All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話

まさか自分が、こんな衝動に駆られる日が来るとは――文翔は夢にも思わなかった。当初、理久が紗夜にあの言葉をぶつけ、彼女の心を完全に打ち砕いた時、文翔は傍に立ちながら、まるでただの傍観者のように振る舞っていた。だが本当は、胸の内がまったく波立っていなかったわけではない。むしろ、どこか歪んだ幸災楽禍の念さえあった。理久が紗夜の心を徹底的に傷つけたなら、そのぶん、紗夜が彼に向けていた愛情をすべて回収するだろう、と。丸五年間、紗夜の心の最優先は常に理久だった。自分はそんなこと気にもしていないと思い込んでいたが、結局すべては気のせいで、実際は気になって仕方がなかった。いや、気にするどころではなく、妬ましくてたまらなかったのだ。ただ、それを決して認めようとしなかっただけで。理久のあの出来事のおかげで、紗夜の心はすっかり冷え切った。これでようやく、紗夜の心を丸ごと手に入れられる、と。紗夜は彼だけのもの。他の誰にも、ましてや実の息子にすら、奪わせるつもりなど毛頭ない。そんな陰鬱な考えが浮かんだ時、自分でも驚いた。しかし、にもかかわらず胸の奥に湧き上がったのは、どこか病的な満足感だった。だが今、紗夜は彼のことを「もう好きじゃない」と言いながら、理久にはあれほど優しい。あれほど辛辣な言葉をぶつけた理久には心を和らげるのに、どうして自分には、あれほどまでに冷たい?特に「紗夜が理久と一緒に寝ている」と執事から聞いた瞬間、彼の胸に湧き上がったのは、自分こそが捨てられた哀れな存在なのではないかという惨めさだった。文翔の表情は深い陰で覆われ、瞳の色は嵐の前触れのように重く淀む。彼はほとんど狂気じみた勢いで、自分の息子に嫉妬していた。文翔は拳を固く握り、理久の部屋の扉を押し開けた。だが、目に入った光景に、動きがぴたりと止まる。薄い紗のカーテン越しに月光が差し込み、ベッドの上に淡い光の粒を落とす。その光の中、紗夜と理久が寄り添って眠っていた。静かで、穏やかで、絵のような光景。理久の顔は彼に七分ほど似ている。そのせいで一瞬、紗夜が自分と一緒に寝ている錯覚すら覚えた。後ろから追いついた執事も、その姿に思わず微笑みながら言う。「お坊ちゃんはやはり旦那様の息子ですね。同じ型から抜いたようにそっく
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第232話

池田も中へ入ってきて、この光景を目にすると、どこかほっとしたように微笑んだ。まるで以前のままに戻ったみたいで、しかも前よりもっと温かくなった気がしたのだ。「奥様、朝食の準備ができております」「うん」紗夜は身支度を終え、理久と一緒に階下へ向かった。食卓には手の込んだ朝食が並んでいたが、食器は二人分しかなかった。「旦那様は今朝早くに出られまして、朝食は召し上がっていません」と木村が説明する。紗夜は軽くうなずいて返事とし、それ以上聞くつもりもなかった。理久はすぐに朝食を食べ終え、迎えに来た運転手を見た途端、名残惜しそうに紗夜の手を握った。「お母さんに学校まで送ってほしい!」紗夜は一瞬動きを止め、理久に目を向けた。ほんの少し前までは、「こんなお母さんじゃ恥ずかしい」と言わんばかりに、運転手に送ってもらいたがっていたのに。今の理久は、彼女の両手をぎゅっと握り、ゆらゆら揺らしながら甘えるように言った。「お母さんともうちょっと一緒にいたいの。だめ?」お母さんと一緒に過ごせなかった時間が長すぎた。昨日の夜そばにいてくれたくらいでは、とても足りない。紗夜は、その幼い顔に浮かんだ切実な願いに、ついに拒めなくなった。「いいよ」「やった!」理久は歓声を上げ、ランドセルを背負うと、素直に紗夜の隣へついてきた。紗夜は車を運転し、理久を学校へ送った。理久が長沢家から転校して以来、彼女が送るのはこれが初めてだ。