All Chapters of 冷めきった夫婦関係は離婚すべき: Chapter 521 - Chapter 530

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第521話

和彦は政夫の言葉に取り合おうともせず、リビングに並ぶ精巧な調度品へと視線を走らせた。氷のように冷えた声で言う。「美羽に用がある」政夫の顔に浮かんでいた笑みがわずかにこわばり、手の中で弄んでいた数珠を回す指の動きが、いっそう速くなる。「美羽か……あの子なら朝から出かけていてね、たぶん夕方まで戻らないだろう。急ぎの用事なら、ひとまず座って待たないか?お茶でも飲みながら――」そう言って使用人に茶の用意をさせようとする。低姿勢ではあるが、その奥には、拒絶を許さぬ年長者としての威圧が滲んでいた。幼い頃から和彦を見てきた身であり、しかも娘とは幼なじみ同士だ。最低限の体面だけは保ちたかったのだ。「結構」和彦はそのまま奥へと歩を進める。革靴が大理石の床を打ち、乾いた音が鋭く響いた。「本人がいないなら、俺は自分で探す」「おい、和彦!」政夫は慌てて前に出て止めようとしたが、翔太が一歩踏み出し、手を伸ばして進路を遮った。政夫は半歩退き、顔から愛想が消える。怒気がにじんだものの、さすがに本気で怒鳴りつけることもできず、声だけを強めた。「和彦、どういうつもりだ?秦家は陸川家ほど強くはないが、だからといって勝手に人を連れて乗り込んでくる筋合いはない!俺はお前を子どもの頃から見てきたんだ。年長者に対して、その態度は何だ?」和彦は足を止め、ゆっくりと振り返った。政夫より頭ひとつ以上背が高い和彦は、視線を落とすだけで強烈な威圧感を放つ。「年長者?本当に自分をそう思うなら、まずは娘のしつけをするべきだろう。敵と結託して、キシンプロジェクトのコアデータを盗み出すような真似を見過ごすのではなく」「何を馬鹿なことを!」政夫の顔色が一瞬で変わり、手の中の数珠が落ちかけた。それでも口調だけは強気を保つ。「美羽はあんなに素直な子だ、そんなことをするはずがない!和彦、言っていいことと悪いことがある。証拠もないのに、あの子の名誉を傷つけるな!」わざと「証拠」という言葉を強調しながらも、胸の内では激しく動揺していた。「証拠?」和彦は翔太から書類の束を受け取ると、指先で端を挟んだまま、無造作にテーブルへ放り出した。紙がばらりと広がり、びっしりと並んだ銀行取引履歴と海外口座の明細が露わになる。赤くマークされた送金記録が、ひときわ目に射るように浮かび上がっていた。「
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第522話

革靴が階段を踏むたび、重みのあるコツコツという音が響き、広い吹き抜けの空間に妙に鮮明に響いた。翔太と二人のボディガードが後に続く。彼らは反射的に腰元へ手を添え、鋭い視線で廊下の両側に並ぶ扉を一つひとつ確認し、周囲の気配を警戒していた。二階の廊下には絨毯が敷かれており、足音の大半を吸い込んでしまう。和彦は先頭に立ち、美羽の寝室の扉の前で足を止めた。長く細い指をドアノブに掛け、軽くひねる。カチリ、と小さな音を立てて扉が開いた。室内は異様なほど整然としていた。和彦の視線が、ベッドサイドに置かれたフォトフレームへ向かう。そこには、幼い頃の自分と美羽が並んで写っていた。写真の中の少女は、目尻を三日月のように細めて笑い、自分の腕に無邪気に抱きついている。だが和彦の瞳には、わずかな揺らぎも浮かばなかった。まるで取るに足らないものを一瞥しただけのように、そのまま背を向け、書斎へと向かった。しかし結果は同じだった。どの部屋も、不自然なほど整いすぎていた。肝心の美羽の姿だけは、どこにも見当たらない。「和彦、誰もいない」最後の部屋を確認し終えた翔太が、声を潜めて報告した。和彦は眉をわずかに寄せ、横目で廊下の突き当たりにある大きな窓へ視線を向ける。窓の外には秦家の裏庭が広がっていた。積雪が芝生の大半を覆い隠し、ところどころにだけ、褐色の土が顔を覗かせている。和彦は窓へ歩み寄り、手を伸ばして押し開けた。次の瞬間、冷たい風が一気に吹き込み、細かな雪が頬に打ちつける。和彦はすぐには口を開かず、わずかに首を傾け、背後の翔太へ視線だけで合図を送った。翔太は意図を即座に理解し、二人のボディガードに手で指示を出す。一人は別荘の裏口へ回り込み、裏庭の出口を先回りして封鎖する。翔太自身は、もう一人のボディガードを伴い正面側から追跡する。前後から挟み込む形で包囲網を形成する算段だった。数人の姿は、瞬く間に廊下の奥へ消えていった。庭では、美羽がちょうど裏口付近まで辿り着いていた。鉄門に手を掛けようとしたその瞬間、回り込んできたボディガードが彼女の行く手を遮る。彼女は恐怖に駆られて振り返る。背後からは翔太たちが迫ってきていた。顔から血の気が一瞬で引き、脚の力が抜ける。どさりと雪の上へ崩れ落ちた。冷たい雪解け水がたちまちコートの
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第523話

