じゃないよ」「じゃあ、そうする」 ――正直。こそばゆかった。だが、それ以上におかしかったのは芹香ちゃんが「いけない関係に思われる」と言ったことだった。やはり女の子は男の子なんかよりもずっと早く成長する。まさか同い年の自分の息子がこういう考えを持っているとはとうてい思えない。 美術館に行きたいと言い出したのは娘の芹香ちゃんだった。絵を描くのが趣味で、今、市内の美術館でシャガール展をやっているのを見に行きたいそうだ。小学生にしては渋い趣味だと思った。それでも、どちらかというと僕も子供のころからそういった背伸びをしたものが好きだった。クラッシック音楽を聴いたり、夏目漱石を好んで読んだりしていたのを思い出す。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第43話

「――青いのばっかり」 半分あきれたように芹香ちゃんは呟いた。たしかに青ばっかりだ。展示されている絵の半分近くが青い絵で、さらに青いステンドグラスが美術館を埋め尽くす。 そういえば青春時代に流行した曲の歌詞で〝シャガールみたいな青い夜〟をプレゼントしてくれたという歌詞があった。シャガールの青はゴッホのような暗く、不安と恐怖をあおるような青い夜の色ではない、鮮やかで透明感のある青だ。当時はあんな鮮やかな青色をした夜なんてありえないと思っていたが、今からしてみれば青春時代の淡い恋心を抱いていた夜の風景は、たしかにシャガールのように幻想的で透明感のある青色だったような気がする。たしかあの曲だって過去を振り返って〝シャガールみたいな青い夜〟と表現していたように思う。「シャガールブルーと言って、シャガールの青色は特徴的なんだ。でも、シャガールは青の画家、というよりはどちらかというと愛の画家といったところかな」 青ばかりに見飽きてしまった様子の芹香ちゃんの気分を促すように僕は説明をしてあげた。「ほら、こっちの絵、見たことないかな。僕はこの絵が好きなんだけど」 そこにある絵は『誕生日』というタイトルの絵だ。グリーンベースの背景で花瓶を抱えた女性に男性が口づけをしている。首が長く伸びてぐにゃりと曲がり、ありえない体制でキスをしている。青色はほとんど使われていない。そして色とりどりでいかにも幸せそうな感じがする。「この絵はシャガールとその奥さんのベラを描いた絵なんだ。シャガールはこの奥さんをとても愛していて、奥さんを失った時、悲しくて絵筆を半年も握れなくなったそうだ」「ふーん、そうなんだ」 その冷たい反応は決して彼女が興味を持っていないというわけではない。聞いた言葉をかみしめて、何かを考える時、彼女は時々こうして冷たい反応をとるということくらいは短い付き合いだが、だんだんと理解できるようになってきた。「それで…… それでシャガールはその後、どうしてまた絵が描けるようにまでなったの?」「あ、ああ、それはシャガールには新しい恋人ができたんだよ」「ベラという奥さんをそんなに愛していたのに? 半年で?」「あ、ああ。そしてその恋人との間に子供もできているし、その後もまた別の女性と結婚している。……でも、シャガールはいつまでたっても最初の奥さんのベラのことは忘れることができなかったのかもしれ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第44話

 美術館を出ると、すでに日は高く昇っていた。真上からさんさんと輝く太陽がうなじを焼く。美術館の中のエアコンが効き過ぎていたせいもあったかもしれないが、とにかく暑さに耐えきれない。「どこか涼しいところにはいろうか」 幸い、美術館の近くというのは比較的に喫茶店が多い。目と鼻の先の画廊喫茶に入ると、エアコンは効き過ぎるくらいに効いていた。店内には静かなクラシック音楽が響いている。モーツアルトのフィガロの結婚の序曲だ。「アイスコーヒーを二つ」芹香はメニューを開くまでもなく店員に注文をした。「で、よかったよね。おとうさん」「……い、いや、僕はそれでよかったんだが……」 芹香までもアイスコーヒーでいいのかと聞こうかと思ったが、やはりそんな野暮はするべきではないと踏みとどまった。