All Chapters of 私を傷つけた元夫が、今さら後悔していると言った: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

第91話

病院を出た美夜は、昇の送りの申し出を断った。蓮の側から特に強制されていたわけでもなく、美夜の拒否に昇も無理強いはせず、付き添っていたボディーガードたちに退くよう指示し、彼女をそのまま駐車場から送り出した。美夜はバス停の方へ向かったが、数十メートルも歩かないうちに、背後から誰かの駆け寄る足音が聞こえた。昇の差し金か、それとも蓮が急に会いたいとでも?立ち止まり、美夜はすぐさま振り返った。往来のあるアスファルトの道に、白い服の人影が見え、こちらに向かって勢いよく駆けてきていた。走る姿勢がどこか不自然だった。肩の高さが左右で不揃いで、走り方も一般的とは言えない。まるで、足に障害でもあるかのようだった。ぼんやりと見つめていた彼女の目の前に、利晴が走り寄ってきた。予想外の人物に、美夜は驚きながらも、表情には機械的な微笑みを浮かべた。「森先生、こんにちは」「美夜……」利晴は息を切らしながらも彼女の前に立ち止まり、どれほど走ったのか、言葉もうまく整わない。「ごめん、美夜。僕が配慮に欠けていた。さっき、酒井教授のオフィスであんなふうに話すべきじゃなかった。本来なら、二人きりのときに伝えるべきだった……」美夜は彼の言いたいことがすでに読めていた。すぐに口を開いた。「先生のお気持ちはわかっています。でも、その話はもうしないでください。私は、もう誰の助けも必要としていません」「いや、僕が言いたいのはお金のことだけじゃない。君に伝えたくて……陸野のこと、僕なりに調べた。彼は本当に、君にとって……」「頼るに値しない、とでも?」美夜は静かに言葉をさえぎった。「善意で心配してくださって、ありがとうございます。私とはなんの縁もないのに」その冷たい言い回しに、利晴は眉をひそめながらも穏やかに返した。「美夜、そんな言い方はないよ。縁もゆかりもないなんて……確かに親族じゃないし、君の中では友達とも呼べないのかもしれない。でも、旧友ぐらいの関係にはなれたはずだ。僕は本気で、君の力になりたいと思ってる。君が僕の前では、気を張る必要なんてない。ただ……昔、君が僕にくれた励ましを、今返したいだけなんだ」覚えてるよ、君が持ってきてくれたクッキーやせんべい。『お母さんの手作りだ』って笑ってたろ?あれは、君の気持ちだった。だ
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第92話

金であれ、その他の支援であれ、今の美夜にとって既に意味がなかった。むしろ利晴を巻き込むことになりかねなかった。だが利晴は、その言葉に込められた真意を察しなかったのか、すぐに頷いた。「安心して。僕は病院の医師じゃないけど、専門知識はある。全力を尽くすよ。業界で最も信頼できる脳神経外科医や神経内科医を探して、お兄さんの意識を取り戻せるよう尽力する。君の病状についても、僕が直接対応する。今夜すぐに研究室へ戻って、治療データを再調整するつもりだ」「ありがとう。それで十分です。本当に、お金は必要ありません。医療費のことは、解決してくれる人がいます。ご厚意には感謝します。……では、これで失礼します」そう言い終えると、美夜はすぐに背を向け、一度も振り返ることなく足早に去っていった。今回は、ほとんど小走りでバス停まで駆けて行った。停留所にたどり着いたとき、彼女はようやく来た道を振り返った。だが、利晴は追ってこなかったようだった。美夜は安堵し、乗り込んだバスの座席に腰を下ろした。すると突然、電話が鳴った。見慣れない番号だった。画面に表示された見知らぬ番号を数秒間見つめた後、彼女は一度着信を切った。利晴からかと思ったのだ。だがすぐに、再び着信音が響いた。車内の他の乗客たちが一斉にこちらを見てきた。鳴り続ける着信音が気になり、ため息をついて通話ボタンを押した。「泉、あんたって本当に酷い女ね!今、さぞ満足してるんでしょう?」電話の向こうからは怒気に満ちた女性の声が響いた。耳障りなほど甲高い声だった。美夜は驚いて声を発した。「島崎絵理……?」「はっ、泉、しらばっくれてんじゃないわよ。よく言うわ、悪意を持つ人間は笑顔で近づくって。まさにあんたのことよ!」絵理は怒りを露わに罵倒を浴びせてきた。「頭おかしい」美夜は呆れたように呟き、電話を切ろうとした。だが耳から離す直前、絵理がまた怒鳴った。「あんた、自分が正しいとでも思ってるの?通報したのはあんたでしょ!?だから私は退学まで追い込まれたのよ。ちょっと仕返ししただけじゃない、あんたの手に……まあ、ちょっとした怪我を負わせたのは認めるけど、ちゃんと示談金は払ったわよ! それなのに、あんたはあの陸野と関係を持って……今度は石川さんの手を……!」その言葉
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第93話

