紗夜は昼食を文翔の秘書に預けてすぐに帰るつもりだったが、昼休みの時間帯には社長室の人たちはほとんど出払っており、中島(なかしま)の姿も見えなかった。室内では一人のアシスタントだけが机を片付けていた。紗夜は近づいて言った。「すみません、昼食を長沢社長に渡していただけますか?」アシスタントは手を止め、紗夜を一瞥して聞いた。「長沢社長の家の料理人ですか?」グループ全体で、中島を除けば誰も紗夜が文翔の妻であることを知らなかった。それは、かつて文翔が彼女に言った言葉そのものだった。「結婚はできるが、立場は与えない」冷淡で、非情な言葉。それでも、当時彼を一途に想っていた紗夜は、その条件でも喜んで嫁いだ。その結果、彼女が「長沢家の若奥様」であることは、もはや名ばかりのものとなっていた。紗夜は特に気に留める様子もなく、軽く笑って曖昧に頷いた。「長沢社長は前の部屋にいます。直接持って行ってください。社長室の中に入れるのは中島さんだけなんですから、私たちは許可なしでは......」アシスタントは大きなオフィスを指差し、申し訳なさそうに言った。社員の立場は理解できる。紗夜は他人を煩わせることなく、自ら弁当を持って文翔のオフィスへ向かった。しかし、ドアをノックする間もなく、中からドアが開かれた。彩が出てきた。服のボタンを留めながら、乱れた髪を後ろにかき上げている最中だった。紗夜を見つけて、少し驚いたように声をかけた。「深水さん?」紗夜は返事をせず、視線を逸らし彼女を見ようとしなかった。彩のその様子から、中で何があったのかは推して知るべしだった。「文翔にご飯を届けに来たのですか?」彩は笑みを浮かべた。「彼、今ちょっと忙しいので、代わりに渡しましょうか?」彼女は手を伸ばして紗夜の弁当を取ろうとしたが、紗夜はそれを避けた。「結構です、自分で渡しますから」彩は一瞬手を止め、眉を上げた。今朝の様子からして、大人しく引き下がるタイプだと思ったのに。やっぱり、そんなことはなかった。だが、五年前のあの件がある限り、文翔が彼女を愛することは絶対にない。どれだけしがみついたって無駄なのだ。むしろ嫌われるだけ。「どうぞ」彩は一歩引いて通路を空けた。まるで面白い見世物
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