All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

紗夜は昼食を文翔の秘書に預けてすぐに帰るつもりだったが、昼休みの時間帯には社長室の人たちはほとんど出払っており、中島(なかしま)の姿も見えなかった。室内では一人のアシスタントだけが机を片付けていた。紗夜は近づいて言った。「すみません、昼食を長沢社長に渡していただけますか?」アシスタントは手を止め、紗夜を一瞥して聞いた。「長沢社長の家の料理人ですか?」グループ全体で、中島を除けば誰も紗夜が文翔の妻であることを知らなかった。それは、かつて文翔が彼女に言った言葉そのものだった。「結婚はできるが、立場は与えない」冷淡で、非情な言葉。それでも、当時彼を一途に想っていた紗夜は、その条件でも喜んで嫁いだ。その結果、彼女が「長沢家の若奥様」であることは、もはや名ばかりのものとなっていた。紗夜は特に気に留める様子もなく、軽く笑って曖昧に頷いた。「長沢社長は前の部屋にいます。直接持って行ってください。社長室の中に入れるのは中島さんだけなんですから、私たちは許可なしでは......」アシスタントは大きなオフィスを指差し、申し訳なさそうに言った。社員の立場は理解できる。紗夜は他人を煩わせることなく、自ら弁当を持って文翔のオフィスへ向かった。しかし、ドアをノックする間もなく、中からドアが開かれた。彩が出てきた。服のボタンを留めながら、乱れた髪を後ろにかき上げている最中だった。紗夜を見つけて、少し驚いたように声をかけた。「深水さん?」紗夜は返事をせず、視線を逸らし彼女を見ようとしなかった。彩のその様子から、中で何があったのかは推して知るべしだった。「文翔にご飯を届けに来たのですか?」彩は笑みを浮かべた。「彼、今ちょっと忙しいので、代わりに渡しましょうか?」彼女は手を伸ばして紗夜の弁当を取ろうとしたが、紗夜はそれを避けた。「結構です、自分で渡しますから」彩は一瞬手を止め、眉を上げた。今朝の様子からして、大人しく引き下がるタイプだと思ったのに。やっぱり、そんなことはなかった。だが、五年前のあの件がある限り、文翔が彼女を愛することは絶対にない。どれだけしがみついたって無駄なのだ。むしろ嫌われるだけ。「どうぞ」彩は一歩引いて通路を空けた。まるで面白い見世物
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第12話

文翔が車から降りると、その後ろには彩が続いていた。紗夜は視線を引き戻し、身体を横に向け、黙ってコーヒーを口に運んだ。店内のスタッフたちは手を止め、店の入口に並び、深く一礼して挨拶した。「長沢さん、いらっしゃいませ」文翔は軽く頷き、社長の案内で彩と共にそのまま2階へと上がっていった。彼らが去ると、1階にいたスタッフたちはひそひそと噂話を始めた。「まさか噂の長沢社長があんなに若くてイケメンだなんて......夢の王子様だわ......」「諦めなよ、隣にいたあの人見なかった?あの雰囲気、あの美貌、長沢社長と完璧すぎる組み合わせじゃない」「そういえば、長沢社長って昔、ウィンストンのブルーダイヤの指輪を30億で落札したんでしょ?あれ、きっとあの人にプレゼントしたんだよ」「なにそれ!ロマンチックすぎる......長沢社長、本気であの人のこと愛してるんだね......」......紗夜は彼らが文翔と彩の「愛」を語るのを聞きながらも、心は波立つことなく平静だった。彼女の頭にあるのはただ一つ――30億あれば、母の治療費は余裕で足りるということ。残念ながら、彼女のダイヤの指輪は1億6000万の価値しかなかった。とはいえ、あれほど自分を嫌っていた文翔が1億6000万の指輪を贈ったのは、ある意味「特別待遇」だったのかもしれない。紗夜は自嘲気味に微笑んだ。ちょうどその時、買取担当者が小切手を持ってやって来た。「深水さん、合計5億4000万です。ご確認ください。