All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 481 - Chapter 490

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第481話

どんなに鈍い彼らでも、家の年長者や同世代から「SSテクノロジー」の名を耳にしてきたし、決して敵に回すな、関係を円滑に保てと散々言われてきた。蒼空は、まさにその「関係をよくすべき人物」になっていた。真二は頭が追いつかない。ついさっきまで見下していた「運転手の娘」が――瞬きをする間に、SSテクノロジーの創始者。想像もつかないほどの実力、そして自分たちをはるかに凌ぐ実績。この現実、飲み込めるはずがなかった。自分より下だと思っていた相手に、いつの間にかはるか上に立たれている。誰だって、苦く感じる。蒼空が口角を上げる。遥樹が彼女の腕を引き、低く囁く。「......じゃあ、お前は松木家で......ずっとこんな扱いを受けてたのか」蒼空は淡々と、「もう終わったことだよ」と答える。遥樹は黙り込む。蒼空が話を流しかけた、そのとき。「......終わってない」低い声が落ちた。「え?」遥樹は視線を下げ、淡い青を帯びた眼差しで見つめる。「終わったことじゃない。俺は全部覚えてる」「遥樹」「なんだ」蒼空の瞳が揺れる。「......何でもない」そっぽを向き、気持ちを隠すように言う。「中に入ろう」「うん」蒼空は眉を上げ、周囲を見る。「他に何か?ないなら、入るよ」一同は互いに目を見交す。真二は気まずそうに顔を背け、拳を強く握りしめる。さっきまで威勢がよかった張り子の虎は、水をかけられてしぼんでいた。彼は俯き、横にずれて道を開ける。他の者たちも黙ってそれに倣い、二人が並んで通れるほどの通路ができる。蒼空は遥樹を見やり、「行こう」と言った。腕を組んだまま、二人はゆっくりとその間を歩く。「......ごめん」通り過ぎようとしたとき、声がした。蒼空は足を止め、横目で見る。「え?」真二は拳を握ったまま、ぎこちなく頭を上げ、苦々しい顔で言った。「ごめん、関水。さっきの......悪かった。どうか、前のことを......気にしないでくれ」蒼空は「ふーん」と間延びさせてから、ひと笑いする。「気分次第ってとこかな」真二たちの笑みが、微妙に引きつる。言い捨てるようにそれを残し、蒼空は遥樹とともに松木家へ向かった。松木家の庭は広く、二人が歩いて玄関
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第482話

蒼空の瞳がわずかに冷えた。「話すほどのことじゃないよ。どうしても聞きたいなら、話してあげてもいいけど。でもまあ......」遥樹が追及する。「でも?」蒼空は唇を弧にした。「本当に話していいの?」遥樹の声が少し低くなる。「昔のことだし、もう終わったことだろ。大丈夫、ちゃんと聞くから」蒼空は身を寄せ、遥樹の表情を覗き込み、眉を寄せた。「そんなに聞きたいって言う割に、なんでそんな不機嫌な顔するの」遥樹はそっぽを向く。「してない」蒼空は思わず吹き出す。「そんな顔しないでよ。遥樹がそんな顔してたら、あとで瑛司の方がかっこよく見えちゃうよ?」遥樹は即座に顔を向け、睨む。「どういう意味だよ。俺があいつより劣ってるって言いたいわけ?」蒼空は肩をすくめ、笑って言う。「そんなこと言ってないでしょ」遥樹はじっと彼女の表情を読み取るように見つめる。「ならいいが」蒼空は笑いを漏らした。「本当だよ。遥樹はかっこいい。世界で一番かっこいい男。これでいい?」遥樹はむすっとしながらも、ネクタイを直し始める。蒼空はふっと笑い、松木家の庭を見渡す。数年経っているのに、当時ここで過ごした日々をありありと思い出せた。ふいに、彼女の視線が止まる。松木家の二階。瑛司がバルコニーに立ち、逆光の中から彼女を見下ろしていた。その黒い瞳は冷たく、感情は読み取れない。いつから見ていたのだろう。不意の視線の交差に、蒼空の笑みが薄れる。遥樹も気づき、同じ方向を見る。彼の瞳が細くなる。蒼空はすぐに視線を戻し、さっきまでの柔らかさが消えた声で言った。「行こう」遥樹は、まるでその男を視界から消したいと言わんばかりに即答した。蒼空は遥樹の腕を取り、屋内へ入った。姿が見えなくなった頃、瑛司はようやく視線を戻し、片手をポケットに入れる。「瑛司、いるの?」扉の外から瑠々の声。すぐに、五歳の息子の声も続く。「パパ、早くきてー。お客さんいっぱいだよ」瑛司は淡々と返事し、部屋を出る。扉が開くなり、瑠々が微笑んで腕を組む。「瑛司、行きましょ。おじいさまとお客様が待ってるのよ」瑛司は軽くうなずき、息子に手を差し出す。佑人はうれしそうに走り寄り、父の手を握ると、二人の間
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第483話

