All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 541 - Chapter 550

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第541話

「うん」紗夜は頷き、涙のにじむ瞳の奥に、かすかな笑みを宿した。ほどなくして、千歳が湯気の立つ料理を買って戻ってきた。千芳は機嫌が良さそうで、先ほどよりも半椀分多く食べ、紗夜もそれを見て嬉しくなる。食事を終えると、千歳はまた率先して食器を片づけ、千芳と紗夜に水まで注いでくれた。「ありがとう」紗夜が丁寧に礼を言う。「どういたしまして。これくらい当然だよ」千歳は笑って答えた。千芳は二人を交互に眺め、何も言わずに微笑んだ。紗夜はこのまま千芳のそばに残るつもりだったが、千芳は「本当に大したことないから、付き添わなくていい」と言い、むしろ彼女に自分を大事にするよう促した。「じゃあ、数日したら迎えに来て、退院して一緒に家に帰ろう」千芳の体調もほぼ回復しており、医療院を出て普通の生活に戻れる状態だった。けれど、「家に帰る」と聞いた瞬間、千芳は少し言葉に詰まった。あの家は、当時和洋に何かあったときに差し押さえられ、すでに彼女たちのものではなくなっていたのだ。「大丈夫。私が買い戻すから」紗夜は穏やかな声でそう慰めた。千芳は何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。その瞳の奥に、かすかな寂しさがよぎる。千歳が車を取りに行き、紗夜は名残惜しそうに千芳と別れを告げた。出発前、千芳が口を開く。「正直彼、なかなかいいと思うわ。見た目もいいし、気も利くし」「もう、冗談やめて」紗夜は手を振りながら言った。「じゃあ、もう行くね。体を大事にするんだよ」そう言って、車のほうへ向かう。車に乗ると、紗夜が口を開くより先に、千歳が切り出した。「今夜、70年に一度って言われてるペルセウス座流星群が見られるらしいよ。最高の観測スポットを知ってるんだ。一緒に行かない?」出る前に、千芳がこっそりと彼に教えていた――紗夜が流星群を見るのが好きだと。紗夜は時間を確認し、少し遅いとは思いながらも頷いた。「いいよ」千歳はハンドルを切り、山の上にある天文観景台へと車を走らせた。「でも、この時間だと、もう閉まってるんじゃない?」案の定、正門には鍵が掛かっていた。やっぱり、タイミングが悪かった。紗夜は少し残念そうにする。「閉まってても、開ければいい」千歳はそう言いながら、ポケットから鍵を取
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第542話

紗夜が流星群が好きだと知ったその時、彼はすぐにアシスタントに頼み、この流星のネックレスを用意させていた。「気に入った?」期待を隠さず、彼は尋ねる。紗夜は、まるできらめく星河のようなそのネックレスを見つめ、軽く頷いた。「うん」「じゃあ、俺がつけてあげ――」そう言いかけた彼に、紗夜は半歩下がり、微笑みながら首を振った。「いいよ。こういう高価なアクセサリー、普段あまり身につけないから」「本当に?それとも......俺からのプレゼントを受け取りたくないだけ?」千歳の問いに、紗夜は一瞬言葉を失った。答えは口にしなくても、はっきりしていた。それでも、千歳はこのせっかく巡ってきた機会を、手放したくなかった。「紗夜......さっきおばさんに言ったこと、全部本当なんだ。俺は、本気で君を追いかけたいと思ってる」千歳は彼女を真っ直ぐに見つめる。その想いは、ずっと胸の奥にしまい込んできたものだった。以前も口にしようとしたことはあった。けれど、そのときの紗夜は既に誰かの妻で、立場が許さなかった。――でも今は違う。彼女はもう文翔と離婚した。しかも彼女は瀬賀家の令嬢、自分と婚約している瀬賀家の娘なのだ。その知らせを薫が公にしたとき、どれほど胸が高鳴ったか、自分でも分からない。まるで天から突然、資格を授けられたかのようだった。だから今回は、退かない。迷わない。一歩踏み出し、紗夜に近づく。告白なんて、これまで一度もしたことがない。そのせいで、声は少し緊張し、早口になる。「紗夜......前に君にきつく当たったことがあるのは、君の雰囲気があまりにも特別だったからだ。澄んでいて、汚れがなくて......正直、妬ましかった。でも、後になって気づいた。俺が妬いていたのは、君じゃない。文翔だったんだ。君みたいな素敵な妻を持っていることが、どうしようもなく羨ましかった。それでようやく分かったんだ。実はずっと前から、俺は君を好きになるべきだったんだって」紗夜の些細な表情を思い出すたび、彼の瞳には星が散りばめられたように輝き、低く穏やかな声で語り続ける。「君が突然京浜を離れたとき、胸にぽっかり穴が空いたような気がした。あとで気づいたよ。君が去ったとき、一緒に俺の心も欠けていったんだって。
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第543話