また何か宝石を売却される際は、ぜひご連絡を」「ありがとうございます」紗夜は礼儀正しく礼を述べた。だがもう、次はないだろう。今の彼女には、もう売れるような価値ある物は何も残っていなかった。ちょうど小切手を受け取り、席を立とうとしたそのとき......「深水さん?」彩の声が聞こえてきた。紗夜が顔を上げると、ちょうど階段に立つ文翔と目が合った。彼の視線にはほとんど温度がなかった。まるで見知らぬ人を見るかのように。そう、彼は外では決して彼女と親しげな態度を見せたことがない。ましてや今、隣には彩がいる。紗夜は先に視線を逸らし、小切手を鞄にしまった。「深水さん、奇遇ですね。まさかここでお会いするとは」彩は微笑みながら声をかけて
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第13話

「違うよ、千芳おばあちゃんに付き添ってるの」紗夜はカメラを反転させると、病室のベッドに寄りかかっている深水千芳(ふかみず ちほ)の姿が映り、すでに目を覚ましていた。彼女は手を振り、電話の向こうの理久に向かって声をかけた。「理久......」「おばあちゃん!」理久は甘えた声でそう呼んだ。おばあちゃんはこっそりと彼の好きな飴をくれることもあり、理久にとっては少し特別な存在だった。ただ、彼女が長らく病気を患っているため、志津子は病気がうつると心配し、理久に千芳おばあちゃんの見舞いを禁じていた。久しぶりの再会に、理久の顔にはぱっと明るい笑顔が咲いた。そして手首の電話を掲げながら、文翔の方を向いて言った。「パパ、千芳おばあちゃんだよ!」「ああ」文翔は電話の中の千芳に軽く頷いた後、そのまま階段を上がっていった。その間、紗夜とは一言も交わさず、まるで電話の向こうに彼女がいないかのようだった。紗夜はもう彼の冷たい態度に慣れていた。彼女は理久に問いかけた。「どうしたの?何かあった?」すると理久はすぐに手首の電話をしっかりと持ち直し、謝った。「お母さん、ごめんなさい。昨日、ぼくいい子じゃなかった......」学校の先生は、間違いを認められる素直な子になりなさいと教えてくれた。家庭教師の先生は「物事に正しいも間違いもなく、自分にとって得か損かだけ」と教えるが、今回ばかりは自分が悪かったと、理久も心のどこかで思っていた。お母さんが最近、彼に冷たかったこと......好きな料理を作ってくれなくなり、寝る前のお話もしてくれなくなったこと......その変化が、彼の心にも何かを残したのだ。だから、もし謝ることでお母さんが以前の優しいお母さんに戻ってくれるなら、謝ることはちっとも嫌じゃなかった。画面の向こうの紗夜は、理久の謝罪の言葉に一瞬驚いたように目を見開いた。目頭がじんわり熱くなったが、涙はこらえて、優しく声をかけた。「理久、もう遅いから、早く寝なさい。明日は学校でしょ?」「お母さん、今日は帰ってこないの?」理久が尋ねた。今夜こそ、お母さんに寝る前の話をしてほしかったのだ。紗夜は、さきほど文翔が階段を上がっていったのを思い出し、昨日の険悪な雰囲気を思い返した。「ううん
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第14話

紗夜は声のする方に目をやった。階段を下りてくる彩の姿が見え、そのすぐ後ろには文翔がほぼ同じ歩調で続いていた。まるで一緒に起きて、一緒に身支度をして、そのまま一緒に下りてきたようだった。やはり、文翔は昨夜彩の部屋に泊まっていたのだ。紗夜は目を逸らし、彼らの方を見ようともしなかった。その頃には、理久の関心はすっかり彩に向かっていた。「竹内おばさん、おはよう!」彼は紗夜が作ってくれたおやきを手に取ると、小走りで彩のところへ行き、興奮気味に言った。「これお母さんが作ってくれたんだ!竹内おばさんも食べてみて、おいしいよ!」「ええ」彩は紗夜に一瞥をくれてから、にこやかに一つ取り上げて口に運んだ。「おいしいね」「でしょ!」