All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

瑚々はその言葉を聞いて、少し迷い、どうしていいかわからない様子で彼女たちを見回し、さらに泣きはらして顔をぐちゃぐちゃにした千輝を一瞥してから、ようやく口を開いた。「謝ってほしいの」「謝るだけでいいの?」理久が不思議そうに尋ねる。瑚々は小さくうなずいた。「うん」千輝はそれを聞くと、なんとか涙をこらえ、瑚々の前に歩み寄って深く頭を下げ、泣き声混じりで言った。「ごめんなさい!さっきは僕が悪かった!本当にごめんなさい......」瑚々は唇をきゅっと結んだまま、何も言わなかった。謝罪は受けたものの、彼を許すつもりはなかった。一方、担任は事態がほぼ収まったと見て、急いで場を取り繕うように前に出た。「今回の件は、私の指導不足です。ここで二人の保護者の方に、心よりお詫び申し上げます。今後は千輝くいをしっかり指導し、二度と問題を起こさせません」そう言いながら、瑚々の前にしゃがみ込み、真剣な口調で続けた。「ごめんなさい、瑚々ちゃん。先生が誤解してしまって」「大丈夫」瑚々はそう答えたが、表情は明らかに晴れていなかった。この様子では、もう教室に戻るのは無理だろう。そこで紗夜は担任に、瑚々を一日欠席扱いにしてほしいと申し出た。担任も快く了承した。「それなら、僕も!」理久は縋るような目で紗夜を見上げる。「お母さん、今日の宿題は全部先に終わらせたよ。せっかくお母さんが帰ってきたんだから、僕も一緒にいたい」紗夜が返事をする前に、理久は甘え攻撃を繰り出した。「お願いお願い。ねえお母さん、お願いだよ~!」彼はよく知っていた。母は強く出られるより、弱く頼まれる方に弱いのだ。案の定、捨てられるのを怖がる迷子の子犬のような表情を向けられて、紗夜は結局うなずいた。「やった!じゃあ僕、すぐにランドセル片づけてくるね。ついでに瑚々の分も!」理久は張り切って言い、紗夜はただ微笑んで手を振り、好きにさせた。そして海羽に目を向ける。「車を回してきて。この子たち二人を連れて出るから」「わかった」海羽は瑚々の頬にそっと触れた。「あとで紗夜お姉ちゃんと一緒に、ママのところに来てね」瑚々はうなずき、紗夜の手を握って外へと歩き出した。長い廊下を歩きながら、紗夜の視線はずっと瑚々に向けられてい
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第502話

瑚々の縋るような視線を受けて、紗夜は胸の奥の柔らかいところを、強く突かれた気がした。こんなにも聞き分けがよくて、それでいて繊細な子を放っておけない。彼女は口を開きかけ、ある名前が喉元までせり上がってきた。だが、ここ何年も一人で子どもを育ててきた海羽の苦労を思い出し、思わずためらってしまう。瑚々の実の父親のことを話すかどうかを決められるのは、海羽だけだ。「それは......私もあまり詳しくは知らないの。ただ、見た目は悪くない人だった、ってことくらいかな」紗夜は、結局そんな曖昧な答えしか返せなかった。海羽が必死に瑚々を守ってきたのだから、どれだけ瑚々が不憫でも、海羽の気持ちを無視するわけにはいかない。「ほんと?」「もちろん」紗夜は瑚々の頬をそっと撫でた。「瑚々がこんなに可愛いんだもの。パパだって、きっとそれなりに格好いいはずよ」「格好いいの?前に会った、あのおじさんみたいな?」瑚々の目がきらりと輝いた。紗夜は、彼女の言う「おじさん」が誰なのか分からなかったが、軽くうなずいた。「そうかもね」「じゃあ、そのおじさんに瑚々のパパになってもらったら、紗夜お姉ちゃんは、ママが賛成すると思う?」瑚々は期待に満ちた声で尋ねた。「それは......」紗夜は、一瞬言葉に詰まった。ちょうどその時、理久がランドセルを二つ背負って小走りでやってきた。「準備できたよ!行こ!」瑚々の注意は、すぐに理久へと向いた。