紗夜は指先をきゅっと丸め、視線の奥にわずかな違和感がよぎった。二人の距離が、あまりにも近すぎたからだ。彼の気配が抗いようもなく彼女を包み込み、逃げ道を塞ぐように、隙間なく入り込んでくる。だが次の瞬間、紗夜のスマホが鳴り響き、極限まで高まっていたその空気を一気に断ち切った。まるで救いの手を見つけたかのように、紗夜は慌てて千歳の腕の中から身を引き、スマホを取り出す。画面に表示されたのは――京浜病院の番号だった。一瞬、彼女は固まった。胸の奥に、嫌な予感がじわりと広がる。――お父さんに、何かあった?呼吸が詰まり、心臓が制御不能なほど激しく打ち始める。震えそうになる指先を必死に抑え、深く息を吐いてから通話ボタンを押した。「......はい」「深水さん」電話口の医師の声は冷静だったが、その言葉は、紗夜の心に大きな石を投げ込むように響いた。「お父様に、反応がありました」その瞬間、紗夜は息をすることさえ忘れそうになった。目の奥が熱くなり、赤く滲む。泣き声にならないよう必死に堪えながら、ようやく声を絞り出した。「分かりました。今から向かいます」通話が切れたあともしばらく、彼女は呆然とその場に立ち尽くしていた。表情は動かず、現実感が追いつかない。「どうした?」魂が抜けたような彼女の様子に、千歳は一気に不安になる。「何かあったのか?」返事がない。胸騒ぎがして、心臓が宙に浮いたようだった。次の瞬間――紗夜が必死に堪えていた涙が、一気に溢れ出した。「お父さんが、反応があったって......!」泣きながら、でも笑っているその姿に、千歳の胸が強く揺さぶられる。一瞬呆けたあと、そっと手を伸ばし、彼女を抱き寄せた。「泣くなよ。こんなにいい知らせ、ないだろ」「......うん!」あまりにも大きな喜びに包まれていたせいか、紗夜は彼を押しのけなかった。額を彼の胸に預け、乱れた感情を整える。千歳はさらに腕に力を込め、唇の端に小さな笑みを浮かべた。――これまで和洋に対しては、憎しみしかなかった。だが、生まれて初めて、彼に感謝したいと思った。......一方、文翔もすでに知らせを受けていた。明とともに、その夜のうちにヘリで京浜へ戻る。「今すぐ病院の警
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第544話