理久はとても嬉しそうに手を振り、「お母さん、ばいばい!」と言って校門に駆けていった。紗夜が微笑みながらその背中を見送っていると、視界の端に、同じく校門に入っていく見覚えのある影が映った。甘辛ミックスの服装、そしてランドセルに揺れるチャーム――瑚々がずっと好んでつけていたものだ。「瑚々?」紗夜の目に驚きが走る。瑚々がどうしてここに?だが、気づいたときには、その姿はもう見えなくなっていた。たぶん見間違いだろう。瑚々はずっと爛上の学校に通っていたはずだし、急に京浜へ転校してくるなんて考えにくい。それに、海羽からも何も聞いていない。紗夜はそれ以上考えず、車に乗って弥花スタジオへ向かった。ドアを開けると、みんなが忙しそうに動き回っており、床には色とりどりの花材が山のように
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第233話

驚きながらも、彼女たちは紗夜に対して同情の眼差しを向け、そっと紗夜の表情を伺っていた。しかし紗夜はいつも通りの落ち着いた様子で、床に落ちていた青いバラを拾い上げ、差し出しながら穏やかに言った。「バラの棘、包む前にちゃんと処理してね。手を傷つけちゃうから」「は、はい、ありがとうございます」彼女たちは慌てて受け取り、紗夜が背を向けた瞬間、小声で呟いた。「紗夜さんだって全然悪くないのにね。綺麗で、優しくて、仕事もできるし......長沢社長があんな態度取るなんて、意味わかんない」「たぶん目が節穴なんでしょ」もう一人の同僚が真顔で推測する。「よく言うじゃん?外の女の方が良く見えるってさ。あの長沢社長だって例外じゃなかったってこと」紗夜がオフィスに戻り、スマホを開くと、今日のトレンドがまた目に飛び込んできた。【長沢社長、10億を投じてティアラを落札――姫の笑顔のためだけに】添付された写真では、彩が驚いたような嬉しそうな笑みを浮かべ、文翔と見つめ合っていた。一ヶ月前、岩波家のパーティーで文翔に容赦なく放置され、赤いカーペットの上でひとり気まずく立ち尽くしていたのと、同じ人物とは思えない。それが今、再び皆に持ち上げられる「中心の彩」に戻っている。紗夜の視線は、写真の中の文翔の顔に落ちる。いつも冷淡な彼が、彩を見るその目だけは、どこか柔らかかった。昨日の夜、自分にはあれほど怒り狂ったのに。「なぜ好きじゃなくなった」と。答えはすぐそこなのに。紗夜の唇に、皮肉めいた微笑が浮かんだ。なるほど。今朝あんなに早く家を出たのは、好きな女の誕生日プレゼントを準備するためだったのか。紗夜は画面を消し、深く息を吐き、気持ちを切り替えて仕事へ戻った。昼食は珠緒たちと一緒に取った。「もっとお肉食べなよ。ほら、こんなに痩せちゃって......」珠緒は心配そうに言いながら、次々とおかずを紗夜のお皿に乗せてくる。「午前中ずっと忙しそうだったし、休みも取ってないでしょ。仕事はゆっくりでいいの。無理しないで。身体が一番大事なんだから」紗夜は軽くうなずいた。好きな仕事をしているから、すこしも苦ではない。むしろ満たされていた。この満足感が好きだ。それに、もっとお金を稼ぐ必要もあった。最良のチ
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第234話

「なるほどね。長沢社長が竹内さんにあんなに優しいのって、二人が幼なじみだからか。それに雅恵様の後押しまであるなんて......でも、どうして長沢社長は結局、別の女と結婚したの?」「それは私も知らないけど、長沢社長とあの『長沢奥様』なんて、もうとっくに名ばかり夫婦よ。離婚なんて時間の問題じゃない?信じられないなら自分で見てみなよ。長沢社長は一日中竹内さんのそばにいるでしょ?『長沢奥様』の影はどこにもいないじゃない」......千歳はその会話を聞きながら眉をひそめ、少し離れたところで彩と座っている文翔に視線を向け、酒を一杯取り、歩み寄った。