遥樹は口元を上げ、確信めいた声で言った。「俺は彼女の男だ」場が一瞬ざわつく。視線が二人に集まり、その色が妙に艶っぽく、複雑に揺れる。確かに、さっきまで蒼空は、遥樹の庇い方に少し胸が熱くなっていた。けれど今は、彼を宇宙に蹴り飛ばしたい気分だ。周囲の視線がさらに怪しくなるのを見て、蒼空は前に出て遥樹を引き寄せ、萌々香に向かって言った。「まだ言いたいことは?」萌々香は怒りを喉に詰まらせる。「あなた――」「蒼空」低く落ち着いた声がその空気を断ち切った。全員が声の方を見る。この声の主を忘れる者はいない。反射的に道が開いた。蒼空が顔を上げる。瑛司が冷たい暗さを宿した目で、静かに彼女を見つめていた。その隣には瑠々が腕を絡め、後ろには佑人が父の足に抱きつき、不満げに彼女を睨むように見ている。この騒ぎを、三人がいつから見ていたのかはわからない。蒼空は冷静に言った。「松木社長、松木奥様」瑠々は唇を吊り上げ、からかうように目を細める。「蒼空、彼氏さんを連れてきたのね。おじいさまに紹介する気かしら?」視線が蒼空に集中する。蒼空は瑠々の笑みを見返す。その意図は明白だった。――自分が警戒していた蒼空が、男を連れてきた。つまり、もう脅威じゃない。蒼空は眉を上げ、瑛司を横目に見ながら淡々と返した。「残念ですが、私のおじいさまは、私が生まれてすぐ亡くなっています」空気が凍りつく。目が大きく見開かれ、驚愕の色が走る。瑠々が言った「おじいさま」が誰を指すか、ここにいる全員が知っていた。蒼空の言葉は露骨な拒絶だ。蒼空は続けた。「でも、もし生きていたら、きっと彼をお墓参りに連れて行ったでしょうね」息を飲む音が、聞こえた気がした。ここは松木家の本拠。誰も口を挟めない。瑠々は心の中で勝利を確信したように、哀れむような目を向けた。「蒼空。私が言ってた『おじいさま』が誰か、当然わかるでしょう?」蒼空は柔らかく笑う。「もちろんわかってますよ。でも、向こうが認めてくれなかった。みんなも知ってるはず。私、追い出されたのですよ?どの面下げて『おじいさま』なんて呼ぶのです?」瑛司の目が細くなった。蒼空はその目をまっすぐ見返す。「松木社長も覚えてるで
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第484話

