All Chapters of 冷めきった夫婦関係は離婚すべき: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話

「……最初から秦美羽がおかしいって気づいてたんでしょう?」美穂は突然そう問いかけた。「最初から、ずっと」電話の向こうで、呼吸がわずかに途切れた。しばらくしてから、和彦が小さく「……ああ」と答える。「じゃあ、どうして教えてくれなかったの?」美穂の声には、かすかな拗ねた響きと、抑えきれない苛立ちが混じっていた。「私、彼女に殺されかけたのよ。それでも、何も言わずに見ているだけだったの?」「ボディガードはつけていた」和彦の声には、普段は見せない微かな動揺がにじんでいた。「港市のときも、周防芽衣の人間が近くにいた。ただ……間に合わなかった」「じゃあ今回は?」美穂は彼の言葉を遮る。「陸川結愛が私に連絡してきたことも、陸川健一が薬を過剰摂取したことも、あなたの想定のうちだったの?最初から、こういう形で私をこの件に巻き込むつもりだと分かっていたんじゃないの?」和彦は答えなかった。ぽたり、と涙がこぼれた。美穂が怒っているのは、和彦が計算して動いていることではない。何も話してくれないことだった。すべてを一人で背負い込み、孤島のように周囲を遮断してしまう。自分には、説明の一言すらしてくれないかのように。「和彦……」鼻をすすり、声がかすかに震える。「私って、何もできないって思われてる?足手まといにしかならないって」「違う」すぐに返事が返ってきた。いつもより少し速い。「一度もそんなふうに思ったことはない」「じゃあ、どうして何も言ってくれないの?」美穂は言葉を重ねる。涙が次々とこぼれ落ちた。「こんなに長い付き合いだというのに……少しは私を信じてくれてもいいでしょう?」再び沈黙が落ちた。きっと今の彼は、椅子の背にもたれ、指先で眉間を押さえているのだろう。目の奥には、拭いきれない疲れが滲んでいるはずだ。「話せないこともある」長い時間を置いて、ようやく和彦が口を開いた。その声には、わずかな無力感が混じっていた。「関わっている人間が多すぎる。軽率なことはできない」「……私にも?」美穂が尋ねる。和彦は答えなかった。だが、その沈黙で十分だった。美穂は涙を拭い、深く息を吸った。「分かった。あなたはあなたの計画を続けて。私は邪魔しない」通話を切ろうとした、そのとき――「美穂」和彦が呼び止めた。「……なに?」「陸川深樹と
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第512話

美穂が京大ラボへ戻ったとき、清霜はまだパソコンの画面に向かい、データ調整を続けていた。デスクライトの光が清霜の顔に淡い陰影を落とし、規則正しく響くキーボードの音は、夜の静寂に響くメトロノームのようだった。美穂の姿に気づくと、清霜はちらりと目を上げた。赤くなった美穂の目元に視線を走らせたが、何も尋ねず、温めたミルクを一杯差し出した。「データの誤差は制御できた。明日から次のフェーズに入れる」美穂はミルクを受け取った。指先に伝わる温もりに、胸の奥の苦さが少しだけ和らぐ。小さくうなずき、スマートフォンをデスクに置いた。画面には峯とのチャット画面が表示されたままだ。美羽の海外での動きを調べてほしいと送ったメッセージには、まだ返信がない。その後の二日間、美穂はほとんどラボに張りついていた。昼はチームとともにパラメータを調整し、夜はデータ報告書をまとめる。食事さえ、清霜がついでに買ってきたもので済ませていた。四日目の午前、突然スマートフォンが鳴った。画面に表示されたのは【陸川結愛】の名前。美穂の指先がわずかに止まる。電話に出ると、電話の向こうからおずおずとした声が聞こえてきた。「美穂さん……父、だいぶ良くなりました。お医者さんも退院できるって……もし時間があったら、来てもらえませんか?父が、お礼を言いたいって」美穂は手元の、まとめたばかりの報告書に視線を落とし、清霜に「少し病院に行ってくる」とだけ告げると、コートをつかんで外へ向かった。