All Chapters of 私を傷つけた元夫が、今さら後悔していると言った: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

彼女は、まだ若い。母親の急死以外に、死というものを直に経験したことはなかった。だから一か月前、離婚して三日目に受け取った健康診断の結果に「腫瘍の疑い」と記されていたとき、彼女はただただ恐怖に包まれた。まだ二十三歳にも満たない年齢だった。報告書を破り捨て、泉家の自分専用の部屋に逃げ込み、布団にくるまって泣きじゃくった。その時、長兄は彼女が蓮との離婚に耐えきれず泣いているのだと思っていた。彼女を思って、長兄は蓮に二度も密かに会いに行った。どんな話を交わしたのかは知らない。だが、二度目の面会の帰り道、山間の道路で長兄は事故に遭った。そのことは、長兄の昏睡中に秘書の鉄也が教えてくれた。鉄也は、事故の瞬間、長兄と電話をしていたと言っていた。その時長兄はこう言ったという。「鉄也、会社から警備員を数人うちに回してくれ。美夜が勝手に外部の人間と接触しないように見張ってほしい。特に警戒すべきは……」そこまで話したところで、事故は起きたのだという。幸い、長兄の命は失われなかった。だが、死神の手は、今、彼女自身を狙っていた。このところ、彼女は平静を装っていたが、本当は怖くてたまらなかった。腫瘍が悪化するかもしれないという恐れ、死の痛みに対する恐れ……でも今となっては、もし今夜、これほど非人道的な仕打ちを受けねばならないのなら、いっそ死んでしまった方がましだと思えるようになっていた。今この瞬間、彼女は、いっそ正浦の手によって命を絶たれる方が、今夜を終わらせるにはふさわしいと感じていた。母の影響もあって、彼女は無神論者ではない。むしろ、パラレルワールド、或いはあの世が存在すると信じていた。きっと母は今、その世界にいて、自分もすぐに会える――そんなことを思った。首にかけられた手の力は、じわじわと強まり、喉から空気が奪われていく。人は首を絞められると、水に溺れるよりも早く死ぬと聞いたことがある。そう苦しくはないはずだ。頸動脈が締めつけられ、血流が脳に届かず、わずか数秒で頭がぼんやりしはじめ、肺が破裂しそうなほど苦しくなる。極度の酸欠で体が震え、腹部の痛みはもう感じなくなっていた。美夜はもがかないよう、自らを必死で制し、動かないようにしていた。もう少し、もう少しの辛抱だ、と思った。頭の痛みが増し
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第52話

男は落ち着いた口調で電話の相手に話し続けた。「抗がん剤の臨床試験がこんなに早期に終わるはずがないです。これまでは健康な被験者が対象でしたから、実際の患者とのデータにはやはり差が出ます……今回は、がん患者数名を対象にしてみたいと考えているんです。ええ、リスクがあるのは承知していますが、それだけの価値はあるはずです。今夜もう一度病院に行って、あとで戻ります」通話を終え、彼が数歩進んだところで、正面から小太りで頭頂部が薄くなった病院の副院長が歩み寄ってきた。男の姿を認めると、副院長はすぐに歩調を速め、笑顔で手を差し出した。「さっき個室に入った時に姿が見えなかったから、森先生はこういう集まりが苦手で、来ていないのかと思いましたよ。まさか、こんなところに隠れていたとは」森利晴(もり としはる)は柔らかく微笑み、穏やかな口調で応えた。「まさか、そんなことはありません。人は信義をもって立つもの。今夜参加すると約束した以上、当然来るべきです」そう言いながら、携帯電話を軽く持ち上げて見せた。「ちょうど本社研究所からの電話を取っていたところです」「なるほど、なるほど。森先生は本当に若くして有能でいらっしゃる。華光製薬も、先生のご帰国以降ますます業績が上がっていますし、開発の進度も目覚ましい。今年発売された新薬は数億円の特許収入があったとか……」副院長は利晴の手を握ったまま、べた褒めし続けた。利晴は副院長の話に丁寧に耳を傾け、すべて聞き終えてから、控えめに口を開いた。「お褒めいただき光栄ですが、僕はほんの少しデータを調整しただけで……」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、すぐそばの個室の扉が突然開いた。中から屈強な若者が二人、先頭と後ろに立ち、一人の若い女性を支えるようにして外へ運び出してきた。彼女の身に着けていたものは見るも無残に乱れ、本来の衣服の役目をほとんど果たしていなかった。全身は水をかぶったように濡れており、長い髪は絡み合って顔に張りつき、その先端からはしずくが絶えず落ちていた。首筋には赤みが残り、右手には血が滲んでいるようだった。何があったのか。医師としての本能からか、利晴は無意識に視線を向けた。そして、女性の輪郭にどこか見覚えがあることに気づいた。彼女はすでに数歩先まで運ばれていた。利晴は歩み寄
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第53話