「長沢家のパーティーなのに、奥さんはどうした」と、わざとらしく何気ない調子で尋ねる。「まさか奥さんは、この手のパーティーにはふさわしくないとでも思ってる?」文翔は答えず、手のワイングラスを揺らし、一口飲んだ。「千歳、そんな言い方はやめて。もう文翔に深水さんを招待するようお願いしたの」彩が先に口を挟んで文翔をかばった。しかし、千歳が「奥さん」と連呼するのが気に入らなかったのか、わざとらしく落ち込んだ声で続けた。「ただ深水さんから返事がなくて。きっと、私なんか相手にしたくなくて、このパーティーなんて来る気もないのでしょう......」「来るよ」文翔は淡々とした声で言った。「君への贈り物も用意してある」「ほんとうに?」彩の目が一瞬きらりと光る。「でも......文翔からもうこんなに高価なプレゼントをもらってるのに」「俺のは俺の。彼女のは彼女の」文翔は空になったグラスをトレイに戻し、気にも留めていない様子だった。彩の笑みはさらに深まった。――やっぱり。文翔が紗夜に向けたのは一時的な独占欲なんかじゃない。心の底で大事にしているのは自分だ。でなければ、10億も出して精巧で豪華なティアラを落札し、さらに紗夜に誕生日プレゼントを届けさせたりなんて、するはずがない。千歳の表情は冴えなかった。彩が雅恵の貴婦人友達のところへ挨拶に向かった隙に、文翔のそばへ寄り、声を潜めた。「あの二人が以前あれだけ揉めたのを知ってるだろ。なんで紗夜に贈り物なんて用意させたんだ」病院での騒ぎのことは耳にしていた。命に関わる場面だったと。紗夜が彩に会って、すぐ掴み
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第235話

紗夜は服を着替えてきていた。純白のシルクの膝丈ワンピースに、同色のショートジャケット。ストラップのデザインで、手刺繍の上に白いパールが散りばめられ、照明を受けてきらきらと光る。髪は低めにまとめられ、全開のオーラを放ちながらもどこか気だるく自然体。そのうえ元々整った顔立ちに薄化粧を施したことで、さらに洗練された艶やかさが際立っていた。姿を現した瞬間、会場中の視線が一斉に集まった。「あれが長沢奥様?写真よりずっと綺麗じゃない?」「綺麗どころじゃないよ、すごく品がある......!」「そりゃ長沢社長が選ぶわけだよ。あんな美人が目の前にいたら、私だってくらくらするね」「正直言って、竹内よりずっと......」「しっ、こんな場所で何言ってるの。あとで痛い目見るわよ」「だって本当のことじゃん。じゃなきゃ、長沢奥様の座が彼女じゃないはずないじゃん」......その噂話を聞きながら、彩はそっと指先に力を込めた。紗夜が本当に来るなんて......しかも、来た途端に場の主役を全部持っていく!絶対にわざとだ!紗夜は注がれる視線を感じていたが、そんなことには慣れっこだった。そして、彩が今にも噛みつきそうな怨念めいた視線を向けてくるのを捉えると、彼女は微かに微笑み、そのままゆっくりと近づいていき、目の前に立った。「ごめんなさい。文翔が今日あなたの誕生日だってもっと早く教えてくれたら、遅れることもなかったのに」そう言って、持ってきたギフトボックスを差し出した。彩は口元を引きつらせ、受け取りながら言った。「......随分と気を遣わせたみたいね、深水さん」名前だけ、はっきりと強調して。皆が紗夜を「長沢奥様」と呼ぶ中、あえて「深水さん」と言い捨てる。「このくらい大したことないわ」紗夜はやわらかく微笑んだ。「文翔のカードを使ったから」彩は一瞬、固まった。さっきまで紗夜を笑っていた人々も黙り込み、目に驚きの色が走る。彼らが紗夜を嘲ったのは、文翔が彩を溺愛していると思い込んでいたからだ。だが、カードが紗夜の手元にある――その事実はあまりにも重い。彩のために10億を払ったといっても、あのカードに比べれば霞んでしまう。ざわめきが静まり、人々の紗夜を見る目つきは、自然と敬意を
