氷室は、視線をコーヒーカップの縁に落としたまま、小さく口を開いた。「この前は、ごめん。いろいろ考えてさ」その言葉は、一見すれば丁寧で、ある種の誠意を含んでいるように聞こえる。だが、高田の耳には、その声音の下に何か別の意図が滲んでいるように思えた。声色は柔らかく、口調も穏やかだった。けれど、その“穏やかさ”が過剰だった。まるで、完璧な台本を読み上げる役者のように、感情の起伏が抑制されすぎている。心からの謝罪ではなく、謝罪という行為そのものを“演出”しているような印象。「いろいろ考えてさ」という言葉にも、曖昧な逃げ道が見える。何をどう考えたのか、具体的な中身には触れず、それでいて“反省したふり”をする。それはかつて、喧嘩の後に何度も聞いた台詞だった。自分が悪者にならないように、言葉の選び方を巧みに操りながら、実際には何も変わっていない。それが、氷室という人間の“謝り方”だった。高田は黙ってその言葉を受け止めた。目線をわずかに下げ、テーブルの中央に置かれたスプーンに焦点を移す。氷室の指先が、それを人差し指でゆっくりと転がしていた。金属がテーブルの木目に触れるかすかな音が、耳の奥で鳴る。落ち着かない動きだった。指先の節が微かに震えている。緊張ではない。何かを抑え込むような、あるいは、自分自身に安心を与えるための習慣的な動作。高田は、その仕草に既視感を覚えていた。あの頃も、氷室はいつもそうしていた。自分の不安や苛立ちを、指先の中に閉じ込めようとするように、決して声には出さないまま、視線の届かないところで感情を処理しようとしていた。そのことに当時の自分は気づけなかった。けれど今は違う。スプーンをいじる指先に込められた微かな焦燥や、沈黙に混じる“自己正当化の匂い”まで、はっきりと見えるようになっていた。彼は、過去と向き合おうとしているのではなかった。向き合っているふりをしているだけだった。目の前にある“事実”に言葉を添えることで、自分を納得させようとしている。そのプロセスに、高田はもう巻き込まれる必要がないと、静かに理解していた。「……そう」それだけを呟いて、視線を戻す。氷室の目が、微かに揺れた。想定よりも反応が薄いことに、戸惑ったのかもしれない。
Last Updated : 2025-07-24 Read more