娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた のすべてのチャプター: チャプター 211 - チャプター 220

338 チャプター

第211話

実は、瑠々が瑛司に車椅子を押されて病室へ戻り、彼が「ちょっと下に行ってくる」と言ったときから、彼女の胸の奥には不安が広がっていた。彼女は忘れていなかったのだ。階下には、蒼空がいるということを。ベッドのそばまで車椅子を押してもらうと、瑠々は薄い毛布の下で両手を握りしめ、自分の太ももの布地をきゅっと掴みながら、かすかに声を出した。「何か用事?私も一緒に行っていい?私はもう大丈夫。歩けるし、迷惑はかけないようにするから」瑛司は無言で、丁寧に瑠々をベッドに移し、膝の上の毛布を取り、布団を整えた。一連の動作が終わると、低い声で言った。「大したことじゃない。すぐ戻る。君はゆっくり休め」その言葉を聞いた瞬間、彼の優しい仕草に潤んでいた瑠々の目が、わずかに曇った。彼女は無理に笑みを作り、穏やかに答えた。「じゃあ、早く戻ってきてね。待ってるから」瑛司は身をかがめ、布団の端を直しながら低く「ああ」と応えた。その姿勢のまま、外から見ればまるで瑠々を抱きかかえているように見える。彼の体から漂う、冷たくも落ち着いた香りが鼻先をかすめ、瑠々の胸が一瞬ときめいた。彼女はその香りに酔いしれ、思わず彼の腰に腕を回し、このままその懐に沈み込みたくなる。だが、瑛司はすぐに離れ、その香りも空気の中に薄れていった。瑠々は唇を引き結び、目を伏せて感情を押し殺す。彼が部屋を出ていくと、病室には静寂だけが残った。ドアが閉まる音が響いたあと、瑠々はしばらくじっとしていたが、ついに我慢できず、スリッパを履いて窓から外をのぞいた。ほんの十数秒しか経っていなかったのに、彼女の目に映ったのは瑛司の背中だけ。一瞬でもその姿が見えなくなるのが怖くて、瑠々は毛布を持たずにそのままドアを開け、廊下へ飛び出した。水に落ちたのは自作自演だ。確かに体は濡れたが、怪我も病気もない。ただ、瑛司の前ではいつも「儚く弱い女」を演じているだけだ。だからこそ、わざと車椅子を使った。今はその仮面を脱ぎ捨て、足早に彼を追いかける。向かった先は、先ほど蒼空と出会ったあの場所。やっぱり。遠くに見える蒼空の背中を見た瞬間、瑠々は奥歯を噛み締めた。瑛司の目的は、彼女だった。木の陰に身を隠し、そっと顔を出して二人のやりとりを聞く。老婦人が「
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第212話

彼は穏やかに呼びかけた。「瑠々......」瑠々は頬を染め、少し睨むように言った。「何見てるの?」礼都は慌てて視線を逸らし、彼女のそばに歩み寄ると小声で尋ねた。「瑛司は?」瑠々の唇に柔らかな笑みが広がり、恋する少女のように答える。「すぐ戻るって言ってた。どうしたの?」その言葉を聞いた礼都は眉をひそめ、さらに不満を募らせた。「どこに行ったんだ?瑠々の体調がまだ万全じゃないのに、彼は付き添ってもいないのか?」瑠々は唇をかすかに噛み、気にした様子もなく言った。「彼は仕事が忙しいの。私はもう大丈夫だから、ずっと一緒にいる必要なんてないでしょ」礼都の目の色が徐々に暗く沈み、口の端を引きつらせて乾いた声で言う。「......そうか」胸の奥が鈍く痛みながらも、彼は無理に笑顔を作った。「そういえば、瑠々と松木社長の婚約パーティーって、もう日取りは決まってるのか?」瑠々の瞳が一瞬止まり、ゆっくりと首を横に振る。「最近いろんなことがあって......瑛司とも、まだちゃんと話せてないの」礼都は眉を寄せた。「それじゃ駄目だ。もうお腹も少し出てきてるし、遅くなればなるほどドレスが似合わなくなる。早く決めないと」瑠々は静かに頷いた。「わかってる。それに瑛司は、きっと私を大切にしてくれる」礼都は苛立ちを隠せず、思わず声を荒げた。「まったく......彼もどうかしてる。未婚のまま妊娠させるなんて、瑠々の立場を考えてないのか。自分だけ気楽にして......!」その言葉に、瑠々の笑みがゆっくりと消えた。彼女は布団の下で両手を握りしめ、小さく息を整える。「瑛司は言ってたの。ちゃんとした父親になるって。私は、瑛司を信じるよ」礼都がさらに何か言おうとしたそのとき、ポケットの中のスマホが鳴った。彼は顔をしかめ、電話を取り出す。「悪い、ちょっと出てくる。すぐ戻る」「うん」礼都が部屋を出ていくと、ほぼ同じタイミングで瑛司が戻ってきた。瑠々の目がぱっと明るくなり、柔らかい声で呼びかける。「瑛司、お帰り」「ああ」と短く返す瑛司。彼女の目には明るい光と期待が宿り、笑顔が花のように咲いた。瑛司はベッドに置かれた本を手に取り、しおりを挟んでナイトテーブルに丁寧に置いた。瑠々の心
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第213話