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第236話

プリスがこの話をしていた時は、まるで確信しているような顔をしていた。そして実際、その通りだった。文翔は、プリスの恋人オリヴィアが、プリスと他の女性が少し近づいただけで即座に割り込んで「所有権」を主張しに行く姿を何度も見ている。だからこそ、そのやり方を紗夜に試したのだ。彼は見たかった。自分が彩に肩入れしたとき、オリヴィアのように紗夜が怒って飛び込んでくる姿を。少なくとも、今みたいに冷めきった無関心な表情ではなく、彼に対して、何かしら感情を持っていてほしかった。しかし、それは彼の思い上がりだった。紗夜は、目の前で二人が親しげに振る舞っていても、一切の反応を見せなかった。無表情――その一言に尽きるほどで、さらには二人がダンスに向かおうとした瞬間、気を利かせたように一歩横へ退き、進路を空けた。文翔は眉を寄せた。「文翔、行きましょう」彩が笑って、彼の腕に手を添えた。文翔は、紗夜の無関心な顔を深く見つめ、その瞳の色をゆっくりと冷やしていく。――どこまで我慢できるか、見せてもらおう。「ああ」文翔は彩の手の上に自分の手を重ねた。彩はさらに嬉しそうに微笑み、文翔の手をしっかり握ると、去り際に紗夜を一瞥し、勝ち誇ったように唇の端を上げた。紗夜は視線を伏せ、そのまま二人とすれ違う。スポットライトはちょうど彩と文翔を照らし、二人を舞踏会の主役にしていた。眩しいほどの光。その背後で、紗夜は二人の影に呑まれ、静かな暗がりに立っていた。多くの人はその光景を見て思わずため息を漏らし、紗夜を見る目は敬意から同情へ、さらにはほくそ笑むような視線へと変わっていく。だが、紗夜は気にしていなかった。今日の「役目」はすでに果たしたのだ。長沢奥様としての務めを果たし、夫の望み通り彩に贈り物を渡した。どれだけ彩を見れば胸がざわつこうとしても。それでも、今日は「紗夜」ではなく「長沢奥様」として立つべき日だ。長沢奥様は、常に品位と節度を失わない。紗夜は背筋を伸ばし、静かに休憩スペースへ歩いて行った。そこで楽しげに談笑していた令嬢たちは、紗夜が近づくのを見るやいなや露骨に嫌そうな顔をして立ち上がり、避けるように距離を取った。小声のささやきも聞こえる。「よく来るよね、彩の誕生日会で主役取れる
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第237話

千歳がそう言ったとき、自分でもかなり決まっていると思っていた。長年の女慣れした経験上、こんな「天から差し伸べられる救いの手」みたいな言い方に抗える女はいなかったからだ。だが紗夜は、ただ彼を一瞥しただけで、薄く笑って問い返した。「どうしたんですか、新野さんも置いていかれたんですか?」「そんなわけないだろ!」千歳は即座に反論する。「ならこれはどういうつもり?」紗夜の目には、はっきりとした警戒があった。彼がそんな親切心で話しかけてくるとは思えない。おそらく、以前のあの件の先入観もあるのだろう。彼女の中での千歳の印象は、決して良いとは言えなかった。千歳は、その警戒を見て眉をひそめる。「君にとって、俺はそんな悪い人間なわけ?」紗夜は何も言わない。それが黙認の答えだった。千歳は大きく息を吐き、諦めきれずに聞き返す。「一応聞くけど、俺はどんな人間に見えてるんだ?」ほかの女性の目には――「新野さんは女たらしで、羽振りがよくて、最高に格好いい」そんな評価が並ぶのだが、なぜか今、彼は紗夜の答えが気になった。紗夜は淡々と答える。「自分勝手で、他人のことなんて気にも留めない人」「はっ......」千歳は奥歯を噛んだ。この女、一見おとなしそうなのに、口はこんなに辛辣だとは!聞いた自分がバカみたいだ。だが彼は去らない。紗夜の前に立ったまま、じっと彼女を見つめていた。どうして急に彼女をダンスに誘いたくなったのか、自分でもわからない。ただ......