健一が突然「礼を言いたい」と言い出した以上、単なる感謝で終わるはずがない。病室では、健一がベッドの背にもたれて座っていた。顔色は前回よりいくらか良くなっているが、目の下の青黒さは消えていない。美穂が入ってくると、彼の視線が揺れ、思わず姿勢を正した。結愛は脇に立ち、まとめた荷物袋を手にしている。美穂を見ると、すぐにコップの水を差し出した。「美穂さん、どうぞお掛けになって」美穂は受け取ったが口はつけず、ベッド脇の棚に置いた。視線は健一から外さない。「体調はいかがですか?」「だいぶ良くなった……水村さんのおかげです」健一の声はかすれていた。だが美穂と目を合わせようとせず、何度も窓の外へ視線を逃がす。「今回は……本当に世話になりました」「大したことではありません」美穂の口調は淡々としていた。「ただ
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第513話

健一は美穂を見つめ、目の奥に迷いが滲んでいた。何かを言おうとして口を開きかけるが、結局は言葉を飲み込む。怖いのだ。美穂でさえ、自分たちを守りきれないのではないか。もし賭けを誤れば、自分も結愛も取り返しのつかないことになるのではないか。美穂はその迷いを見抜き、数秒黙ったのち、ついにその名前を口にした。「……陸川和彦という人、知っていますか?」健一の体がびくりと震えた。顔を上げたその目には、はっきりとした驚きが浮かんでいる。「水村さんは……陸川社長をご存じなんですか?」「ええ。彼とは友人です」美穂は静かに言った。その口調は穏やかだが、確かな重みがあった。「彼もこの件を調べています。ただ、表に出られない事情がある。私を信じてくれるなら、本当のことを話してください。私と彼が、必ずおじさんたちを守ります。あの連中に、指一本触れさせません」健一の呼吸が荒くなった。両手でシーツを強く握りしめ、関節が白く浮き出ている。あの連中に言われた脅しの言葉が脳裏をよぎる。薬をやめてほしいと泣きながら訴えた結愛の顔も浮かぶ。そして――陸川和彦という名前。京市でその名を知らない人はいない。もし本当に彼の庇護を得られるなら……あるいは、自分たちは生き延びられるかもしれない。「……分かりました」長い沈黙の末、健一はついに口を開いた。鼻声混じりだった。「話す……だが、約束してください。結愛だけは、絶対に守ってほしいです」美穂はうなずいた。「約束します」健一は深く息を吸い、大きな決断を下すように言った。「……俺は陸川健一じゃない。本当の名前は、成田信也(なりた しんや)だ」その声はかすかだったが、美穂の胸に小さな波紋を呼んだ。成田信也――峯が以前口にしていた名だ。二十年前、西南地区で明美とともに教育ボランティアに参加していた同僚。そして、深樹の実の父親。「奴らが俺を見つけたのは……多額の借金を抱えていたからだ」信也は続けた。声には後悔が滲んでいる。「深樹にキシンプロジェクトのコアデータを手に入れさせ、さらに秦美羽が持っている証拠を差し出させることに協力すれば、借金を肩代わりし、結愛と穏やかに暮らせるようにしてやると言われた」「秦美羽が持っている証拠って?」美穂が問いかける。「三年前、秦正宏が破産した件の証拠だ」信
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第514話

美穂が櫻山荘園の門前に車を停めたとき、フロントガラスにはすでに薄く雪が積もっていた。ワイパーが何度も左右に揺れるが、絶え間なく降り続く雪を払いきることはできない。信也の、恐怖に満ちたあの目。そして「薬を断てば生きていけない」という言葉が、何度も頭に浮かぶ。胸の奥が重く詰まり、息苦しささえ覚えた。美穂は眉間を押さえた。指先には、まだハンドルの冷たい感触が残っている。車のドアを押し開けると、雪を巻き込んだ冷たい風が頬に打ちつけ、一瞬で意識が冴えた。清はすでに装飾の施された鉄門の外で待っていた。彼女の姿を見つけると、丁寧に一礼する。