父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した? のすべてのチャプター: チャプター 141 - チャプター 150

184 チャプター

第141話

「うん」紗夜は軽く頷いたが、その瞳の奥に一瞬だけ迷いが走った。文翔に無理やり迫られた時も、彩との揉み合いの時も流れなかった──そんなに必死にこの世界に来ようとしている小さな命だ。胸のどこかでは、やっぱり手放すのが惜しい気持ちがある。「もうちょっと考えてみるよ」「どんな決断をしても、私はずっと紗夜ちゃんの味方だから」海羽は両手で彼女の肩を支えて目を合わせ、真剣な声で言った。「でも、一つだけ言わせて。子どもを降ろすかどうか、ちゃんと考えてから決めてね。あんなクズ男のせいで適当に決めるのはだめだからね」友達として、紗夜に一人で背負わせたくない。だからこそ慎重に、と言っているだけで、紗夜の決意が固いなら、それ以上言うつもりはなかった。紗夜はまた頷いた。「ありがとう、海羽」わざわざ来てくれてありがとう。一番苦しい時に、そばで支えてくれてありがとう。「そんな改まることないでしょ」海羽はそっと抱きしめ、コップに水を注ぎ、紗夜の吐き気がおさまるまで待ってから言った。「千芳おばさんのところ、連れてって」「うん」紗夜は彼女を連れて歩き出した。だが扉を出てすぐ、少し先に小さな影が立っているのが見えた。「理久?」紗夜は思わず足を止めた。――どうして、理久がここに?千芳のお見舞いに来たのだろうか?でも今日手術のことは言っていない。考える間もなく、理久は走って来て、突然彼女を強く押した。「ふんっ!この悪い女!」子どもだから力は大したことないが、あまりに唐突で、紗夜はよろめき、後ろの壁にぶつかりそうになる。「紗夜ちゃん!」海羽が咄嗟に支え、不機嫌に理久を叱った。「彼女は理久のお母さんよ。なんでそんなことするの?!今彼女は──」そこまで言いかけたところで、紗夜が彼女の手首を掴んで止めた。妊娠のことは誰にも知られたくない。特に理久に。彼が知れば文翔も知る。そうなればもっと面倒になる。海羽はその意図を読み取り、言葉を変えた。「怪我してるんだから!」包帯の巻かれた手を見せる。しかし理久は全く意に介さず、怒りに満ちた顔で言った。「お母さんは手を怪我しただけ。でも竹内おばさんの顔は、お母さんに傷つけられた!」その一言で、理久の中で誰がより大事なの
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第142話

「あっ!」理久は痛みに耐えられず、そのまま泣き出した。「お母さんと同じ悪い女!パパに言って、お前たちをボコボコにさせるから!」「私を?笑わせないで。呼んで来なよ」海羽はお尻を叩いていた手を理久の耳に移し、むんずとつまんだ。「どっちが早いか見せてもらうわ。君のパパが先に来て私を殴るか、私が先にガキを叩き潰すか」「いたっ!いたい!」理久は痛みに負けて号泣した。「うわあああっ......!」高く澄んだ子どもの声が、しゃがれ声になるほど泣き叫ぶのを聞きながら、紗夜の瞳に複雑な色が浮かぶ。泣き声はどんどん大きくなり、周囲の視線も集まってきた。これ以上続くのは良くない。「海羽......」紗夜は慌てて声を掛ける。しかし、「やりすぎ」その言葉を言う前に──「理久!」心配に満ちた女の声が響いた。彩が急いで車椅子を押し、飛び込んできた。海羽の手を掴み、怒ったように言う。「子どもにこんなことするなんて、ひどい!」突然の乱入に一瞬固まった海羽は、すぐにその手を振り払った。「何様?邪魔しないで」「竹内おばさんを悪く言うな!」理久はすぐに彩の前に立ち、守るように広げた手はまだ震えている。彩はすぐに優しく声をかける。「理久、大丈夫よ。おばさんは平気よ......」「平気じゃない!お母さんが竹内おばさんを傷つけたんだ。絶対許さない!」理久は小さな体で彩を守り、顎を上げて紗夜を睨む。「ぼくは竹内おばさんが好き!お母さんなんて嫌い!もしお母さんが竹内おばさんに手を出したら、ぼくはお母さんをいらない!竹内おばさんの息子になる!パパに竹内おばさんをお嫁さんにしてもらって、お母さんなんか追い出すんだ!」幼い声が放つ言葉は、鋭い刃のように紗夜の心を刺した。周りの人は、その言葉を聞くとさらにざわつき出す。「どういうこと?息子が実の母親を否定して、他の女をお母さんにしたいって?」「そりゃ母親がダメなんだろ。旦那も子どももつなぎ止められないって、相当終わってるじゃん」「ほんと、どうしようもないわね」「は?ちょっとそこ、何言ってんの?」海羽が怒鳴り返す。「まだ言うつもりならぶっ殺すわよ!」野次馬たちは彼女の殺気立った目にびくっとし、たじろいで後ずさった。「さっさと消えな
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第143話