「ちょっと、なんで私のランドセル、こんなに肩ひも長くしてるの?」「だって、そうしないと背負いにくいじゃん」......紗夜はようやく胸をなで下ろし、二人の子どもを連れて海羽のもとへ向かった。半日かけて、彼女たちは遊園地へ行き、子どもたちと一緒にさまざまなアトラクションを回った。理久と瑚々は、待ちきれない様子で次々と遊具を渡り歩き、顔いっぱいに満面の笑みを浮かべている。二人があまりにも楽しそうに遊ぶ姿を見て、紗夜は安堵したように口元を緩めた。そのとき、一杯のコーヒーが差し出された。「ホットで、ミルク入り、砂糖なし」海羽は彼女の好みを覚えていた。「ありがとう」紗夜は受け取って、一口飲んだ。「瑚々があんなに楽しそうに遊ぶの、ホント久しぶり」海羽は思わずそ
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第503話

「それなら、なおさら一緒にやりましょう。海羽がかつて持っていた知名度を、もう一度取り戻すために」紗夜は手を差し出した。「フラッシュの前で、自由に、眩しいほど輝いていた――あの芸能界の女王が、もう一度その魅力と光を放つ姿を、私は見たいの」海羽の目元は次第に赤くなり、紗夜としばらく見つめ合ったあと、静かに、しかし力強くうなずき、彼女の手を握った。「ありがとう、紗夜ちゃん」一番苦しい時に、全力で手を差し伸べてくれたことへの感謝だった。「私のほうこそ、海羽に百倍感謝しないと」紗夜はウインクして、冗談めかして言う。「さすがにそこまでじゃないでしょ?」「ううん。私たち、何年の付き合いだと思ってるの?」「ええと......十六年くらい?」「十六年と三か月よ!海羽、適当すぎ!」「ええ?三か月くらいで、大したことないって......」「大したことだよ!ちゃんと覚えてよ!」「わかったわかった、私が悪かった!本当に反省してますから!」......夜の帳が下り、ロールスロイスは滑らかに道路を走っていた。前方の帰宅ラッシュによる渋滞を見て、中島はハンドルを切り返そうとする。「前の路地で左に入って、そこで停めてくれ」後部座席で沈黙を保っていた文翔が、ふいに口を開いた。「路地ですか?」中島は、夜食を求めて行き交う人々を一瞥し、少し不思議に思ったが、地図を確認した途端、すぐに合点がいった。指示どおり車を進め、人目につきにくい場所に停める。文翔はドアを開けて降り、路地の奥へとゆっくり歩いていった。「芳村餃子店」の明るい看板が、並ぶ店の中でもひときわ目立っている。本格的な夜食のピークにはまだ早く、店内には二、三人の客しかいなかった。暖簾が上がる音を聞いて顔を上げ、芳村おばさんは思わず動きを止めた。数秒後、慌てて立ち上がり、エプロンで手を拭きながら、恭しく文翔の前に立つ。「長沢さん、どうしてこちらに......?」彼女は用心深く彼の後ろを見た。今日は大勢のボディーガードはいない。秘書が一人いるだけだ。それに、紗夜も一緒ではない。疑問は浮かんだが、深くは聞かず、笑顔で尋ねた。「今日は何を召し上がります?」古びたテーブルが並ぶ店内で、文翔の存在はどこか場違いに見える。
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第504話

紗夜は一瞬きょとんとし、反射的に、以前自分がよく座っていた席のほうへ目を向けた。だが、そこに文翔の姿はない。テーブルの上には、食べかけの餃子とラーメンだけが残されていた。「え?さっきまで、ここにいらっしゃったのに......」芳村おばさんは首をかしげる。紗夜はそっと目を伏せ、視線の奥に影を落としながら、二人の子どもの手を引いて外へ向かおうとした。「やっぱり、別のところで食べましょう」それを聞いた理久は、すぐに眉をひそめる。「でも僕、ちょっと疲れちゃった。もう歩きたくないよ」「紗夜お姉ちゃんが行こうって言うなら、行くべきだよ」瑚々は即座に言い返した。彼女はいつも紗夜の言うことを優先する。