「水村様、和彦様が書斎でお待ちです」美穂は清を一瞥した。彼は終始、頭を下げたままだった。そのまま足を踏み入れる。玄関ホールのシャンデリアが室内を明るく照らしているが、空気に漂う静けさまでは追い払えない。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、二人の姿を映し出している。足音が、広々としたリビングに乾いた反響を残した。「水村様、こちらです」清は書斎の前まで案内すると、控えめに手で示し、そのまま静かに退いた。美穂は小さく息を吸い、扉を押し開けた。書斎には明かりが灯っていない。デスクの背後にあるフロアランプと、暖炉の炎だけが揺らめき、室内を薄暗く照らしている。重苦しい空気だった。和彦は広い紫檀のデスクの向こう側に座り、火のついていない煙草を指先に挟んだまま、モニターの監視カメラの映像を見つめていた。画面には美羽のマンションが映っている。彼女はスマートフォンに向かって激しく言い争い、感情に任せてグラスを床へ叩きつけた。割れた破片がフローリングに散らばり、鋭く光る。ドアの開く音に気づき、和彦がゆっくりと視線を上げた。瞳にはほとんど温度がない。「座れ」淡々とした声だった。美穂はデスクの前まで歩み寄り、手にしていたボイスレコーダーをそっとデスクの端に置いた。金属のボディが木製の天板に触れ、小さな音を立てる。向かいの椅子を引き、背筋を伸ばして腰掛けた。「成田信也との会話の録音」彼女の声は静かで揺れがない。「秦美羽と陸川深樹について話している。確認してみてください」和彦の長い指がレコーダーを取り上げ、再生ボタンを押した。すぐに、信也の泣き声混じりの声が書斎に広がる。
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第515話

結局、すべての利益は深樹のもとに集まる。「この前、秦美羽に薬を盛られた件も……もしかして陸川深樹の指示だった可能性はある?」美穂がふいに口を開いた。声には、かすかな冷たさが混じっている。これまで美穂は、美羽が嫉妬から自分に手を出したのだと思っていた。だが今になって考えれば――美羽はただ命令に従っていただけで、本当に自分に危害を加えようとしていたのは、一見無害に見える深樹だったのかもしれない。和彦が顔を上げる。その瞳に一瞬だけ複雑な感情がよぎったが、すぐに元の静けさへと戻った。「可能性はある。お前はキシンプロジェクトの責任者だ。もしお前に何かあれば、プロジェクトは混乱に陥る。そうなれば、背後に潜んでいる人間が、その隙を突いて動きやすくなる」美穂は手の甲で目元を軽く押さえた。椅子の背にもたれ、暖炉の炎を横目に見る。胸の奥に、冷たい感覚が広がった。――最初から、深樹の仕掛けた罠の中にいたのだ。美羽でさえ、深樹の手の中の駒に過ぎなかった。「成田信也と陸川結愛は、もう手配してある。監視をつけているから、当面は安全よ」美穂はスマートフォンを取り出し、位置情報を表示して和彦へ送った。「でも秦美羽が二人の失踪に気づけば、すぐに陸川深樹へ報告するはず。もし異変に気づかれて、先に動かれたら?」「こちらで対応する」和彦の表情は落ち着いたままだった。「お前は千葉清霜と古賀教授と一緒にプロジェクトを完成させればいい。成田の件はこちらで引き取る。この件は、ここまでだ」「どうして……」そう聞きかけたが、男の淡く冷たい視線に触れ、その言葉は喉の奥へ押し戻された。理解してしまったからだ。ここから先は、自分の立場では踏み込めない領域なのだと。「分かった」美穂は唇をわずかに引き結び、続けた。「コアデータは三重の暗号化をかけている。解除できるのは、私と千葉さん、それから古賀さんの指紋だけ。プロジェクト資料に接触した全員のリストも作成した。順番に精査して、問題がないか確認する」言い終えると、書斎には再び静寂が戻った。美穂は和彦を見た。彼はデスクの上の書類に目を落とし、顎のラインが鋭く整っている。ペンを持つ指先にさえ、近寄りがたい冷淡さが漂っていた。「ほかに用件がなければ、もう行くわ」美穂は立ち上がり、コートの襟を整える。動作