一瞬にして、さっきまで騒ぎ立てていた人々の声がぴたりと止んだ。圧迫感のある威圧が場を覆い、全員の喉をぎゅっと掴んだように息が詰まる。しかも、その圧は一つだけではない。文翔の隣に一輝が立ち、冷たい視線で海羽に手を出そうとした者たちを一掃するように見据え、指を軽く上げる。次の瞬間、数名のスーツ姿の屈強なボディーガードが音もなく前に進み、まるで壁のように周囲を囲み込んだ。人々は慌てて後ずさる。「さっき、誰が『追い出せ』とか言った?」一輝の声は、文翔より鋭くはないが、十分すぎるほど威圧的だった。誰もがごくりと唾を飲み、互いに顔を見合わせて黙り込む。ボディーガードの体格に目を奪われ、膝が震える者もいた。「失せろ!」その一言に、群衆は赦しを得たかのように蜘蛛の子を散らすように逃げていった。海羽は、庇ってくれた一輝を一瞬驚いたように見上げたが、長く視線を交わすことなく、すぐ紗夜の方へ向いた。「紗夜ちゃん、大丈夫?」紗夜は一歩前に出て、文翔の手を完全に離れた。触れられるだけで嫌だった。「平気」「ぼくは大丈夫じゃない!」理久が泣き声で叫び、文翔に訴える。「パパ!あの人、ぼくを叩いた!」しかし文翔の視線は冷たかった。「誰がここに来ていいと言った」その冷淡な声音に理久はビクリとし、唇を震わせ涙目になる。「理久は私のことを心配して、私がつい口を滑らせてしまって......それで来てくれたの」彩が優しく庇う声を出す。「理久は文翔の息子よ。そんな言い方しないで」「そうだもん!」理久は彩の腕に逃げ込み、強がった声を張る。「ぼくは竹内おばさんの怪我が心配で来ただけだから!竹内おばさんはお母さんのせいで傷ついたんだ!ぼくは竹内おばさんの味方する!」紗夜の胸に、また鋭い痛みが走る。彼の口から何度も繰り返されるその言葉は、冷たい氷塊のように心臓へ叩きつけられた。全身が冷えていく。胸の奥まで凍りつくような絶望。紗夜は静かに息を吸い込み、震えを押さえて言った。「理久。『お母さんを替えたい』と言うなら......好きにすればいい。好きな人を母親にしなさい」理久は目を丸くした。まさか、あっさり認めるとは思っていなかったのだ。彩は勝ち誇るように理久を抱きしめ、紗夜に視
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第144話

