All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

「ダメだ、さーちゃん」文翔は息を詰め、掠れた声で言った。「他人のコートなんて着るな」千歳が彼女の肩にコートを掛けた、その瞬間から、文翔はずっとそれが気に食わなかった。表情は平静を装っていたが、内心では嫉妬で気が狂いそうだった。紗夜に関わることなら、何もかも全部、自分のものにしたかった。誰にも近づかせたくないし、誰にも触れさせたくない。粘り強く追い続けさえすれば、いつかまた、彼女の心に戻れる。彼は、そう信じていた。だが、そこに現れたのが千歳だった。その存在は、彼のかすかな期待をことごとく打ち砕き、危機感を煽り、理性を失いかねないほど追い詰めた。紗夜は、必死に感情を抑え込んでいる彼の様子を見つめながら、ふと、以前理久が口にしていた言葉を思い出す。心は細く強い蜘蛛の糸に絡め取られたようで、思考が混乱し、整理がつかない。そのとき――「紗夜」千歳の声が響き、彼女の意識は一気に現実へ引き戻された。彼の手には、わざわざ並んで買ってきた朝食と豆乳があった。文翔の目つきが、瞬時に冷え切る。深い瞳の奥に、刺すような寒気が走った。反射的に彼女の手を掴もうとしたが、紗夜は一足先に歩み出し、彼の横をすり抜けて千歳のもとへ向かっていた。文翔の身体はその場で凍りついた。千歳は口元をわずかに緩め、彼女の手にあった水のボトルを自然に取り上げ、代わりに豆乳を差し出した。両手で包ませるようにして言う。「はい、どうぞ」紗夜は豆乳を受け取った。千歳の手の温もりがちょうどよく手に伝わり、冷え切っていた身体から寒さが一気に引いていく。千歳はさらに柔らかな声で続けた。「先に座って食べて。あとで来るから」紗夜は軽く頷き、横目で文翔を一瞥した。そこに、特別な感情の揺れはなかった。だが文翔にはそれが、限りない皮肉に映った。彼は無表情のまま奥歯を噛みしめ、紗夜を見つめ続ける。その背中が遠ざかっていくまで視線を離さず、ようやく顔を上げ、冷たく千歳を見た。――が、気づく。千歳もまた、ずっと紗夜を見ていた。文翔は一歩身を翻し、彼の前に立った。高い背丈が壁のように立ちはだかり、千歳の視界を完全に遮る。千歳はようやく視線を戻し、脇に投げ出されていた自分のコートを拾い上げ、胸に抱える。
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第552話

文翔は薄い唇をきゅっと結び、視線を曇らせた。空気は一気に張り詰め、今にも火花が散りそうになる。――が、次の瞬間。「ふぁあ」明の大きなあくびが、その緊張感をあっさり断ち切った。「何やってんだよ。ここは病院だ、市場じゃない。言い合うなら外でやれ」二人をちらりと見て、ぼそっと愚痴る。「ただでさえ残業でイライラしてんのに、こんな死んだ顔二つも見せられてさ」その一言で、文翔と千歳は同時に視線を逸らし、互いを一切見ようとしなくなった。千歳が先に動く。文翔を追い越し、足早に紗夜のほうへ向かった。いつもは一歩遅れる側だったが――今回は違う。今度こそ、自分が先に行く。千歳が全力で駆けていく背中を見て、文翔は口元を引きつらせ、露骨に嫌そうな顔をした。「ガキか」ああいうタイプを、紗夜が好きになるはずがない。「でも」明は、まるで心を見透かしたかのように、からかう口調で言う。「氷山みたいな男と一緒にいる時間が長いと、逆に、ちょろちょろ世話焼いてくれる火種みたいなのが良くなることもあるんじゃない?」「あり得ない」文翔は即座に否定したが、拳はすでにきしむほど強く握り締められていた。その様子を見て、明はますます楽しそうに目を細めた。千歳が紗夜のところへ着いた頃には、すでに息が上がっていた。それでも足を止めることなく、彼女の隣に腰を下ろす。紗夜は両手で豆乳を包み、小さく口をつけながら飲んでいた。彼が買ってきたサンドイッチも開け、ゆっくり、丁寧に口に運んでいる。