「誤解だと?」和彦は腰をかがめ、美羽の顎を指先で軽くつまみ上げ、無理やり顔を上げさせた。その瞳には、欠片ほどの温もりもない。「海外で療養していた間に使っていた偽名義の口座には、毎月東南アジアから送金があった。最高で九桁に及ぶ金額だ。その資金は、島で『商品』を選別し、売買を仲介した報酬だろう?」顎を強くつままれ、痛みに顔を歪めながらも、美羽は抵抗することすらできなかった。「わ、私は脅されていたの!」声を震わせ、涙が堰を切ったように溢れ出す。「母を人質に取られていたの!言うことを聞かなければ母を殺すって……だから従うしかなかったの!あの人たちを傷つけたくなんてなかった……でも、母を失うわけにはいかなかったの!」彼女の母親は政夫と離婚しただけで、亡くなってはいない。故郷で静かに暮らしている。だが三年前、確かに政夫は美羽のもとを訪れ、彼女の母親を盾にして、命令に従うよう強要していた。「脅迫、か」和彦は手を離し、ゆっくりと背筋を伸ばす。その声には、濃厚な嘲りが滲んでいた。「島で住んでいたのは一戸建ての別荘。持っていたのは限定モデルのバッグ。身につけていたのはオートクチュールの服。それも『脅されて』手に入れたものか?」一言一言が、彼女の繕った嘘を正確に貫いていく。美羽の顔色は蒼白から土気色へと変わり、唇が震えたまま、もはや弁解の言葉すら出てこない。「お前は脅されていたんじゃない。――貪欲だっただけだ」和彦の声は淡々としているが、その一語一語が美羽の胸を抉る。「島での特権を楽しみ、他人の苦痛と引き換えに得た贅沢を享受した。だから自ら進んで、あの連中に協力した。帰国してから俺に近づいたのも、昔の情なんかじゃない。陸川グループの支配権に手を伸ばそうとして、自分の欲望を満たし続けるため――違うか?」「違う!違うの!」美羽は突然、悲鳴のような声を上げた。耳をつんざくような甲高い声だった。「私は間違ってない!いい生活がしたかっただけよ、それのどこが悪いの?政夫は一度だって私を顧みなかったし、あなたも本気で私を大切にしたことなんてなかった!誰も私が欲しいものを与えてくれなかった、だから自分で手に入れるしかなかったじゃない!責めるなら、この不公平な世界を責めればいいでしょう!私のせいじゃない!私は悪くない!」
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第524話