「......わかった」理久も、しぶしぶ従った。紗夜が振り返った、その瞬間だった。背後から、力強い手が彼女の肩を押さえた。彼女はびくりとして、全身に緊張が走る。店の外へ出ようとしたが、その手は逆方向に力を込め、彼女を振り向かせまいとする。耳元で、男特有の低く澄んだ声が響いた。「俺は出る。君は、ここで食べていけ」理久が顔を上げ、文翔の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。「パパ?どうしてここにいるの?」文翔は答えず、ただ紗夜を見つめていた。彼女が振り向きもしないのに、それでも視線を外そうとしない。「長沢社長は、今ちょうど仕事が終わったところで、軽く何か食べに来ただけです」中島が気を利かせて説明した。時刻は、すでに9時近かった。紗夜は唇を軽く結び、表情を読み取らせないまま肩を揺らす。それでようやく、文翔は手を離した。「そうですか」夜風の吹く中、紗夜の声はひどく冷ややかに響いた。風に当たって、彼女の鼻先はうっすら赤くなっている。秋に入ってからの昼夜の寒暖差を甘く見ていた。薄手の服一枚、それも絹の生地が肌に触れ、冷たさが一層際立つ。文翔はじっと彼女を見つめ、次の瞬間、自分の上着を脱いで、彼女の肩に掛けようとした。だが、紗夜は身を翻してそれを避けた。拒絶の意思は、はっきりしていた。彼の手は空中で止まり、瞳に一瞬、翳りがよぎる。「ゆっくり食べてくれ」そう言い残し、長い脚で彼女の前を通り過ぎていった。彼女に残されたのは、痩せた背中だけだった。
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第505話

紗夜は、近づきたいのに近づけず、その場に立ったまま不安そうに自分を見つめる池田の様子を見て、ふっと口元を緩めた。そして自分から歩み寄り、様子を尋ねる。「頭のケガ、もう大丈夫?」「もう平気です」池田はそう言って横を向き、紗夜に見せた。「ほら、傷跡も全然残ってません」「それならよかった」紗夜はバッグから小さなギフトボックスを二つ取り出し、彼女に差し出す。「あなたと木村さんに。木村さんの分は渡しておいて」「奥様は......一緒に帰られないんですか?」池田は不思議そうに尋ねた。「ええ。自分の住まいがあるから」会社の近くのマンションを購入していた。「理久を連れて帰って」その言葉を聞いた瞬間、理久の表情がぱっと変わり、紗夜の手をぎゅっと握る。「お母さん、どうして一緒に帰らないの?」紗夜は、理久の性格をよく分かっていた。ここで正直に話せば、きっと泣いて騒ぐ。だから、咄嗟に理由を作った。「まだ仕事が残ってるの。先に帰って。早く休んで、明日はちゃんと学校に行くのよ」「......わかった」理久はうなずいた。――最近、お母さんはずっと忙しそうだ。メッセージを送ればすぐ返事は来るけれど、なぜか何かが変わった気がする。特に、パパとお母さんの間の空気が、前とは少し違う。それでも、彼はそれ以上聞かなかった。せっかくお母さんが帰ってきて、一緒に遊んでくれたのだ。これ以上、困らせたくない。名残惜しそうに紗夜を見上げる。「お母さん、約束して。次に時間ができたら、また一緒に出かけてよう?」「うん」紗夜はうなずいた。その返事に満足した理久は、池田と一緒に帰っていった。瑚々は一日中はしゃいで遊び、餃子を食べ終える頃にはもう眠気でふらふらしていた。小さな体が揺れて、最後は海羽に支えられる。「この子、眠そうだから先に連れて帰るね」海羽は苦笑した。「せっかく二人きりになれたのに、今日はもう無理みたい」「また今度でもいいわ」紗夜は笑い、会計を済ませると、瑚々をチャイルドシートに座らせるのを手伝い、手を振って別れを告げた。「またね」「ええ」海羽はエンジンをかけ、ゆっくりと走り去っていった。路地には、紗夜一人と、行き交う人々だけが残った。紗夜