だが、それだけだった。そしてあの言葉を言い終えると、紗夜はもう彼らに一瞥もくれず、疲れた身体を引きずるようにしてその場を去った。「紗夜ちゃん......」海羽が慌てて追いかけ、一輝と文翔も簡単に別れを告げて後を追う。茶番は、紗夜の退場で幕を下ろした。彩の瞳には、さらに深い笑みが宿る。勝ったのは自分だ、と。彼女は理久の肩に手を置き、柔らかく言った。「理久、こんなに心配してくれてありがとう。本当に良い子だわ」だが理久は珍しく言葉を返さず、遠ざかっていく紗夜の背中をじっと見つめていた。まるで、手の中にあった何かが静かにこぼれ落ちていき、それを掴み返そうとしてももう届かない、そんな表情だった。「理久?」彩が呼びかける。理久はようやく我に返り、彩を見て気遣うように言った。「竹内おばさん、顔まだ痛い?吹いてあげよっか?」「大丈夫よ、もうほとんど治ったわ」彩は微笑む。「お医者さんも、明日退院できるって言ってたし」理久は言った。「じゃあ、今夜はぼく、竹内おばさんのそばにいるよ」「明日は学校だ」文翔が冷ややかに口を開く。抑揚のないその声に、理久は思わず首をすくめた。父がこういう時は、大抵怒っているのだ。彩が弁護しようとしたが、文翔が先に制し、拒絶を許さぬ調子で命じた。「今すぐ帰れ」「......うん」理久は肩を落とし、運転手の後について帰っていった。理久が去ると、彩の胸は少し弾む。これで残るのは自分と文翔だけ。二人の時間――それは、ずっと待ち望んでいたもの。彩は潤んだ目で文翔を見つめ、柔らかく呼んだ。「文翔......」だが次の瞬間、文翔のスマホに通知が入り、彼は一度も彼女に視線を寄こさず、長い脚で大股に歩き去った。彩は呆然とし、胸の中の期待が一瞬で消え失せる。強く車椅子の肘掛けを握り締めた。......病院を出ると、まだ道端に止まったままのロールスロイス、そして困り顔の中島が目に入った。「長沢社長、雅恵様がどうしても動こうとされなくて......無理にお連れするわけにも......」雅恵は言ったのだ。彼らが車を動かせば、隣一に「自分を軽んじた」と告げると。妻を溺愛する隣一の性格なら、真偽に関わらず彼らは無事では済まな
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第145話

その言葉に、雅恵は冷ややかに笑った。「どうやら本気であの女を庇うつもりらしいわね。忘れたの?あの女が最初にあんたにどんな卑しい手段を使ったか。なのに今さら同情?本当に、喉元過ぎれば熱さを忘れるのね」「俺は事実を話しているだけだ」文翔は横目で彼女を見やり、声はさらに冷えた。「診察室の監視映像を持ち去ったのは、母さんだろ」一瞬、雅恵の目が揺れた。「何の話かしら?」「そうか」表情だけで十分だった。彼は問い詰めなかったが、もう答えは得ている。映像を消したということは、そこに彼女たちに不利な内容があったということ。つまり、紗夜は先に手を出したわけではなく、正当防衛の可能性が高い。だからこそ雅恵は証拠が揃う前に警察へ突き出し、罪を認めさせようと急いだ。それでも文翔はそれを口にせず、ただ冷静に告げた。「これから俺の家庭のことに口を出すな」「母さんだと分かってるなら、言うことを聞きなさい。紗夜とは離婚して、彩ちゃんと結婚を──」「しなくもいい。長沢大奥様」文翔は言葉を遮り、陰の色を帯びた声で続ける。「その座にしがみつきたいなら、俺と揉めないことだ」ロールスロイスの豪奢な後部座席。母と子は、華やかな家名の体面を、足で踏みにじっていた。文翔の言葉を聞いた瞬間、雅恵の指はぎゅっと握りしめられ、彼を睨みつける。信じられない、という怨念と苛立ちが、その目にあった。こんな口を利く息子ではなかったはずだ、と。だが文翔の表情は冷ややかで、瞳には鋭い危うさが宿っている。一触即発の沈黙が流れる。しばらくして、雅恵がしぶしぶ吐き出した。「......分かったわよ」その言葉を聞き、文翔の眉に張り付いていた冷気が、ほんの少しだけ緩む。「車を出せ。長沢大奥様を先に送れ」屋敷に着くと、雅恵は鋭く一瞥し、怒りをドアにぶつけるように勢いよく閉めた。だが文翔の顔色は一切変わらない。「別宅へ」車は静かに走り出し、窓外の景色が移り変わっていく。「長沢社長、来週はグループの総会です。こちらは各部署からの資料です」中島がタブレットを差し出し、段取りを説明していく。文翔は一瞥しただけで、眉間に疲労の色を滲ませながら放り出し、目頭を揉んだ。「体調が優れませんか?家庭医を呼びましょうか
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第146話