誰もいない休憩スペースで、彼女が淡々とした顔の裏に、どこか寂しさを抱えているように見えたのだ。「泣く子は餅をもらえる」というが、彼女は泣きもしない、怒りもしない。「私は一人でも大丈夫」とでも言うように、平然としている。その在り方が、妙に胸に刺さった。それはまるで、幼い頃の自分の姿のようだった。弟が泣いて母親にしがみつく一方で、泣きも騒ぎもしなかった自分はただ「千歳は本当にいい子だね」と言われ、放っておかれた。本当は、誰よりも愛されたかったのに。「いい子」なんて言葉、あれほどくだらないものはない。ただの、偏った愛情を正当化するための言い訳にすぎないのに。そして紗夜が、文翔と彩に道を譲ったあの瞬間――
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第238話

ちょうどその頃、悠やかなヴァイオリンの音色が響き始めた。しかも、それは紗夜が特別に好きな一曲だった。一瞬、彼女の瞳にさざ波のような揺れが走る。ずっと昔、彼女はこの曲に合わせて、ワルツを何度も練習していた。いつか文翔と踊るとき、堂々として優雅に見えるように。彼に自分の魅力を、少しでも感じてもらえるように。そうすれば、文翔も自分を好きになってくれるんじゃないかと、そんな淡い期待まで抱いていた。けれど、二歩踊れば先生の足を踏んでしまうようなダンスの落ちこぼれが、いまでは舞踏会の中心で堂々と踊れるほど上達したころには、もう文翔と踊れる機会なんて、最初から存在しなかったのだと気づいた。昔、文翔は紗夜の相手をしなかった。そして今も、長沢奥様となった彩の相手をする気はない。紗夜は、視界の端で仲睦まじく踊る文翔と彩の姿をとらえると、そっと視線を伏せた。努力して覚えたはずのことが、もう何の役にも立たない――そう思ったそのときだった。千歳が、どこか中二めいた台詞を引っさげて彼女の前に現れ、ダンスを申し込んできたのだ。その言い訳も理由も穴だらけで、笑ってしまうほどだったけれど、紗夜には、それがひどく温かく感じられた。「......あっ」だが次の瞬間、彼女の足の甲に、彼の靴がしっかり踏みつけられた。「ご、ごめん!久々でさ、体が思い出してなくて......」「大丈夫よ」紗夜は歩幅を調整し、千歳に合わせようとする。千歳もまた、極度に気をつかうように身体を固くし、腰を縮め、まるで鶏小屋を覗きに行くイタチのような、妙な体勢になっていた。紗夜は唇を噛み、必死に笑いを堪える。そして次の一拍で、案の定、またお互いの足を踏み合った。二人はぴたりと動きを止め、お互いを見た。二秒後――「ぷっ......はは」同時に吹き出し、声を立てて笑う。「あっ、ごめん......」まったく同じタイミングで口にし、二人は気恥ずかしそうに視線をそらした。さっきまで少しあったぎこちなさは、このハプニングで跡形もなく消えた。「ステップ変えましょうか」「俺もそのほうがいいと思う」ちょうど曲も切り替わり、優雅な曲調から少し軽やかなリズムへ変わった。二人はだんだん息が合い始め、舞踏会の中央で軽やかに踊り出す
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第239話

文翔は、千歳の腕の中にいる紗夜を射抜くように見つめ、表情は暗く沈み、指先は固く握りしめられ、手の甲には青い筋が浮き上がっていた。彩と踊っている間も、目の端ではずっと紗夜の様子を追っていた。最初に、休憩スペースでぽつんと座っている紗夜を見たとき、胸の奥がざわついた。けれど彼は踊りを止めなかった。ほんの数分もすれば、紗夜の「平気なふり」なんて自分で保てなくなる、そう思っていたからだ。彼はただ待てばよかった。彼女が自分のもとへ来て、彼もそれを機に引っ込みがつく――そんな算段だった。だからこそ、気持ちのほとんどを紗夜に向けたまま、彩に合わせて無理やり踊っていた。それなのに、いざ彼の視界に飛び込んできたのは、千歳が紗夜の前に歩み寄る姿だった。