父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した? のすべてのチャプター: チャプター 131 - チャプター 140

184 チャプター

第131話

結婚して五年。最初の一年、紗夜は決まった時間になるとよく電話をかけてきて、彼に夕食は家で食べるかどうかを訊ねていた。だが文翔は、出ても「帰る」「帰らない」と冷たく答えるだけか、そもそも出ないことも多かった。そんなことが続き、いつの間にか紗夜はほとんど彼に電話をしなくなった。文翔が紗夜から最後に電話を受けたのは、弥花スタジオを見逃してほしいと長沢グループに来たときのことだ。それ以外、彼女はもう電話をしてこないし、帰宅時間を柔らかく尋ねることもなくなった。彼は紗夜の不在着信を見つめ、眉間を揉みながら、結局かけ直した。しかし、一分近く鳴らしても、出ない。文翔は眉をひそめ、珍しくもう一度電話をかけたが、結果は同じだった。最後に、彼は中島へ電話した。中島はすぐに出た。「長沢社長!やっとご連絡がつきました!」どこか焦った声だ。「どうした」文翔が問う。「今朝、奥さまと竹内さんが病院の診察室で揉めまして、事態が少し大きくなりまして......」「彼女、怪我をしたのか?」文翔は背筋を伸ばし、眉を寄せた。仁もその言葉に目を向け、何か察したような表情をする。「怪我をされたのは奥さまではありません」中島の声はさらに重くなる。「竹内さんです。顔を奥様に切られまして、それに雅恵様が病院に駆けつけて警察を呼び、奥さまは連行されて拘留中です......」文翔の目の色が暗く沈む。電話を切るや否や、すぐに立ち上がった。「急用?」仁が問う。「ああ」文翔は上着を手に取り、すぐに運転手へ待機を指示し、速い足で部屋を出た。戻ってきたばかりの千歳とぶつかりそうになる。「文翔?その顔......どこ行くんだ?」「京浜に戻る」それだけ言い残し、角を曲がって姿を消した。千歳は驚いたように目を見開いた。長い付き合いの中で、泰然とした彼がこんなに焦る姿はほとんど見たことがない。「何があったんだ?」彼は仁に視線を向ける。仁は肩をすくめる。だが心当たりはある。――紗夜のこと、だろうか?しかし、文翔がそこまで焦るとは。「そもそも文翔、深水さんが奥さんだって俺にすら言わなかったじゃん」仁が目を細める。「お前も隠してただろ」「俺のせいじゃない!言うなって釘を刺されてたん
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第132話

彼らは雅恵のやり方に納得していなかった。だが、京浜での長沢家の影響力は無視できない。加えて、彩が紗夜に傷つけられたという事実は変わらない。もし彩が訴えを押し通すなら、彼らは長沢奥様の指示どおり、公的手続きとして進めるしかなかった。警察は立ち上がり、取調室を出ていく。閉ざされた空間に残されたのは紗夜ひとり。彼女はまつ毛を震わせ、衣服の裾をしっかりと握りしめる。――目的はわかった。彼らの質問はずっと誘導的だった。すべてを「彼女が一方的に彩を傷つけた」方向へ持っていこうとしている。だから答えられない。答えれば、もう戻れない。このまま黙っていても状況が良くなるわけではない。傷つけたのは彩で、皆が彩の側についている。彼女には頼れる人がいない。唯一守れるのは、自分自身だけ。紗夜は息を震わせて吐き出した。だが今、彼女が一番気にしているのはそれではなかった。何より怖いのは、母の容態だ。ここでは時間の流れが全く感じられない。今が何時かも、千芳の手術が終わったのかも、成功したのかもわからない。巨大な不安と、繰り返される厳しい取調べ。心も体も限界だ。心理学の専門家まで来たら――きっと完全に崩れてしまう。唇を噛みしめ、肩が小刻みに震える。そのとき、取調室の扉が開いた。「深水さん、こちらへ」身をすくませながら立ち上がり、重い足取りで警察官のあとに続く。薄暗い取調室から出ると、まぶしい白い光が降り注ぎ、彼女は思わず腕で顔を覆った。次の瞬間、誰かがその光を遮る。すっと鼻に馴染み深い、冷たいダーウッドの香りが流れ込む。紗夜は呆然と手を下ろし、顔を上げた。深い墨色の視線が、まっすぐ彼女を見ていた。逆光の中、文翔は彼女の青ざめた顔、頼りない肩、固く結ばれた唇を見つめる。たった一日会わなかっただけなのに、さらに痩せた気がする。眼窩は赤く落ち込み、焦点のない目に血走った線。風が吹けば倒れそうなほど、弱り切った姿だった。文翔は彼女を見据え、低く押し殺した声を落とす。「お前は一体、何をしてる」どうして一日で、ここまで自分を壊せるんだ。紗夜は、彼が彩のために責めに来たのだと思い、俯いたまま黙る。指先はぎこちなく服を弄る。文翔の視線が、赤く腫れ
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第133話