理久は白い小さな八重歯を見せて笑い、「竹内おばさんが好きなら、今度またお母さんに作ってもらうよ。何個でも!」紗夜は黙って、静かに自分の朝食をとっていた。「まさか深水さんの料理の腕がこんなにいいとはね」彩は紗夜の正面に腰を下ろすと続けた。「理久も気に入ってるみたいですし、深水さん、よければ私にも作り方を教えてください」彼女の視線を受けて、紗夜はゆっくりとお粥をかき混ぜながら言った。「作り方はもう出雲に教えた。知りたいなら、出雲に聞いて」「出雲?」彩は少し首を傾げた。文翔の視線もわずかに紗夜の方へ向けられた。「新しく入った料理人よ。姓は出雲」紗夜が補足した。「そうですか」彩はキッチンで作業している蒼也を一瞥し、少し値踏みするような目を向けた。見た目は若くて悪くはないが、文翔とは到底比べものにならない。紗夜がそんな料理人と親しくする理由が理解できない。もっとも、紗夜が誰と親しくしようと彩にとってはどうでもよかった。彼女にとって重要なのは、ただ一人、文翔だけだ。彩は再び文翔を見た。彼の視線が無意識に紗夜の方へ向いているように感じて、指先に力が入った。彼女はそっと箸を伸ばし、料理を一品文翔の皿に置いた。「文翔、これ食べてみて。昨夜はずっと忙しかったんだから、たくさん食べなきゃ」柔らかい声色でそう言った。その言葉に、紗夜の手元のスプーンが一瞬止まった。ちょうどそのとき、文翔のスマホが鳴り出した。中島からの電話で、今日のスケジ
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第15話

紗夜はよく分かっていた。理久は、母親である自分は何もできなくて、大好きな竹内おばさんには到底及ばないと思っている。だから、自分が学校に送るのは恥ずかしいと感じて、拒んだのだ。けれど、紗夜はそれを指摘せず、ただ微笑みながら理久を執事に託し、自分のやるべきことに取りかかった。二人が家を出ていくと、広々とした邸宅にはまた紗夜ひとりだけが残された。「奥様、こちらお求めの花です」池田がカートで色とりどりの花を中庭に運んできた。何に使うのか分からなかったが、言われた通りに準備してくれたのだった。ただ、紗夜が文翔と彩の関係に一切干渉せず、理久の態度にも気にしない様子を見て、池田は不安げに言った。「奥様、こういうお花のお世話は私たちに任せて、旦那様やお坊ちゃんにもう少し気を配ったほうが......」その先の言葉は飲み込んだが、紗夜には十分伝わった。このまま何もせずにいれば、彩が自分の居場所を完全に奪ってしまうのではないか――と。「ありがとう」紗夜はただ花を受け取り、彼らの話題には一切触れなかった。池田は何か言いかけたが結局やめ、「じゃあ、ハサミをお持ちします」とだけ言って引き下がった。紗夜はすでに動きやすい服に着替えており、池田から受け取ったハサミや道具を手に花の整理を始めた。けれど今回は、ただの手入れではなかった。花々を使って、彼女はひとつの造形作品を作り始めたのだ。色とりどりの花を組み合わせながら、やがて一羽の神鳥が翼を広げたような姿に。尾羽にあたるブルーベルは風に揺れ、本当に羽ばたいているように見えた。「わ、綺麗......!」池田は思わず感嘆の声を漏らした。奥様が花の扱いに長けているのは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。「まるで展覧会に出てくるアート作品みたいです!」それを聞いた紗夜は少し微笑んだが、その笑みは目に届いていなかった。「『アート』なんて言葉には、まだまだ遠いわ」そう言って、完成したばかりの花の作品をひとつひとつ、丁寧に解体し始めた。「えっ、奥様、どうして壊しちゃうんですか?」池田は困惑した。これを完成させるのに2時間もかけていたのに......「ただの練習よ」紗夜はそう言いながら、どこか寂しげな目をしていた。この5年で