「先生、父は......」紗夜は緊張した面持ちで尋ねた。「先ほど患者さんの指に反応があり、バイタルデータにもはっきりした変動が見られました。目を覚ます兆しは確かにあります。24時間以内には覚醒するはずですから、焦らず、少し時間をあげてください」医師はそう言って安心させた。「分かりました、ありがとうございます」紗夜は肩の力が抜けたように、大きく息を吐いた。――本当だ。父は、本当に目を覚ます。彼女は静かにベッドに横たわる和洋を見つめ、胸の奥が高鳴った。一方その医師は文翔の前へ歩み寄り、丁寧に言った。「長沢様、こちらが以前の海外医師による診察の記録です。ご確認を」文翔はそれを受け取り、軽く頷く。「ご苦労だった」「いえ、当然の務めです」医師は何度も腰を折った。「長沢様のお役に立てることが、私どもの光栄でございます」文翔が提示した条件は、あまりにも破格だった。どれほど名のある医師であっても、契約内容を目にした瞬間、眼鏡がずり落ちるほど驚き、思わず感嘆する。――長沢様は、本当に太っ腹だ、と。紗夜は、金髪碧眼の海外医師たちに目を向けた。彼らは皆、和洋の診察に関わった医師たちだ。彼女の瞳に、わずかな波が走る。ということは、あの著名な医師たちは、すべて文翔が招いたの?和洋を治療するためだけに。彼女は横目で文翔を見た。すると彼は、最初からずっと、彼女だけを見つめていた。視線が交わったその瞬間、紗夜のまつげがかすかに震える。だが次の瞬間、千歳が口を開いた。「もう遅いし、お父さんもすぐには目を覚まさないだろ。いったん帰って休んで、目が覚めてからまた来るっていうのは?」紗夜は首を横に振った。「ここに残りたい」父が目を覚ます瞬間を、この目で見たい。それを確認しないと、どうしても落ち着かなかった。しかも彼女は、そう言いながら彼を見なかった。視線が定まらず、どこか避けているようにも見える。――さっきの、彼の告白のせいだろうか。千歳は目を伏せた。――自分が焦りすぎて、紗夜を困らせてしまったのだろうか。まあいい。これから先、時間はいくらでもある。彼は頷いた。「じゃあ、俺も一緒にいるよ」そう言って上着を脱ぎ、彼女の肩にそっとかける。「
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第545話

明は口元をわずかに緩め、紗夜の前へ歩み寄った。「どうしても今夜、病院に泊まるつもりなら、付き添い用の個室をもう一部屋申請できるよ」「ありがとう、喜多村先生」紗夜は礼儀正しく頭を下げた。「俺も残りたい」千歳が口を開いた瞬間、明は残念そうな顔で言った。「もう一部屋しか空いてないんだ。二人は無理だから、君は大人しく帰って。邪魔」「......分かった」千歳は仕方なく引き下がり、紗夜のそばに立って、穏やかな声で言った。「じゃあ、もう少しだけここで一緒にいてから帰るよ」紗夜は何も答えず、病室の中にいる和洋を見つめたまま、指先を無意識に絡めていた。明には分かっていた。彼女は不安なのだ。今は一人で静かにさせてあげるべきだと。それ以上は何も言わず、彼はその場を後にした。ほどなくして自分のオフィスに戻る。――ドアが、開いている?明の目つきがわずかに変わり、ドアを押し開けると、案の定、ソファに腰掛けている人物がいた。「ふーん、彼が帰らないなら、君も帰らないってわけか」明はからかうように言った。「でも彼、深水のそばにいられるのに、君は私のオフィスに引きこもるしかないんだよ?」文翔は何も言わず、薄い唇をきつく結んだ。その様子を見て、明は悠然と向かいに腰を下ろし、面白がるように続ける。「二人、一緒に駆けつけてきたみたいだったし、ずっと一緒だったでしょ。深夜二時、男女二人きり。おまけに美男美女......想像が膨らむよね」明の笑みはさらに深くなる。「それに、千歳が深水のことをどれだけ好きかは知ってるでしょ。今は婚約中で、名実ともに関係があるわけだし、ちょっと言えないことをしてても不思議じゃない。それに、彼女の首にかかってたネックレス、見た?やたら眩しかったよ。千歳、なかなかいいセンスしてるじゃ――」言い終わる前に、湯呑みが空を切り、鋭い勢いで彼に向かって飛んできた。明の反応が一瞬でも遅れていれば、顔面直撃だっただろう。両手で受け止めたものの、掌に強い衝撃が走り、思わず息を吸い込んだ。「文翔!」彼は湯呑みを机に置き、悪態をつく。「殺す気かよ!」「うるさい」「どこがだよ?」明は納得いかない様子だ。「言ってること、案外本当かもしれないでしょ?二人、パ
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第546話