眠気のせいか、咀嚼はとても遅く、伏せたまつげの奥の視線はぼんやりしていて、今にも眠ってしまいそうだった。その拍子に、カップの豆乳が少しずつ傾く。「危ない」千歳はすぐに手を伸ばし、彼女から豆乳を受け取った。紗夜は、はっとしたように我に返り、ぎこちなく口元を緩める。「ありがとう」「そんなに眠いなら、少し休んだら?ここは俺が見てる。目を覚ましたら、すぐ呼ぶから」千歳はそう提案した。だが、紗夜は首を横に振る。「ううん、いいの」彼女は、ただ父の一番近くにいたかった。目を覚ます、その一瞬たりとも見逃したくなかった。それに――不安もあった。和洋が出所した直後、彼らは襲われている。今回も、また同じことが
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第553話

「いったいどういうことなの」紗夜の目元が、次第に熱を帯びてくる。ようやく目を覚ましたというのに、どうして父は自分のことを覚えていないのだろう。千歳は彼女のつらそうな表情を見て、唇を引き結び、そっと肩に手を置いた。「大丈夫だよ。きっと何でもない。あまり思い詰めないで」紗夜は答えなかった。正直、心配で仕方がなかった。――まさか、後遺症?30分後、医師が和洋を眠らせ、病室から出てきた。紗夜はすぐに駆け寄る。「先生、父は一体どんな状態なんですか?」「脳内にまだ少し血腫が残っていて、それが海馬を圧迫している可能性があります。その影響で、一時的な記憶障害が起きていると考えられます」「治療方法は?」「それは現時点では何とも言えません。治療によって血腫を取り除き、その後に記憶が回復するかどうかを見ることになります。ただ、今はまだ体力が戻っておらず、治療に耐えられる状態ではありません。しばらくは静養が必要です」紗夜は胸に広がる落胆を必死に押し殺し、静かに頷いた。「わかりました。ありがとうございます」眠っている和洋を見つめながら、彼女は指をぎゅっと握りしめる。「大丈夫だよ。先生も、手術で回復する可能性があるって言ってたじゃないか」千歳が優しく声をかける。「まずは体をしっかり回復させて、それから治療を考えればいい。今は医療も発達してるし、きっと治るよ」紗夜は何も言わず、やがて力を抜いた。今は、それしかできない。それでも、できるだけ早く父に記憶を取り戻してほしかった。彼女は、あのときの真相を知りたかった。工事に問題があると分かっていながら、なぜ父は署名したのか。それは、人命に関わる重大なことだったはずなのに。それから数日間、紗夜は付きっきりで和洋の世話をした。海羽や珠緒も見舞いに訪れている。海羽はそっと紗夜を脇へ連れ、声を落として尋ねた。「千芳おばさんに連絡して、おじさんに会わせたほうがいいかな?」和洋が目を覚ましたのは、喜ばしいことだ。「今はやめておこう」紗夜は息を吐いた。「お父さんは今、誰のことも覚えてない。そんな姿をお母さんに見せたら、きっと傷つく」「そっか」海羽は理解を示して頷いた。海羽が帰ってすぐ、今度は一輝がやって来た。寝不足のせい
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第554話

だが、紗夜は長沢グループのビルには入らず、くるりと身を翻し、隣の岩波グループへと足を向けた。一輝は岩波との提携を望んでいたが、グループ会長である岩波誠一郎(いわなみせいいちろう)はなかなか首を縦に振らない。それなら――まずは岩波奥様である岩波美千代(いわなみみちよ)から、という判断だった。一輝自身も何度か美千代に近づこうとしたが、ことごとく空振りに終わり、最終的に紗夜を送り出した。――女のことは、やはり女が一番わかる。紗夜は事前に調べていた。美千代は今日の昼、誠一郎に昼食を届けに来るはずだ。案の定、休憩エリアで少し待っていると、美千代が姿を現した。「岩波さん」紗夜はすぐに立ち上がり、笑顔で近づく。