蒼空はふっと声を落とした。「そういえば祝福もまだでしたよね。お二人がずっと仲睦まじく、幸せになりますように」その言葉を口にした時、彼女は瑛司の目をまっすぐ見ていた。言い終えたあと、意味深に一言つけ加える。「松木社長、私との約束、忘れないでくださいね」瑠々の笑みが一瞬ぴくりと止まる。「どんな約束をしたのかしら?」蒼空は神秘めいた笑みを浮かべた。「松木社長に聞いてみたらどうです?松木社長が話したくないなら、私も言えないですけど」瑠々は唇を引きつらせ、息を吸って笑顔を作った。「やっぱりやめとく。瑛司はちゃんと考えてる人だもの。私は信じてるから」蒼空は眉を上げ、ため息混じりに言う。「本当に、仲がいいんですね」「蒼空」ふいに、瑛司が口を開く。「はい?」冷ややかで揺らぎのない声が落ちる。「じいさんが書斎で待っている」「わかりました、すぐ行きます」彼女は振り返り、遥樹に言う。「行こう」遥樹の目がぱっと輝き、口元が上がる。「ああ」瑛司の眉がぴくりと寄った。冷えた視線が遥樹を一瞥する。「彼は駄目だ」遥樹の顔色がさっと曇り、鋭い目で睨み返す。二人の間に火花が散った。蒼空は眉を上げる。「どうしてですか?彼は他人じゃありません」「恋愛して頭までやられたか?」瑛司は不機嫌そうに眉を潜める。「まあ、そこそこ?」と蒼空は淡々。瑛司の視線がさらに深くなる。どうやら「黒白ウサギ」のゲーム権利の件が絡んでいるらしい。蒼空は遥樹を見て言う。「じゃ、ちょっと待ってて。すぐ戻るから」遥樹の顔はみるみる黒くなり、唇が何度も動くが、結局耳元で小さく言う。「早く戻ってきて。ここで待ってる」蒼空はそっと彼の頭に手を伸ばす。「いい子にするんだよ」その瞬間、遥樹の不機嫌は溶け去った。まるで主人に撫でられた子犬みたいに、瞳を輝かせて笑い、素直に頷く。蒼空はさらにもう一度、遥樹の頭を撫でた。それから彼女はくるりと背を向け、書斎の方向に顎をしゃくる。「行きましょうか」瑠々は意味ありげに目を細める。「蒼空、本当に彼氏さんと仲いいのね」蒼空は一瞥し、瑛司へ向き直る。「松木奥様も一緒に?」瑠々は心の中で嘲笑し、「もちろん行く」と言いか
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第485話

佑人は口を尖らせ、頬をぷくっと膨らませて、険しい目で蒼空を睨みつけた。「やだ!ぼく、そんなの知らない!」蒼空はちらりと彼を見て、淡々と言う。「相手してる暇ないので。先に行く」ただのガキだ。あとでゆっくり片づければいい。そう言い捨てて、本当に瑛司を置いて一人で階段を上がっていった。その様子に、佑人は目を見開き、慌てて駆け出す。「だめ!上に行っちゃだめ!」瑛司が傍にいた使用人に一つ視線を送る。使用人はすぐに察し、佑人の肩を押さえた。「佑人様、松木社長のお言葉を聞きましょう?上はダメですよ?」佑人が暴れそうになった瞬間、瑛司の低く重い声が頭上に落ちる。「佑人、最近ますます礼儀を忘れているな」その厳しい眼差しに、瑠々はなぜか胸がざわつき、慌てて駆け寄って息子を抱き込んだ。「もう、いいでしょ。パパの言うこと聞いて?邪魔しちゃだめだからね」佑人はぷいっと顔をそむけ、後頭部を瑛司に向けて不満を示す。背後の騒ぎは聞こえていたが、蒼空は振り返らなかった。「まだ怒っているのか」いつの間にか追いついていた瑛司が、耳元で言った。蒼空は平然と返す。「松木社長が『黒白ウサギ』のゲーム権利を売ってくれるなら、怒る理由はなくなるんですけど」「嘘つけ」「嘘かどうかは、試してみればいいでしょう?」彼女は鼻で笑う。階段を上りながら、横目で瑛司が自分を見下ろしているのを捉える。その影が横顔に落ちる。「『松木社長』ばかりだな。お前はこの数年で一体何を学んだ?」「では、なんて呼べば?」瑛司の黒い瞳は冷ややかに鋭く、わずかな圧を含んで返す。「忘れたのか、前はどう呼んでたか」以前。前は「お兄ちゃん」だ。だが今それを言うくらいなら、蒼空は破産した方がマシだと思う。蒼空は微笑んで顔を向けた。「松木社長はもう結婚されてますし。男女には距離ってものがあります。線を引いた方がいいですよ。それに松木社長、昔言いましたよね。『汚い気持ちを俺に向けるな』って」彼女はまた笑う。「私はその言葉だけ忘れてませんよ。今さら呼んだら、また人前で私を追い出しかねないですし?」瑛司の眸は、いつも通り冷静で感情を見せない。つまらない――蒼空はそう感じ、そろそろこの無駄な記憶話を切ろう
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第486話