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第516話

翌朝、雪はやんでいた。車窓から差し込む朝日が、美穂の膝に置かれたプロジェクト報告書を照らし、紙面に並ぶ数式をくっきりと浮かび上がらせている。車が京市大学の東門に停まると、ドアを開けた瞬間、冷気に包み込まれた。白い息はすぐに凍りつく空気の中へ消えていく。コートの襟元を引き寄せ、残った雪を踏みしめながらラボへ向かう。路面はうっすらと凍っており、足元がわずかに滑る。ちょうど除雪車の脇を通り過ぎたとき、背後から、どこか少年の面影を残した声が響いた。「水村さん」美穂の足が止まる。ポケットの中で、指先がわずかに力を込めた。――深樹だ。振り返ると、彼は黒いリュックを背負い、街灯の下に立っていた。薄いグレーのパーカーの上に黒のダウンジャケットを羽織り、腕にはノートパソコンを抱えている。開いたままの画面の端には、びっしりと並んだコードが見えた。まるで情報工学部の学生そのもの、といった装いだ。「偶然だね。水村さんもこの辺りへ?」深樹は足早に近づいてきた。穏やかな笑みを浮かべ、指先は寒さで赤くなっている。「朝の授業が終わったばかりで、これから寮に戻ってコードを整理しようと思っていたところなんだ」美穂は彼を見つめ、ノートパソコンに一瞬だけ視線を落とした。「何か用?」声は淡々としている。その距離感に気づかないふりをしたまま、深樹は近くの、ちょうど開店したばかりのカフェを指差した。「外は風も強いし、路面も滑りやすいから。少し中で話さない?ほんの数分でいいんだ。ラボへ行く時間は取らせない」美穂はわずかに考え込んだ。深樹が偶然声をかけてきたとは思えない。目的は信也と結愛のことか、あるいはキシンプロジェクトの進捗か。断るのは簡単だが、話の中から手がかりを得られる可能性もある。彼女は小さくうなずいた。「いいわ」カフェの中は暖かく、コーヒーの香りが空気に広がっていた。窓際の席に腰を下ろす。店員が注文を取りに来ると、深樹が先に口を開いた。「水村さんは何にする?ホットココア?それともラテ?」「ぬるま湯でいい」美穂は短く答えた。店員が離れると、深樹が本題を切り出す。その口調には、ほどよく抑えた心配が滲んでいた。「実は、水村さんに聞きたいのは父のことなんだ」美穂は視線を上げ、あえて不思議そうな表情を作る。「お父さ
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第517話

深樹の笑みが、わずかに固まった。数秒の沈黙のあと、彼の声色は真剣さを帯び、どこか申し訳なさを含んだものへと変わった。「水村さん、実は……もう一つ、謝りたいことがあって」「謝る?」美穂が眉を上げる。「この前、美羽が水村さんにしたこと」深樹の目には後悔の色が浮かんでいた。「あとで厳しく注意したんだ。彼女も自分の非を認めている。性格が少し短気なだけで、悪気があったわけじゃない。どうか気にしないでください。これからは俺がちゃんと見ておくよ。もう迷惑はかけさせない」代わりに謝罪するその態度を見ながら、美穂の胸の奥では冷たい嘲笑が広がった。彼女はわずかに身を乗り出し、まっすぐに彼の目を見据える。声には、わずかな鋭さが混じっていた。「深樹――成田信也を手配して、『陸川健一』のふりをさせたのはあなたでしょう?」その瞬間、深樹の体が固まった。顔から笑みが消える。目の奥に、一瞬だけ明確な動揺が走った。カップを握る手に力が入り、関節が白く浮かび上がる。まさか、この話題を突然突きつけられるとは思っていなかったのだろう。「水村さん……どうしてそんなことを言うんだ?」声がわずかに不自然だった。「父は俺と結愛の父親です。俺がどうしてそんなことを……」「そう?」美穂の口元に、淡い皮肉の笑みが浮かぶ。「じゃあ説明してくれる?どうして成田信也は、あんなにあなたを恐れているの?どうして秦美羽は、あなたのことを『ボス』と呼ぶの?