All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

蒼空は答えなかった。「どうでもいいでしょ、そんなこと」そう言って、彼らに考える時間を与えた。二人の表情が目に見えて変わっていくのを見つめながら、蒼空は最後には無理やり自分を落ち着かせる。湊は警戒するように彼女を見据えた。「何が目的だ。全部の証拠を提出しなかったのは、俺たちを脅そうとしてるんだろ?」葵も勇気を振り絞って声を荒げる。「どうせハッタリでしょ?騙そうとしても無駄よ」そのとき、葵のスマホの着信音が鳴り響いた。あまりに唐突な音だったが、三人とも、どこかで「誰からの電話か」を察していた。葵はスマホを取り出し、表示された名前を見てわずかに顔色を変え、隣の湊に見せる。湊は慎重に蒼空を一瞥し、低い声で言った。「出るなら向こうで」葵はスマホを握りしめ、黙ってうなずく。蒼空は止めなかった。葵は電話に出るなり、早口で切り出した。「久米川さん、少しお話があって......」瑠々の声も同じくらい早い。「分かってる。誰かに告発されたんでしょ?」葵は反射的にうなずいた。「はい。今、その人が学校に来ています」瑠々は目の前が暗くなる思いで、奥歯を噛みしめた。「関水蒼空?」葵は目を少し見開き、蒼空がついてきて盗み聞きしていないのを確認してから、声を落とす。「そうです。ご存じなんですか?資料をたくさん持ってきて、私たちを告発するって言ってます。もう学校側も受理していて......私たち、どうしたらいいですか?」電話の向こうで、瑠々は壁を殴りたい気分だった。まさか蒼空が、L国にまで調べを入れられるとは。瑠々は深く息を吸い、気持ちを立て直す。「大丈夫よ。私の言う通りにしなさい。とにかく慌てないで、彼女の要求には何一つ答えないこと。今こっちが処理してるから、あの女の脅しに乗せられちゃだめよ。ただの張り子の虎なんだから。分かった?」葵は少し迷う。「でも――」瑠々は声を荒げた。「でもじゃない!今言うことを聞かないなら、卒業もできなくなるわよ!これまでの努力が全部無駄になるの!それでもいい?!」葵はそれほど長く迷わなかった。天秤は完全に瑠々のほうへ傾いた。留学を手配し、学費も生活費も出してくれたのは瑠々だ。出会って間もない蒼空とは、重みがまるで違う。もし
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第652話

「つまりお二人は、私がこの資料を提出するのを黙認する、ってことでいいの?」案の定、湊と葵は迷い、視線を交わしてから蒼空を見る。葵がためらいがちに問いかけた。「その資料には......何が書いてあるの?」蒼空は眉をつり上げる。「痛い目に遭わないと分からないタイプみたいね」二人は唇を引き結び、警戒した目で彼女を見つめるだけで、答えなかった。「いいわ、教えてあげる」蒼空は淡々と言った。「お二人の兄、丹羽憲治は公立病院に勤めている。母親は今、時間があるときに家政婦のアルバイトをして小銭を稼いでる。実家は烏石(うせき)っていう地方の小さな町。大学を卒業して一か月後、お二人は行方をくらませて、伊藤森と伊藤静として身分を入れ替えた。小学校は烏石小学校、中学は――」「もういい!やめろ!」湊は息を荒くし、顔色は真っ青だった。「あんたは一体、何が目的なんだ?!」ほとんど怒鳴り声だった。蒼空は静かに言う。「知りたいことがいくつかあるだけ。それに正直に答えてくれたら、証拠は提出しないと約束するわ」葵は必死に湊の腕を引っ張った。「落ち着いて。騙されないで。あの人が守ってくれるって言ってたでしょ。この人とこれ以上関わる必要ないよ。帰ろう」湊の瞳に一瞬迷いが走り、やがて強くうなずく。「......分かった。帰ろう」「本当にいいの?」蒼空は手を上げ、彼らの前で資料をひらひらと揺らした。一歩踏み込み、微笑みながら言う。