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第16話

その言葉を聞いた紗夜は、心の中で皮肉げに笑った。理久が学校へ行くようになったことで、少しずつ変わっていくのではないかと期待していた。以前、彼が自ら謝ってくれたこともあり、「やはり私が産んだ子なのだから、そう簡単に母親を切り捨てたりはしないはず」と、ひそかに嬉しく思っていたのに。結局は自分の思い込みだった。理久の目には、「どこに出しても恥ずかしい母親」である自分よりも、あの完璧な彩の方が遥かに上に映っているのだ。紗夜は息子の問いに答えず、代わりに文翔へ目を向けた。彼は何事もなかったように手元の書類に目を通し、時おり中島にメッセージを送り、修正点を伝えている。いつも通りの、冷淡で、距離のある、他人事の態度だった。紗夜は視線を戻し、すべてを悟った。文翔はこれまでも、公の場で自分の存在を明かしたことは一度もなかった。そんな彼が、どうして自分と一緒に人前に現れることを許すだろうか。だからこそ、理久が駄々をこねて彩と同じ車に乗りたがったとき、文翔は何も言わなかったのだ。関心など持っていない。誰が隣にいても構わない。ただ、それが自分でなければいい。まぁ、どうせ近々離婚するのだから、今さら揉め事を起こすつもりもない。紗夜は気持ちを切り替え、運転手に向かって言った。「彼らを先に送ってあげて。私はあとから自分で車を運転して行くから」運転手付きの車に乗れば、正門で降りてパーティーに顔を出さなければならない。でも雅恵は自分のことを昔から好いていないし、そんなところにわざわざ行って冷たい視線を浴びたくない。それなら、裏口のガレージから入って直接おばあさまの元へ向かう方が気が楽だった。「ですが......」運転手が言いかけた瞬間、理久は彩の手を抱きしめて、嬉しそうに言った。「やったー!竹内おばさんと同じ車に乗れる!」運転手は仕方なく、文翔の方を見て指示を仰いだ。だが、車内の文翔は一言も発せず、ただ淡々と書類に目を通し続けているだけだった。彼にとって、彼らのやり取りなどどうでもよいことなのだ。紗夜は、文翔の表情すら見ることなく、自分の車へ向かって歩き出した。理久と彩が親しげにしている姿を見る気にはなれなかった。一歩も迷うことなく、その場を後にした。紗夜が立ち去ると、理久の顔には
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第17話

その言葉を聞いた文翔は横目で雅恵を見た。彼女の顔には期待の色がありありと浮かんでいる。「当時の件はそもそも間違いだったのよ。和洋はもう刑務所に入っていて、今さらどうこうできる立場じゃない。千芳は病弱で、深水家にはまだ紗夜の叔父が残っているけど、それも風前の灯火ってところよ。あの家が昔の栄光を取り戻すなんて、絶対に無理。あなたが紗夜と離婚すれば、彼女に足を引っ張られることもないわ」雅恵は一方的にそう分析し、結論を下した。「だから早めに時間を作って、紗夜に正式な手続きを進めるよう知らせなさい。離婚してしまえば、彩ちゃんを家に迎え入れることもできるわ」すでに彼女の頭の中では、彩が長沢家に嫁いでくることが既定路線になっていた。「それであんたと彩ちゃんの間にもう一人、孫ができたりしたら言うことなしね!」文翔は何も言わず、ただ召使いが運んできたトレイの酒を手に取って一口飲んだ。その無言の態度を、雅恵は「同意した」と受け取り、ますます嬉しそうに笑った。紗夜なんか、いつか必ずこの家から追い出してやる!......その頃、長沢家の離れの庭にいた紗夜は、ふいにくしゃみをした。「どうしたの?風邪でもひいたのかい?」と、志津子が心配そうに声をかける。紗夜は笑って首を振った。「いえ......大丈夫です」そう言いかけたところで、志津子はぷんぷん怒り始めた。「まったく、文翔のやつは何してるの。妻がこんなに薄着してるのに、気づきもしないのかい?ダメだ、あとでちゃんと説教しないと......」