冷たい風が細かな雪を巻き上げ、和彦の黒いコートに当たって、細かな音を立てた。彼は秦家の庭に立ち、SRテクノロジーのある方角を見つめていた。切れ長の目の奥に沈んだ感情はあまりにも深く、翔太が近づいてきたことにも気づかなかった。「和彦、美羽はすでに警察へ引き渡した。鈴木警官の話では、すぐに取り調べに入るそうだ」翔太は低い声で報告しながら、ちらりと和彦の手にあるスマートフォンへ視線を向けた。和彦は視線を引き戻し、指先で画面を軽くなぞった。声は淡々としている。「そうか。……先にSRへ向かう」車は秦家の別荘を離れ、そのまま市街地へと走り出した。窓の外の街並みは次第に賑わいを増していく。街灯にはイルミネーションが飾られ、連休の気配が濃くなっていた。和彦は窓に体を預け、目を閉じる。だが脳裏には、どうしても美穂の面影が浮かんでしまう。ラボで作業に没頭しているときの真剣な表情。自分に誤解されたとき、悔しさを堪えながらも気丈に振る舞っていた姿。そして離婚したとき、瞳の奥に消えずに残っていた失望。分かっていた。自分は「芝居」のために、美穂を深く傷つけてしまった。美羽の件は決着した。だが自分と美穂の間に生まれた亀裂は、「すまない」の一言で埋まるほど浅いものではなかった。車がSRテクノロジーのビルの前に止まったとき、すでに午後六時を回っていた。和彦がSRへ入ると、研究開発フロアの照明はまだ点いていた。その中で、美穂のオフィスだけが、はっきりと灯りを漏らしている。静かにドアを押し開ける。美穂はパソコンの前に座り、清霜が隣に立っていた。何かを話し合っている最中のようだった。物音に気づき、美穂が顔を上げる。和彦の姿を認めた瞬間、わずかに驚きの色が浮かんだ。だがすぐに表情は静まり、再び視線を画面へ落とす。まるで彼の存在など最初からなかったかのようだった。清霜は和彦を一目見てから美穂へ視線を移し、空気を察したように言った。「データの照合は終わった。問題ない。それじゃ、私は先に失礼」和彦のそばで足を止め、小声で言った。「水村さん、今日は一日中忙しくて、ほとんど何も食べていない。……ちゃんと話をしてあげてください」和彦は小さく頷いた。清霜が出て行くと、オフィスには二人だけが残る。空気は一瞬で静まり返り、聞こえるのはパソコン本体のか
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第525話

「……陸川社長」美穂は立ち上がり、デスクの上の書類をまとめ始めた。「まだ仕事がありますので、お見送りはしません。これから先、特に用事がなければ……もう私を訪ねて来ないでください」和彦は彼女が忙しそうに動く姿を見つめた。今ここで何を言っても無意味だと分かっている。それ以上は踏み込まず、デスクの上の冷えた弁当を手に取った。「温めてくる。それか、新しく頼み直すか。お前は胃が弱いんだから、冷たいものは食べるな」美穂は拒否もしなければ、返事もしない。ただ黙々と書類を整理し続けた。和彦は弁当を持ってオフィスを出た。表面上は落ち着いていたが、胸の内は決して穏やかではない。美穂を取り戻すには、まだ長い時間がかかる。それでも、諦めるつもりはなかった。一階のコンビニで弁当を温め、戻ってくると――美穂は椅子にもたれ、目を閉じていた。どうやら疲れて、そのまま眠ってしまったらしい。窓から差し込む夕陽が彼女の頬を淡く照らし、長いまつげが影を落としている。ひどく疲れて見えた。和彦は静かに弁当をデスクに置き、彼女を起こさないよう気を配りながら、隣の椅子に腰を下ろした。ただ黙って彼女を見つめていた。出会った頃のことを思い出す。まだ大学を卒業したばかりの美穂は、どこか初々しい表情で陸川グループの面接にやって来た。その瞳には、未来への期待が溢れていた。あれから何年も、自分のそばで働き、少なからぬ苦労を重ねてきた。それでも彼女は、一度も弱音を吐かなかった。和彦はスマートフォンを取り出し、以前こっそり保存していた美穂の写真を開く。写真の中の彼女は、目を細めて笑い、小さな猫を抱いている。その笑顔は、あまりにも柔らかく、あまりにも無防備だった。知らず、彼の口元にわずかな笑みが浮かぶ。どれだけ時間がかかっても構わない。必ずもう一度、彼女にこんなふうに笑ってもらう。これまで与えてしまったすべての苦しみを、必ず償う――そう心の中で誓った。どれほど時間が過ぎただろうか。美穂が目を覚ました。まだそこに座っている和彦を見て、わずかに驚いた様子を見せる。目をこすり、デスクの上の弁当に気づいた。「……まだ帰っていなかったんですか?」「起きたら食べられるようにと思ってな」和彦は温め直した弁当を差し出す。「温めてある。冷めないうちに食べろ」美穂
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第526話