「久米川が守るって言ったとして、それはいつのことなのかは聞いた?」湊と葵は黙り込み、警戒を強める。「何の話だ、知らな――」蒼空は遮るように告げた。「今さら知らないふりをしても、もう無駄よ」二人の顔に、気まずさが浮かぶ。蒼空は問いかけた。「ねえ。私が提出した証拠を学校が処理するのと、久米川が動くのと、どっちが早いと思う?」さらに念を押すように、彼女は顎でオフィスの方向を示した。「学校側の職員は、もうここにいる。私が今すぐ証拠を出せば、この場で受理して調査に入れる。でも久米川は今、K国にいるでしょ?手を伸ばしたくても届かない。学校がお二人の学籍を抹消したあとでも、まだ何もできてないかもしれない。さて、どっちが早いでしょう?」その数言だけで、真冬の中に立
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第653話

蒼空はうなずいた。湊は葵の腕を引き、脇へ連れていく。二人は蒼空に背を向け、顔を寄せて小声で話し合った。葵は焦った様子で言う。「どうするの......誰の言うことを信じればいいの?」湊は問い返した。「さっき、久米川さんから電話が来たとき、いつ解決するかって言ってたか?」葵は顔色を悪くし、唇を噛む。「......言ってない。怖くて、聞くのを忘れちゃった」湊は声を落とす。「明らかに、あの女は久米川さんを狙ってる。俺たちは巻き添えだ」葵はうなずいた。「うん」湊は続けた。「これまでの学校の対応スピードからして、こういう重大案件はすぐ動く。遅くても3日以内だ。関水は確実なネタを掴んでる。じゃなきゃ、あそこまで強気に出られないし、俺たちの過去をあんなに詳しく知ってるはずがない。もし証拠を提出されて、久米川さんが間に合わなかったら、3日後には俺たちは学校を追い出される。それで終わりだ」葵はためらう。「じゃあ......関水の言うことを聞くしかないってこと?」湊の声はかすれていた。「他に手はない。どうせ標的は久米川さんだ、俺たちじゃない。卒業まであと二週間、こんな大事な時期に問題を起こすわけにはいかない。様子を見てからにしよう。関水のやることが俺たちに不利なら拒否する。そうじゃなくて、他人の問題なら、できるだけ協力する。卒業さえできれば、もう安全だ」葵は強くうなずく。「分かった」二分後、二人は再び蒼空の前に立った。蒼空が言う。「結論は出た?」湊は低い声で答えた。「質問というのは何の?答えられるかどうかは分からないが」蒼空は問う。「この数年、お二人の学費を払っていたのは誰?」湊は一瞬ためらい、歯を食いしばる。「久米川瑠々だ」蒼空は続ける。「偽の身分を用意したのも、彼女?」湊は顔を歪めてうなずいた。「そうだ」蒼空はさらに言った。「確かな証拠はある?久米川が実際にお金を出していたって分かるもの。口だけでは信用できないからね」湊と葵は視線を交わす。葵が湊の袖を引いた。「ここは私が」葵は一歩前に出てスマホを取り出し、画面を数回タップしてから蒼空に見せる。そこには銀行の送金履歴がはっきりと表示されていた。「これが、この一年分の学費
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第654話

連絡先を追加したあと、蒼空が葵に送らせたのは、銀行の送金・振込履歴だけではなかった。信託基金に関する設立資料や証明書類も含まれていた。その信託基金の設立書類には、はっきりと「久米川瑠々」の名前が記されており、現時点でも口座には八桁の残高が残っている。とはいえ、蒼空は慎重だった。資料を受け取ったあとも、一つひとつ丁寧に照合し、偽造がないことを確認した。確認を終え、必要なものを手に入れた蒼空は、提出していなかったあの一束の証拠資料を、葵の手のひらに戻す。「はい、これでいいわ。この資料はちゃんと持っておいて。人に見られないようにね」蒼空はスマホを手に、軽く手を振った。「では、私はこれで」「待ってくれ」湊が呼び止める。