けれど、今の彼女にはもう自分の足で立てるだけの力がある。蒼空は口元をわずかに上げた。「私と松木社長は恋人じゃありませんからね。私の恋人は遥樹です」瑛司は何を考えているのかわからない声で言う。「結構なことだ。成長して、男を家に連れてくるようにもなったか」蒼空は唇に笑みを浮かべたまま、何も返さない。そうして話しているうちに、書斎の前へ着いた。蒼空がノックしようとした瞬間、瑛司が止める。「ノックはいらない。ここだ」示された方向を見て、蒼空が訊ねる。「......私の、昔の部屋?」瑛司は短く「ああ」とだけ答え、それ以上言わない。蒼空は手を下ろし、眉を寄せた。「書斎じゃなくて、なんで私の部屋に?」答えず、彼は先に扉を開けて中へ入る。違和感はあった。だが階下には人が多く、遥樹もいる。蒼空は結局ついていく。中に入った瞬間、瑛司はすぐに扉を閉めた。部屋の灯りは明るく、最近交換されたばかりとわかる。蒼空は入口で立ち尽くす。胸の奥がざわついた。部屋は、彼女が出ていった時のままだった。布団も枕も本棚も、何一つ変わっていない。むしろ以前より整って、磨かれている。ただ一つ――見知らぬピアノが置かれていた。一瞬だけ動揺したが、すぐに呼吸を整え、視線で部屋中を確認し、さらにバルコニーまで歩いて見回した。戻ってくると、バルコニーの前に立ち、腕を組んで冷たい声で言う。「敬一郎さんは?」瑛司の黒い瞳はずっと彼女を追っていた。ゆっくりと歩み寄る――蒼空は警戒して一歩引く。だが彼は突然立ち止まり、ピアノの前に立つ。蓋を開け、黒と白の鍵盤に指を置いた。ひとつ押すと、澄んだ音が静かな部屋に響いた。「最初から嘘だった?」彼女は短く息を吐く。「何が目的?」「お前のピアノ、もう長いこと聞いていない。今からもう一度弾いてくれ」低く落ち着いた声。静寂より深く、ピアノより柔らかい。蒼空は眉を寄せる。「ピアノが聞きたいなら、奥様に頼めば?あの人、専門家でしょう。奥さんなんですから、堂々と頼めばいい」瑛司はもう一度鍵盤を叩く。今度の音は濁り、乱れ、心地よくない。そして顔を上げる。「俺は、お前の音が聞きたい」蒼空は鼻で笑う。「演奏する義理はあ
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第487話

蒼空の気持ちなんて取るに足らないと切り捨て、二人の関係をぐちゃぐちゃに引き裂き、しかも彼女の誕生日当日に本来彼女に渡すはずだったピアノを瑠々に渡した――そんなことがあった。あれから何年も経って、蒼空はとっくに過去のあれこれを全部手放し、受け入れて生きている。それでも当時、全身が氷水に沈んだみたいに冷えきって、息をすることすらできなかった感覚は、今でもはっきり覚えている。「松木社長、お心遣いありがとうございます。でも、必要ありません」静かな部屋に、自分の声がはっきり響く。彼女の眼差しは終始冷静で迷いがなく、わずかにまつげを上げて、淡々と瑛司を見る。「松木社長、忘れているかもしれませんが、私はもう自力でそれ以上のピアノを買えることができます。誰かに買ってもらう必要ありません」もし見間違いでなければ、今この部屋にあるピアノは、あの誕生日に瑛司が用意していたものと同じモデルだ。彼と修復するべき関係なんて、そもそも存在しない。瑛司の表情からは感情が読めない。「てっきり、喜ぶと思っていた」期限切れの「おやつ」を、誰が好むっていうの。蒼空は心の中でせせら笑い、表面は穏やかに言う。「私が好きなのは、私だけのものです。独占欲が強いので。他人に触れたものは要りません。松木社長のピアノは良いものですが、私には合いません」露骨とは言わないが、言外の意味は明白。蒼空は彼の目をまっすぐ見て、口元だけで笑う。「それに自分で買わなくても、彼氏が買ってくれます。松木社長のお気持ちはありがたいですが、このピアノは松木奥様にどうぞ。来月ワールドツアーが始まるそうですね。機会があれば伺います」完璧な言い回しだった。瑛司はゆっくりとまぶたを上げ、深く沈んだ瞳で見つめてくる。昔も今も、その目に何を思っているのか分からない。言葉は返ってこない。蒼空は淡々と続ける。「では松木社長、もしほかに用がないなら、『黒白ウサギ』の著作権についてお話しできますか?それをお約束していたはずです」そこでようやく、瑛司は思い出したように、指先で鍵盤をそっとなぞる。軽やかな音が弾ける。だが次の瞬間、強く鍵盤を叩き、鈍い音が響いた。蒼空は静かに返答を待つ。返ってきたのは、まるで関係のない一言。「五年が経って、本当に大人に
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第488話