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第506話

文翔はすぐに手でシートを支えた。路地を抜けたところで車が曲がり、きちんと座れていなかったのだ。「申し訳ありません、社長」中島が慌てて謝る。「大丈夫だ」文翔は上半身を少し傾け、その動きに伴って、かすかな温もりが紗夜の頬をかすめた。すぐに姿勢を正し、彼女と距離を取ってから、低い声で言う。「もう少し安定して運転してくれ」中島は何度も頷いたが、次の瞬間、スマホが鳴った。「え?」紗夜は、電話口の相手の声を聞いた途端、中島の表情が一変するのを見た。彼は深呼吸を繰り返し、必死に気持ちを落ち着かせようとしている。「そ、そうか......じゃあ、先に母を病院へ連れて行ってくれ。こっちもすぐ行くから」声は抑えようとしていたが、震えが隠せない。恐怖だ。「どうしたの?」紗夜が尋ねる。「は、母が交通事故に遭って、病院に運ばれたんです」中島は息を荒らし、本当に切迫している様子だった。「この先で停めて。中島さんはタクシーで病院に行って。続きは私が運転するから」紗夜が口を開く。「ですが......」中島はバックミラー越しに文翔の表情をうかがい、不安そうに言う。「志津子様のほうもお急ぎですし、まずは長沢社長と奥さまをお送りしてから、母のところへ――」「先に病院へ行け」文翔は目を開け、彼を見据えた。有無を言わせぬ口調だった。中島は一瞬言葉を失い、目尻の涙をぬぐう。「ありがとうございます、長沢社長、奥さま」車を路肩に寄せて停め、紗夜は降車し、運転席へ回った。「すみません。本当にありがとうございます」中島は何度も深く頭を下げる。紗夜は「奥さまと呼ばないで」と言いかけたが、鍵が手に渡され、結局ひと言だけ告げた。「道中、気をつけて」「はい」中島はもう一度頭を下げ、慌ただしく立ち去った。紗夜が運転席のドアを開けると、いつの間にか文翔が助手席に移動していることに気づいた。彼は彼女を見ず、シートに身を預けて目を閉じている。紗夜は何も聞かず、エンジンをかけた。だが、すぐには発進せず、そのまま彼を見つめる。「どうした?」文翔が尋ねる。「シートベルト」紗夜が指摘した。文翔は一瞬きょとんとし、軽く咳払いをしてから、さりげなくベルトを引いて締めた。
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第507話

文翔はもう目を閉じることはなく、紗夜の代わりに周囲の道路状況に気を配っていた。車は志津子の庭の前で止まった。紗夜はすぐに車を降り、焦るように庭へ向かったが、あたりは暗く、足元が見えずによろめいた。力強い手が、彼女の肘を支える。ひんやりとしたシダーウッドの香りが、そっと彼女を包み込んだ。紗夜は唇をきゅっと結び、それでも彼を押しのけた。「ありがとう。でも、一人で歩けるから」「でも、俺は歩けない」酒を口にしていたせいか、文翔の声はどこか頼りなく、疲れを帯びていた。結局、二人は互いに支え合いながら、庭に入っていった。「旦那様、奥様、お帰りなさい」稲垣が慌てて迎えに出る。「おばあちゃんは?」紗夜は文翔から手を離し、心配そうに尋ねた。「それが......」稲垣は言い淀む。紗夜は、容体が相当悪いのだと思い込み、ほかのことは何も考えられず、足早に中へ向かった。ところが、志津子の部屋に近づいた途端、朗らかで弾んだ声が聞こえてきた。「私の勝ち!」紗夜は思わず足を止め、扉の隙間から中を覗いた。そこでは志津子が、満晴と仁と一緒にトランプをしている。「おばあちゃん、ホント運がいいんだから!全然勝てないじゃない!」満晴は泣き言を言う。すでに顔には墨で何本も線が引かれていた。「あなたたち、まだまだ修行不足なのよ!」志津子は嬉しそうに笑い、筆を手に取る。「さあ、早く。いい子だから顔を出しなさい!」仁は苦笑しつつも、逆らえない。「ばあさん、もう遅いですし、そろそろ休まれては?」「だめだめ。