和彦が療養病院に着くと、病室の中では介護士が華子と一緒にテレビの特番を見ていた。ドアの前に立つ和彦の姿に気づくと、華子の少し濁った瞳がわずかに明るさを帯びる。手を上げて彼に座るよう合図した。「こんな時間に、どうしたんだい?」和彦は介護士からぬるま湯の入ったカップを受け取り、華子の手元にそっと置く。「今日は具合はどう?どこか具合の悪いところはない?」華子は首を横に振り、彼の後ろへと視線を向けた。だが、見慣れた姿は見当たらない。表情の柔らかさが少し消え、尋ねる。「美穂は?一緒じゃないの?まだ仕事で忙しいのかね。あの子は本当に頑張りすぎる。連休くらい、少しは休めばいいのに」和彦は毛布の端を整えながら答えた。「用事があって、来られないんだ」華子は小さくため息をつき、それ以上は追及しなかった。やがてぽつりぽつりと話し始める。「この頃ね、頭がしっかりしている時と、ぼんやりする時があってね。最近になって、美穂が陸川家に嫁いできたばかりの頃のことを思い出したんだよ。私の膝が悪いって聞いて、わざわざ人に頼んで薬を取り寄せてくれてね。毎日、自分で用意して、塗ってくれていた。気がつけば三年もの間も続けてくれていた。一度も途切れることなくね」華子の言葉は、重く和彦の胸に落ちた、幾重にも波紋を広げた。彼は病室のベッドの傍らに腰を下ろし、無意識にズボンの縫い目を指先でなぞる。これまで気にも留めていなかった光景が、今になってやけに鮮明に思い浮かんできた。美穂が陸川家に嫁いだばかりの頃、毎朝早く起きてリビングで華子のために薬を用意していた後ろ姿。去年の冬、厚いコートに身を包み、熱を出した華子を背負って病院へ急いだ姿。家族で食卓を囲むたび、彼の皿にあった骨付きの肉を丁寧にほぐし、食べやすくしてくれていたこと――これまで自分は、それらをすべて「陸川家に取り入るための見せかけ」だと思っていた。だがその「見せかけ」を、美穂は三年もの間、続けてきたのだ。介護士がぬるま湯を替えに入ってきた頃には、華子はすでに枕にもたれてうたた寝をしていた。呼吸は穏やかで、寝息も浅い。和彦は物音を立てないよう静かに布団を整え、華子の肩口までそっと掛け直す。指先が触れた手の甲は、わずかに冷たかった。その瞬間、胸の奥にかすかな痛みが広がる。記憶が曖昧になりつつ
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第527話

美穂の視線は菜の花に向けられ、しばらく留まったあと、再び食事の容器へと戻った。何も言わないまま箸を取り、ゆっくりと海老餃子を一つ口に運ぶ。静かに食べ続ける。顔を上げることもなく、なぜ急にこんなことをしたのかと尋ねることもない。まるで和彦が、ただの来客であるかのように。かつて夫であったことなど、最初からなかったかのように。彼は隣の椅子に座り、彼女が黙々と食事をする姿を見つめていた。胸の奥に何かが詰まったようで、息苦しい。謝りたい。説明したい。だが、どこから話せばいいのか分からなかった。見過ごしてきた時間。誤解してきた彼女の真心。それらは決して、「すまない」の一言で埋められるものではない。食事を終えると、美穂は食器を整え、再び容器に戻した。続いて花束を手に取り、傍らに置かれていた空の花瓶へ活ける。動作は自然で、よどみがなく、余計な感情を一切見せない。振り返り、和彦を見る。「まだ何かご用ですか?なければ、データの照合作業を続けます」彼女の声は淡々としていた。「美穂」和彦はようやく口を開いた。喉仏が一度上下する。「今日、おばあ様のところへ行った。お前が嫁いできた頃、毎朝五時に起きて、関節の薬を用意してくれたと聞いた。三年以上も続けていたそうだ。それに、去年の冬、おばあ様が夜中に熱を出したとき……2キロの道を背負って病院まで連れて行ったとも言っていた。自分の体で風を遮るようにして、彼女を寒さから守ってくれていたと」美穂は図面を整理する手を止めない。視線すら動かさず、ただ静かに言った。「もう過去のことです。今さら話すことでもありません」「過去のことでも、間違っていたのは俺だ」和彦の声には、彼自身でも気づかないほどの悔恨が滲んでいた。「外の噂に惑わされて、お前が陸川家に嫁いだのは何か企みがあるからだと思い込んでいた。だから冷たく接し、偏見を持ち、お前がしてくれていたことをすべて見過ごしてきた。今さら言っても遅いのは分かっている。それでも――言わせてほしい。すまなかった」和彦が美穂の前で頭を下げるのは、これが初めてだった。これまでどんなことがあっても、彼は感情を冷たさで覆い隠してきた。これほど率直に過ちを認めたことはなかった。だが、美穂の反応は変わらない。顔を上げ、彼を見る。そこにあ
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第528話