美夜は、まるでとても長い夢を見ていたかのようだった。幼い頃の自分が現れた。母が抱きしめながら歌ってくれた場面、小さな彼女を背負って、千段以上の石段を登り、山頂の寺で祈りを捧げた場面もあった。夢の中には、母の優しい声が響いていた。「美夜、あの蓮って子は悪くないけど、ちょっと心に影があるように思うの……でも、あなたが彼だって決めたのなら、お母さんはきっと応援するわ」「美夜、覚えていて。どんなことがあっても、変わろうとする心さえあれば、時を大切にすれば、遅すぎることなんてないのよ」それはあまりにも幸せな夢だった。母に会うのは、本当に久しぶりだった。夢の中の母の顔は変わらず若く、穏やかで慈しみに満ちた目元のまま、彼女に向かって一歩一歩近づいてくる。抱きしめたい。その思いに突き動かされて、彼女は足を踏み出した。お母さん、会いたかったよ……「押さえて」突然、夢の中に異質な声が混じった。ぬくもりに満ちた場所から無理やり引き剝がされるような感覚、身体が無理に動かされ、次の瞬間、ズボンが引き下ろされる感覚。やめて、服を脱がせないで!こんなふうに傷つけないで!大部屋での記憶が繋がっていく。どうやら自分は絞め殺されずに済んだのだ。身体を強張らせたまま、まだ目を開けぬうちに、無意識に手足を振り乱して抵抗しようとする。叫び声を上げたくても喉は焼けつくように痛み、一言も発せられなかった。「ダメだ、一人じゃ無理だ、もう二人抑えて!」やめて、お願い、こんなふうにしないで。必死で抵抗を続け、どうにかして重たいまぶたを開けようとする。誰かが自分に近づいてくる気配を感じ、歯をむいて咬みつこうとする。「こうするしかないか、抑制帯使うか?」「僕がやる」また別の声がした。誰かが更に近づいてきた。ようやくまぶたが少し開き、ぼんやりと人影が視界に入り、だんだんとその姿が近づいてくる。最も近くにいた人影が覆いかぶさってきたとき、彼女は恐怖に駆られて、思い切り蹴りを放った。ドンという音とともに、相手の腰に命中したようだったが、その人は少しひるんだだけで、再びそっと彼女の肩を押さえ込んできた。「大丈夫、注射するだけ。すぐに楽になるから」その声とともに、冷たい液体が臀部に塗られ、次いで鋭い痛みが襲った。美夜
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第54話