バッグの中で、携帯電話が鳴り続けていた。美夜は足を止め、並木道の歩道に立ち止まり、うつむいて携帯を取り出して画面を覗いた。そこに表示されていたのは、見慣れない番号ではなく、「私のイケメン旦那」というふざけた名前だった。思わず眉をひそめた。陸野浩司という男は年齢の割に、こういう「悪趣味」が抜けていない。まさか、自分の登録名をこんな風に変えていたとは……昨夜、北区から戻ったのは夜の十二時近くだった。彼はどうしてもと言って、自分にフライドチキンとビールの夜食を勧めてきた。今、そういうスタイルが流行っているのだと言って。美夜は食欲がなかったので、黙って彼が食べる様子を見ていた。何口か食べた後、浩司は不意に手を伸ばして、彼女の携帯を求めてきた。最初はもちろん拒んだ。だが彼は、またしても一枚の請求書を突きつけてきた。ちらりと目を通すと、それは一日中の兄の沢の消費記録だった。浩司が「百万円」などと口にしたのは、むしろ控えめな表現だったのだ。実際には約八百万円もの支出があり、その中にはSUVの頭金四百万円も含まれていた。とりわけ最後の支出は、午後九時半、ヒルトンホテルのスイートルームの宿泊料金だった。もはや、理解の範疇を超えていた。泉家は崩壊寸前で、玉城グループも風前の灯であるというのに!その状況下で、沢は高級車を買い、高級ホテルに泊まる気でいる。他人の金を、何の良心の呵責もなく浪費しているのだ。沢の行動は、またしても彼女の常識を打ち壊した。そのとき浩司は、フライドチキンの出前を注文しながら、屈託のない笑顔で言った。「クレカの分も含めて、お前のお兄さんとおじいさんの入院費を合わせると、もうすぐ千万円に届く勢いだ。で?それだけ世話してる俺に、携帯を一時貸すのも嫌ってこと?」言い分としては、確かに筋が通っていた。いま無用な摩擦を起こす必要もない。彼と無理に対立して得るものはないのだ。美夜は迷わず、素直に携帯を差し出した。その後、浩司はまるで子どもが玩具を手に入れたように満足げな表情で、自分の携帯をいじり始めた。脚を組んで、左右に揺らしながら。美夜の携帯には、隠し事もなければ、誰にも見せられない写真やメッセージもなかった。蓮との離婚前は、彼女の生活は安定していて単調だった。授業があれば学校へ行き、
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第94話