蒼空は振り返った。「まだ何か?」湊は警戒を解かない。「本当に......この先、俺たちを告発しないって約束できるのか?」蒼空は一瞬も迷わず、口元を上げて笑った。「もちろん」湊は彼女を鋭く見つめる。「誓えるか」蒼空は両手を広げ、肩をすくめた。「ええ、誓います。資料は全部渡したよ。私の手元にはもう、告発できるものは残ってない」湊は唇を噛んだ。「だったら、今すぐ先生のところに行って、勘違いだったから、告発を取り下げるって伝えて」蒼空は眉を上げる。「それはもちろん」蒼空がオフィスへ戻り、突然態度を変えて告発を撤回すると言い出したことに、学校側は理解できない様子で、何度も本当に撤回するのか確認した。その横で、湊と葵は緊張した面持ちで蒼空を見つめている。蒼空は繰り返し断言した。「はい、告発は撤回します。先ほど話し合いまして、今回はこちらの勘違いでした。軽率に告発してしまい、本当に申し訳ありませんでした」学校側はなおも疑いを捨てきれない。「外で何か取引をされたのですか?それとも脅されたのでは?大丈夫です、我々がついているので、遠慮なく話してください」湊と葵は、胸の奥がひやりとした。蒼空は表情を変えず、穏やかに笑う。「本当に勘違いしただけです。提出した資料には写真がなく、そのせいで人違いをしてしまいました。どうか優秀なお二人を疑わないでください」蒼空の態度が揺るがないのを見て、学校側は疑念を残しつつも、うなずいた。「分かりました。ただ、告
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第655話

蒼空の額には汗がにじんでいた。飛行機に乗るとき、彼女はまだダウンコートを着ていたのだ。機内ではそのままずっと眠り続け、着陸してからようやく目を覚ました。国内はまだ夏真っ盛りで、目が覚めた瞬間、額に汗が浮かんだ。座席に腰掛けたまま、ダウンコートを脱ぐ。女性警官は彼女の肩をぽんと叩く。「また丹羽に会いに?一応言っておきますけど、数日前に本人が『もう会いたくない』って言っていましたよ」警官は、蒼空の顔に落胆や後悔の色が浮かぶと思っていた。だが、そんな表情は一切なかった。蒼空は相変わらず落ち着いたままだ。「大丈夫です。今回は彼に会いに来たわけじゃありません」女性警官は少し驚いた。「じゃあ、被害届?」蒼空は軽く笑う。「まあ、そんなところです。ただその前に一つ聞きたくて。数日前、久米川瑠々さんはここに来ませんでしたか?」女性警官は彼女の肩を抱くようにして、警察署ロビーの長椅子に並んで腰を下ろした。「来ていましたよ。でも知ってるでしょ。前に久米川さんと丹羽さんの関係について調べましたけど、はっきりしたものは何も出ませんでした」蒼空は小さくうなずく。「今日はその話をしに来たんです」彼女はスマホを取り出し、葵から送られてきた銀行の送金履歴と、信託基金の基本資料を表示させた。女性警官は、まだ要領を得ない様子だ。蒼空は、この間に自分が掴んだ事実を、包み隠さずすべて説明した。女性警官の目が、少しずつ見開かれていく。話を聞き終え、女性警官の表情は次第に引き締まった。「もしそれが事実なら......この信託基金は、久米川さんと丹羽さんの間に違法な金銭取引があったことを裏付ける材料になりますね。そうなると、二人は故意傷害の疑いが出てくる。単なる誤診なんてレベルじゃない。弟と妹の件も同様に違法で、追及が必要になります」女性警官は続けた。「その資料を送ってください。署の人間で精査するので。少し時間はかかるけど、結果が出たら改めて連絡します」蒼空は手早く、すべての資料を送信した。瑠々が美紗希を「代筆者」に使っていた証拠も含めて。「ではよろしくお願いします」「その資料、確かに受け取りました」警察署を出た直後、蒼空のスマホが鳴った。相手は、瑠々だった。今回は、拒否せずに通話に出る
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第656話