美穂はそれ以上何も答えなかった。ただ背を向け、再びパソコンの前に座り、センサーのパラメータ表を開く。指先がキーボードを叩き始める。軽やかで規則的な打鍵音が、静まり返ったオフィスの静寂を破った。それは同時に、言葉のない拒絶のようでもあった。和彦は彼女の姿を見つめ、胸の奥がわずかに締めつけられるのを感じた。だが、それ以上は追いすがらなかった。立ち上がり、空になった食事の容器を手に取る。「データの確認が終わったら、早めに休め。あまり夜更かしするな。明日の朝、城南区のあの店のパンを買ってくる。前に、あそこの味が一番だと言っていただろう」そう言い残し、静かに扉を閉めてオフィスを後にした。廊下の照明は薄暗い。ドアの前に立つと、室内からキーボードを叩く音がかすかに聞こえてくる。規則正しく、はっきりとした音。和彦はスマートフォンを取り出し、翔太へメッセージを送った。――【以前、美穂が「姉の結婚を奪った」「陸川家に取り入った」と中傷された件、発信源をすべて突き止めろ。誰が流したものであっても、即座に対処しろ。関連する投稿やコメントもすべて削除し、痕跡を一切残すな】謝罪と時間だけでは、美穂の心は戻らない。まず彼女に貼られた汚名を消さなければならない。彼女を傷つけた噂を完全に消し去り、そのうえで、行動で少しずつ過去を償っていくしかない。それからの一週間――和彦は毎日、時間通りにSRテクノロジーに現れた。朝七時半には、美穂の好物の朝食を手に、ラボの入口に立っている。正午になると、彼女が好きな料理をテイクアウトし、会議室で一緒に食べられるように準備する。夜、どれだけ遅くなっても、必ずビルの下で待ち、家まで送る。その道中、温かい飲み物を忘れずに買うこともあった。美穂が自ら彼の朝食を受け取ることはなかった。昼食を共にしたことも一度もない。彼が家まで送っても、彼女は建物の入口で「もう結構です」と一言だけ告げ、振り返ることなく中へ入っていく。視線すら向けない。ある日、オフィスに飾っていた菜の花がそろそろ枯れかけているのに気づいた和彦は、わざわざ市内を大きく迂回し、花市場まで足を運んだ。満開の菜の花の花束を買い、そっと彼女のオフィスに置いた。だが翌日訪れると、その花束は廊下の共用スペースに移されていた。隣には小さな付箋
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第529話