文翔の表情が一瞬で変わり、手を伸ばして彼女の腰を支え、受け止めた。紗夜はまるで支えを全部失ったみたいに力が抜け、そのまま崩れ落ちそうになり、全然立っていられなかった。文翔は眉間をぐっと寄せ、彼女を横抱きにした。周りの人たちは驚きを隠せない。目の前の状況、どう考えても彼らの想像と違う。長沢社長はこの女を報復しに来たんじゃなかったのか?なのにどうして......彼らの好奇の視線を感じ、文翔は薄く視線を流し、冷淡に言った。「休憩室はどこだ」その言葉でようやく皆我に返り、慌てて案内をした。文翔が紗夜を抱き上げたまま歩くと、彼女はまるで重さがない花みたいに軽く、以前よりずっと軽く感じた。とくに腰は、彼の手の幅よりも細く、服越しでも骨の感触がはっきり分かる。文翔はさらに眉を深く寄せた。紗夜はされるがまま。反抗する力なんてもう残っていなかった。朝からずっと、千芳の手術が始まってから十数時間、水一滴も口にしていない。血の気のない唇は乾いてひび割れていた。文翔は彼女をソファに座らせ、水と救急箱を持ってこさせると、彼女の前で片膝をつき、言う間もなく手を取り、手の甲の傷を処置し始めた。消毒液が傷に触れた瞬間、紗夜は思わず息を呑んだ。「っ......」手を引こうとしたが、文翔に手首をしっかり掴まれ、動けない。「我慢しろ」紗夜は唇を噛みしめ、声を出さないように耐えた。手の甲の処置が終わると、文翔はようやく手のひらの傷に気づいた。手の甲よりずっとひどく、病院で処置したばかりなのに、滲んだ血が白いガーゼを赤く染めている。「一体どうしたらこんなになるんだ」傷を見た瞬間、文翔の胸に説明できない苛立ちが走り、声が少し荒くなる。紗夜はびくっとし、指を縮め、危うく傷口に触れそうになった。文翔は先に彼女の指を包み込むように掴んだ。温かい掌に包まれ、紗夜のまつげがわずかに震え、複雑な色が一瞬だけ瞳に浮かんだ。「動くな」文翔の低い警告。その瞬間、紗夜の瞳に宿った感情はすぐ消え、また虚ろに戻った。そうだ、文翔は昔から自分に忍耐なんてなかった。どうして自分の傷なんて丁寧に処置するのか......きっと、哀れに見えたから。包帯を結び終え、文翔はきゅっと端を締めた。「終わったぞ
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第134話

