夜色の店内に、唐突に静かな旋律が流れ込んできた。誰かが、奥のピアノに手を置いたのだ。鍵盤が最初に発したのは、ためらいがちな一音。その後を追うように、スタンダードな旋律が、か細い糸のように空気を震わせた。曲名は、知っているようで思い出せなかった。ただ、その音色にはどこか懐かしさと、何かを押し殺すような哀しみが滲んでいた。
小阪はその音に、まぶたをわずかに伏せた。ピアノの旋律が、彼の耳の奥でゆっくりと輪郭を広げる。けれど、それに顔を上げることはなかった。グラスを持つ手は止まらず、口元に運ばれるウイスキーの琥珀色が、間接照明に淡く揺れた。
音楽は、言葉よりも容赦がない。特に、それが記憶と結びついたとき、音は匂いとともに過去の襞に入り込む。小阪の脳裏に、濡れたカーテンの匂いが立ち上った。雨に打たれた部屋の空気。しめった畳。誰かが吸っていた煙草の匂いが混じる空気の中、濡れた制服のまま座っていたソファの感触。指先に残っていたのは、細い手首の感触と、掴みきれない誰かの温度だった。
その空間には、言葉がなかった。確かに名前は呼ばれていたはずなのに、いま思い出そうとすると、音が掠れて聞こえなかった。耳の奥でくぐもるように、名を呼ぶ声がある。だが、それが誰の声だったのか、記憶のなかの音と匂いは、映像を伴ってくれない。
小阪の手元が、ごくわずかに揺れた。グラスの底がカウンターの表面に触れ、その衝撃が静かに跳ね返る。ピアノの旋律とまるで共鳴するかのように、その音がタイミングよく重なった。
店内の空気が一段と沈む。香月は、何も言わない。ただ、グラスを磨く手を止め、ゆっくりと彼を見ていた。視線には干渉の意図はなく、ただそこに“在る”という態度が滲んでいる。
小阪はまたひと口、酒を喉に流す。ピアノの音が一段深くなった。低音が静かに鳴り、旋律がわずかに上擦る。小阪の目は閉じられないまま、視線の焦点を失っていた。カウンターの木目を見つめてはいたが、その奥にはもう違う空間があった。
――濡れた手を握られた感触が、指の間に蘇る。
けれど、それはあまりにぼんやりとした記憶で、彼の口をついて出ることはなかった。胸の奥が一瞬だけ疼いた。言葉にすれば崩れてしまいそうなその
薄明かりの下、静かだったはずの空間に、ごく小さな気配が生まれた。椅子の軋む音もしなければ、物音もなかった。それでも、確かに何かが“起きた”と、河内はすぐに察した。小阪の睫毛が、わずかに揺れた。寝息が止まり、呼吸が浅くなる。まるで自分の存在に気づいたことを示すように、空気がぴんと張った。河内は身動きを取れなかった。仮眠中だと思っていたその身体が、次の瞬間、ゆっくりと動いた。小阪は顔を伏せたまま、腕の位置をわずかにずらす。その拍子に額が机から離れ、目がひらく。何秒かの間、小阪は無言だった。表情も動かさず、視線はどこにも向けられない。ただ、起きてしまったことを肯定するように、まぶたの奥に薄い影が差していく。それから、小さな息継ぎ。「……なんで優しくすんの」その声は、乾いていて、それでいて濡れていた。低く、少し掠れ、胸の奥を舐めるような温度で。「そんなん、いらんやん」何かが壊れた音がしたような気がした。それは耳に届くものではなく、皮膚の内側に沈んでいくような音だった。河内は息を飲んだわけでも、声を返したわけでもなかった。ただ、咄嗟に動かそうとした指が、デスクの上の缶に触れかけ、そのまま止まった。アルミの冷たさが指先に伝わる寸前。掴むでもなく、払うでもなく。沈黙が、今にも崩れそうな均衡を保っていた。小阪はそれ以上、何も言わなかった。顔を上げることもなく、視線も合わせなかった。まぶたの裏側に、何を隠しているのか。それとも、もうすべて見られたとでも思っているのか。河内は、無言のまま、背中を椅子に預けた。浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。けれど、その変化を、隣の人間は見ようともしない。窓の外では、始発の車が滑るように走り抜けていった。小阪の髪が少し揺れる。肩が震えたわけではなかったが、眠っていた時よりも、その姿はかえって脆く見えた。優しさがいらないのではなく、優しさが怖いのかもしれない――そんな考えが一瞬、頭をよぎったが、河内