やっと調子が出てきたところなのに、そんなに早く終われるわけないでしょう」志津子は譲らない。「でも、ばあさんのお体の方は......」「大丈夫よ!ほら、私はぴんぴんしてるんだから!」そう言い終わらないうちに、外で稲垣が慌てて咳払いをした。「こほん、こほん......!」志津子は一瞬きょとんとし、振り返って、ちょうど紗夜の、笑っているようで笑っていない視線とぶつかった。「紗夜?」志津子の目に驚きが走ると、すぐに手の甲を額に当て、急に弱々しい様子を装った。「あらあら、どうしたのかしら......急に頭がくらくらしてきたわ......」「おばあちゃん、大丈夫?」満晴
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第508話

紗夜は匙を持つ手を一瞬止めたが、やはり穏やかに断った。「いいの。ゆっくり運転すれば大丈夫だから」「どうして急いで帰るの?」志津子は不思議そうにため息をつき、どこか拗ねたように言った。「おばあちゃんがうるさくて、しかも嘘までついたから、もう顔も見たくないって思ったの?」その声音は、寂しさと悲しさが滲んでいる。「そんなことないよ」紗夜は志津子の気持ちを気遣い、首を横に振った。「ただ――」「それならいいのよ」志津子はすぐに笑顔を見せ、話を続けた。「今すぐ稲垣さんに、あなたと文翔の部屋を用意させるわ。今夜はここに泊まって、しっかり休みなさい」そう言うや否や、紗夜が断る暇も与えず、さっさと稲垣に指示を出しに行ってしまった。紗夜は、嬉しそうに動き回る志津子の背中を見て、苦笑するしかなかった。そして視線は、ソファに横になり、目を閉じて休んでいる文翔へと向く。文翔の手のひらが、彼女の額をやさしく撫でたあの感触が脳裏に浮かび、手にした匙で料理を無意識にかき混ぜていた。稲垣の仕事は早く、部屋はすぐに綺麗に整えられ、新しいシーツとカバーに替えられていた。志津子に余計な心配をさせたくなくて、紗夜は文翔を支えながら二階へ上がり、寝室へ入ってベッドに寝かせた。確かに、彼はかなり酒を飲んでいる。近づくと、酒の匂いが一段と濃く感じられた。だが彼の立場を考えると、どんなに重要な接待でも、ここまで飲む必要があるとは思えない。それでも深く考えることはせず、酔いで朧げな目をした彼を見て、淡々と言った。「酔い覚めのスープを作らせるよ」文翔は小さく「うん」と応じ、ベッドのヘッドボードにもたれながら、彼女の横顔をじっと見つめていた。彼がいつも自分を見つめるのに気づき、紗夜は居心地の悪さを覚える。彼の上着をハンガーに掛け、背を向けて部屋を出ようとした。そのとき、彼が彼女の手首を掴み、引き留めた。「どこへ行く?」「キッチン」スープを作るなら、当然キッチンだ。少し遠いだけで。「スープなんて面倒だ。ハチミツ湯でいい。外の棚にある」文翔が言った。部屋を出てみると、居間の収納棚に本当にハチミツがあった。テーブルには稲垣が用意した温かいお湯もあり、わざわざキッチンに行かなくても済み、確かに楽だっ
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第509話

そう言いながら、彼女は振り返って部屋を出ようとした。ドア口に差しかかった、そのとき。背後でかすかな物音がして、足音が近づいてくる。「ソファは硬い。そこで寝たら、体がつらいだろう」「一晩だけだし、大丈――」言い終わる前に、強い腕が突然、後ろから彼女の腰を抱き締めた。紗夜の体が一瞬、強張り、唇まで上がっていた言葉がそこで途切れる。――彼女ははっきりと、耳元にかかる彼の吐息を感じたからだ。文翔は顎を彼女の肩に乗せ、冷ややかなシダーウッドの香りと酒の匂いが混じり合い、熱を帯びて押し寄せてくる。まるで熱波のようだった。紗夜は一瞬、言葉を失い、身をよじって逃れようとしたが、彼の腕はさらに強く回される。「さーちゃん、少しだけ......本当に、少しだけ抱かせて。お願いだ......