蒼空は微笑みを保ったまま言った。「もう五年もピアノを弾いてませんし、さっきもきちんとお断りしましたよね」瑛司はわざとらしく頷き、彼女の言葉を聞き終えると口を開く。「一曲弾けば、『黒白ウサギ』の著作権の話をしてやる」蒼空は危うく目をひっくり返しそうになり、ぐっと堪えた。「私が松木社長と奥様の結婚記念のパーティーに出席すれば、著作権を売ることについてお話しすると、私たちはそういう約束でしたよね?」瑛司は静かに聞き終え、淡々と問いかける。「弾くのか、それとも弾かないのか」条件の後出し。しかも堂々と。蒼空は拳で彼の顔を殴りたい衝動に駆られた。数秒の沈黙。瑛司は、彼女が必ず自分の条件を飲むと確信している顔で、悠然と構えている。その態度がまた癪に障る。蒼空は心の中で舌打ちした。「つまり、弾けば著作権を売ってくださる、ってことですね?」瑛司は短く答える。「弾け」――偉そうにして......ムカつく。でも生活のためには頭を下げるしかない。彼女には、給料と配分を待つ社員たちがいる。蒼空は拳をぎゅっと握ると、ピアノの前に歩み寄り、腰を下ろした。――実を言うと、さっきの「五年弾いてない」は嘘だ。この五年、ピアノを手放したことは一度もなかった。首都に来たばかりの頃は、金もピアノもなく、口座の残金はほぼ全て起業に消えた。生活に追われ、ピアノどころではなかった。けれど会社が軌道に乗り、お金に余裕ができた時、真っ先に自宅にピアノを迎えた。時間があれば鍵盤に触れ、心を整えてきた。五年で腕はむしろ磨かれ、衰えるどころか深みさえ増した。指先が鍵盤に触れ、そっと力を込める。軽やかな音が静かに立ち上がり、柔らかな旋律が部屋に流れ出す。緩やかなテンポ、穏やかな音の連なり。特別な意味なんてない、ただの曲。ただいまの二人には、これが一番似合う。音に身を任せるほどに、白く細い指は滑らかに鍵盤を舞う。光の粒がやわらかく彼女を包み、スカートの裾は水面のように揺れ、細くしなやかなラインが浮かび上がる。瑛司の視界には、まるで映画のような光景が映っていた。彼の瞳はだんだんと深く沈み、薄い唇は固く結ばれる。そして、ただその背中を見つめ続けた。体に沿ったオフショルダーのドレ
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第489話