パソコンのディスプレイに映る進捗表は、半端な作業で途切れていた。小阪はデスクに突っ伏したまま、浅い眠りに落ちている。腕を額に乗せ、身体の輪郭が小さく縮こまる。息はゆっくりと、一定のリズムを刻んでいた。河内はその呼吸の流れを、机越しに感じ取っていた。深夜のオフィスは、雨上がりの静けさに包まれていた。外からは車の音も聞こえず、天井の照明が低い唸りをあげるだけ。そんな中で、河内は椅子に座り直し、小阪の横顔を改めて見つめていた。寝息が、ほんのわずか震えては沈む。まつ毛が長く、頬骨の影が淡く浮かぶ。その顔は、仕事中のどんな無表情よりも、脆くて、守りたくなるような静けさをたたえていた。自分でも理由はわからなかった。ただ、手を伸ばしたかった。いや、正確には「触れたい」などという明確な欲望でもなかった。もっと、どうしようもなく引き寄せられる感覚。目の前の相手がたとえどれほど傷ついても、こうして何も知らないふりで、眠っていられる時間があることを――その奇跡のような瞬間を、形に残したかったのかもしれない。河内は身体を少し前へ傾ける。手のひらを膝の上で握りしめた。額にはうっすらと汗が滲んでいた。寝息を確かめるように、小阪の肩口をそっと見下ろす。額にかかった髪が微かに揺れ、夜の空調が弱く吹き抜けていく。その揺れに目を奪われながら、河内の喉がひとつ、乾いた音を立てて上下した。唾を飲み込む動作は、自覚するより早かった。彼の頬に自分の指先が触れそうになる。だが、思いとどまる。代わりに、ごく近くまで顔を近づける。小阪の呼吸の温度が、ほのかに感じられる距離。鼻先が、寝顔の輪郭をなぞる直前で止まった。唇を落とすか、落とさないか――その一瞬の逡巡。「……」静寂のなかで、河内はほんのわずか身体を前に倒し、唇をそっと小阪の額へと落とした。押しつけるのでも、触れるだけでもない。ほんの一瞬、呼吸と心音が重なっただけ。だが、その一瞬が永遠にも感じられた。小阪の眉が、わずかに寄る。眠ったままの顔に、かすかな皺が生まれる。その動きが、抵抗なのか、無意識の戸惑いなのか、河内にはわからなかった。ただ、額に残る微かな熱と、自分の呼吸だけが、ひどく鮮明だった。キスの
夜の帳がすっかり落ち、オフィスビルの廊下には人気の気配もなかった。ビルの外壁を照らす街灯の光だけが、細長く伸びてガラス戸をかすめていた。河内は自販機の前に立ち、硬貨を投じる。取り出した缶コーヒーはまだ熱く、手のひらにじわりと熱が染みてきた。アルミの薄膜越しに感じる温度は、なぜか妙に重たかった。深夜一時を少し回った頃だった。自動ドアの前で足を止めると、河内は作業ルームのドアノブに手をかける。だが、その指先が一度、静かに止まる。中からは、かすかなキーボードの音が断続的に響いていた。タイピングというにはあまりに単調で、リズムも早くはない。まるで惰性だけで続けられているような音だった。扉を押し開けると、部屋の中には一部の照明だけが点いていた。全体を照らすには足りない灯りのなか、小阪はデスクに向かっていた。体を深く椅子に預け、画面から顔を離さない。背筋は伸びていたが、集中しているというより、意地でそこに座っているような姿勢だった。「おつかれ」そう声をかける代わりに、河内は黙って近づき、小阪の手の届く場所に缶を置いた。音を立てないよう、そっと。