「はじめまして、深水紗夜と申します」だが自己紹介が終わる前に、美千代が先に声を上げた。「あら、あなたなのね」紗夜は一瞬言葉を止めた。「私のこと、ご存じですか?」「前に長沢社長が、あなたの写真を大スクリーンに流してほしいって頼んできたことがあったわよ。あなたを取り戻すためだって」美千代はくすっと笑う。「あなたは知らないでしょうけど、あのときの長沢社長、本当に必死だった。あんな表情、あの人で初めて見たわ」紗夜の瞳に、わずかな揺らぎが走ったが、すぐに平静を取り戻し、穏やかに微笑んだ。「よく覚えていらっしゃいますね」「ところで、最近はどう?二人、うまくいってる?」美千代は興味津々に尋ねる。「長沢社長、相変わらず冷たくて強引?」紗夜の脳裏に、病院での光景がよぎった。文翔が彼女の手を握り、コートを脱がないでくれ、他の男のものを着るなと懇願した、あの場面。彼女は軽く口元を引いた。「だいぶ変わりました」「それならいいじゃない」美千代は満足そうに笑う。「奥さんのために変われる夫こそ、人生を共にする価値のある男よ。とにかく、自分を犠牲にしちゃだめ」50歳近いとは思えないほど手入れの行き届いた、いつも笑みを絶やさない美千代の顔を見れば、誠一郎との夫婦仲が円満であることは一目瞭然だった。紗夜は頷く。「はい。おっしゃる通りです」「それで、私に何の用かしら?」美千代は聡い。紗夜が理由もなく会いに来たはずがないことを見抜き、単刀直入に切り出した。紗夜も遠回しな言
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第555話

次の瞬間、黒いカードが先に差し出された。「私に買わせてください」女性の声が響く。紗夜は視線を向け、そこに立っていた詩織を目にすると、わずかに目を細めた。詩織は紗夜に挑発するように唇をつり上げ、すぐに美千代へと向き直り、にこやかに声をかける。「美千代さん、お久しぶりです」美千代は一瞬考え、すぐに思い出した。「あら、詩織さんじゃない。今日はどうして?」「会いたくて仕方なかったんです」詩織はそのまま紗夜を押しのけるように前へ出て、美千代の腕に絡む。「この前おすすめしたクリニック、どうでした?」「良かったわ。次もいいのがあったら、ぜひ教えてちょうだい」二人の会話を聞きながら、紗夜は少し意外に思った。まさか詩織が、美千代とここまで親しいとは。それに、詩織の表情を見た瞬間、嫌な予感が胸をよぎる。案の定、次の瞬間、詩織が切り出した。「美千代さん、実はうちの会社も新しいプロジェクトでご一緒したくて。橋渡しをお願いできませんか?」「梅谷も?」美千代は少し驚いた様子を見せる。「ええ。しかも、うちが一番誠意があるとお約束できます」詩織はそう言って、企画書を美千代に差し出した。「それは」美千代は困ったように紗夜を見る。「深水さん、私はね、基本的に馴染みのある人と買い物するのが好きなの。好みを分かってくれるから」「もし差し支えなければ、私も美千代さんの『馴染み』になれたらと思います」紗夜の口調は穏やかだが、その奥には揺るがない意志があった。「そうね、少し考えさせて」ちょうどそのとき、店員が美千代の試着したい服を持ってきたため、彼女の注意はそちらへ移り、待ちきれない様子で試着に向かった。同時に、店員が飲み物と菓子を運んでくる。紗夜は一目見ると、柔らかく提案した。「コーヒーはミルクなしにして、甘すぎるお菓子も替えたほうがいいですね」店員は少し不思議そうな顔をしつつも、その指示に従った。「ずいぶん美千代さんのご機嫌取りに必死じゃない」詩織は鼻で笑う。「それが何か?」紗夜は気にも留めず、軽く肩をすくめた。その淡々とした態度が気に食わず、詩織は歯ぎしりする。「美千代さんは相当うるさい人よ。そんな小細工、さっさとやめなさい。下手すれば、自分の首を絞めるだけよ