美穂はマンションのエントランスへ入った。傘に残った雨粒が骨組みを伝い、ぽたりぽたりと床に落ち、小さな水たまりの跡を広げていく。折りたたみ傘を閉じ、金属の持ち手に触れた指先がひやりとした感触に気づく。先ほど少し雨の中に立っていただけで、手の甲が寒さですっかり赤くなっていた。玄関のドアを開けると、センサーライトが点灯し、暖かみのある光がわずかに冷えを和らげた。傘を壁際に立てかけ、靴を履き替えてリビングへ入る。ソファに腰を下ろしてまだ2分も経たないうちに、スマートフォンが鳴った。――峯からだった。「美穂、仕事は終わったか?」どこか軽い調子の声だった。「さっき港市から戻ってきたんだ。お前の好きなアーモンドクッキーを買ってきたぞ。今、マンションの下にいる。取りに降りてこいよ」美穂は一瞬きょとんとし、立ち上がって窓辺へ向かい、下を覗いた。案の定、峯が黒い車にもたれ、手に上品な箱を下げ、スマートフォンに向かって笑っている姿が見えた。上着を羽織り、足早に階下へ向かう。「どうして急に帰ってきたの?」箱を受け取ると、ほんのりとした温もりがまだ残っていた。「会いたくなったからさ」峯は眉を上げ、彼女の顔色をじっと観察する。「また夜更かししたな?何度も言ってるだろ、仕事ばかり無理するな。体の方が大事だ」少し間を置き、話題を変えた。「そういえばさっき、下で陸川和彦を見た気がするんだけど。あいつ、ここで何してる?」美穂の手が一瞬止まる。「送ってもらっただけ」「送ってもらった?」峯の眉がすぐに険しくなった。声にわずかな不満が混じる。「今さら何をする気だ?離婚のとき、あいつのあの冷たい態度……一生お前に関わらないつもりかと思ってた。秦美羽の件が片付いて、今度は一人になったから、お前を思い出したってわけか?」美穂は何も言わず、手にしたクッキーの箱を見下ろした。「美穂、情に流されるなよ」峯はさっきまでの軽い調子を消し、少し真剣な声になる。「あいつがこれまでお前にどう接してきたか、忘れたのか?外の噂が広まっても、一度もお前をかばわなかった。お前が病気で入院したときも、秦美羽から電話が来た途端、そっちに行った。それに離婚の日だって、引き止める言葉すらなかっただろ。そんな男に、もう一度振り回される必要なんてない」美穂は顔を上げ、峯を見ながら静かに
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第530話

美穂はペンを置き、椅子の背にもたれながら天井を見上げた。「千葉さんには分からないのよ。ある種の傷って、埋め合わせようとしても埋まるものじゃない。私と彼の間は……もう無理」「水村さんが辛い思いをしたのは分かってる」清霜の声は相変わらず落ち着いていた。「でも、恋愛に絶対的な正解も絶対的な間違いもないと思う。陸川社長は確かに以前は間違っていた。でも、今は変わろうとしているし、埋め合わせをしようとしている。それって簡単なことじゃない。もう一度チャンスをあげるのも……自分にチャンスをあげることになるかもしれない」美穂は首を横に振る。「そのチャンスは必要ない。今の生活に満足してるし、仕事も安定してる。家族も友達もいる。彼に頼る必要もないし、もう彼の世界に関わりたくない」少し間を置いて、静かに続けた。「前は、努力し続ければ、いつか彼の心も温まると思ってた。でも分かったの。人によっては、どれだけ手を尽くしても温まらない心もある。もう、報われない相手を待つことに時間を使いたくない」清霜は美穂の迷いのない目を見つめ、それ以上は何も言わなかった。「分かった。水村さんがどんな決断をしても、私は尊重するよ」そのとき、ラボのドアが開いた。和彦が朝食の入った袋を手に入ってくる。美穂と清霜の二人がいるのを見て、わずかに足を止めたが、すぐに歩み寄り、美穂のデスクの上に朝食を置いた。「お前の好きなパンを買ってきた。それと、菜の花も。向こうのテーブルに置いてある」美穂は彼を見ず、書類の確認を続けながら淡々と答える。「ありがとうございます。でも、もう朝食は済ませました。お忙しくないなら、お帰りください。こちらも仕事がありますので」差し出したままの彼の手がわずかに固まる。目に一瞬だけ落胆の色がよぎった。それでも小さく頷く。「分かった。仕事、頑張れ。……夜、迎えに来る」そう言い残し、ラボを後にした。背中がドアの向こうに消えるのを見て、清霜が小さくつぶやく。「本当に……諦める気なさそうね」美穂は何も答えず、再びペンを手に取り、書類の確認を続けた。彼がどれだけ粘り強いかは分かっている。だが、粘り強いからといって過去に戻れるわけではない。一度壊れてしまったものは、元通りには戻らない。昼食の時間になると、峯から再び電話がかかってきた。和彦がまた来
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