アルミの底がデスクに触れたときのかすかな音に、小阪の指が一瞬だけ止まった。視線は動かない。ディスプレイを見たまま、小阪は小さく頷いた。それは返事だったのか、ただの無意識の反応だったのか。判断はつかなかった。河内は背後の椅子を引いて腰を下ろす。小阪の横顔が正面から見えない角度にいたが、それでも彼の様子は痛いほどよく見えた。頬がわずかに痩け、目元には深い影が落ちている。睫毛の下で目の焦点はぼやけ、時折、瞬きのリズムがずれる。肩の線が前よりも細く見えたのは、気のせいではない。「進んでるん?」何気ない問いかけだった。仕事の話をするには、それくらいが丁度よかった。が、小阪は返事をしなかった。代わりに、手元のキーボードがわずかに速度を上げた。それが答えだと受け取るには、少し足りなかった。河内は自分の持っていたもう一本のコーヒーを開けた。プルタブの音が静寂に割って入る。中身が喉を下る温度も味も、よくわからないままだった。ただ、空気が少しだけ温もった気がした。横目で、小阪を見た。相変わらず、
朝の光は、ビルのガラス越しにゆっくりと室内に染み込んできた。夜を通して張り詰めていた空気は、ほんの少しだけ緩み、静かな疲労と共にプロジェクトルームの隅々へと滲んでいく。河内は椅子に深く腰を下ろしたまま、背もたれに頭を預けて大きく息を吐いた。視線の先では、小阪が無言でファイルを閉じ、整然と資料をまとめている。徹夜明けの疲労は隠しようもないが、彼の仕草にはいつものような乱れがない。さきほどまで、ほんの少し仮眠をとっていたとは思えないほど、表情に起伏はなかった。壁掛けの時計が八時を示した頃、ドアの向こうからノックもなく人の気配が差し込む。森だった。手にしたコンビニ袋を軽く掲げ、にやりとした笑みを浮かべながら、ふたりの前に立つ。「おつかれさん。徹夜組、よう頑張ったな」そう言って、缶コーヒーをふたつ、デスクの上に置く。片方を小阪の近くに、もう片方を河内の正面に。どちらも微糖だ。気遣いを装ったその選び方に、少しだけ棘があるような気がした。「ありがとうな。気ぃ遣わせてもうて」河内はいつもの調子で笑いながら受け取った。だがその声の底に、わずかな掠れが混じっていた。小阪は缶に触れることもなく、視線をそらしたまま黙っている。その無言が、かえって多くを物語っているようにも見えた。森はふたりの様子を、何気ない顔で見渡している。だが、その瞳の奥には、明らかな観察の光があった。仕事相手を眺めるというよりも、人と人の間に流れる“空気”を計測するような目つきだった。伏し目がちで、それでいて一瞬の視線の交差を逃さない。まるで、あえて言葉を挟まずに、空白の中に真実を見ようとするかのようだった。「あんたら、息ぴったりやな。資料、きれいに仕上がってる」葉山の言葉が、昨日の昼にあった。そのときは軽口として受け流したはずなのに、今になって妙に引っかかる。河内の胸の奥に、じわりと薄い不安が滲んでいた。小阪の仮眠姿を見つめていた夜と、この朝が地続きであることを思い知らされる。特別やと思っていた。ふたりだけの距離。誰にも知られない関係。身体を重ねながら、言葉を交わさずに済ませるやり方。仕事で見せる呼吸の合わせ方。
蛍光灯の明かりが仄かに滲むプロジェクトルームの一角で、小阪は椅子を少し倒し、浅い角度で身体を預けていた。隣の河内はパソコンに向かいながら、しばらく画面と対話していたが、ふと手を止める。指の動きが止まるのは、思考が行き詰まったからではない。無意識に、隣から聞こえる呼吸のリズムに引き寄せられていた。小阪は静かに眠っていた。深くではないが、目を閉じてしばらく経ったらしい。きちんと腕を組み、浅く息を吐くたび、シャツの胸元がわずかに上下していた。資料の束を支えるように置いた膝の上で、薄い指が軽く丸まっている。