高くてすらりとした影が、華奢な身体を抱きかかえて歩く姿は、瞬く間に多くの視線を引きつけた。紗夜は、その中に自分を審問した二人の警察を見つけ、そっと頭を下げ、肩を小さく震わせた。文翔はその不安に気づき、彼女を抱く腕に少しだけ力を込める。彼女を連れて戻ってきた警察たちも、文翔の横に続き、恭しい態度で道を示した。「長沢社長、こちらです」文翔は紗夜を後部座席にそっと乗せ、ドアを閉め、反対側へ回った。二人の警察は深く頭を下げる。「お気をつけてお帰りください」「それと」文翔は一瞬足を止めた。「診察室の映像、俺に送ってくれ」「それが......」警察は少し困ったように答える。「通報を受けて映像を確認しに行った時には、すでにその診察室の映像は消えていました」つまり、誰かが先に監控を持ち去っていたということだ。文翔の瞳に一瞬、深い色が宿る。スマホで運転手にメッセージを送り、再び警察に向き直った。「今日のこと、ここから一切漏れるな」「ご安心ください」二人は口元に指を当て、封印のジェスチャーをした。「もし他の映像が見つかったら、送ってくれ」「承知しました。全力を尽くします」「ご苦労」そう言って、文翔は車に向かった。「な、長沢社長!」彼らは少し迷ってから、思い切って呼び止めた。「保証人として連れて帰れるのは分かっていますが......長沢社長と深水さんは、どういうご関係で?」噂では彩との関係が怪しいと言われているのに、今の光景を見る限り、文翔と紗夜の方がよほど特別に見える。その問いに、文翔は一瞬唇を引き結び、車内に視線を向けた。紗夜はガラスに頭を預け、そっと目を閉じている。垂れた前髪の影が、車内の灯りを受けて儚く揺れ、柔らかさと壊れそうな脆さを帯び、胸を締めつけるような気配を漂わせていた。「彼女は、俺の妻だ」薄い唇から、静かに言葉が落ちる。「......は?」二人の警察は目を見開き、互いに顔を見合わせる。勘違いかと思いかけた瞬間、文翔は再び明確に言った。「紗夜と俺は夫婦関係だ」彼は左手を上げる。薬指には指輪が光っていた。「そ、そうだったんですね......!」飾りだと思っていた指輪が、まさかの結婚指輪だとは。そして、病院で「第三者」
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第135話

「ようやく喋る気になったのか?」文翔が小さく鼻で笑う。「警察署に一回入っただけで、声まで失くしたのかと思った」紗夜は、彼の皮肉を聞こえないふりでやり過ごし、かすれた声で続けた。「病院に連れて行ってもいい?お母さんの様子を見たいから......」どこか、懇願するような声。文翔が「無事だ」と言ったとしても、彼女は自分の目で確認しなければ安心できない。文翔は、切迫した彼女の表情を見つめ、無言で唇を引き結び、運転手に病院へ向かうよう命じた。「ありがとうございます......」紗夜は頭を下げる。声はひどく弱い。朝から何も口にしていないせいで、力が入らない。空腹で胃が痙攣するように動き、鈍い痛みが広がる。思わず眉が寄った。その瞬間、節のはっきりした指が、サンドイッチを差し出してきた。紗夜は一瞬呆然とし、横目で文翔を見る。「受け取れ」淡々とした声。「ここではこれしか買えなかった」紗夜はサンドイッチを受け取り、包みを開き、大きく齧った。飢えすぎていた。ただのハムとトマトとチーズが、こんなに美味しく感じたことはない。もう一口、頬をいっぱいに膨らませ、必死に噛む。文翔は、彼女のがっつく姿に眉を寄せた。どんな場でも優雅に食べる女――それが彼の記憶にある紗夜だ。それが今は、飢えたまま何時間も放置されていた小動物のように......昨夜からずっと、何も食べていないのか?道理で、こんなに憔悴していた。胸の奥に、説明のつかない重い感情がひとつ落ちる。「食事、出なかったのか?」紗夜は、口の中のものを無理やり飲み込み、首を横に振る。「皆さん忙しかったので......」「忙しいなら、自分で言えばいいだろ」文翔の眉はさらに深く寄り、不機嫌さが滲む。紗夜は俯いた。――尋問に必死だった人たちが、食事なんて気にかけるはずがない。車内に再び沈黙が落ちる。最後の一口を飲み込もうとして、紗夜はむせた。「っ......ごほ、ごほっ......」蒼白な頬が、少しだけ赤く染まる。文翔はじっと見据え、無言で水を開け、差し出した。紗夜は両手でそれを受け、一口含んで喉を潤す。「もうひとつある。食べるか?」ぎこちない問い方。彼には、彼女の華奢な身体には
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第136話