お腹と両手、それに首筋がひどく痛む。喉には砂を詰め込まれたかのような違和感があり、唾を飲み込むだけでも焼けつくような痛みが走った。けがをしていない左手を持ち上げて喉元に触れながら、美夜は目の前の男を見据え、かすれた声を絞り出した。「あなた……誰?」その声は、ひどく掠れていた。「やっぱり、本当に覚えていないんだな」利晴はすぐには答えず、自嘲気味に微笑んだ。もともと柔らかな印象のある顔立ちで、鋭利な線を持つタイプではなかった。そのうえ、唇を緩めて笑うと、目元に一層穏やかさが加わり、まるで無害な青年のように見えた。「まあ、仕方ないよ。あれから随分と経ったし、僕も当時とはかなり雰囲気が違う。忘れられて当然かもしれない」「誰?」彼女は再び尋ねた。彼は一体誰なのか。黒川蓮の関係者か、それとも陸野浩司が遣わした人間か?美夜の執拗な視線に気づいた利晴は、唇の笑みを少しだけ引き、今度は真剣な表情で言った。「そんなに無理して話さなくていい。今、声帯のあたりがかなり腫れている。外的な圧力が原因で充血してるんだ。それに発熱もあるし、声が出にくいのは当然。あ、そうだ。解熱剤の効果がそろそろ切れるから、また飲まなきゃいけないよ」美夜はそれ以上言葉を発さず、じっと彼を見つめ続けた。まるで、彼が名乗るまで視線を外すつもりはないとでも言うように。「わかったよ」利晴は彼女の意志を汲み取り、仕方なさそうに笑った後、彼女に手を差し出して名乗った。「美夜、こんにちは。僕は森利晴。十年前、君は僕のことを利晴くんって呼んでた」利晴くん?その名に、記憶の奥深くがふと揺れた。まだフジの蔭が揺れる小道で、美夜は砂利の敷かれた小道に立ち、ひとりの細身で杖をついた少年にクッキーの箱を差し出していた。「利晴くん、最近あまり食べてないでしょ?これ、うちのお母さんが作ったやつ。よかったら食べて」少年は彼女より二、三歳年上だったはずだが、背丈はほとんど同じで、どこか冷めた雰囲気をまとっていた。目元は常に沈んでいて、まるで喜びを知らない子どものようだった。目の前の利晴が、あの療養所でたった一か月だけ一緒に過ごした、あの少年だったなんて?記憶の中の面影と、今目の前にいる男の輪郭が、少しずつ重なっていく。背は伸び、雰囲気も大人び
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第55話

そうだ。事実として、美夜が「ミキ」に現れた時点で、すでにそのつもりだった。否定はしなかった。美夜は視線を外し、体にかかっていた毛布をめくってベッドを降りようとした。構わない。もう誰とも深く関わるつもりはなかった。泉家は没落し、父は失脚した。親しかった同級生や親戚は皆、蜘蛛の子を散らすように離れていった。先輩に送ったメッセージも、一通たりとも返事がなかった。もう期待などしていない。「ごめん、そんなつもりじゃ……」美夜が立ち上がろうとするのを見て、利晴は一瞬表情を強ばらせ、すぐさま少し前に出て弁明した。「ただ、昔顔を合わせたこともあるし、久しぶりとはいえ友達には違いないと思って。友達なら、困ってるとき助け合うのが当然でしょ……」彼女は黙ったまま、ベッドの毛布をめくってベッド脇に座り、病院の使い捨てスリッパを履いた。あの夜、個室でドレスは破られ、華やかなクラブが用意した高級な羊革のハイヒールもいつの間にか消えていた。昨日、病院に運ばれたときの自分は、きっとひどい有様だったのだろう。昏倒していたことだけが、せめてもの救いだった。スリッパを履くと、美夜は病室のドアへまっすぐ向かった。だが、数歩進んだところで、腹部の奥に微かな痛みが走る。あの夜、彼に蹴られた衝撃は想像以上に激しかった。この人生で、こんな暴力を受けたのは初めてだった。痛みに歩みは遅くなったが、それでも彼女は足を止めなかった。この病室は特別病室で、一泊の費用も高額だ。自分にそんな余裕はない。「どこへ行くつもりだ?」利晴が急いで追いかけてきた。「まだ身体が完全に回復してないだろう。少なくとも二十四時間の入院観察が必要だ。外傷も多いし、破傷風の注射も受けたばかりなんだから、病院の規定でも……」「いいえ、数日前にすでに受けました」彼女はかすれた声で答えた。「そうか」利晴は一瞬絶句したが、すぐに口を開いた。「実は、君のことを高橋副院長から少し聞いた。お兄さんが集中治療室に入ってるらしいな。費用もかなりかかるって……もし本当にお金に困ってるなら、僕は……」ガチャリと音がして、彼の言葉が終わる前に病室のドアが勢いよく開いた。鈴のように可愛らしい声が病室に響いた。「やっと見つけたよ、利晴!」声の主が現れた瞬
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第56話

