朝の光は、まだやわらかかった。カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが、キッチンの床に斜めの線を描いていた。冷蔵庫の下から伸びたその光の帯が、静かに揺れているのは、窓の外で葉が風に揺れているからだろう。食器の触れ合う微かな音が、ぬるま湯の水音と混ざって、部屋の中に薄く満ちていた。高田は、その音を聞きながら、椅子に腰かけていた。手には何も持たず、朝食の後に出されたマグカップの取っ手にも触れていない。ただ、テーブルの上をぼんやりとなぞるように視線を落とし、その奥にあるひとつの背中を見つめていた。大和は流しに向かい、淡々と食器を洗っていた。慣れた動きでスポンジをすべらせ、泡を流しては布巾でひとつずつ丁寧に拭いている。その背には、特別な何かがあるわけではない。ただ日常の一部として、そこにある。それなのに、高田は目が離せなかった。たぶん、特別である必要なんてないのだと思った。ただ、そこに“誰かがいる”ということ。それだけが、今の自分には充分すぎるほどで。ふと、洗っていた皿を伏せ置きながら、大和が肩越しにこちらを振り返った。「なに?」問いかけは軽く、問い詰めるでも、探るでもない。けれど、その声には、気配を読む柔らかさがあった。高田は少しだけ身を引いて、首を振った。「…見てただけ。別に意味はない」それは嘘ではなかった。意味を持たせようとすれば、きっとどこかが歪んでしまう。ただ、その姿を見ていたかった。言葉にするには少しだけ足りない感情が、胸の奥で揺れているのを、自分でも分かっていた。「そっか。ほな、そんまま見といてええよ。俺、なかなかええ男やし」そう言って笑う大和の声は、冗談めかしていたが、どこか照れくさそうでもあった。振り返るその顔には、朝の光がかすかに射していて、輪郭がほんの少し滲んで見えた。高田はそのまま、大和の瞳を見つめ返すことなく、視線をテーブルへと戻した。手元のマグカップに触れることはせず、ただ指先でテーブルの縁をなぞる。口元が、かすかに緩んだ。笑った、というほどのものではなかった。それでも、何かが、ほんの少し溶けたような気がした。それだけで、よかった。
Terakhir Diperbarui : 2025-08-03 Baca selengkapnya