あまりにも唐突な行動に、明自身も一瞬呆然とした。心臓が一拍抜け落ちたように、どくんどくんと激しく脈打つ。文翔が横目で彼を見やり、含みのある視線で言った。「喜多村先生、取り乱しているな」明は軽く咳払いをして、何事もなかったかのような表情に戻り、淡々と言う。「行ってくる。ご自由にどうぞ」そう言い終えると、文翔の返事を待つこともなく、大股で立ち去った。一切の迷いもためらいもない。自分でも理由は分からない。「許斐」という名前を聞いた瞬間から、どうしても気持ちが落ち着かなくなっていた。だが、許斐の姓を持つ人間はあの人に限らない。必ずしも、彼女とは限らない。そう自分に言い聞かせて、ようやく少し冷静になり、病床のカーテンを引いた。そして、未怜の目と合った瞬間、やはり呼吸が一瞬止まった。――本当に、彼女だった。数秒間呆然としたあと、明は我に返って尋ねた。「状況は?」「患者が突然てんかん発作を起こしました。鎮静剤を投与して、今は落ち着いています」看護師が答える。そこでようやく、病床に横たわっているのが別の若い男性で、未怜はその付き添いであることに気づいた。明は少しだけ安堵したものの、眉をひそめ、未怜をちらりと見る。「今度は、どの彼氏だ?」以前、遊びすぎてとんでもないことになった男のことが、今でも頭から離れない。あれは未怜本人と遊んだではなかったが、男女の関係だった以上、二人の間に何もなかったとは言い切れない。それなのに、そう時間も経たないうちに、彼女の隣にはまた別の男。そんなに切れ目なく乗り換えるものなのか?そう考えた瞬間、明の瞳に陰りが差し、態度も自然と冷たくなった。「あなたの頭の中、そんな下品なことしか考えられないの?」未怜は冷ややかに言い放ち、カルテを彼に投げ渡す。「春樹。私の弟よ」明は一瞬きょとんとし、すぐに許斐春樹(このみ はるき)のカルテに目を落とした。「......てんかん?」疑念がよぎり、すぐにペンライトを手に取って春樹の状態を確認する。その表情は次第に険しくなっていった。「すぐに脳の精密検査を」明は看護師に指示する。「急いで!」「ひどい病気なの?」未怜が問いかける。「まだ断定はできないが、普通のてんかんじゃない」
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第547話

未怜はぎゅっと指を握りしめ、声が震えてしまわないよう必死に抑えながら尋ねた。「重いの?治療は、どうすれば......」「現状では、手術で切除する必要がある......」明がそう言い終える前に、未怜は勢いよく彼の手を掴んだ。目元が赤く染まり、必死な声で訴える。「明、お願い......助けてあげて」その瞬間、明は何も言えなくなった。未怜の目が赤くなったのを見た途端、胸の奥が不意に締めつけられ、酸っぱいものが込み上げてきて、言葉が出なかった。返事がないことに、未怜は焦りを募らせる。「明!あなた、医師として――」「先に出てくれ!」明はこめかみを押さえ、顔を背けて彼女を見なかった。その一声に、未怜は言葉を詰まらせ、唇を噛んだまま立ち上がり、診察室を出ていった。――バタン、と扉が閉まる。その瞬間、明はとうとう堪えきれなくなり、眼鏡を外すと、切れた糸のように涙がぽろぽろと落ち始めた。「......ほんと、もう勘弁してくれよ......」ティッシュで拭っても、涙は一向に止まらない。泣くべきなのは自分じゃないはずなのに、どうして目が勝手に泣き出すんだ。まさか泣き虫に取り憑かれた?それとも何か変なものでも憑いたのか?これはもう、近いうちにお寺に行って、お祓いでもしてもらわないと本気でヤバい。このままじゃ本当に涙もろい人間になってしまう。――診察室の外。未怜は手で目元を拭ったが、指先に涙は一滴もつかなかった。少し戸惑う。――あまりにも必死すぎて、泣くことすらできないのだろうか。けれど彼女は、もうとっくに誓っていた。どんなことがあっても、二度と涙は流さないと。鼻をすんと鳴らし、震える手でバッグから煙草を取り出そうとしたが、禁煙マークが目に入り、思いとどまる。椅子に腰を下ろし、膝に顔を埋めた。十分ほど経ってから、明は大量のティッシュをゴミ箱に捨て、眼鏡を掛け直して診察室を出た。外の椅子には未怜が座っていた。疲れ切っているのか、背もたれに寄りかかり、目を閉じている。その指は強く握りしめられ、不自然なほど曲がり、血の気が失せて白くなっているのに、本人はまったく気づいていない。明は眉をひそめ、近づいて彼女の手を取り、指をそっと開いた。その拍子に、未怜は目を覚ま
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第548話