医者は慌てて手を引っ込め、そそくさと時間を確認した。「ええっと、これから回診があるので......失礼します」言うなり紗夜の返事も待たず、白衣のポケットに手を突っ込んで逃げるように立ち去った。紗夜は小走りで去っていく背中を見送り、少し不思議に思ったが、深く考えずに「やっぱりお医者さんって偉大で大変な仕事だ」と胸の内で呟いた。彼のおかげで、母はもう痛みに苦しまずに済むのだ。病室のドアのガラス越しに千芳の顔を見つめ、紗夜の青白い唇に僅かな笑みが浮かぶ。だが次の瞬間、横から声が飛んできた。「え?あんた、あの人の顔を台無しにした不倫女じゃない?どんな面下げてここに来てんのよ?」その言葉に周囲の視線が一気に集まった。先日紗夜を糾弾していた面々が、再び彼女を見つけて指さし始める。「ほんと信じらんない、よく出てこれたね!」「ふん、恥知らずにもほどがある!」文翔の表情は一気に陰を帯び、ボディーガードに指示して人々を追い払わせた。しかし紗夜は大して動じない。ただ無表情で文翔を横目に見る。あの彩を、正妻として皆に崇められる存在に育てたのは文翔だ。今さら不愉快そうにするなんて、滑稽だ。そう思っても口にはしない。もう離婚した。母の容態が落ち着いたら、彼女は母を連れてこの街を去る。文翔とは何の関わりも持たないつもりだ。そこで、鋭く冷たい女の声が響く。「深水紗夜!よく私の前に顔を出せたわね!」振り向くと、彩が車椅子に座っていた。顔には包帯がぐるりと巻かれ、さっきの大声で傷が引きつれたのか、「あっ......」と苦しげに息を呑む。「彩ちゃん、大丈夫なの?」急いで駆けつけた雅恵が心配そうに身を寄せた。彩はすぐ泣き出す。「お義母さん、顔がすっごく痛いよ......」「泣かないの、傷口が開いたら大変でしょ」雅恵は彩を宥めながら、紗夜に険しい視線を向けた。「深水、我が子の薬を奪っただけじゃなく、顔まで傷つけたのよ!このままじゃ済まさないから!」「その薬は元々私のです」紗夜は淡々と言い返し、支払い領収書を差し出す。薬の名称と2億円の決済明細が、白黒はっきりと印字されている。「奪ったのは彼女の方です」――いや、文翔も同罪だ。彩の言葉が脳裏に浮かぶ。「文翔は、
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第137話

彼女はスマホを取り出した。そこには、全てを目撃し、紗夜が冤罪を被るのを見ていられなかった看護師が送ってくれた動画が保存されていた。彩の膝の上に置かれていた手が、ぎゅっと強ばる。紗夜は先に動画を開き、雅恵の目の前で再生した。ただ、その時は見物人が多すぎて、撮影していた看護師は弾き出され、遠くから撮るしかなく、二人の会話ははっきり録れていなかった。しかし、彩が紗夜を地面に突き倒し、手の甲を踏みつけた瞬間は、くっきり映っていた。彩の表情がたちまち険しくなる。雅恵は目を細め、冷たい光が宿る。もう躊躇いのない紗夜は、まっすぐ雅恵を見返した。今まで見せたことのない強い態度だった。「もし雅恵さんが私を訴えると言うのなら、私もこの動画を公開します。どう出られても、私は最後まで受けて立ちます」「もういい!」文翔の冷たい声が遮る。紗夜は一瞬呆然とし、横を向くと、怒りを宿した文翔の視線とぶつかった。その目は、まるで彼女を焼き尽くすかのような炎を秘めていた。「紗夜、いい加減にしろ」文翔の声は冷え切っていた。「この件は、俺が処理する」その言葉に、紗夜の中で沸き立っていた気持ちが一瞬で凍りつく。まるで心の中に冷たい雪がしんしんと降り積もるようだった。垂らしていた拳が静かに握りしめられる。苦笑が胸の奥でひっそり零れる。――やっぱり、この人はいつだって彩の味方だ。証拠が目の前にあっても、彼は彩だけを庇う。「俺が処理する」と言ったのは、要するに「お前は黙っていろ」という意味だろう。胸の奥が膨れ上がったスポンジのように苦しく、息が詰まりそうだった。彩は意外そうに目を瞬いたが、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべ、紗夜に挑むような目を向けた。証拠があっても関係ない。会話が録れていなければ、怖れる必要はない。雅恵は文翔を見て、眼差しの険しさを引っ込めると、再び悠然と紗夜を見下ろした。まさに名門の奥様然とした態度。廊下の窓から差し込む外の光が彩と雅恵を縁取る。まるでふたりだけが輝き、紗夜はその影にすっぽりと飲み込まれているようだった。その誇らしさが、ようやく声を上げようとした紗夜を滑稽な存在に見せつける。声を上げなければ、故意傷害で訴えられる。声を上げても、返ってくるのは文翔の
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第138話