彼はその場で見てしまった。千歳が紗夜と談笑し、笑わせ、さらにはダンスに誘い、そして紗夜がそれを受けたということを!彼女は、彼の目の前で、千歳の手を取ったのだ。しかも、千歳のあの拙いダンスで笑うなんて!その瞬間、文翔は、ワルツを習い始めて以来初めて、気が散ったせいでパートナーの足を踏んでしまった。それも一度ではない。「っ......」彩は眉を寄せたが、不満を表に出さず、何とか踊りきろうとしていた。この曲を綺麗に踊り、自分たちこそが最も注目される存在になりたい。パーティーの焦点は自分であるべきだ――そう信じていた。けれど、どれだけ彼女の技術があっても、心ここにあらずの相手には勝てなかった。わずか三十秒のあいだに五回も足を踏まれたのだ。鉄板でも凹むだろう。「文翔......」また踏まれたところで、彩はとうとう小声で呼びかけ、心配そうに問うた。「どうしたの?」しかし返事はなかった。眉をしかめて顔を上げた彩は、すぐに気づく。彼の意識はとうにここにはない。視線は、まるで吸い寄せられるように紗夜へ向かっていた。気づいていたのは彼だけではない。周囲の客たちも皆、紗夜に視線を移していた。彩は見てしまった。人々の目が、最初の嘲りや興味本位から、確かな「称賛」へと変わっていくのを。そして一曲が終わったとき、彼らは紗夜に最も盛大な拍手を送った。本来なら、このパーティーの主役は自分なのに。注目されるべきは、自分のはずな
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第240話

千歳も一瞬固まった。紗夜が自分の腕の中にいることにその時ようやく気づき、どうしていいかわからず戸惑いながらも、なぜか無意識に彼女の手をさらに強く握ってしまった。まるで、離したくないと言わんばかりに。「離して」紗夜は表情を曇らせ、後ろへ下がろうとした。しかし千歳は、まるで理性が飛んだように、彼女を手放すどころか、腰に添えた手を引き寄せるように動かし、彼女の身体を自分の前へと戻してしまった。紗夜の額が千歳の胸に触れ、オレンジフラワーの香りがふわりと包み込む。彼女は思わず息を呑む。けれど、この仕草こそが、事態を爆発させる導火線となった。紗夜の視界に、怒気をまとった文翔が大股でこちらへ向かってくる姿が映った。次の瞬間、文翔は彼女のもう片方の手首を強く掴み、力任せに千歳の腕から引き剥がした。千歳も離すまいと紗夜の手を掴み返す。一瞬にして、紗夜は二人の間に引き裂かれたまま、身動きの取れない格好になってしまった。紗夜は額に皺を寄せ、二人の手から抜けようとしたが、どうしても抜けない。「これは何の真似だ、千歳」文翔は、千歳が掴む紗夜の手首を鋭く睨み、声は冷えきっていた。「文翔、話を――」千歳が言いかけた瞬間、文翔が冷ややかに遮る。「離せ」千歳が一瞬だけ固まる。その間にも文翔の手は紗夜の手首をさらに強く締めつけ、紗夜の顔色から血の気が引いていく。「やめろ!」千歳は見ていられず声を上げた。「なら、お前が離せ」文翔は一歩も引かない。千歳は紗夜の真っ青になった顔を見て、唇をきつく噛んだ末、しぶしぶ手を放した。その瞬間を逃さず、文翔は紗夜をぐっと自分の胸元へ引き寄せる。濃いシシダーウッドの香りが紗夜の鼻先を満たし、先ほどのオレンジフラワーの香りを押し流すように支配した。そしてその香りはどこか刺々しく、危険な気配を孕んでいた。紗夜は離れようと体を動かすが、文翔の大きな手がその肩をしっかりと掴み、逃げ道を塞ぐ。結局、彼の胸元にもたれる形になるしかなかった。千歳は言いかけては飲み込み、その横で、文翔が鋭く睨む。その眉間には、永遠に溶けぬ氷が張り付いたような冷たさが滲む。「この件の落とし前は、後でつける」千歳は目を見開き、垂れた手がぎゅっと握りしめられる。何か言おうとした
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