「必要ない」文翔は、先ほどの紗夜の態度を思い出した。自分には恨みがましい顔を向け、他の男には笑顔。その落差に、引き締まった眉がさらに深く寄る。あれだけ意地を張るなら、こちらから助けてやる理由などない。彼が望むのは、彼のところへ頭を下げさせること。ただそれだけだ。手を持ち上げた瞬間、掌に微かに残る記憶──紗夜の腰の温度がよぎる。ひと掴みで収まる、柔らかい腰。あの感触は、もう長く味わっていない。彼女がプライドを捨てて自ら求めてくる瞬間を、彼は望んでいた。そのときこそ、当然のようにすべてを奪い、腕の中に抱き込む。優しく、柔らかく、彼だけのものとして。そしてまた思う。彼が満たさなければ、紗夜は離れない。結局は傍に留まり、やがて疲れて、昔のように彼のために世話を焼き、優しい妻に戻るはずだと。文翔はそう信じていた。自分が愛されていると分かっている者は、いつも余裕ぶっていられる。だがその読みは、今回だけは外れた。紗夜はもう、理久も、彼も、欲していない。温まらない夫、心の通わない息子──その両方を、手放すと決めた。千芳と共に、この街を離れるつもりだ。二人の存在する場所ごと、背を向けて。――紗夜は医師と看護師を手伝い、目を覚ましたばかりの千芳を集中治療室から特殊病室へと移す。「ゆっくり......」ベッドを押しながら、紗夜の声には緊張が滲んでいた。「そんなに構わなくても平気よ。紙でできてるわけじゃないんだから」千芳は笑う。体にはまだ管が繋がれているが、顔色は悪くない。「まあまあ、紗夜ちゃんが心配してるってことだよ、千芳おばさん!」海羽が駆け寄り、明るい声を上げる。その様子を、外で見ていた一輝の瞳がふっと陰る。いつも強気な海羽が、千芳の前では少女のような顔を見せる。千芳を整え終えたところで、海羽も泊まるつもりでいたが、一輝は反論を許さず彼女を連れ出した。――黒いベントレーは夜の中に溶け込み、車体がわずかに揺れていた。海羽は一輝の膝に跨り、墨色の髪が白い背中に流れる。絵のように、妖しく、美しい。顎を掴まれ、熱が唇に落ちる。絡みあう息。やがて海羽は一輝の胸に身を預け、力が抜けていく。彼は乱れず、彼女だけが崩れていた。
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第147話

海羽は、自分の今回の要求が高すぎることぐらい分かっていた。けれど彼女はただ、紗夜を爛上でちゃんと安定させたいだけだった。実際、今の彼女のギャラなら、爛上にいい家を買うことぐらいできる。だが、彼女が欲しいのは爛上一等地の家。環境もセキュリティも最高レベルで、そしてそれは必ず一輝から贈られたものでなければならない。一輝の力を借りて、紗夜と千芳を守るためだ。そこが、彼女にとって何より大事だ。文翔と正面から渡り合える相手を、彼女は他に知らなかった。だからこそ、柔らかい声で、白い指先を彼の胸元に添え、水のようにとろりとした調子で囁いた。「20億円は、一般人にとって手の届かない額かもしれない。でも瀬賀社長にとっては、ただのお小遣いでしょう?瀬賀社長なら、そんなケチなことしないよね?」一輝は彼女を見つめ、瞳の奥が深く沈んでいく。いける――海羽がそう感じ、唇を寄せようとした瞬間。一輝は彼女の顎をつまみ、その動きを止めた。底が見えない瞳に、彼女の意図を読み切った色が浮かぶ。「海羽。俺が気づいてないとでも?君は俺の力を使って、友人を守りたいだけだ」一言で、甘く残っていた雰囲気がぱん、と弾け飛んだ。「そうだよ、確かにそのつもり」隠す意味がなくなり、海羽は自分から彼の手を握った。「一輝、お願い。助けて」切実な声。しかし一輝の表情は変わらない。「俺、次の案件で文翔と組む予定なんだが」文翔と組む以上、敵に回す意味などない。「知ってる」海羽は真剣に言う。「紗夜ちゃんと千芳おばさんの住む場所を確保してほしいだけ。文翔と喧嘩しろなんて言わない。怒られる理由なんてないでしょ?それに、紗夜ちゃんと文翔はもう離婚手続き済み。もう夫婦じゃないんだから、紗夜ちゃんがどこに行こうが文翔に口出しする権利はないでしょ?」「結婚してたのか?」一輝の目に、意外の色が走る。文翔が結婚して、そして今は離婚?しかもあの時、紗夜を見る彼の目には抑えきれない独占欲が滲んでいたのに。愛が冷めたなんて到底見えなかった。「本当に、離婚したのか?」「もちろん。紗夜ちゃんが言ったんだよ。私が嘘ついてどうするの?」海羽は彼を見つめる。「お願い。私、一輝が欲しいものなら何だって差し出すから」一輝は
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第148話