病室の外、廊下の突き当たり。礼都は開口一番に言った。「あんた、いつになったら瑠々との婚約パーティーを開くつもりだ?まさか彼女のお腹がドレスで隠せなくなってからにするつもりじゃないだろうな?」瑛司は何も答えなかった。礼都の声がさらに強まる。「早く決めろよ。未婚のまま妊娠なんて評判、瑠々にとっては聞こえが悪い。しかも彼女は半分とはいえ公の人物だ。ネット上ではどれだけの人が彼女を見てると思ってる?ちゃんと考えてやれ。それとも──」礼都は視線を向け、疑うように言った。「まさか、まだ関水のことを忘れられないのか?」瑛司はゆっくりとまぶたを上げた。顔のラインは鋭く整い、眉間の影が深い。声は低く冷たく響いた。「それは、お前が口を出すことじゃない」礼都は口を開いたが、言葉が出ない。瑛司は続けた。「俺と瑠々のことは、すでに決まってる。いちいちお前に報告する義理はないだろう」そう言った彼の目元には、笑みとも言えぬ薄い笑みが浮かんだ。けれどその笑みは氷のように冷たい。礼都は目を細めて言った。「そうだといいけどな。瑠々を傷つけたら、僕は絶対にあんたを許さないからな」瑛司は数秒彼を見つめ、それから視線を外し、再び瑠々の病室へと戻っていった。瑠々は扉の向こうを凝視していて、落ち着かない様子だった。瑛司が何事もなく戻ってきたのを見て、ようやく安堵の息をつく。「礼都は何を言ってたの?」瑛司はベッドの端に腰を下ろし、淡々と答える。「仕事の話だ」瑠々は疑わしげに眉をひそめた。「仕事の話なら、わざわざ外で話す必要ある?今まで私の前で避けたことなんてなかったのに」瑛司は軽く笑う。「勘がいいんだな」瑠々はじっと彼を見つめる。「礼都に殴られた?」「いや」瑠々は数秒見つめたあと、唇を尖らせた。「そう。言いたくないならいいよ」彼女は小さく笑い、頭を瑛司の肩に預けた。「ねえ、今夜帰りましょうよ。明日は準決勝よ。警察はいつ戻ってくるのかしら」「もうすぐだ。焦るな」瑠々の胸の奥には、どうしても消えない不安があった。監視カメラが、あの時の一部始終をどこまで映しているのか──それが気がかりで仕方がない。彼女はあのとき慎重に動いた。監視があることを意識して、まるで
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第214話