少し前まで、憲治は確かに彼女に約束していた。「誰にも会わない」、と。ところが数日前、突然になって彼は言ったのだ。――「蒼空に会った」、と。会っただけではない。蒼空はすでに湊と葵の身辺まで調べ上げ、二人の学位と学籍を盾にして、憲治に彼女の名前を吐かせようと迫っていた。それは、完全に彼女の想定外だった。瑠々は、自分のやったことは完璧で、湊と葵が改名し、身分を偽って海外留学していることなど、誰にも辿り着けないと思っていた。だが蒼空は、その自信を容赦なく打ち砕いた。憲治からその話を聞いた瞬間、彼女が動揺したのは事実だった。蒼空がどこまで掴んでいるのかが怖かったし、憲治が脅しに屈して自分を売るのではないかという不安もあった。それでも、憲治が警察署に彼女を呼び出して会おうとしたということは、まだ話し合う余地がある、という意味でもあった。だからあの最後の面会で、彼女は何度も何度も憲治に言い聞かせた。必ず湊と葵は守る、と。憲治は迷った末、最終的には彼女を信じ、蒼空の提案を退け、警察の前で彼女の名前を口にすることはなかった。だが、それで安心するほど、瑠々は甘くなかった。蒼空がL国に行った、という情報が入ったからだ。そしてL国は、まさに湊と葵がいる場所だった。考えるまでもない。蒼空は、間違いなくこの件を調べに行ったのだ。その知らせを受けた瑠々は、即座に湊と葵に電話をかけた。予想通りだった。蒼空はすでに学校へ行き、二人の本当の身分を学校側に通報すると脅していた。その話を聞いた瞬間、瑠々は、長い間身を潜めていた毒蛇が、じっとこちらを睨みながらゆっくりと体を縮め、絡みつき、息を奪ってくるような錯覚に襲われた。不安と恐怖はあったが、それでも彼女は、憲治を説得したときと同じように、湊と葵を説得した。――蒼空の言葉は、絶対に信じるなと。幸い、数年の付き合いがあった分、二人は蒼空よりも彼女を信じ、彼女の言う通りにした。憲治も、湊も、葵も、表向きは皆彼女を信じる選択をした。だが、それでも瑠々の胸の奥に、拭いきれない不安が残っていた。その不安は、蒼空に電話を切られた瞬間、頂点に達した。耐えきれず、彼女は再び湊に電話をかける。夜も遅い時間だったが、湊はすぐに出た。「久米川さん?ど
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第657話

数日前も、今と同じだった。少しでも姿が見えなくなると、すぐに探しに来て、まるで監視するかのように目を光らせる。これでは、まともに何かをする余地すらない。とはいえ、相馬にも多少は譲歩する時がある。佑人がひどくぐずった時だけは、電話であやすことを許してくれていた。幸い、残りはあと4日。4日が過ぎれば、相馬に対する借りはすべて返し終える。瑠々は指先で掌を強くつねり、無理やり笑みを浮かべた。澄依がカーペットから立ち上がり、勢いよく瑠々の胸に飛び込んでくる。「ママ、どこに行ってたの?」瑠々は身をかがめて澄依を抱きしめ、優しく背中を叩いた。「電話してただけよ。ほら、もう戻ってきたでしょ?」後ろに立つ相馬は手を上げてネクタイを緩め、微笑みを浮かべながら、母娘が抱き合う光景を穏やかに見つめていた。あまりにも温かな光景だった。それは、彼がずっと欲しながら、これまで一度も手に入れられなかった情景でもある。澄依は唇を尖らせ、瑠々の首にしがみつきながら、甘えた声で呼んだ。「ママ」「どうしたの?」澄依はとても悔しそうだった。「どうして外にいた時ママって呼んじゃダメなの?」瑠々の口元が一瞬、引きつった。澄依は声をさらに落とし、恐る恐る続ける。「ママは澄依のこと、嫌い?だからずっと、澄依に会いに来てくれなかったの?」澄依は生まれてからずっと、相馬に大切にされ、甘やかされて育ってきた。こんなふうに、しょんぼりと委縮した表情を見せることなど、これまで一度もなかった。