美夜は黙って耳を傾けていた。浩司は電話の向こうで何やら呟いていたが、ふと声を止めた。「もうご飯食べたか?」「まだ」「じゃあ、今からどこに行くつもり?」「古美術や書画の店に行って、古い絵画の修復用の道具を一式買いたくて」美術を学んでいれば、ある程度は古い絵の修復技術も心得ているものだ。以前、彼女は修復のための道具を一式揃えていた。上質な紙に、絵をなぞるための連筆、馬毛ブラシ、竹製のナイフなど。しかし、それらはかつて旧市街の半導体工場の社宅に保管しており、その後すべて蓮に譲ってしまっていた。あの日、あまりに急いでその場を離れたため、服を数枚持ち出した以外、何一つ持ち帰れなかった。今、新たに古書画修復の仕事を受けた以上、まずは道具を揃えなければならなかった。「そんなもん買ってどうするんだよ?」浩司は不満げだった。「バイトでもするつもり?俺に養ってもらうのが嫌か?」「そういうわけじゃない」美夜は首を横に振った。「あなたが今、お金持ちになって、事業もうまくいってるのは分かってる。でも……」でも、それだけじゃ信頼には足りない。女ひとり、男に一生面倒を見てもらえると信じるより、他のあり得ない話を信じるほうが現実的かもしれない。「やっぱり、まだ俺のこと信じてないんだな。ま、無理もないか。昔あんなふうにお前を怖がらせたんだ。すぐに信用しろって言う方が無茶だな」浩司は、彼女の言外の意味を察したのか、自嘲気味に笑った。「ま、もういいよ。そんな話はやめよう」彼が先に話題を変えた。「今の位置情報を送ってくれ。迎えに行くから。一緒にご飯食べよう。それから、ちょっと会わせたい人がいるんだ。大金はたいて手に入れた独占情報があってさ、きっとお前、興味持つと思う」「またあなたの芸能ゴシップ?」美夜は冗談めかして言った。「ふっ、それはヤキモチってことでいいのかな?」浩司はくすりと笑った。美夜は、ツッコミたい気持ちをなんとか抑えて、なるべく冷静な声で訊いた。「誰に会うのか、事前に教えてくれない?心の準備がしたいから」正直、彼女は少し怖かった。前回、浩司が「会わせたい人がいる」と言って連れて行った相手は、昔、母親のためだけに十年間も玉城グループで清掃員として働いていた小野さんだった。そしてその小野さんが明かし
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第95話

位置情報を送信してから、それほど待たずに浩司が現れた。今回は、あの青いマセラティではなく、鮮やかなガーズレッドのポルシェ911に乗っていた。新しくて、艶やかな赤いスポーツカーは、道端に停められているだけでまるで芸術品そのものだった。一台の高級車だけでも十分に人目を引くが、運転席の窓が下がり、そこから現れた顔がまた圧巻だった。桃花のように潤んだ美しい瞳、高く通った鼻筋、整った唇のライン、白く滑らかな肌……まるでアイドルグループにいてもおかしくない、ヤンチャで洒落た美男子の顔立ち。そんな容姿に、あのポルシェ。通りを歩く若者たちの足が、自然と止まり、視線が彼に集まるのも無理はなかった。美夜も歩道の端に立ち、他の通行人と同じように、しばらくそのポルシェを見つめた。単に高級車を見ていたのではない。それは、車種に見覚えがあったからだ。実は、長兄も同じポルシェ911を所有していた。色は真っ白。雪のように清らかで、兄そのものを映したかのようだった。誠実で真っ直ぐな人柄をそのまま車にしたような一台だった。だが、その車は、会社が傾いた時、真っ先に売却されてしまった。今、浩司が運転しているポルシェを見ると、自然と長兄を思い出してしまう。とはいえ、浩司は車を何台も持っていた。数が多すぎて、乗りきれないほどだ。ここ数日、彼の別荘に滞在していたが、地下のガレージに所狭しと並ぶ車の数には、思わず目を見張った。全車、海外からの正規輸入車で、価格帯は数千万円から数億円まで。合計で20台近くある。まるで私設のモーターショーのようだった。ざっと見積もっても、総額は二十億円に届くだろう。昔、次兄もそんな「名車コレクション」に憧れていたが、母に厳しく管理されていたうえに、長兄も彼の浪費を制限していたため、所有していたのはせいぜい四台。その点では、浩司の方がはるかに裕福だった。「なにボーっと突っ立ってんのさ、お前、こんな車見慣れてるだろ」運転席から浩司が身を乗り出し、左手でドアをトントンと軽く叩いた。「早く乗れよ、飯に行くぞ」美夜は我に返り、すぐに車へ向かった。後部座席のドアに手をかけた瞬間、浩司がまたしても車のドアをドンと叩いた。「後ろじゃなくて、助手席だ。俺の隣に乗れよ」助手席は彼のすぐ隣だ。選べる
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第96話