蒼空はすぐに視線を引き戻し、湯をボトルいっぱいに注ぐと、その場を離れた。女警官がスマホの画面を差し出す。「監視映像はすでに確認して、コピーも取ってあります」その表情に違和感を覚え、蒼空の胸が一瞬ざわついた。彼女はスマホを受け取り、瑠々との間に置く。画面には、監視カメラに映ったあの日の映像が流れていた。ちょうど蒼空と瑠々が事故に遭ったあの場所が、正面から映っている。映像の冒頭は、蒼空が瑠々のそばを通り過ぎる瞬間だった。蒼空はすぐには再生ボタンを押さず、瑠々の顔を見た。瑠々は妙に静かだった。いつもなら皮肉を混ぜて何かと刺のあることを言うのに、今はやけに黙っている。唇をきゅっと結び、視線を画面に固定し、上体がわずかに前のめりになっている――緊張している証拠だった。蒼空は指を再生ボタンの上に置いたまま、彼女の瞳を見つめる。「緊張してるように見えるけど」瑠々の瞳が一瞬揺れ、そのあとに微笑んだ。春の風みたいに柔らかい笑顔だった。「そんなことないわ。気のせいよ」蒼空は淡々と答える。「そうだといいけど」背後に立つ礼都が不機嫌そうに眉を寄せ、低く言った。「無駄口叩くな、早くしろ」蒼空は彼の言葉を無視した。瑠々の笑みはどこか引きつっていて、礼都の正義感に満ちた態度とは正反対だった。彼女は何も言わず、指で再生ボタンを押した。映像の中で、蒼空は男たちの群れを避け、瑠々のそばを通り過ぎようとしていた。はっきりと映っていたのは――瑠々が突然、蒼空の手首を掴む瞬間だった。蒼空の眉がわずかに上がる。映像では、瑠々が蒼空をプールの縁まで引き寄せ、笑みを浮かべながら何かを話していた。蒼空は迷惑そうな顔で、手を振りほどこうとしている。だが瑠々はその手をしっかり握りしめ、離そうとしなかった。二人の間で少し言い争いが起こる。蒼空は下を向き、必死に手をねじって何度も抜け出そうとしていた。カメラには蒼空の表情は映っていないが、瑠々の顔ははっきりと映っていた。穏やかで優しげな笑み。柔らかい声で何かを話している。一見穏やかだが、その手の力強さを見る限り、まるで執着しているように見えた。蒼空の視界の端で、瑠々の唇の笑みがゆっくりと消えていく。病室の中は、鳥の羽音ひ
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第215話

彼女のそばに座っていた瑠々が、ふいに手を上げて彼女の肩を軽く叩き、穏やかに笑いながら言った。「ありがとうございます」「誤解だって分かってました。彼女がそんなことをするような人間ではないと、信じてました」そこまで言っても、蒼空は何の反応も見せなかった。瑠々は最後の一言を、どこか含みのある優しい声で告げた。「蒼空の潔白を証明してくださって、本当にありがとうございます」蒼空はハッと顔を上げ、瑠々を見つめた。潔白を証明?瑠々は柔らかく微笑んでいた。瞳の奥には星が散らばったような輝きがあり、先ほどまでの緊張はどこへやら、生き生きとしていた。その美しさは、言葉を失うほどだった。蒼空は思わず小さく笑った。確かに「潔白を証明」してもらったのかもしれない。被害者であるはずの自分が、加害者として調べられた。そして今、真の加害者は影に隠れ、まるで善意の人のように彼女の潔白を「返して」くれている。滑稽だ。瑠々はその笑みを見て一瞬怯んだように、表情から笑みが消え、上体を瑛司のほうに傾けた。瞳には怯えと哀れさが滲んでいる。蒼空は静かに彼女を見つめ続けた。その目には、何の感情も宿っていなかった。やがて、瑛司の手が瑠々の細い肩に触れ、力強く握りしめた。まるで彼女を守るように。蒼空の瞳がわずかに揺れ、ゆっくりと顔を上げて瑛司の視線を受け止めた。病室の白い光の下で、瑛司の顔立ちはいっそう鋭く際立っていた。完璧な眉弓、深く暗い黒い瞳――そこにある感情は、蒼空には読み取れなかった。彼は瑠々の肩を庇うように腕を回し、低く言った。「帰ろう」その「帰ろう」は、彼と瑠々のことを指していた。礼都が瑠々の前に立ち、腕を広げて庇うように立ちはだかった。警戒と疑念を込めた目で蒼空を睨みつける。「何だその目は。警察だって違うって言ってただろ。どんな面して瑠々を疑ってんだよ?」蒼空は勢いよく立ち上がった。その瞬間、空気が一気に張りつめた。二人の警察官が同時に立ち上がり、すぐに止めに入れるよう身構えた。「落ち着いてください!」だが、彼らの目には、最初に手を出すのは蒼空だとしか見えなかった。彼女の顔色も表情も静かだったが、その奥にはどこか凶気が潜んでいた。二人の警察官は無意識に体
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第216話