だが海羽は彩の言葉など相手にせず、素早く紗夜の身体を支えた。声には焦りと心配が滲む。「紗夜ちゃん、大丈夫?」紗夜は弱々しく首を横に振る。海羽の姿を見た瞬間、潤んだ目に涙が滲む。乾いた唇が震えた。「......行こう」「うん、連れて行く」海羽はそっと彼女の細い腕を支える。「待ちなさい!」彩が怒鳴る。「私たちにぶつかっておいて、このまま行けると思ってるの?!」紗夜を困らせるつもりで、当然その友人も離す気はない――そう考えていた彩は、しかし読み違えた。「そう?」海羽がぴたりと足を止め、彩を冷たく見やり、薄く笑う。「じゃあ聞かせてよ。おまえ、どうやって私を止める気?」肩を軽く回し、握りしめた拳がバキバキと鳴る。女優になる前、彼女はわざわざ合気道を習い、大会で準優勝の実績もある。こんな猫かぶり女、蹴り飛ばすのなんて一瞬だ。彩はその迫力にビクリと震え、慌てて文翔にすがる。「文翔、この女......ひどいよ......!」文翔の顔は無表情。雅恵を助け起こすことすらしない。「これ以上喚くなら、ほんとの『ひどい』ってやつを見せてやるよ」海羽が鋭く言い放つ。身長174センチにヒールでほぼ180センチ。圧迫感と声の迫力に、彩は完全にすくみ上がり、黙り込む。次の瞬間マジで車椅子ごと投げられそうで。腰砕け寸前の彩を見て、海羽は鼻で笑い、紗夜を支えたまま歩き出す。すれ違いざま、海羽は文翔を睨みつけ、低く罵った。「クズ男。おまえなんかがうちの紗夜ちゃんにふさわしいわけ?その腐ったぶりっこと鎖でも繋いでおきなさいよ。社会に出てくんな、迷惑」文翔は眉をひそめ、海羽に支えられ、今にも倒れそうな紗夜を横目でちらりと見る。視線は、二人が角を曲がって消えるまで動かなかった。「文翔......」彩がおそるおそる呼ぶ。だが文翔は応じない。雅恵が声をかけてようやく、文翔は視線を戻し、「大丈夫か」と言う。声色は冷たく、気遣いの温度はほぼゼロ。雅恵の表情が曇り、口を開こうとしたとき――「中島」文翔が呼ぶ。陰から現れた中島がすぐに頭を下げる。「長沢社長」「大奥様を送れ」「行かないわ!」雅恵が反射的に拒むが、文翔は冷たく遮る。「帰れ。母さん
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第139話