あなたが成田信也に父親のふりをさせた理由は?何を企んでいるの?」矢継ぎ早の問いが、重い槌のように突きつけられた。深樹の顔色が、一瞬で蒼白になる。口を開きかけるが、言葉が出ない。目の奥の動揺は、もはや隠しきれなかった。そこに浮かび上がったのは、かすかな陰りと冷たい計算高さ。窓から差し込む日差しが、彼の顔を半分だけ照らす。光と影の境界に浮かぶその表情は、胸の奥に潜む思惑をあまりにも鮮明に映し出していた。その反応を見た瞬間、美穂の中で答えはほぼ確定した。彼女は静かに立ち上がり、コートの襟を整える。動きは迷いなく、無駄がなかった。「用事があるの。ラボに戻るわ」深樹も慌てて立ち上がり、彼女の腕を取ろうと手を伸ばした。だが美穂はわずかに体を引き、自然な動作でそれをかわす。彼女の背中を見つ
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第518話

深樹はテーブルの上で冷えきったレモンウォーターを手に取り、一口飲む。舌の上に広がる酸味にも、彼の表情はまったく変わらない。信也と結愛は、もともと自分が盤上に置いた駒だ。だが、その駒の存在が露見した以上――美穂や和彦に握られる弱みになるだけだ。ならば、早めに片づけてしまったほうがいい。そして美穂。彼女は確かに多くを知りすぎている。だが問題はない。キシンプロジェクトのコアデータさえ手に入れ、陸川グループの実権を掌握すれば――秘密を知る人間が何人いようと、もはや波風を立てることはできない。スマートフォンをデスクの端に置き、ノートパソコンを開く。指先が高速でキーボードを叩く。画面には複雑なコードが次々と表示され、カーソルの点滅に合わせて命令文が増えていく。計画を加速させなければならない。美穂にも和彦にも、対応する時間を与えないために。……SRテクノロジーの研究開発フロアは、キーボードの打鍵音だけが響く静寂に包まれていた。大型連休まで、残り三日。多くの社員はすでに帰省のチケットを手配しており、フロアの照明もまばらだ。それでも美穂のオフィスだけは、暖かい光を灯していた。デスクの上には、ヒューマノイドAIロボットプロジェクトのレポートが広げられている。A3用紙に印刷された機械構造図が一面に並び、タブレットに表示されたセンサーのパラメータ表を指先でスクロールしながら、彼女はわずかに眉を寄せた。先ほど確認した関節可動性テストのデータに、一箇所だけ異常値がある。数値の誤差はごく小さい。だが精密な介護動作を求められるロボットにとっては、わずかなズレでも動作の滑らかさに影響する可能性がある。「その集中力、学生の頃に発揮していたら、名門大学がこぞってスカウトに来てただろうな」峯がオフィスに入ってきた。手には、カフェチェーン店のロゴ入り紙袋が二つ。そのうち一つの温かいミルクティーを、美穂の手元に置く。独特の港市訛りが混じった気の抜けた口調で言う。「ヒューマノイドAIのプロジェクトって、先月中間審査通ったばっかりだろ?多少のデータ誤差なんて後で調整すればいいのに。連休前ぎりぎりまで詰めるなんて、クマができるぞ」美穂は疲れた目元を軽く揉み、ストローを刺してミルクティーを一口飲んだ。キ
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第519話

「どうしたの?」美穂はパイナップルパンをデスクに置き、口元についたパンくずを軽く拭った。「陸川社長がお見えになっています。応接室でお待ちです。緊急のご用件だそうで、できるだけ早く来てほしいと」律希が答えた。美穂は怪訝そうに眉を寄せる。数日前に電話で話したばかりなのに、どうして今日、わざわざSRまで来たのだろうか。――まさか、深樹の側に動きがあった?峯の表情も引き締まり、椅子から立ち上がった。「一緒に行こうか?」「いいわ。私一人で大丈夫」美穂は峯に言い添える。「デスクの上の報告書をまとめておいて。特にセンサーのパラメータ表、なくさないように。すぐ戻るから」峯はうなずいた。「何かあったらすぐ電話しろよ。無理はするな。