芹香は初め、持ってきたアイスコーヒーにストローを差すと、そのまま口をつけた。一瞬ヒドイ顔をしたが、そのあとたっぷりのミルクとシロップを入れてしばらくかき回していた。 しばらくして芹香は思いつめたように聞いてきた。「ねえ、ママと結婚するの」「まだわからないよ」「芹香は嫌かい?」「ううん、わからない」 芹香はかぶりを振った。「でもね、ママの言ってることは全部が本当じゃないよ」「と、言うと?」「パパはそんなに悪い人じゃなかった…… ママは絶対にそうとは言わないけど……」「うん」「それにね……」「それに?」「今日、ママは急用がが入ったなんて嘘よ。あれはアタシとお父さんとを二人っきりにされるための口実。二人が仲良くなればっていうママの作戦よ」「うん」「それにね……」「それに?」「アタシがシャガール展を観たいっていうのも嘘」「うん。それは気づいてた」「アタシは確かに絵を描くのが好きだけど、それは漫画とか、そういうイラスト。ああいう絵画とかはよくわかんない…… ママが…… ママが、折田さんはああいうのが好きだからって」「うん」「ママは結構うそつきよ。それでもいいの?」「大人の女性はみんなうそつきだよ。まるで呼吸をするように嘘がつける…… だから大人の男性は自分に嘘をつくんだよ。自分を騙して上手に生きていくんだ。あ、むつかしいかな」「ぜんぜんわからない」「わからない方がいいよ。その方がきっとかわいいから」「おとななんて…… はあ、なんだがあついな」 芹香はそう言いながら白いワンピースの胸元をパタパタと開きながら仰いだ。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第45話

   かき氷はほとんど芹香が一人で食べた。ごきげんになって笑った時、舌が真っ赤に染まっているのを僕が笑うと、芹香はまた機嫌を悪くした。他にもいろんなことを話した。今日一日で芹香とはずいぶん距離を近づけることができたかもしれない。たぶんこれはせっちゃんの作戦通りなんだろう。  帰り道の道路は渋滞していた。疲れていたのであろう、芹香は車のシートにぐったりとなって西に傾きかけた太陽をまぶしそうに眺めていた。 「ねえ、おとうさん」今日これで何度目かわからなかったが、やはり呼ばれなれない。「おとうさんは折田唯斗君のおとうさん?」 「え……」一瞬何の事だかわからなかった。芹香に自分の子供の話などしたことがない。芹香は身を乗り出してこちらの様子をうかがっている。「知っているのか?」 「あきれた…… 今まで気づいていなかったの? アタシ、唯斗君と同級生だよ。おんなじ小学校の…… 去年…… 五年生の時は同じクラスだったし…… 送別会もした」 「あ、ああ…… そ、そうか…… ごめん。親のわがままで……」 「なんでおとうさんがあやまるの? 別にぜんぜん悪くないし……」 「うん」 「ねえ…… おとうさんとママが結婚したら唯斗君とアタシは兄妹になる?」 「ああ…… そうだな……」 「じゃあ、兄弟になると結婚できなくなる?」 「いや…… そんなことはない。別に血がつながっているわけじゃあないから…… もしかして唯斗のこと――」 「-―まさか。アタシ唯斗君とは同じクラスだったけどほとんどはなしなんてしたことないし…… それに、あの子なんだか子供っぽくってイヤ」 「ははは。たしかにそうだな。芹香に比べればあいつなんてホントにガキだ」 「ホントガキ……」言いながら芹香は再び車のシートにぐったりともたれかかり、そのまま小さな体はシートベルトの隙間をぬってするりと下の方へ滑り落ちた。 「だいじょうぶか」  少し笑いながら声を掛けたが、返事はなかった。 「おい、芹香」  相変わらず返事がなく、額に手を当てると随分熱い。急いで車を脇に止め、少しゆすると「う、うん……」と小さな唸りを上げる。助手席のシートをばったりと倒しそこに芹香を寝かせ、一番近くの総合病院に運んだ。  救急口の廊下のベンチに座り、しばらくするとせっちゃんがやってきた。 「どう?」 「わからない
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第46話