けれど、それもほんの一瞬のことで、二人はすぐに視線を逸らした。明は軽く咳払いをし、立ち上がって春樹の様子を見に行く。未怜は、去っていく明の背中を見送りながら、目の奥に思案するような色を浮かべていた。明が一通り片付け終えたのは、すでに午前4時を回ってからだった。疲れ切った体を引きずるようにして自分のオフィスへ戻り、ソファで仮眠を取ろうとした――のだが。そのソファは、すでにあるデカいモノに占領されていた。しかも、やけにくつろいだ様子で横になっている!「......なんでまだ帰ってないんだよ」明の怨念は、病院に出るどんな幽霊よりも濃厚だった。「さーちゃんがまだ帰ってない」文翔は足を組み、至極当然といった口ぶりで言う。「だったら、俺が残って付き添うに決まってるだろ」「はっ、彼女が君に付き添ってほしいと思ってるか?」明は鼻で笑った。こいつの自己評価、どうしてこんなに高いんだ。「今は千歳がそばにいるんだぞ。再婚したって、文翔の出番は――」言い終わる前に、文翔が静かに視線を投げ、手を上げた。明はびくっと身構え、全身を強張らせる。だが文翔は、ただ湯吞みを手に取って一口飲み、ゆっくり元に戻しただけだった。「どうした?」「......なんでもない」明は内心で大きく息を吐く。表情は平静を装っていたが、心臓はまだバクバクしていた。この男、完全にフェイントをかけてきた。不満げに睨んだ、その次の瞬間――文翔がまた湯吞みに手を伸ばした。明は再び緊張する。そして、また元の場所へ戻される湯吞み。文翔は意味ありげに口元を緩めた。「喜多村先生、そんなに緊張してどうした?」「お前!」殴りたい衝動がこみ上げる。だが、その底知れない視線に睨まれ、結局は大人しく引き下がった。「分かったよ。もう彼女の話はしない。彼女の再婚相手きっと長沢文翔様しかいない!」完全に良心を捨てた発言だが、今夜を無事に終えるためには仕方がない。案の定、文翔の表情は一瞬で和らぎ、軽く頷いた。「お前が研究してるプロジェクト、資金が必要だったな?」明の目が一気に輝く。即座に腰を低くし、すっかり腰巾着モードだ。「はいそうです、先程はすみませんでした!何なりと申してください!」「ここのベッ
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第549話