話がこじれたら、そのまま帰ってきていい。陸川和彦に気を遣う必要なんてない」美穂は軽く返事をした。エレベーターの照明がやけに眩しい。和彦が突然訪ねてきた理由を、頭の中で何度も考える。――やはり、深樹が動いたのだろうか。応接室に入ると、ソファに座る和彦の姿が目に入り、ようやく少し気持ちが落ち着いた。黒のカシミアコートに、同色のタートルネック。すらりとした首筋と、くっきりとした顎のラインが際立っている。手には一冊の書類。美穂が入ってくるのを見ると、向かいのソファを示し、書類を差し出した。「今さっき入った情報だ。先に目を通してくれ」彼女は受け取り、素早くページをめくる。そこには、深樹と海外の技術チームとのメールのやり取りが記録されていた。相手側はキシンプロジェクトの暗号システムの解析を試みており、深樹は京大ラボのネットワーク構造図の一部を送っている。「どうして彼がラボのネットワーク構造図を持っているの?」美穂は書類を強く握りしめた。声に焦りがにじむ。「ラボのネットワーク権限は厳重に管理している。アクセスできるのは私と千葉さん、それから古賀さんだけのはずよ」「美羽を通じて手に入れた」和彦の声は冷たい。「彼女は俺の権限を使った」美穂は一瞬、言葉を失った。次の瞬間――デスクを叩く音が響いた。「和彦!ラボのネットワーク権限がどれだけ重要か分かってるの?どうしてそんなものを秦美羽に渡したの――」「偽物だ」和彦はわずかに顎を上げ、美穂の怒りに揺れる瞳をまっすぐ見つめた
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第520話

美穂が応接室を出ると、廊下の掛け時計は午後四時を少し回っていた。足早に研究開発フロアへ戻ると、峯が彼女のデスクに座り、ヒューマノイドAIロボットの関節設計図を食い入るように見ていた。彼女の姿に気づくと、すぐに立ち上がる。「どうだった?陸川和彦は何の用だった?やっぱり陸川深樹が何か仕掛けてきたのか?」美穂は書類とUSBメモリーを差し出し、海外チームの件と偽のネットワーク構造図のことを簡潔に説明した。峯は資料に目を通し、表情をわずかに曇らせる。「ずいぶん大胆だな……海外チームと手を組むなんて。で、連休は本当に港市へ帰るのか?」「一段落したら帰るわ。もう柚月とも約束してるし」美穂は首を横に振り、スマートフォンを取り出して清霜へ電話をかけた。「千葉さんとは、連休初日はラボで待機することにした。もし本当に仕掛けてきたら、その場で対応できるように。あなたは安心して帰っていい。何かあったらすぐ連絡するから。先に帰って荷物をまとめてきて。私はちょっと京大のラボに行ってくる」美穂は彼を見送り、清霜と連絡を取り、連休初日にラボで合流することを決めた。さらに優馬にも状況を伝えると、すぐに返信が届いた。技術チームを調整し、データ移行に協力するとのことだった。……連休初日。京市には再び小雪が舞っていた。美穂は朝早く京大のラボに入り、コンピューターの前でファイアウォールプログラムの最終調整を行っていた。ほどなくして清霜も到着する。美穂は淡いアイボリーのダウンジャケットを着て、髪を低い位置でまとめていた。化粧気のない顔立ちは、白い花のように静かで清らかな雰囲気を漂わせている。清霜の姿を見ると、小さく声をかけた。「来たのね。ファイアウォールはすでに導入済み。オフラインサーバーも確認したけど、問題ない」「お疲れ様。こんな日にラボで付き合ってもらうなんて」清霜は温かいコーヒーを差し出した。「本当なら、家族と過ごすべき日なのに」「大丈夫」美穂はコーヒーを受け取る。声は穏やかだった。「家には私しかいないし、どこで過ごしても同じ。それにキシンプロジェクトは重要だから、安心できないの」二人はモニターの前に並んで座り、ネットワーク監視ログを注視した。時間が静かに過ぎていく。窓の外では雪が強くなり、キャンパスのどこかから、まだ
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