その手の力加減にさえ、どこか儚さを感じさせる。頬にかかる髪が一本、微かに揺れた。ピアスの下にある耳の輪郭が、寝息のたびにわずかに動いている。喉元のラインは静かに、しかし確かに鼓動を伝えていた。生きているという実感がそこにある。けれどその存在感は、触れたらすぐに消えてしまいそうな、薄い硝子のようだった。河内はしばらくのあいだ、キーボードの上に指を置いたまま、打鍵を忘れていた。視線がモニタから外れ、どうしても、小阪の横顔に吸い寄せられる。睫毛が長い。下を向いたそれが、頬に影を落とす。眉間がほんの少し寄っているのは、眠っていても緊張が抜けないせいだろうか。それとも、夢のなかでさえ警戒を解けないままなのか。まるで、眠ることにさえ慣れていない子どものようだった。「……こんなとこ、誰にも見せんなよ」ぽつりと、河内は呟いた。音になった自分の声に、自分で驚いた。誰にも届かないはずの声だった。誰に聞かれるわけでもなく、ただ空気のなかに放っただけの言葉。それなのに、その響きが妙に重たく胸に返ってくる。眠っている小阪に触れたいと思ったわけではなかった。触れて起こしたくも、目覚めてほしくもない。ただ、この姿を、自分以外の誰かに見せるのは嫌だった。小阪の中にある無防備な部分。それが、たとえ一瞬でも顔を覗かせたとき、それを知ってしまった自分が、どうにもやりきれなくなる。仮眠をとる小阪の肩がふと揺れた。呼吸が少し浅くなったのか、あるいは夢の途中に引っかかったのかもしれない。河内は反射的に身体を起こし、そっと視線を逸らした。無防
オフィスの空気が変わったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。昼間の喧騒はとうに消え、フロアに残るのは河内と小阪、そして数人の制作チームだけ。空調の音が不規則に唸り、遠くの複合機が一度だけ小さく唸ったあと、また沈黙が落ちた。蛍光灯は部分的に落とされており、プロジェクトルームには天井の間接照明がぼんやりと灯っている。スクリーンにはクライアントの修正指示が映し出されていた。急な仕様変更で、翌朝までに再提出が必要となった。葉山が「悪いけど、ふたりお願い」と言って去っていったのが、数時間前のことだ。河内はマグカップにインスタントのコーヒーを注ぎながら、小阪の姿を一瞬だけ盗み見る。資料を見ながらパソコンを操作する手が止まらず、まっすぐな背筋と、時おり前髪をかき上げる仕草だけが、妙に静かだった。小阪はジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけていた。腕まくりされた白いシャツの袖口から、骨ばった手首と前腕が露出している。照明の加減か、皮膚が薄く見えた。その肌の上に、河内の視線が止まる。本人はまったく気づいていない様子だった。「眠いんか」河内が声をかける。コーヒーの湯気が目の前で揺れる。小阪はモニターを見たまま、指を止めずに答えた。「……別に」その返事に、特別な感情は含まれていなかった。ただ、あえて嘘もつかず、素直でもなく。夜にしか出てこない、どこか削ぎ落とされたような声音だった。「ようやるわ、小阪くん。俺はもう三回くらい魂抜けかけてるで」そう言って、笑うでもなく肩をすくめると、小阪の口角が一瞬だけ動いた気がした。笑ったとは言えない。だが、何かがわずかに弛んだのは確かだった。光の弱い部屋の中で、それはほんの瞬きのように通り過ぎた。「コーヒー、飲む?ちょっと濃いやつやけど」「……ありがとうございます。でも大丈夫です」また沈黙が戻る。けれど、それは重くはなかった。音のない空間に、ふたり分の呼吸だけが微かに重なっている。その重なり方が、どこか心地よかった。昼間のような緊張でもなく、夜色で交わす身体の距離でもない。もっと曖昧で、だが確かに&ld