俺は、本当に君が恋しくて......気が狂いそうだった」紗夜の瞳に、かすかな揺らぎが走る。文翔は掠れた声で、さらに続けた。「三十年生きてきて、自分の選択を後悔したことなんて一度もなかった。自分の下した決断はすべて正しいと信じてきた。絶対に間違えないと......でも......」彼が次に何を言うのか、紗夜にはわかってしまった。彼の体から漂う酒の気のせいなのか、こめかみがじくじくと疼く。文翔の顎が沈み込み、彼女の首元に隙間なく触れる。熱く濃い息が、そのまま彼女の襟元へと流れ込んでくる。低く、掠れた声で。「俺は......後悔してる」紗夜の心臓が、一拍、抜け落ちたように不規則に脈打つ。「君を手放したことを後悔してる。もちろん、君を縛りつけるつもりなんてなかった。でも......離婚届にサインして、君の隣に正々堂々と立てる、唯一の資格を、自分から手放したことをどうしても後悔してるんだ......君が他の男の前に立って、笑っているのを、俺はただ見ていることしかできない。君が彼らに恋愛感情を持っていないと分かっていても、それでも、嫉妬で気が狂いそうだった。当時の俺は、自分は大人で、余裕があるふりをしていたが......全部、自惚れだった。俺は器が大きい人間なんかじゃない。ただの自己中心的で、心の狭い、欲張りな男だ。君のそばにいる男は、俺だけであってほしかった......」彼は優しく、それでいて逃
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第510話

しかし、紗夜は結局、顔を背けた。その声音は冷静だった。「文翔......私たちの間には、あまりにも多くのものが絡み合ってる。『やり直そう』の一言で、元の場所に戻れるほど単純じゃないの」実を言えば――彼女も一度は揺らいだことがあった。彼ともう一度やり直したい、そう思ったこともある。彼への想いは、何度も彼女を傷つけ、もう拾い集めることさえ難しくなっていた。それでも、彼が「一緒に探そう」と言ったとき、確かに心は動いてしまったのだ。けれど、たとえお互いが一歩ずつ歩み寄ったとしても、最後に残る二歩は、どうしても越えられない深い溝だった。ひとつは――陰謀が深く渦巻く長沢家。それはまるで、血の匂いを嗅ぎつければ狂ったように噛みついてくる、凶悪なオオカミのような存在で、一度引きずり込まれれば、二度と這い上がれない淵へと突き落とされる。もうひとつは――父・深水和洋。かつての京浜大橋の件は疑念が多く、紗夜は証拠不十分な矛盾点を見つけただけで、彼が完全に無罪だと証明することはできなかった。工事検収書類に記された署名は、間違いなく和洋の名前で、それが彼自身の筆跡であることも、彼女は確認している。しかも、和洋はいまだ目を覚まさず、真相を掘り下げる術すらない。だからこそ、彼女と文翔の間には、決して越えられない溝が横たわり続けている。そして彼女自身もまた、父が陥れられたかもしれないという影から、抜け出せずにいた。長沢家の内紛と陰謀に、もう二度と巻き込まれたくはない。和洋という存在は、文翔にとっても、決して解けない結び目だ。だから最後の一歩だけは、踏み出せなかった。無理に進めないのなら、いっそ、手放したほうがいい。彼女の決意を、文翔ははっきりと感じ取った。胸の奥がじわりと痛み、息が詰まるようだった。紗夜は彼の異変に気づかないまま、言うべきことはもう十分に伝えたと判断し、彼を押しのけようとした。――その瞬間。文翔の大きな体がふらりと揺れ、そのまま彼女に体重がのしかかってきた。紗夜は反応が間に合わず、よろめいてベッドに倒れ込む。かつての強引な文翔の姿が脳裏をよぎり、眉をひそめて、不快感をにじませた声を出しかけた。「ちょっと、何を――」しかし、その言葉は、彼の顔色が一気に青白くなっ
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