 数日後。僕は営業のふりをして会社を出た。『リリス』に立ち寄るのはあの日以来初めてだ。あえてこの時間を選んだのは、その時間なら芹香が学校に行っていないだろうからと思ってだ。 店内にお客さんはいなかった。せっちゃんは奥の方へ案内しようとしたが、それはあえて断った。「だいじょうぶ。すぐに終わる話なんだ」「なあに。改まっちゃって……」「やっぱり、僕はせっちゃんと結婚できそうにない。やっぱり僕は芹香の父親代わりなんてできないと思うし…… それにせっちゃんを代替え品として扱いたくはない」「代替え品…… それは要するにあたしが折田君の奥さんの代替え品だということ?」「それはちがうよ…… 僕は……今のせっちゃんをあの頃のせっちゃんの代替え品にしようとしているんだ。あの時、どうしても成就できなかった想いを今のせっちゃんに期待している。でもそれは僕の独りよがりだ。僕はせっちゃんと再会して以来、ずっと今のせっちゃんを見るではなく、今のせっちゃんの奥にいる、過去のせっちゃんの姿ばかりを見ていた。これじゃあどうにも不誠実なんだ。もう、どうしたって手に入らないものを代替え品でごまかそうとしているようにしか思えなくて……」「……そうか。それは残念」「ごめん……」「折田君が謝ることじゃないのよ。……で、これからどうするの」「会社をね…… 会社を若い子に任せようと思っているんだ。僕なんかよりもよっぽど優秀なのがいる」「それで、折田君はどうするつもり?」「田舎に…… 妻の田舎に行こうかと思ってるんだ。芹香の父親の替わりが誰にもできないように、たぶん僕の子供にとっても誰も父親の替わりはできないだろう。……そう思ってね。まあ、妻はそれに対してなんていうかわからないけれど」「きっとそれは迷惑って思うんじゃないかしら」「……たぶんそうなんだろうな」「冗談よ。本気にしないで」「いや、いいんだ。たぶんその通りだと思うから」「折田君は田舎で何をするつもり? まさか専業主夫でもするつもりなの?」「それも悪くないかな。もしかしたら昔の夢をもう一度追いかけてみるかもしれない」「作家に?」「ああ、僕以外、誰にも書けないものがもしかしたらあるかもしれない。それを捜してみるのもいいかもしれない」「意志は固いのね。嫉妬するわ」「ごめん」「折田君が謝ることじゃないわ……」 『リリス』を出て、またぞろ道を歩き出す。もうこの店に
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第47話 前澤家の恥 ~前澤薫のケース~

 新しい時代というやつについてはいけないなと感じた。「新しい時代の、新しい門出に立った三人に、どうか暖かい拍手をお願いします」 ウェディングプランナー十八年の人生で初めての形の結婚式の在り方に、手探りながらようやく一件を落着した時には満身創痍。ふらふらと体とよろめかせながら事務所の椅子にぐったりと寄りかかった。 私の働くこのホテルでも初めてのケースとなったこの結婚式の形に、誰もが戸惑いながら右往左往した。 重婚法が成立してから、二度目の結婚式自体は何度か行われはしたが今回のようなケースは初めてだった。 若くして二度目の結婚。しかもその式に一人目の妻が立ち会い、三人並んでの披露宴にホテルのウェディングスタッフ一同戸惑いが隠せないにもかかわらず、当事者の三人はおろか、参列者までもがケロリとした態度でこの摩訶不思議な結婚式に参列している。しかも、新郎の働く会社で作られたという人工バニラビーンズは牛の糞からつくられたというのだから驚きだ。さすがにそれで作られたというアイスクリームをデザートに出された時は苦渋な顔をするものもいたが、おおよそ誰もがその結婚式を受け入れている様子だった。 あるいはその誰もが「こんなのは間違っている」と思いながらも、時代に取り残されたと思われないように必死で平気なふりを装っているのかもしれない。 重婚法が施行されると知ったはじめは、業界の誰もが手を叩いて喜んだ。 最近ではホテルで立派な結婚式をあげたがるカップルは減る一方で、ホテルウェディングの景気は逼迫する一方だったが、純粋に結婚が二人とできるというのならば、単純計算でも式の数は二倍に増えると踏んでいたにもかかわらず、実際はさらに減る結果となってしまった。 〝人生でたった一度きり〟ではない可能性の高くなった結婚式に、人はそれほどお金を掛けたがらない。さらに二度目の結婚をするカップルのほとんどは老年夫婦が多く、式自体をあげない場合が多いのだ。 そんな折、今回の結婚式のプランが持ち上がった時に、ウェディングマネージャーの佐伯さんは意気込んだ。 他の式場でもあまり例のない、新しい時代の結婚式のスタイルを提案して、その式での成果をホテルウェディングの新しいモデルスタイルとして不況の続くウェディング業界に一石を投じたいと画策した。