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第556話

美千代の顔色が、わずかに変わった。周囲の店員たちは、今にもその場で腰が抜けそうなほど青ざめている。詩織も一瞬言葉を失い、警告するような視線を紗夜に向けた。まさか紗夜が、自分にこの案件を取らせないために、ここまで人を敵に回すような発言をするとは思っていなかったのだ。「美千代さん、こんな世間知らずと同じ土俵に立つ必要はありませんよ」詩織は慌てて場を取り繕い、同時に紗夜をきつく睨んだ。今は誰もが岩波との協業を望んでいる。ここで美千代の機嫌を損ね、誠一郎の耳に何か一言でも入れば、誰も得をしない。そんなこと、紗夜が分からないはずがない。だが詩織が焦れば焦るほど、紗夜の目元の笑みは深まり、どこか楽しげですらあった。さっきまであれほど尊大だったくせに、今はすっかり腰が引けている――その様子が可笑しくて仕方がないのだ。詩織は眉をひそめた。――この女、最初からわざとやっている。自分を道連れにして、二人ともこの案件を逃すつもりだ。詩織の、今にも千切りにしてきそうな鋭い視線を感じながらも、紗夜はまったく気にせず、再び美千代へと目を向けた。しかもわざわざ、逆鱗に触れにいくかのように、穏やかに微笑んで――詩織から見れば完全に自爆行為な言葉を口にする。「私は本当のことを言っているだけです。これらの服は、正直なところ、美千代さんには似合いません。無理に着ても、綺麗には見えないと思います」「」店員たちはすでに恐怖で声も出せない。詩織はこめかみがズキズキと痛んだ。もし時間を巻き戻せるなら、紗夜が口を開く前に飛びかかって、その口を引き裂いてやりたかった。こんなでたらめを言わせないために。だが、こうなればなるほど、紗夜の狙い通りだった。周囲の顔色が変わる中で、美千代の反応は、意外なほど落ち着いていたからだ。「詳しく教えて。どうして私には似合わないの?」美千代が問いかける。紗夜は詩織の制止を完全に無視し、淡々と答えた。「モデルが着ている服はいずれも希少なハイブランドで、今季の新作です。でも、ご本人の気質とは合っていません。こういう装飾過多で華美な服は、着こなすのが難しいですし、服に存在感を奪われてしまって、かえってお顔立ちが印象に残らなくなります。結果として、『人が服に負けている』ように
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第557話

案の定、彼女の読みは当たっていた。今回は、詩織がまだ反応する前に、紗夜が先にカードで支払いを済ませ、服を包ませて美千代の前へ差し出した。美千代はその品を受け取ると、彼女の頼みをこれ以上断ることはなかった。「ちょうど今日の午後、誠一郎が人とテニスの約束をしているの。深水さん、時間があれば一緒にどうです?」「はい、もちろんです」紗夜の目に一瞬、光が走る。彼女は一輝にメッセージを送り、【いい知らせを待ってて】とだけ伝えた。ほどなくして、彼女は美千代と連れ立ってテニスクラブへ向かった。美千代は機嫌が良さそうで、わざわざ紗夜の会員ランクを最高級のダイヤモンドへとアップグレードしてくれた。詩織も同行しており、隙あらば美千代に話しかけ、言葉の端々で紗夜を牽制する。厚かましい態度だが、紗夜は見て見ぬふりをして相手にしなかった。やがて目的地に到着する。スタッフがすぐに買い物袋を受け取り、カートに乗るよう案内し、誠一郎が予約したコートへと向かった。この日は快晴だった。カートが止まった瞬間、突然風が吹き、紗夜の帽子が飛ばされ、さらりとした髪が風に舞う。彼女は顔を横に向け、反射的に手で眩しい日差しを遮った。帽子を拾いに降りようとした、その次の瞬間――目の前に誰かの影が差し込み、光を遮った。紗夜は一瞬、息を呑んだ。空気の中に、よく知った香りが漂っていたからだ。顔を上げると、案の定、文翔と視線がぶつかる。彼がこんなスポーツウェア姿なのを見るのは初めてだった。