相馬はそれを見ているだけで、胸の奥が締めつけられるようだった。瑠々は答えに詰まり、内心の動揺を隠しながら、できる限り優しい声を出した。「澄依のこと、ママは嫌いじゃないわ。でも、『澄依とママは親子だ』ってことは、ママと澄依の秘密なの。私たち二人だけの、誰も知らない秘密」「秘密?」「そう、秘密だよ。澄依と、ママと、パパだけが知ってる秘密。澄依は、守れる?」澄依はよく分かっていない様子だったが、次第に目がきらきらと輝いていく。「澄依と、ママとパパだけ?」瑠々はうなずき、柔らかく問いかけた。「うん」子どもは「秘密」という言葉に強く惹かれる。特別扱いされていると感じさせ、それだけで胸が高鳴るものだ。ましてや
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第658話

瑠々は懇願するように言った。「約束......したでしょう?」相馬はしばらく彼女を見つめていたが、硬く閉ざしていた心は結局折れ、歩み寄って澄依を抱き上げた。「澄依、ママはちょっと用事があるんだ。パパと一緒に遊ぼう?」澄依は少し不満そうだったが、それでも素直に頷いた。「じゃあ、ママ、早く戻ってきてね」瑠々は頭を撫でる。「うん」彼女はスマホを手に取り、再びバルコニーへ戻った。着信は、出ないまま時間が経って自動的に切れていた。瑠々がかけ直すと、すぐに相手が出た。「ママ、いつ帰ってくるの?すごく会いたい」佑人の不満げな声だった。瑠々はできるだけ優しい声で答える。「あと4日で帰れるよ。もうすぐだよ、佑人」「まだ4日もあるの?やだ......ママ、早く帰ってきて」瑠々も焦りはあったが、どうすることもできない。「佑人、少しだけママのこと、わかってくれる?」佑人は鼻をすする音を立て、しばらく黙ったあと、小さく呟いた。「......わかった。もうちょっとだけ、我慢する。ほんのちょっと」瑠々の胸がきゅっと柔らかくなる。「ありがとう。ママ、できるだけ早く帰るからね」それからしばらく話を続け、十数分ほど経ったところで、瑠々が静かに尋ねた。「佑人、パパはそばにいる?」「いるよ。すぐ横にいる」「じゃあ、パパに代わって。少し話したいの」「うん」向こうで物音がしてから、低く落ち着いた声が響いた。「瑠々」何度その名前を呼ばれても、瑠々の胸は変わらず強く高鳴り、じんわりと熱を帯びる。「瑛司......私がいない間、佑人はちゃんといい子にしてる?」夜だからか、瑛司の声には、かすかな優しさが滲んでいた。「ああ。ただ、君とじいさんに会いたがってる」必要とされている、その感覚に、瑠々の心が少し弾んだ。「そう......できるだけ早く帰るから」瑛司は低く「ああ」と答えた。そのとき、瑠々の頭にふと一つの考えが浮かび、頬が熱くなり、胸がどきりとする。唇を軽く噛み、口を開いた。「瑛司も――」――私に会いたい?だが、その言葉は最後まで口にできなかった。突然、部屋の中から子どもの泣き声が上がったからだ。大きな声ではないはずなのに、バルコニーのガラス戸を越え
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第659話

泣き声はまだ続いていて、かすかに「ママ」と呼ぶ声が、瑛司の耳にも届いていた。瑠々は頭をフル回転させ、心臓が激しく脈打つ中、とっさに口を開いた。「隣の部屋の子どもよ。私に懐いちゃって、親御さんが一緒に私の部屋に連れてきたの」瑠々は数歩歩き、リビングの様子を確認した。どうやら澄依がうっかり足を引っかけて、カーペットの上に転んだらしく、今は相馬がしゃがみ込んであやしている。澄依は両手で目をこすり、赤く腫れた目でこちらを見ていた。いかにも可哀想な様子だ。だが瑠々は、少しも胸を痛めなかった。心の中にあるのは、ただ「早く泣き止んでほしい」という思いだけだった。「さっき転んじゃったみたいで、それで泣いてるの」と瑠々は付け加えた。