実のところ、蒼空にも分かっていた。もし監視カメラが瑠々が自分を水に引きずり落とす瞬間を捉えていたとしても、瑠々は大した処分を受けないだろうと。前の人生でも、瑠々がやってきた悪事は数え切れないほどあった。すべてを隠し通せたわけではなく、いくつかは明るみに出ていた。それでも、瑛司をはじめとする周囲の人たちは、瑠々が何をしていたのか気づいても、口をつぐみ、彼女を庇い、理解を示す。薬を盛られ、ホームレスの男に襲われかけたあの時でさえ――礼都は言った。「瑠々をいじめてなければ、そんなことならなかったんだろうが。これは自業自得だ。瑠々はただ自分を守っただけだ」瑛司の両親も言った。「瑠々みたいに優しい子でさえ、あなたに追い詰められてああなったのよ。それほどあなたが酷かったってこと。瑠々が謝罪?むしろあなたが瑠々に謝るべきよ」そして瑛司も言った。「瑠々に近づくな。彼女にもう心配をかけるな」瑠々がどんな酷いことをしても、瑛司の目には「心配している」ように映っていた。蒼空はとっくに気づいていた。自分が強くならない限り、どれだけ瑠々の悪事の証拠を掴んでも意味がない。彼女の周りの人間は、皆一様に瑠々を守るのだ。蒼空は目を強く閉じた。心が波立ち、落ち着きを保つことができなかった。再び目を開けると、目の前で皮を剥かれたリンゴが揺れていた。そのリンゴを持つ手を目で追うと、中年の女性の笑顔があった。「さ、食べなさい。遠慮しないで」彼女は明るく笑いながら、リンゴを蒼空の手に無理やり押しつけた。蒼空は戸惑い、何度も首を振った。「いいです。皆さんで食べてください」だが中年の女性は押し返すように言った。「いいのよ、気にしないで。食べて元気出しな」あまりにも勧められるので、蒼空はゆっくりと体を起こし、リンゴを受け取って小さく呟いた。「......ありがとうございます」女性は笑いながら彼女の肩を軽く叩いた。「このくらいで落ち込まないで。笑っていればきっと運も味方してくれるわ」蒼空は唇を引きつらせ、無理に笑みを作った。「ありがとうございます」翌朝には本選があるため、蒼空はすぐに退院の手続きをして、タクシーでホテルへ戻った。ホテルに着くと、他の出場者たちの態度が明らかに冷たくなってい
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第217話

礼都は両方に顔が利く男で、わずか三十分もしないうちに蒼空が何をしたのかを知った。彼は眉をひそめ、目の奥に嫌悪の色を浮かべ、唇を固く結んだ。蒼空の行動は、まさに瑠々を不義の立場に追い込むものだった。考えるまでもなく、彼女の背後で人々がどんな噂をしているかなど、容易に想像がついた。ましてや、瑠々は「シーサイド・ピアノコンクール」の優勝候補。出場者の誰もがプライドの高い連中ばかりで、瑠々を本心から認める者などいない。嫉妬や反感を抱く者が出るのも当然だ。瑠々はそんな彼の様子に気づき、やわらかく笑いながら尋ねた。「どうしたの?また怒ってる」礼都は低い声で言った。「瑠々はコンクールの準備に集中して。ほかのことは僕と瑛司で片づけるから」瑠々は穏やかに問いかけた。「何かあった?」礼都はしばらく黙り、瞳の奥に一瞬暗い光を宿した。「別に。ただ、関水に瑠々の十分の一でも優しさがあれば、こんなことにはならなかっただろうと思ってる」瑠々は唇を結び、やさしい声で言った。「蒼空はまだ若い。これから大人になるわ」礼都は首を横に振り、何も答えなかった。心の中では、蒼空と同じ年頃の瑠々が、すでに「ピアノ界の天才少女」として名を馳せ、留学の推薦を得ていたことを思い出していた。誰からも好かれ、人望もあった。老若男女問わず、彼女を見た者は皆、好意を抱いた。一方の蒼空は、悪名高く、気性が荒く、人望も品性もない。どこを取っても瑠々には及ばないくせに、いつも彼女に逆らってばかり。礼都は指先をいじりながら、眉間に不耐と苛立ちを深く刻んだ。蒼空が瑠々に絡み続ける限り、いずれ決着をつけねばならない。瑠々をこれ以上傷つけるわけにはいかない。瑠々は元来、周囲の目を気にする性格で、自分の評判にも人一倍敏感だった。当然、先ほど起きた出来事や蒼空の行動についても耳にしていた。もちろん腹が立った。だが、どうすることもできなかった。監視カメラには、蒼空を水の中へ引き込んだ瞬間が映っていなかっただけでも幸運だった。しかし蒼空の行動は、確かに彼女を火の上にさらすものだった。こうなってしまえば、下手に弁解しても火に油を注ぐだけだ。自分では動けない。だからこそ、礼都に動いてもらうしかない。礼都は彼女にと
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第218話