全体的にとても爽やかで、額には汗止めのバンド、ハーフパンツから伸びる脚はすらりと長く、独特の存在感を放っている。三十路目前の男だなんて、とても見えない。二十代前半と言われても信じる人がいそうだ。紗夜は思わず視線を逸らした。文翔は手を伸ばし、拾った帽子を彼女に差し出す。――彼が、帽子を拾ってくれた?紗夜は唇を軽く結び、それでも手を伸ばして受け取った。「ありがとう」「ああ」文翔は短く答え、しばらく彼女から目を離そうとしなかった。紗夜が居心地の悪さを覚え始めた頃、美千代の声が響いた。「あらまあ。こんなところで奇遇ね、長沢社長もいらしてたの?」文翔はようやく視線を引き、美千代に挨拶をする。「深水さんが連絡したの
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第558話

紗夜は眉をひそめ、ぶっきらぼうに言った。「覗き見する趣味でもあるの?」文翔は、いつも感情の起伏がなく、できるだけ自分と距離を取ろうとする彼女の表情がようやく生き生きとしたのを見て、口元をわずかに緩めた。「堂々と入ってきただけだ。覗きじゃない」ここは彼の休憩室なのだから、堂々としていて当然だった。紗夜は答えず、半透明のすりガラスにちらりと視線をやった。「いつからいたの?」彼女の考えを見抜いた文翔は、変に取り繕うこともなく言った。「15分前」――じゃあ、彼はこのベッドに座って、彼女が着替える一部始終を見ていたということ?服を着る途中で引っかかってもたついた、あの間抜けな姿まで?「服が引っかかってたとき、正直、手伝ってやろうかと思った」紗夜は一瞬言葉を失い、深く息を吐いて、かろうじて冷静さを保った表情を作る。「結構です」「いや、ダメだ」文翔が立ち上がると、その高い体躯が一瞬で彼女を包み込んだ。「その格好で、外に出るつもりか?」低く掠れた声。抑制と、わずかな苛立ちが滲んでいる。紗夜はもともと肌が白く、その服のせいでさらに艶やかに映る。まるで傷ひとつない真珠のようだった。しかも、そのウェアは明らかにワンサイズ小さい。白く長い脚が惜しげもなく露わになり、ウエストラインもくっきりと浮かび上がり、胸元でさえ――文翔は視線を落とし、くっきりした喉仏が上下に動いた。紗夜は、もともと際立った美貌の持ち主だ。ただし、それを売りにすることはなく、普段は上品で知的な服装を選び、落ち着いた佇まいで、ひと目見ただけで仕事ができる人だと感じさせる。だが、今回の服装は違った。どこか艶っぽく、刺激的だ。彼女が腕を上げて髪を結ぶだけで、目が離せなくなった。それなのに、このまま外に出て、他の人間に見られると思うと――完全に平静ではいられなかった。紗夜は、耳元にかかる彼の温かな吐息を感じ、思わず身を縮めて横に避けようとした。だが次の瞬間、文翔は彼女をすりガラスの壁に押し付けた。ひんやりとしたガラスが腰に触れ、紗夜の指先が一瞬、強く握られる。「サイズが合うのを用意させるから」紗夜は答えなかった。文翔はもう一度、低く尋ねる。「待ててくれる?」鼻先が、ほとんど彼女の
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第559話

「信用させてくれないのは、文翔の方よ」紗夜はようやく息を整え、淡々と言った。信頼をすり減らしてきたのは彼自身だ。それを今さら、どうして疑うのかと問われても、答えはひとつしかない。文翔は視線を伏せ、何も言わなかった。室内は、しんと静まり返る。ほどなくして、スタッフが新しいテニスウェアを持ってきた。今度のデザインは、彼女が着ていたものよりずっと控えめで、色味も落ち着いている。紗夜はそれなりに満足し、服を手にして浴室へ向かった。だが、半透明のすりガラスの向こうに文翔がいるのに気づき、ぶっきらぼうに言う。「後ろ向いて」「本当に、手伝わなくていいのか?」文翔が尋ねる。紗夜は遠慮なく白い目を向けた。