あの瞬間、彼女は紗夜を抱きしめて、嬉しさのあまり泣きじゃくった。紗夜はずっと背中を撫でて慰めてくれていた。紗夜は一度も彼女の出自を見下さず、心から友達として接してくれた。そして、意地の悪い同級生たちに「食い意地が張ってる」「細くて黒い薪みたい」なんて笑われた時、細くて小柄な紗夜は真っ先に彼女の前に立ち、庇ってくれた。その全部が――年月が経っても忘れられない。だからこそ、紗夜のためなら、彼女は何だって差し出す覚悟だった。海羽の真っ直ぐな言葉を聞き終えると、一輝は顎をつまんでいた手を彼女の頬へと滑らせた。海羽の顔立ちは、誰が見ても一度で覚えるほど印象的だ。細長く艶やかな瞳は、視線を流すだけで人の魂を引き寄せるようで、上がり気味の目尻には尽きない色気が滲む。高い鼻筋、くっきりとした輪郭――東洋の柔らかさも、西洋の立体感も備え、妖艶さの中にも凛とした気品があった。舞台に立つために生まれてきた顔。だからこそ、彼女はたった顔一つで芸能界を駆け上がり、どんなアンチも安定した美貌の前では言葉を失った。一輝の視線は、彼女の唇へと落ちた。熟れたケシの花弁のようにふっくらと艶やかで、ひと口触れればやめられなくなるような、危うい魅力。だが今、彼は美貌に溺れることなく、真っ直ぐに彼女の目を見て、薄く笑った。「でも。ミウちゃんが渡せるものは、もうないと思うよ?」たったそれだけで、氷水を浴びせられたようだった。――そうだった。初めてを捧げた。身体も、持てる全てを差し出した。彼が持っていて、彼女が持っていないものは無数にある。彼女が持っていて、彼が欲しいものなど――もう何一つない。海羽の瞳の輝きが、静かに消えていく。彼がここまで言うのは、つまり助ける気などないということ。どれだけ懇願しても無駄。そして、もし彼を手放したくないなら――ここで引くしかない。「......そう。お邪魔しました」伏せたまつげが震え、彼の膝から降りようとした――その瞬間。一輝が彼女の手首を掴んだ。もう片方の手は、腰の後ろから滑って前へ。大きな掌が薄い布越しに、彼女の平坦で柔らかな腹を包み込む。その体温が、一気に全身へと広がった。海羽は一瞬固まり、戸惑いのまま彼を見る。彼が何を意味して
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第149話