瑠々は礼都に背を向けたまま、静かにうなずいた。「うん。礼都のこと、信じてるから」扉が閉まる音がして、部屋の中は静まり返った。瑠々は涙をぬぐい、唇の端にゆるやかな笑みを浮かべた。その笑みには、どこか含みのある影が落ちていた。その夜。蒼空は外からの騒がしい声に目を覚ました。怒鳴り声や悲鳴が入り混じり、落ち着いていられないほどの喧噪だった。彼女はイライラしたようにペンを投げ出し、扉を開けて外に出た。廊下にはすでにたくさんの選手とホテルのスタッフが集まり、彼女の部屋の前で騒いでいた。みんなが彼女に背を向け、視線は一点――人だかりの中心へ向かっている。押し合いへし合いの中で、蒼空は人々の背中や肩しか見えず、中央の様子はわからなかった。ただ、断続的に響く悲鳴が耳に届く。「やめて!お願い、明日試合があるの!手を壊されたらもう......!」「櫻木社長、すみません!本当にすみませんでした!久米川さんには謝るから、もうやめてください!」喧騒の中で、蒼空はまだ状況を理解できずにいた。けれど、周囲のざわめきが断片的に伝えてくる。「どうしたんだ?櫻木社長、急に人を殴り始めて」「聞いた話だと、あの人たちが久米川さんの悪口を言ってたらしい。それを櫻木社長が後ろで聞いて、怒ったんだってさ」「まさか......プールの件のことか?」「らしいよ」蒼空の眉がぴくりと動いた。彼女は人の波をかき分けて中へと進む。人垣の中心には、礼都がいた。スーツの上着は無造作に開かれ、シャツの上のボタンが二つ外れている。額の前髪が乱れ、顔には怒りの気配が宿っていた。片足で男の背を踏みつけ、片手で女の首をつかんでいる。男女の服は乱れ、顔には青あざが広がっていた。特に男の顔は見るに堪えないほど腫れ上がっていた。蒼空の瞳孔が震えた。「......櫻木」彼が声に反応し、男の腹を蹴り上げると、女の身体を乱暴に突き放した。男は悲鳴を上げて地面に丸まり、女は腕を抱えて隅へ逃げ、怯えた目で礼都を見上げた。礼都はゆっくり顔を上げ、蒼空を見て、皮肉な笑みを浮かべた。「これが口の利き方を間違えた結果だ。誰も特別扱いはしない。特例は、一人だけ。瑠々だけだ。僕がこの大会に投資したのは、瑠々を贔屓するためじ
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第219話