「うん、あなたの言う通りだと思う」美夜は指をぎゅっと絡めながら、必死に考え、ようやく絞り出すように言った。「じゃあ……焼き鳥とかどうかな?最近流行ってるって、ネットで皆おいしいって話してたし……」話すほどに自信がなくなっていく。それもそのはず、彼女が焼き鳥が話題になっていることを知ったのは、地元のアルバイト募集サイトを見ていたとき、ニュースアプリの強制ポップアップで表示された流行記事をたまたま目にしたからだった。内容も詳しくは覚えていない。ほとんど上っ面だけの知識しかない。案の定、美夜の言葉が終わらぬうちに、浩司は嘲笑した。「ハハハ、ほんとバカだな。昼間から焼き鳥食う奴なんていないって。焼き鳥は夜に食べるもんだろ?ビール片手に串焼きつまみながら、仲間とワイワイやるのが醍醐味だっての。昼飯に食うもんじゃねぇよ」「そうなんだ……ごめんなさい、あまり詳しくなくて」そんな煙や炭の匂いがつく料理は、かつて母がいつも「体に悪い」と言って控えるように言っていた。「発がん性がある」などと言われれば、素直に従うしかなかった。大人になるまでに、数えるほどしか焼き鳥を口にしたことがない。そんな文化があることさえ、知らなかった。でも、今思えば、お母さんは自分を騙していたのかもしれない。焼き鳥を食べなくたって、がんにはなるのだ。ふと、胸の奥に重たい感情が湧き上がり、再び黙り込んだ。浩司は軽く咳払いしながら、姿勢を正し、両手でハンドルを握ると、急にハンドルを切って右に曲がった。「よし、水炊きでも食べに行くか。あっさりしてるし、品があって栄養もある。今のお前にはちょうどいい」「うん……」そして、水炊きの店の前に到着。黒地に金文字で「春田」と書かれた草書体の看板を見た瞬間、美夜はようやく気づいた。どうりで道中、どこか懐かしい気がしたわけだ。春田――津海市に二十年以上も続く老舗の水炊き、代々料理屋を営んできたという伝統の店だ。母は典型的な地元出身の女性で、こんなあっさりした料理は好まなかった。でも、父は好んでいた。まだ区長をしていた頃、休みの日には必ずこの店に彼女と次兄を連れて来ていた。その後、父は昇任していき、忙しさの中でこの店にも足を運ばなくなった。けれど、いま再びこの看板を目にすると、まるで
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第97話

美夜は、すぐ隣の席に座る浩司の様子を黙って見つめながら、彼が電話を終えるのを待っていた。浩司が何を考えているのか、彼女には見当もつかない。ただ、今回会うという相手は、どうやら自分か、あるいは自分の家族に関係する人物らしい。そう思いながらも、手に持ったスプーンは、水炊きのスープを無意識にすくい続けていた。この店のスープは香り高い豆腐を加え、湯元には幾種類もの香辛料を調合した出汁を使った。一見あっさりして見えるが、実は深い味わいが広がる。さすがは百年の歴史を誇る水炊きの名店、何年経っても味は変わらない。幼い頃に飲んだ、あの優しい味と、今も変わらないままだった。小さな器のスープを飲み干そうとしていたそのとき、個室の竹の引き戸が、ギィ、と音を立てて開いた。最初に入ってきたのは、見覚えのある顔だった。浩司の側近で、信頼の厚い部下の一人————野付東(のつき あずま)。体は大きく、短い袖のシャツからは、鍛え上げられた筋肉が覗いている。普段、彼が浩司と一緒に行動する姿はあまり見かけないが、重要な用事ではいつもこの東が動いていた。美夜が浩司の別荘に滞在していた数日間、彼を見かけたのは二度ほど。けれど、その際も彼女に話しかけることは一度もなかった。今回も、東は美夜をまるで無視するようにして室内に入り、背後からすっと回り込むと、浩司の隣に立った。その声は低く、そして荒々しかった。「陸野社長、資料です」そう言って、手に持っていた茶色のクラフト封筒を、ニレ材のテーブルの上に置いた。「うん」と浩司が短く返事をしたそのとき、入口にはさらにもう一人の影が現れた。今度は、年季の入った縦縞の半袖シャツを着た中年の男性。顔を上げることなく、背中を丸め、まるで足元を確かめるようなゆっくりとした歩みで入ってきた。美夜は目を上げ、その男性を注意深く観察した。年齢的には、自分の父親とそう変わらない。しかも、どこかで見たことがある気がする。だが、記憶の糸はすぐには繋がらない。じっとその顔を見つめながら、スプーンを止めて記憶を探った。隣にいた浩司が、ふっと鼻で笑ったような気がした。椅子の背もたれに大胆にもたれかかりながら、肘掛けに置いた右手を少し上げ、男を指差した。「お前をここに呼んだのは、黙って突っ立ってろって意
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第98話