「いらない」「わかった」彼は意外にも素直に背を向け、紳士然とした態度で視線を外した。それを確認してから、紗夜は浴室に入った。ところが、さっきの服が小さすぎて、着るのも大変だったが、脱ぐのはさらに難しかった。十分近く格闘しても脱げず、汗ばむほどだ。「おかしいな」唇を噛み、思い切って力を入れた瞬間――ビリッ、という嫌な音がした。紗夜ははっとして、すぐに力を緩めた。まさか、服一枚にここまで手こずる日が来るとは。完全な計算ミスだ。彼女は息を吐き、バスタオルを体に巻いて、そっと扉を開けて外を覗いた。しかし、そこに人影はない。――もう行った?眉をひそめる。いるべきじゃない時には居座るくせに、必要な時には姿がない。――まあいい。もう一度自分で試すか、女性スタッフを呼べばいい。そう思って浴室の扉を開け切った瞬間、背の高い影がすっと入ってきた。紗夜が目を見開いた次の瞬間、文翔は彼女の腰を抱き寄せ、低い声と温かな吐息が頬にかかる。「だから言ってたのに手伝いが必要だろ?」「どこから出てきたの?」紗夜は戸惑う。「それはどうでもいい」文翔は彼女をじっと見つめた。「君が俺のこと考えてるってわかったから、来ただけだ」「変なこと言わないで」紗夜は冷ややかに睨む。いつから、こんなに図々しくなったのか。昔の彼は、こんな男じゃなかったはずだ。だが、体に食い込んだ服のせいで息苦しい。「手伝おうか?」彼は距離を詰めて囁く。紗夜は仕方なく
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第560話

紗夜は大きく見開いた瞳に、何倍にも近づいた文翔の整った顔を映していた。強引なキスに唇はじんと痺れ、彼の吐息とともに広がる冷たいはずのシダーウッドの香りは、いつの間にか熱を帯びている。目尻には淡い赤が滲んでいた。紗夜は歯を食いしばり、再び膝を折る。だが今度は、彼に先を読まれていた。文翔は軽々と彼女の膝を押さえて力を殺し、そのまま唇を、強すぎない力で噛んだ。「っ」紗夜は小さく息を呑む。ようやく彼は唇を離し、指先で、キスで腫れた彼女の唇をなぞった。まるで、長年大切にしてきた宝物に触れるかのように。「あんた、犬なの?普通そんなに噛みつく?」紗夜は苛立ち気味に、ぱしっと彼の手を叩き落とした。力はしっかり入っていて、彼の手の甲はすぐに赤くなる。だが彼は気にも留めず、彼女の唇から視線を外さない。「さーちゃんの唇が、美味しすぎるんだから、つい」思わず触れたくなる、口づけたくなる、それ以上――理性より先に、身体が反応してしまう。下半身があらぬ主張をする前に、彼は必死で思考を押さえ込んだが、わずかな変化は紗夜の目に入っていた。「自制できないなら、手伝ってあげようか?」紗夜は視線を落とし、意味ありげに笑う。文翔の瞳が一瞬見開かれ、そこに驚きと、ほんの少しの喜びが混じる。「本当に?」「切り落とすのを、ね」紗夜はにこやかに微笑んだが、言葉は容赦なかった。文翔は苦笑して彼女を離す。「それは困るな。それに紗夜は、できないだろ」彼はそう言って、彼女にウインクする。かつて二人には、穏やかで親密な夜もあった。紗夜が彼の腰にしがみつき、情に溺れた声で彼の名を呼んだ時のことを思い出すたび、彼の心臓は一拍抜けたように跳ねる。――もっと抱きしめたい。もう少し、近くに。気づけば彼は、自分で思っていたよりずっと早く、紗夜に心を奪われていたのだ。ただ、あの頃の自分は、あまりにも意地っ張りで、鈍感だった。もし時を巻き戻せるなら――彼女が自分の冷たさに傷つく前に、強く抱きしめて、好きだと、愛していると伝えたい。だが、この世界に「もし」はない。「できるかどうか」紗夜は冷ややかに笑う。「試してみる?」その表情に、一切の情けはなかった。文翔は小さく息を吐き、視線を落とす。
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