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第48話

「ご苦労様」 ぐったりと椅子に寄り掛かった私にねぎらいの言葉がかけられ、額に冷たいものが当たる。 ウェディングマネージャーの佐伯さんから冷たい無糖の缶コーヒーが差し入れされる。「ありがと」 気心の知れた同期の男性社員の気の利いた差し入れに安堵を漏らす。「ごめん。結局ほとんど今回のプロジェクトを任せきりになってしまった」「いいのよ。別に佐伯君は佐伯君でやることがたくさんあるでしょ。マネージャーなんだし」「飾りだけのね」「そんなことないわ。すごく頑張ってる」「まあ、頑張ってはいるけどね。みんなが信頼しているのは前澤さんの方だ」「役得なだけよ。佐伯君はマネージャーなんて役職のせいで憎まれ役を買って出なきゃいけないだけ」「そう……言ってくれる人があるだけ嬉しいよ……」 佐伯さんはニヒルに天井を見つめて笑って見せる。 私の言葉は、本音が半分と、お世辞が半分だということくらい佐伯さんならきっとわかっているだろう。 同期で入社した当初から、佐伯さんよりも私の方が仕事ができた。たぶん、今だって負けてはいないと思うし、周りのスタッフだって私のほうに信頼を寄せている。 大学生時代に夫と出会い、学生結婚をしていた私は生まれたばかりの子供を保育園に預けて仕事をしていた。私の家は由緒正しい家柄なのだと耳が痛くなるほどに母には聞かされていたが、まだ私が幼いころに父を事故で無くし、父の経営していた会社は売りに出された。わずかばかりに残された資産も夫が学生時代に起業した会社が失敗して、その負債を支払うために根こそぎ失うことになった。重婚法どころか出産軽減税率もない当時、生きていくためには私だって働かないわけにはいかなかったのだ。女であることを出世の差の原因だとは思いたくはない。しかし、育児のため残業もあまり出来ず、子供の熱だとかに休みがちになる私に出世の機会が与えられることは少なく、実際同期の佐伯さんは順調にウェディングマネージャーの地位を獲得した。 冷たい缶コーヒーのプルタブを起すと、シンと静まり返った事務所にカシュッという軽快な音が響く。喉の奥を冷たい液体が通り過ぎ、火照った熱を冷ましてくれる。 私にとって、仕事の後に飲む冷たい缶コーヒーほど気の利いたものはない。 果たして夫にこんな気の利いたことができるだろうか。私が冬でも冷たいコーヒーしか飲まないことはおろか、おそらくコーヒーの淹れ方だっ
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第49話

 大学を卒業して一八年間。いつも一番近くで私を支えてくれたのは同期の佐伯さんだった。 夫と学生結婚をしていた私ではあるが、眠っている時間を除けば夫と一緒にいる時間はほとんどなく、四〇年の人生で一番長い時間を一緒に過ごしてきたのはこの佐伯さんということになる。「時代が変わったのかなあ」 背伸びをしながら呟いてみる。ちょっとした愚痴を聞いてもらいたかったからだ。基本、家では私の方が夫の愚痴の聞き役だが、ここではそうではない。「さっきの夫婦のこと?」 佐伯さんはすぐに察してくれた。「これから三人一緒に住むんですって、絶対もめるに決まってるわ」「仲、いいみたいだけど?」「最初だけよ。夫婦なんてみんなそう。仲がいいのなんて最初の数年だけで、あとはただの同居人よ。結婚するときはこの人となら一生幸せになれるってあれほど信じていたはずなのに……」「前澤さんところの話?」「え……、や、やだ。一般論よ」「そうは聞こえなかったけど……。