「ちょっと言い方ひどくない?」海羽は不機嫌そうにデコピンを食らわせ、きっぱりと言った。「私はちゃんと税金払ってる、真面目な納税者だよ!」「じゃあこの家は一体......」紗夜は知っている。そのエリアの家は一戸が千万円、下手すれば億単位。海羽はここ数年ずっと国内外を飛び回って仕事していて、家にいる時間なんてほとんどない。そんな中で、この場所の家を買うなんて――どう考えても不自然だ。「好きだから買ったんだ」海羽は少しだけ目を伏せ、肩をすくめながら軽く言った。「この仕事、稼ぐのにそこまで時間かかんないし。使ったらまた稼げばいいじゃん。それに、紗夜ちゃんと千芳おばさんにいいところで暮らしてほしいからだよ。そうじゃないと、私が安心できないでしょ?」紗夜はまだ半信半疑だったが、彼女の手をそっと握り、真剣に言う。「海羽にはもう十分助けてくれた。これ以上無理してほしくない......私、海羽が頑張りすぎるのを見るの辛いの」芸能界でここまで来るのに、海羽がどれだけ大変だったか。ようやく一本の映画で注目され、未来が開け始めたところ。彼女の背負うものは自分だけじゃない。祖父母、チーム、そして――そんな時、小さな子の泣き声が響いた。「うぅぅ......!」「奈々、大丈夫よ、注射するだけだから。怖くない、怖くない......」若い母親が必死にあやしているが、子どもは泣き続け、声も枯れている。母親も初めての育児らしく、途方に暮れている。海羽はそっと近づき、小さくしゃがみ込み、優しい声で話しかけた。声色はどこか幼く、柔らかい。「奈々っていうの?そんなに可愛い顔が涙だらけじゃ台無しだよ。チーズスティック持ってるんだけど、食べる?」泣きじゃくる奈々は、小さくうなずく。「じゃあひとつだけお約束。食べたら泣き止むこと。わかった?」海羽はバッグからチーズスティックを2本取り出し、優しく微笑む。奈々はチーズを見るなり泣き止み、手を伸ばした――が、海羽は軽く手を引いて言った。「お母さん、すごく頑張ってるよ。だから奈々もいい子にできるよね?」奈々はこくり。海羽は小指を差し出す。「ゆびきり」奈々も真剣に「ゆびきり!」と返し、ようやくチーズスティックを受け取った。母親は
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第150話

看護師にお礼を渡そうとしたが、彼女は受け取らずに言った。女性同士助け合うものだから、そんな細かいことは気にしなくていいと。その瞬間、紗夜の目の奥がじんわり熱くなった。「紗夜ちゃん!行くよー!」助手席に座っていた海羽が手を振る。紗夜は振り返り、一切迷わずに大股で歩き出した。その刹那、太陽が昇り、深い藍色の空は淡く変わり、やがて温かな橙色に染まっていく。世界中が金色の光を纏い、木々も草も花々も、光を浴びて一層生気に満ちて見えた。紗夜は空を仰ぐ。まるで自分までその陽光に金の縁取りをされたようで、胸の奥に刻まれた無数の傷までも、少しずつ癒えていく気がした。日の出がもたらすのは、光だけじゃない。希望と、新しい始まり。紗夜は覆っていた陰から抜け出し、輝く朝焼けへと大股で進む。それは、彼女自身の再生へ向かう歩みだった。......二日後、文翔は会社から長沢家へ戻った。このところ年度報告で忙しく、ずっと会社に泊まり込み。ようやく仕事を片づけて帰ってきたのだ。広い別荘には使用人がいるはずなのに、どこか空っぽで、何かが欠けているようだった。文翔は眉を寄せ、胸の奥に妙な虚しさが湧いたが、すぐに押し込めた。「旦那様、お帰りなさい」池田が迎え、続けて言う。「ずいぶんお帰りになってませんでしたから、昨日お坊ちゃんが電話で『パパに会いたい』と仰ってましたよ」だが文翔は彩の家に住んでいる理久のことを訊くことなく、ただ一言、「奥様は?」「奥様?」池田はそのまま答えた。「奥様は家にいらっしゃいません。荷物をまとめて出て行かれました」秘書が「紗夜のスーツケースが消えた」と言っていたことを思い出す。「いつ出た?」「一週間前です」池田は思い返しながら言う。「奥様は夜中に荷物をまとめて、お母様を看病するって......何かありましたか?」文翔は答えず、そのまま階段を上がる。向かったのは主寝室ではなく、書斎横の客室だった。あの日、彩がここに住み始め、紗夜と揉めてから、彼はずっと客室で寝てきた。だが、客室はどうしても主寝室ほど広くないせいか、それとも「ひとりで寝る」のが気に入らないのか――やはり、紗夜が隣に横たわっている温もりこそ、彼の睡眠の形だった。いつも背中を
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