瑛司も、そこまで気にしてはいなかったようで、説明を聞くと短く答えた。「そうか」佑人は、ママの関心が他の子どもに向くのが気に入らず、すぐに言った。「ママ、ぼくも今日、転びそうになったよ」瑠々は神経を張り詰めていたため、そのまま自然に話題を切り替え、声色を一気に強めた。「え?何があったの?」瑛司が代わりに答える。「大したことじゃない。走り回ってて、人にぶつかっただけだ」瑠々は軽く笑った。「じゃあ佑人、ちゃんと謝れた?」佑人は口を尖らせ、不本意そうに言う。「パパに言われて、謝った」瑠々はうなずいた。「それならいいけど。どこかぶつけたりしてない?」佑人は素直に答えた。「うん。ぼくは大丈夫だよ!」その夜も、ここ数日と同じように、瑠々は瑛司と佑人との通話を終えたあと、澄依のそばに戻って寝かしつけをした。ただこの夜は、澄依がやけにぐずり、転んだ影響なのか、甘えん坊でなかなか寝てくれなかった。あやし続けるうちに、瑠々の中には苛立ちが募っていく。澄依の泣き声は、正直なところ、うるさくて仕方がなかった。それでも相馬がそばで見ている手前、感情を押し殺して必死にあやし続け、ようやく一時間ほどして澄依は眠りについた。やっと自分も眠れる、そう思った矢先。隣のソファに座っていた相馬が、低い声で言った。「今夜はここに残る」瑠々の胸が跳ね上がり、反射的に口にした。「だめ」このところ、二人の間では決め事があった。彼女と澄依は同じ部屋で眠り、相馬は
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第660話

瑠々は唇を噛み、何も言い返せないまま、相馬がベッドに上がるのをただ見ているしかなかった。ここまで来た以上、彼女も自分に言い聞かせるしかない。――少なくとも澄依がここにいる。相馬が本気で彼女に何かすることはない、と。幸い、相馬はベッドに入ったあと、特に何かする様子はなかった。それでもその夜、瑠々はあまり眠れなかった。相馬が何か仕掛けてくるのではないかという不安が拭えず、眠っては目を覚まし、また眠っては目を覚ます、そんな一晩だった。警察署からの電話を受けたのは、翌朝の10時だった。知らない番号だったため、最初は詐欺電話だと思い、出ずに切ってしまった。三度目にかかってきて、ようやく出る。「どちらさまですか?」そのとき彼女は、澄依に牛乳を注いでいる最中で、相馬はすぐそばに座っていた。受話口から聞こえてきた声は、冷静で要点だけを突くものだった。「久米川瑠々さんでいらっしゃいますか?」牛乳を注ぎ終え、彼女も席に着く。「そうですけど、そちらは......」「以前あなたが雇われた情報提供者です。警察が現在、あなたが丹羽憲治による故意の誤診に関与し、患者の心身に重大な被害を与えた疑いがあるとして捜査を進めており、すでに一定の証拠を掴んでいる。遠からず、警察があなたを連行するために自宅へ向かう可能性が高いです」瑠々の手からスプーンが器の底に落ち、声が思わず上ずった。「何ですって?!」相馬と澄依が、同時に彼女を見た。一瞬視線を泳がせた瑠々は、スマホを持って立ち上がる。「ちょっと電話してくる」バルコニーに出ると、彼女は警戒するように一度ダイニングの方を振り返り、相馬と澄依がついてきていないことを確認してから、低い声で言った。「ちゃんと説明して」相手の声は変わらず冷静で、彼が把握している情報を淡々と伝えてきた。ただ知っていることは多くはなく、警察が突如として証拠を掴み、一晩中、憲治を何度も取り調べ、朝には上から命令が下り、瑠々を連れて来る手はずになった、という程度だった。「......以上が現状です。早めに手を打たれることをお勧めします」瑠々は、頭の中が真っ白になった。裏で糸を引いているのは誰か――考えるまでもない。L国から戻ったばかりの蒼空しかあり得なかった。ここ
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