まあ、一般論だな。うちだって似たようなものだし」「佐伯さんのところも? 奥さん、何が不満なのかしら? うちのに比べれば佐伯さんって理想的に感じるんだけどな……」「結婚相手間違ったと思ってる?」「え……」「はは、冗談。よその芝生は青く見えるだけだよ。妻からすれば俺は不満だらけらしい。どこの家庭も一緒さ。これは一般論だよ。子供が生まれてくるといつの間にか妻ではなく子供の母親でしかなくなるんだよ」「そう……よね。私も人のことは言えないわ」「ところでさ、来月の飯島さんと吉岡さんの式、プランあがってる?」「ああ、老年カップルのところね」「そうそれ。今日の重光家と一緒に老年カップルの式も積極的にアピールしていけたらと思ってるんで」「老年カップルか……」「最近は増えてきたね」「重婚法のおかげで最近だいぶ増えてきたみたいだけど、さすがに子供つくるわけにもいかないから税金対策にはならないわね」「税金のために結婚するわけじゃないさ。少なくとも俺たちが結婚した時代はそうではなかった。もちろん、老年カップルの人達にとってもね。 たぶん夫婦は結婚して子供が生まれると男と女の関係性をリセットして、子供の父と母になるんだよ。そして子供が巣立っていった後、もう一度男と女に戻る。その時の相手が同じ相手とは限らないというだけさ」「子供が、巣立ったらかあ……」 それからしばらくの沈黙があり、
last updateLast Updated : 2025-07-09
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第50話 ~木村沙織のケース

郊外ではあるが、立派な庭とそれをぐるりと囲む立派な門戸がある。家屋は日本の伝統的で古風な木造づくりで、ところどころに立派な欄間やら掛軸がある。この家を母親は誇りに思っていて、そのせいか、やたらとしつけには厳しかった。なにかにつけて前澤家の……と言いたがる。あたしたち姉妹はそんな厳しいしつけが嫌だったし、家も小さくても近代風の洋間の家が良かった。 なにかにつけて由緒ある家柄を唱える母はあたしがまだ小さいころから許婚があると言い聞かせてきた。実際は許婚だとかそんなたいそうなものではなく、単に父親同士仲の良かった二人が酒の席で子供同士をいずれ結婚させようと言い出した程度に過ぎないのだと思う。 しかし、そんな父を早くに事故で亡くして以来、まるで母はそんな口約束までをまるで遺言でもあったかのように昇華させてしまった。 二つ年下だというその父の友人の息子と会ったことはない。「大学を卒業したら一度会わせる」という母の言葉に呪縛のようなものを感じていたあたしは大学を卒業するなり逃げるように家を飛び出してふらりと見つけた男と早々に結婚してしまった。 そんなあたしたち夫婦を母は好ましくは思っていなかっただろうし、妹の薫も逃げたあたしのせいで由緒正しい家督を継ぐために養子をもらわなければならなくなり、運よく出会えた「形にはこだわらない」と言ってくれた相手とと早々に結婚を決めたのは、口にこそ出さないもののあたしのせいだと恨んでいるのかもしれない。 夫婦別姓が普通になった今となれば気にする必要なんてなかったかもしれないけれど、あまり立派だとは言い難い妹の夫の愚痴を聞かされるたび、今でも少し胸が痛む。 あたしたち夫婦は妹家族と母の住むこの家には好んで寄り付こうとはしない。息子の琢己と妹の娘の優樹菜ちゃんが同い年ということもあり何かにつけて呼び出されることもあり、渋々ながらに足をはこぶ程度にとどめていたのだが、その日母があたしたち家族をこの呪わしき由緒のある家に呼び出したのはおそらくかわいい孫たちが大学に入学することになったからというわけではなさそうだった。 母の声の裏に、かつてあたしが若いころに感じていたような不穏な空気があることを感じていた。 実家に訪れたあたしたちは、気なれないスーツに身を包んで我が家の唯一の洋間である応接室に通される。普段、住人がほとんど使っていない
last updateLast Updated : 2025-07-09
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