周囲がざわめきに包まれた。蒼空の呼吸が止まり、両手で必死に礼都の手をつかんだ。顔は真っ赤に染まり、歯を食いしばって礼都を睨みつける。だが礼都は、彼女の抵抗などまるで意に介さない。冷たく鼻で笑うと、さらに力を込めた。蒼空の胸が締めつけられ、息を吸う余地さえなくなっていく。肺の空気が少しずつ抜け、視界が揺れた。次の瞬間、彼女は壁に押しつけられた。礼都は手を高く上げ、彼女の足がほとんど床から離れかけていた。息ができない。空気を求めて喉が焼けるようだった。蒼空は声を振り絞った。「さっ......くらぎ......はな、して......」礼都の低く沈んだ声が耳元に落ちた。「前にも言っただろう。僕を本気で怒らせるなって」その瞬間、彼女は本当に死を感じた。礼都が自分を殺そうとしている――そう確信した。視界がどんどん暗くなり、意識が遠のく。口を開けても、掠れた音しか出ない。殺される。そう思った刹那、礼都の手が離れた。力が抜け、蒼空は地面に崩れ落ちた。両手で床を支え、まるで渇ききった魚のように、必死に息を吸い込む。空気が喉を通るたび、ひゅうひゅうと耳障りな音がした。目の前に見えるのは、黒い革靴。礼都は彼女の前に立ち、いつものように冷ややかな笑みを浮かべていた。「今回のことは、君が何度も瑠々を侮辱した報いだ。次は、こんなもんじゃ済まない。僕のやり方を知ったら、君はきっと後悔するよ」そのとき、外から瑠々が人混みをかき分けて駆け込んできた。さっき礼都が彼女をかばうように振る舞っていたせいで、周囲の人々は彼女が通る道を自然と開けた。誰もが、瑠々に触れることを恐れるかのように距離を取った。瑠々は目の前の惨状を見て、口元を押さえ、悲鳴を上げた。「うそ......どうしたの!?」礼都は彼女に気づき、慌てたように駆け寄った。しかし怒鳴ることもできず、声は一転して柔らかくなる。「瑠々、どうしてここに?部屋で待てって言ったのに」瑠々は焦って足を鳴らした。「またこんなことしてたのね!よりによって蒼空なんて!」彼女は蒼空のそばにしゃがみ、そっと腕に触れた。「ごめんね蒼空、礼都は私のことで頭に血が上っただけなの。責めないであげて。立てる?手、貸すよ」蒼
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第220話

礼都に怒りがあるからといって、蒼空にないわけではなかった。だから、周囲の人たちは一斉に目を見開いた。蒼空が地面から勢いよく立ち上がったのだ。あまりにも突然の動きで、礼都は反応すらできなかった。パシン。蒼空は腕を振り上げ、そのまま全力で礼都の頬を打った。場が一瞬にして静まり返る。空気が凍りついたように、誰も声を出せなかった。蒼空は本気で叩いた。礼都の顔が横に弾かれ、頬にはくっきりと五本の指の跡が浮かんでいた。次の瞬間、蒼空は礼都の胸ぐらをつかみ、上体をぐっと引き寄せる。その瞳は鋭く、言葉はひとつひとつ叩きつけるようだった。「監視映像の問題に気づいたんでしょ?だからそんなに焦ってるの?私がその映像を他の人に見せるのが怖いんだ、違う?」礼都は歯を食いしばり、顔を横に向けた。その表情は完全に陰り、蒼空を睨みつける。「貴様!」蒼空は礼都の頭をぐいっと引き寄せ、自分の額を思い切りぶつけた。鈍い音が響く。礼都の呻き声が耳に届く。激痛に目の前が揺らいだが、それでも彼女は言葉を吐き出した。「言っておくけど、あんたが久米川をどれだけ大事にしても、私には関係ないわ。みんなが久米川を無罪だと言うなら、私が映像を公開したって何の問題もない。焦って隠そうとする方が怪しい。最後まで隠せると思ってるの?」再び腕を上げようとした瞬間、礼都に手首をつかまれた。蒼空は冷たく笑う。そして、もう片方の手を使い、油断していた礼都の頬を再び強く叩いた。パシン。またしても、鮮やかな音が響く。今度は蒼空が手を離し、数歩後ずさって壁にもたれた。その視線は冷たく、ひと欠片の迷いもなかった。「あんたが守りたい人がいるように、私にも自分を守る理由がある。追い詰められたら――共倒れでも、私は構わない」礼都は叩かれた頬を撫で、ぶつけられた額にも触れる。ゆっくりと顔を上げ、その表情には暗い影が落ちていた。瑠々が焦った様子で駆け寄り、礼都を支える。「どんなに頭にきても手を出したら駄目よ、蒼空。礼都だって、あんな風にしたくてしたわけじゃないの」礼都は沈んだ声で言った。「貴様、死にたいのか」蒼空は壁に背を預けたまま動かず、ただ鼻で笑った。「櫻木社長、まだ何か手があるなら使えば?全部受け
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