瑛司はふと意識が揺れた。この光景、どこかで見たことがある気がした。数秒後、部屋の中のピアノの音が止む。彼は眉を僅かに寄せ、視線を向ける。蒼空はまだピアノ椅子に座ったまま、身体を横に向けて彼を見ていた。その眼差しは冷静で揺らぎなく、声も淡々としている。「松木社長、弾き終わりました」黒と白がはっきりした瞳。それを見た瞬間、瑛司は「どこで見た」のかを思い出した。――夢だ。ある日、仕事終わりにふと運転手に指示して、楽器店に向かわせ、理由もなくこのピアノを買い、松木家に運ばせた時のこと。敬一郎や瑠々に理由を聞かれ、眉間を揉みながらも、自分でもよく分からなかった。ただ、このピアノを見た瞬間、13歳で松木家に来たばかりの蒼空の姿が鮮明に浮かび、気づけば衝動のまま購入していた。「たまたまだ。気にするな」そう答えた。ピアノは、かつて蒼空の部屋だった場所に置かれた。その夜、彼は蒼空の夢を見た。夢の中の彼女は今日と同じようにピアノ椅子に座り、見知らぬ曲を弾いていた。高校の制服姿で、髪は高い位置で結んだポニーテール。鍵盤に合わせて揺れるその髪。今日とは違う。いちばん違うのは――夢の中の蒼空は、弾きながら時々振り返り、今より幼く、明るく無邪気に笑っていたこと。瞳は今よりずっと輝いて、弾けるように笑っていたこと。目覚めた後、理由も意味も分からず、夢の内容もほとんど忘れてしまっていた。――今日までは。今は、その夢の全てが鮮やかに蘇っている。夢の中の彼女の目尻の弧まで、はっきりと。蒼空は返事が来ないことに気づき、瑛司の視線が妙に険しいことに、胸の奥がざわつく。再び声をかける。「松木社長。弾き終わったって言いました」ぼんやりしているような顔。数秒後、瑛司は我に返り、軽く咳払いをして低い声で言う。「......分かった」蒼空は数秒呆れ、立ち上がる。「さっきは約束し――」その言葉は、突然聞こえた外の音に遮られた。喉で止まり、続かない。松木家は防音性が高いとはいえ、完全ではない。大きめの音はどうしても漏れる。ピアノの音もそうだった。蒼空が弾き始めた瞬間、階下のリビングにまでその音が届いていた。客間には、瑛司と繋がりを求める客ばかり。彼が
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第490話

だから彼らは、自分たちの目で見ていた。蒼空と瑛司が向かったのは、別荘の書斎ではなく、蒼空が以前使っていた部屋だということを。その瞬間、皆の表情は一気に微妙になり、何も言えなくなった。遥樹は松木家に来たことがなく、蒼空と瑛司がどの部屋に入ったのか知らなかった。ただ、周囲の空気の変化には敏感で、問い詰めるうちに、二人が書斎ではなく蒼空の元の部屋に入ったと知ったのだ。――瑛司は汚いことを企んでいる!真相を聞いた時、遥樹は今すぐ走って行って蒼空を連れ出し、瑛司を殴り倒してやりたい衝動にかられた。けれども、分かっていた。蒼空がなぜここに来たのか。そして会社と仕事が、蒼空にとってどれほど重要なのか。どれだけ腹が立っても、彼女が欲しい協力のチャンスを壊すわけにはいかない。だから彼は、ぐっと堪えてソファに座り続けた。ピアノの音色が聞こえてきたとき、遥樹はすぐに蒼空だと分かった。五年間共に過ごし、彼女の演奏を何度も何度も聴いてきた。音で分からないわけがない。聞いた瞬間、頭の中で勝手に想像が膨らむ。いったい何を話してる?どうして二人きりの状況で、蒼空がピアノまで弾くことになってる?男と女が同じ部屋、彼女は綺麗に着飾って、相手は見目もいい。ドラマや映画なら、何かが起きる流れだろ。遥樹は気が気じゃなかった。二階の部屋で何が起きているのか、胸がざわついて仕方ない。それでもすぐに飛び込んで問い詰めることはしなかった。「誰が弾いてるの?」「言うまでもないでしょ。蒼空がピアノ弾けるのは皆知ってるし、今上で弾けるのも彼女だけじゃない?まさか松木社長だって言うの?」遥樹はますます苛立ち、ふと顔を上げると、瑠々の表情が一瞬崩れたのが見えた。嫌な予感が走る。次の瞬間、ソファの隅でおもちゃで遊んでいた佑人が、突然おもちゃを放り出し、瑠々のもとへ駆け寄って抱きつき、頬を膨らませて言った。「ママ、上行こう?あの人の演奏、めっちゃ下手だよ!ママの方がずーっと上手!」瑠々は唇を引きつらせて笑う。「佑人はいい子だから。パパがお仕事中だから、邪魔しないの」どれだけ遥樹が嫉妬で頭に血が上っていても、この瞬間、この子に噛みつかずにはいられなかった。「おいガキ、分かったようなこと言ってんじゃないよ」
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