言葉を聞いた途端、彩の目に宿っていた敵意は一瞬で消え去った。さっきは海羽を庇っていたとはいえ、今の質問は、まさに自分の心を代弁してくれたようなものだった。文翔はいつも、周囲が彼女を「将来の長沢奥様」と噂するのを特に否定しなかった。だから多くの人が、彼女こそ長沢グループの次期当主の妻、未来の長沢奥様だと当然のように思っていた。そう考えた途端、彩は背筋を伸ばし、真偽の分からない微笑みを浮かべた。「私は──」「違う」文翔が冷たく遮った。彩は呆然とした。こんなにはっきり否定されたのは、これが初めてだ。しかも周りには人が通り、先ほどまで彼女を「正妻」と思っていた者までいる。その文翔の否定に、彼らの視線は一気に微妙な色を帯び、小声で囁き合い始めた。「え?正妻じゃなかったの?」「嘘でしょ?ってことはこの人が第三者?じゃあさっきのは......」「それ、立場逆すぎじゃない?愛人の方が偉そうって何事?」「恥知らずってこういうこと?この男もひどいよね、奥さん放って愛人を野放しに......」......小声でも、彩の耳にははっきり届いた。顔色が一気に悪くなり、文翔を見つめる目に涙を溜める。だが文翔は彼女に一瞥もくれず、周囲の言葉にも表情一つ動かさない。先ほど紗夜が罵られていた時よりも、はるかに冷淡だった。一輝は彩を一瞥すると、何かを思ったように目を細め、話題を変えた。「せっかくここで会えたんだし、夜ご飯でもどう?長沢社長」彩はその言葉を聞くと、慌てて引き留めた。「文翔......」「ああ、もちろんだ」文翔はあっさり応じ、そのまま大股で歩き出した。彩を置き去りにして。一輝も後に続く。「文翔!」彩が悔しさに声を張り上げるが、文翔は聞こえないふりをしたまま一度も振り返らない。遠ざかる背中を見つめ、彩の膝上の手はぎゅっと握り込まれた。腹立たしい──この見知らぬ男は海羽の味方で、海羽は紗夜の味方。つまり、彼らはわざと自分と文翔を引き離そうとしているのだ。「深水紗夜、全部あんたのせいよ......!」彩の目は暗く濁り、ぎりっと歯噛みした。その瞬間、表情が歪む。感情の爆発で顔の傷口が引きつれ、痛みに息を呑んだ。傷跡が残るかもしれない――その恐
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第140話

彼女は急いで海羽の手を振りほどき、ふらつきながら洗面所へ駆け込んだ。洗面台にしがみつき、胃の奥から込み上げるものを必死に吐き出す。海羽はその様子を見つめ、何かに気付いたようだった。紗夜が吐き終わり、口をすすぐのを待つと、そっとティッシュを差し出す。「ありがとう......」紗夜はかすかに言った。だが、海羽が聞きたいのはそれではない。彼女は紗夜の手首をつかみ、真剣な表情で問い詰めた。「紗夜ちゃん、正直に言って......妊娠してるんじゃない?」紗夜の唇が震え、視線が揺れる。「わ、私は......」「誤魔化してもムダだよ。このことくらい、私だって分かる」海羽はもう片方の手を紗夜の肩に置き、声を潜める。「相手はあのクズ、文翔でしょ?」紗夜は彼女のコソコソした言い方に少し困ったように目を伏せ、何も言わなかった。それは黙って肯定したも同然だった。瞼をゆっくり閉じると、意識があの日に引き戻される。昏睡から目覚め、千芳を探しに飛び出そうとした時、医者に止められ、告げられた言葉。「深水さん。お気持ちはわかりますが......あなたの検査結果で、妊娠三週目だと判明しました」その時の自分は、信じられないという顔をした。「そんなはず......ちゃんと生理も来てました......」妊娠なんて、ありえないと。「初期出血は珍しくありません。『着床出血』とも呼ばれる正常な反応です。ただ、最近あなたの精神状態が不安定で、症状がかなり強く出ています。流産の兆候があるので......とにかく今は心を落ち着くべきです。そうでないと、お腹の子は......」その後の説明は、もう耳に入らなかった。紗夜は顔を両手で覆った。どんな表情をすればいいのか分からなかった。まさか、本当に妊娠しているなんて。時期を逆算すれば、カンランホテルのあの夜──文翔が乱暴で、コンドームが破れていた。自分は気付かず、彼は翌朝何も言わず去っていった。薬すら渡されずに。そんな偶然が積み重なって、生まれてしまった結果。紗夜は平らなお腹にそっと触れた。胸の奥に湧く感情は、初めて理久を身ごもった時と似ていて、けれどまるで違った。あの時は、驚きと、少しの喜びがあった。自分の中に命が宿ることへの感動
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