けれど、どうしても相手の顔を思い出せなかった。「そう、私です。まさか泉お嬢さんが覚えていてくださるとは思いませんでしたよ」前田は驚いたように目を見開き、うれしそうに笑った。「昔、市長の運転手をしていたのはたったの三年間ですし、お嬢さんとは一言も言葉を交わしたこともなかったのに……それでも名前を覚えていてくださるなんて」「前田さん、お久しぶりです」相手が誰なのか分かったものの、美夜の中の疑問はむしろ深まった。軽く頷いて挨拶を返したあと、隣に座る浩司の方へと顔を向けた。「前田さんを呼んだのは、何か話があるんでしょう?」前回、浩司が連れてきたのは小野さんだった。小野は玉城グループで、会長室の清掃を担当していた、いわば母親側の人間。そして今回は、かつて父親の専属運転手だった人物を連れてきた。明らかに、今度は父親側の人間。つまり、彼が言いたいこととは……?美夜の問いかけに、浩司は口角を上げて笑い、逆に問い返した。「美夜、上の立場にある人間にとって、一番近くで関わっていて、秘密をあまり持てない人間って、誰だと思う?」突然の質問に、美夜は思わず言葉を失った。顔をこわばらせ、答えに詰まった。何しろ、彼女は大学を卒業したばかりで、実務経験はほぼ皆無。いくつかのアルバイトを経験したに過ぎず、社会の中で責任ある立場に就いたことは一度もない。だから、この質問の答えも、彼女は視線を落とし、素直に言った。「ごめん、あまり仕事の経験がなくて、自分もよくわからない。でも……多分、秘書とかアシスタントみたいな人かね。上司と近くにいて、秘密を隠しにくい存在だと思う」「意外と鋭いな」浩司は頷きながら、さらに口元を歪めた。笑みにはどこか危うい色が宿っていた。「でも、ちょっとだけ足りない」「足りない……?」美夜は思わず聞き返した。「実は、秘書やアシスタント以外にも、秘密が漏れやすい立場がある」そう言ってから、彼はふと視線を動かし、数メートル離れた場所に立つ前田の方を見た。「運転手も、実は色々と知ってるものなんだよ。なぁ、前田さん?」その一言には、にこやかさと同時に、何か不穏な空気がにじんでいた。前田はびくりと体を震わせると、慌てて頷いた。「は、はい……い、いくつか、覚えております」「だった
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第99話