「大丈夫、食欲ないから」紗夜はそう言って断った。「パーティーでもほとんど何も食べてなかっただろ。そのあともずっとおばさんが食べてるのを見てただけで、自分のこと全然構ってなかったじゃないか。それでお腹空いてないわけない」紗夜は一瞬、言葉に詰まった。「気を遣わなくていい。俺がそうしたいだけだから」そう言うと、千歳は彼女の肩に掛かっていた上着をそっと整え、そのまま背を向けて食べ物を買いに行った。千歳が離れた途端、隣から女の声が聞こえてきた。「偶然ね、こんなところで会うなんて」紗夜は視線を向け、未怜の姿を見て少し驚いた。「どうして未怜がここに......?」「家族が病気で、治療のために連れてきたの」未怜は淡々と答えた。紗夜は彼女の目の下に広がる青黒い隈に気づいた。心配で眠れていないのが一目でわかる。「何か手伝えることがあったら、遠慮なく言って」未怜は今でも会社の法務だ。力になれるなら、紗夜にやぶさかではなかった。「ありがとう。でも自分で何とかするわ」未怜は椅子に腰掛け、腕を組んだ。紗夜も隣に座る。「あの人、結構いい男じゃない?」未怜が不意に口を開いた。紗夜と千歳の関係について、彼女は詳しくは知らない。ただ、以前紗夜と会ったあと、千歳が彼女を追いかけてきたのを見た。千歳の視線に滲む想いは、通りすがりの彼女でさえはっきりとわかったほどだ。それを、紗夜が気づかないはずがない。彼女は視線を落とし、胸元で煌めく流星のネックレスを見つめた。頭に浮かんだのは、少し前に千歳から告白されたときの光景だった。彼の想いが本物だということはわかっている。ただ、彼がいつから自分を好きになったのか――それは、彼がすべてを打ち明けてくれるまで知らなかった。千歳の感情は真摯だった。けれど今の紗夜には、恋愛について具体的な計画はない。たとえ二人の間にいわゆる婚約があったとしても、それを履行するつもりはなかった。いずれ機会を見て、薫と浩平にも、そして千歳本人にも、きちんと話すつもりでいる。本当なら、告白されたあの場で伝えるべきだった。だが、病院からかかってきた一本の電話が、口にしかけた拒絶の言葉を遮った。だから改めて、きちんと話す機会を作ろうと思っている。紗夜
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第550話

紗夜は一瞬立ち止まった。彼の上半身が半ば包み込むように近く、ほのかなシダーウッドの香りが、気づけば鼻先にまとわりついている。消毒液の匂いより、ずっといい。だが、すぐに我に返り、身を引いて距離を取った。「普通の水で」「わかった」文翔はそう言って、水を一本買った。紗夜が屈んで取ろうとすると、彼が先に手を伸ばし、取り出して差し出してくる。「ありがとう」受け取る瞬間、彼の指がわずかに動き、彼女の手の甲をなぞった。故意かどうかはわからない。紗夜は横目で彼を見るが、文翔の表情はいつも通りで、特に変化は見て取れなかった。「200円」文翔が口を開く。「......え?」紗夜は意味がわからず聞き返す。「水、200円。振り込んで」紗夜は二秒ほど沈黙し、怪訝そうに彼を見る。天下の長沢グループの社長が、ここまでケチとは。それでもスマホを取り出し、彼に送金した。文翔は、長い間動きのなかったアプリ画面に新しい通知が表示され、それが紗夜からのものだと確認すると、唇の端をわずかに緩めた。彼女からのメッセージが来るだけで、それで十分嬉しかった。紗夜は彼が何を笑っているのかわからず、深く関わる気もなく、そのまま踵を返そうとした。しかし、長く暗い廊下と、冷たい色味の照明が視界に入った瞬間、思わず喉が鳴る。「怖いのか?」文翔は一目で彼女の変化を見抜き、笑いを含んだ声で言った。「あなたには関係ない」紗夜はぶっきらぼうに返す。弱いところを、人に見せるのが嫌だった。次の瞬間、文翔は彼女の手首を掴み、そのまま歩き出した。紗夜は一瞬目を見開き、瞳に微かな揺らぎが走る。「大丈夫。送っていく」低く穏やかな声は、まるでチェロの旋律のように耳元に響く。彼の手のひらは温かく、手首に痕が残りそうなほどだった。紗夜は手を引こうとしたが、しっかりと握られている。眉をひそめて言った。「放して――」「シー......」文翔は人差し指を薄い唇に当て、意味深に笑う。「引き寄せるな」――引き寄せる?背中にひやりとしたものが這い上がる。病院は、特に夜から明け方にかけて、妙な話が多いと聞いたことがある。紗夜は黙り込み、手を引くのもやめ、そのまま彼に手を引かれて和洋の病室へ向か
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