「本当に大丈夫ですから......!」紗夜は慌てて彼女を止める。「それより、これは私が作ったもち米ケーキです。できたてなので、ぜひ召し上がってください」志津子はようやく怒りを収め、年老いた手で彼女の鼻先をつつきながら、困ったように笑った。「ほんとにあの子を庇うばかりねぇ」紗夜は目を伏せる。別に庇っているわけじゃない。ただ、失望が積み重なりすぎて、もう何も期待しなくなっただけだ。その変化に気づいた志津子は、もち米ケーキを一口食べ、親指を立てて称賛した。「うん!このもち米ケーキ、大好きよ!甘すぎず、ちょうどいい。ほんとに美味しいわ!」紗夜はようやく微笑み、皿ごと彼女の前へ差し出した。「気に入っていただけ
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第18話

今思えば、もし文翔が自分がまだこっそり写真を撮っていたことを知ったら、あの場で全部削除させたかもしれない。彼はそれほどまでに、彼女と一緒に公の場に現れることを嫌がっていた。それは結婚の時も、離婚の時も、変わらなかった。無理もない。彼女が「長沢家の若奥様」だなんて、誰も信じてくれないはずだ。紗夜は唇を引きつらせるようにして笑った。でも、今となってはそんな「名義」にこだわる気持ちもなくなっていた。どうせあと1ヶ月もすれば、長沢家を去るのだから。「さあ、召し上がれ!」そう言って志津子が指示を出し、魚の煮付けが運ばれてきた。白く輝く魚の身に、なめらかな豆腐。魚の旨味と豆腐の香りが絶妙に混ざり合い、冬筍、干し椎茸、金華ハムも加えられ、ベースとなるスープには鶏の出汁が使われている。すべての素材の旨味が白い鍋の中に凝縮され、上には細切りのネギが彩りを添えていた。これは、かつて紗夜の祖母がよく作ってくれた味だった。使用人がよそってくれたスープをひと口食べた瞬間、紗夜の目に涙が浮かぶ。記憶の中の味、そのままだ。なぜかわからない。これまでも何度か志津子がこの魚の煮付けを作ってくれたことはあったのに、今回だけは、急に鼻の奥がツンと痛んで、堪えていた涙がぽろりと落ちてしまった。「どうしたんだい?」志津子がすぐに心配そうに聞く。「どうして急に泣き出したの?まさか文翔のあのバカが何かしたんじゃないでしょうね?だったらすぐにでも張り倒しに行くわ!」「違うんです」紗夜は手で涙を拭い、笑顔を見せた。「あまりに美味しくて......つい」「なら良かった」安心したようにうなずいた志津子は、ティッシュで彼女の頬の涙を優しく拭ってくれた。「気に入ったなら、どんどん食べて。うちにはいくらでもあるからね」「うん」紗夜はこくりとうなずき、涙の浮かんだ目で、目の前のスープを一口残らずきれいに飲み干した。これほどまでに食欲が出たのは、胃炎になって以来初めてだった。「なに、このいい匂いは~?」ちょうどその時、明るく澄んだ女性の声が聞こえてきた。紗夜が振り向くと、そこに立っていたのは文翔の叔母の娘、長沢満晴(ながざわ みはる)だった。「お義姉さん、ここにいたんだ?」満晴は明るく声をかけて
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第19話

「紗夜を先に呼んで私の相手をしてもらったのよ」と志津子は答えた。「しばらく会っていなかったから、とても会いたくてね」「そうなんだ」満晴は頷いたものの、少し疑問を抱えた様子で続けた。「でもね、文翔お兄ちゃんの隣に、すごく綺麗に着飾った女の人が立ってたの。お義姉さん、その人知ってる?」「女の人?」志津子はそれを聞くなり、顔色を変えた。紗夜は空気を変えようとしたが、満晴が先に口を開いた。「うん、それに文翔お兄ちゃんと一緒に車で来たみたい」「どういうこと?」志津子は紗夜に厳しい目を向けた。「運転手には紗夜と文翔を一緒に迎えに行くように言ったのに。あんた、どうやって来たの?」紗夜は少し間を置いて、正直に答えた。「自分の車で来ました......」