何かが砕けた音が、静まり返った広い個室の中でやけに鮮明に響いた。一瞬で、全員の視線がその音の方へと集まった。誰もが、床に落ちて粉々に割れた汁碗を目にした。碗は美夜の足元で砕け散り、飛び散った磁器の破片のいくつかが、彼女の足首をかすめた。細くて浅い、かろうじて見える程度の傷跡が一筋。血はにじんでいなかった。東は床の割れた碗をじっと見つめたまま、無表情で微動だにせず、まるで何の感情もないかのようだった。一方、運転手の前田は明らかに動揺していた。破片を見つめながら唇を震わせ、ようやく言葉を絞り出した。「す、すみません、お嬢さん……最初は、話すつもりじゃなかったんです……」浩司は床の破片を一瞥し、それから前田に目を向けた。「何を止まってるんだ?金払って呼んだんだ、全部ちゃんと話してもらわなきゃ困る。途中で濁すなら、この二百万円は一言にしては高すぎるだろ。俺はそれ、気に入らないんだよ」前田の体はまた一度震え、浩司の目を直視することもできず、ただ美夜を見つめながら、機械的に続けた。「当時、私はお父様、つまり泉区長の専属運転手でした。区長は私を信頼してくださっていて、どんな時でも隠すようなことはなかった。重要な会議の内容や電話も、車内で普通に聞かせるような感じで……当時、市役所には特別採用で入った若くて美しい女性職員がいました。彼女は、区長室の資料整理や会議録などを担当していて……最初のうちは何もなかったんですが、ある時期、区長が家に帰らず庁舎で寝泊まりすることが増えて、その頃から、その女性職員とやたら親しくなっていったんです」前田は、まるで石像のように固まった美夜を見つめながら、話すのをやめるわけにもいかず、苦しげに続けた。「その後、ちょうど区長は政績のため、町の支援事業に力を入れていた時期で、よく地方に出ていました。同行するのは、女性職員と私の二人でした。そして、ある日……区長が落とした書類を届けに行った際、私は焦ってノックもせず部屋に入ってしまって……その時……その時、私は……」声が小さくなりながらも、まるで止まらない導火線のように言葉は続いた。「私は……区長がその人を……事務机の上に押し付け、上半身を乗り出すように覆いかぶさっている場面を……見てしまって……」「嘘よっ!!」その瞬間、個室に鋭く
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第100話

前田の目には焦りがあったが、取り乱した様子はなく、むしろ誠意がにじんでいた。「嘘はついてません。妻の手術代があと何十万円足りなかったんです。そこへ、急に誰かが私の故郷の村まで来て……それがなければ、私だって……」美夜は信じられなかった。最後まで話を聞くことすらできない。「あり得ない!父が母を愛していなかった?ふたりの仲がとっくに冷めてた?だったら、私なんて生まれてないはずでしょ!」記憶の中で、両親は口喧嘩こそしたことがあったが、深刻な争いをしたことなどなかった。母は仕事に情熱を注ぎ、父も常に忙しかったが、家族が揃えば、いつも穏やかで笑顔に満ちていた。そんなこと、あるはずがない。思わず前田を指さし、怒りを込めて詰め寄った。「どうして父を中傷するの!?父がそんな卑劣なことをするわけない!あんた、黒川蓮に金をもらって、わざと私を辱めようとしてるんじゃないの!?」父は真面目に職務に打ち込み、常に民のことを思っていた人だ。まさか職場で、若い職員と不適切な関係を、しかもあの場所で……そんなの、あり得ない。「違う、違うんです……嘘じゃないんです……!」前田は両手を必死に振って、何度も弁明した。「あの日、本当に見たんです。あまりのことに慌てて逃げました。その後で区長に追いつかれて、絶対に口外するなと念を押されて……私は田舎の出で、学もないし、この仕事を失うのが怖くて……だから今まで黙ってました……」……美夜の顔色がさらに悪くなった。前田の表情は作り物には見えなかった。彼女が黙った隙に、前田はまた口を開いた。「あの日のこと、詳しくは言えません。ただ、私が見たままを言ってるだけです。あの女性が『もう一回、やってみる?』みたいなことを言ってたのは、今でもはっきり覚えてます。あのときは本当に怖くて……でも区長は、『仕方のない』と言って、理解を求めてきたんです……」……美夜の呼吸が止まった。心臓が鷲づかみにされたように痛んだ。「もう一回」、その一言。それが前田の記憶に焼きついていた理由が、ようやくわかった。そんな刺激的な言葉、しかもあの場所で。忘れられるわけがない。前田はさらに続けた。「でも、区長とはそれっきりでした。私がホテルに連れて行ったのも数えるほどで、すぐに終わったんです。彼が自分
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