「何ですって?」志津子は眉をひそめた。「あのバカ息子、自分の妻を置き去りにして、ひとりで運転させるなんて、許せないわ!」「おばあちゃん、実は......」紗夜が説明しようとしたが、志津子はそれを遮った。「彼をかばうのはやめなさい!」普段温厚な志津子がここまで怒るのは珍しく、紗夜は飲みかけた言葉をそっと引っ込めた。満晴は状況を察して、自分が余計なことを言ってしまったと気づき、申し訳なさそうに紗夜を見た。紗夜は満晴がいつも正直で悪気がないことを分かっているので、軽く頷いて理解を示した。だが、すでに志津子は怒りのあまり胸を押さえ、苦しげに息をしていた。「おばあちゃん!」「おばあちゃん!」紗夜と満晴は急いで駆け寄って容態を確認し、家庭医を呼んだ。「おばあさまは一時的に感情が高ぶっただけです。しばらく安静にしていれば落ち着きます」医者は診察後に言った。「ですが、これ以上感情の起伏が大きくならないように注意してください」「わかりました」紗夜は真剣な表情で頷き、ベッドに横たわる志津子を見つめた。その目には複雑な思いが浮かんでいた。たったこれだけのことでこんなに動揺するのだ。もし、すでに離婚届に署名していることを知ったら――「おばあちゃん、落ち着いて。私、ただなんとなく言っただけで、本当にちゃんとは見てなかったの。見間違いかもしれないし......」満晴は小声で慰めた。実際、遠くからちらっと見ただけで、その女性
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第20話

「でも......」紗夜は言いかけた。今このタイミングで、自分の立場を公にしたくなかった。余計なトラブルを招くのは避けたかったのだ。あの時の拉致事件を思い出すと、今でも背筋が寒くなる。「『でも』はナシ!」満晴は容赦なく言葉を遮った。「お義姉さん、怯えちゃダメよ!あなたいつ見ても綺麗で、スタイルも抜群、それに気品まであるんだから。あんな女、比べものにならないわ!」だが、彼女の言葉が終わる前に、優しく流れるピアノの音が聞こえてきた。見ると、花園の中央にある舞台には青いバラが敷き詰められており、水色のロングドレスをまとった女性がピアノの前に腰掛けていた。華奢で上品なその姿、白く細長い指が黒と白の鍵盤の上で軽やかに踊る。奏でられる旋律は、まるで形ある音符となって彼女の周囲を包み込み、さらに人々の心の奥深くへと染み入っていくようだった。優美な旋律はその場にいる全員の心を虜にし、ピアノを弾く女性に感嘆の声が上がった。「あの人、まるで高貴な白鳥みたい......」「あのブルーのドレス、青いバラに囲まれてると、『ブルーローズの妖精』って感じよね」「誰?初めて見る顔だけど?」「見る目がないね、あの人は長沢家の奥様の義理娘だよ。あまりにも優秀で、ずっと海外で勉強してたんだ。1ヶ月前に帰ってきたばかりって聞いたよ。名字なんだっけ、確か......」「『竹内』だよ」舞台の上で光り輝く彩を見ながら、紗夜はぽつりとつぶやいた。まさか、スキーができるだけでなく、ピアノまで弾けるとは。この瞬間の彩は、水色のロングドレスを纏い、藻のように柔らかく波打つ髪を肩に下ろし、細い首には同じ水色のシルクのリボンが結ばれ、その中心には水滴のような宝石が一粒。ライトの下でキラキラと輝くその姿は、まるで誰もが心に秘めた「手の届かない女神」のようだった。あんなに完璧な女性、誰だって好きにならないわけがない。紗夜の視線は遠くにいる文翔の姿に移った。彼はちょうど舞台の下、真っ正面の席に座っており、手にはグラスを持ち、彩の方を向いていた。その周囲には、理久、千歳、雅恵が座っていて、皆が彩の演奏に聴き入っている。特に理久は興奮した様子で、同年代の子どもたちに自慢していた。「うちの竹内おばさん、すごいでしょ?ピアノだけじゃなくて
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