「待って!」「利晴!」一時、病室の外から二つの声が重なって聞こえた。一つは利晴の、やや焦った調子。もう一つは、先ほどよりもトーンの高い、あの少女の声だった。利晴は困ったような口調で言った。「佳南、騒ぐな。これは彼女に渡すものなんだ。さっき、わざわざ届けてもらったものだから」それを聞いて、すでに特別室の外に出かけていた美夜は立ち止まり、わずかに首をひねって後ろを振り返った。利晴も歩み寄り、片手にショルダーバッグを、もう片手に緑色のデビットカードを持ち、それを彼女に差し出した。「これは君が意識を失っていた時に届けられたものだ。君宛てだって。暗証番号は君が分かってるはずだと」「誰が持ってきたの?名前は名乗った?」目を伏せ、カードに視線を落としながら、掠れた声で尋ねた。「『馬場』と言ってた。若い男で、スーツにネクタイ姿。ビジネスマンって感じだったな」「わかった」美夜はバッグとカードを受け取り、そのまま向きを変えて足早に病室を後にした。室内からは、まだかすかに会話が漏れ聞こえていた。利晴がドア近くまで来たのか、足音が数歩して止まり、続いて、佳南の甘えるような声が響いた。「利晴、もう4時間も待たせたんだからよ!お腹ペコペコなのに!」「ごめんごめん、それじゃ教えて。今なにが食べたいんだ?」その後、利晴が何を言ったかは、美夜にはもう届かなかった。彼女は早足で歩き続け、やがてエレベーターに乗り込んだ。変わる階数表示を見つめながら、美夜はついに限界に達し、金属製の内壁にもたれかかった。麻酔が切れ始めていたのだろう。縫合した右手が疼き出し、蹴られた腹部にも鈍い痛みが走っている。足元がふらつき、冷や汗が滲んでいる。そういえば、まだ薬を飲んでいなかった――そう気づいた彼女はすぐに一錠を取り出し、無理やり飲み下した。喉が腫れているのか、薬がいつもより飲み込みづらく、まるで焼けるような感覚だった。薬を飲み終えると同時に、エレベーターが一階に到着した。彼女はそこから出て、公共トイレに入り、患者服を脱いでバッグから取り出したTシャツとジャージに着替えた。それから携帯を取り出して、電話をかけた。時刻は午前一時。本来ならこんな時間に電話をかけるのは非常識だと分かっていた。相手を不快
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第57話

「食べて、利晴。何を考えてたの?この牛もつ、もう煮えすぎちゃったよ!」甘えるような声が利晴の思考を現実に引き戻した。彼はすぐに軽く「ああ」と答え、卓上の箸を取って鍋から煮えた牛もつをすくい上げたしかしそれを自分の碗には入れず、向かいに座る佳南の碗に入れた。「今夜はお腹を空かせて僕を待ってくれたんだね。佳南、つらかっただろう?たくさん食べて」そう言いながら、彼の口元には淡い笑みが浮かんでいた。佳南の顔に浮かんでいた不満もようやく少し和らいだが、さらに言葉を続けた。「利晴、病院から出てきてからずっと落ち着かない様子だよ。もつ鍋に連れてきてくれたのに、全然食べてないし……まさか、まだ病院のあの女性患者のこと考えてる?」「そんなに分かりやすかった?」利晴は笑みをより柔らかくした。「もちろんだよ!」佳南はそう言って、いたずらっぽくウインクを投げかけた。「どういう関係なの?あんなに気にするなんて」「特別な関係じゃないよ。昔の知り合いでね、十年ぶりに会ったんだ。今あんな姿を見て、ちょっと気の毒に思ってるだけさ」利晴は率直に答えた。その目は澄んだ渓流のように濁りなく、少しの迷いも見られなかった。「昔の縁もあるし、助けられるなら助けようって」佳南はじっと彼の目を見つめ、嘘をついている気配がないと悟ると、つい口元をほころばせ、箸を取って真剣に食べ始めた。「もういいわ、早く食べて帰って休もうよ」「うん」利晴はそう答え、箸を伸ばしたが、その心はこの鍋にはなかった。ぐつぐつと沸き立つお汁の中を見つめながら、彼の脳裏には再び美夜の血まみれの姿が浮かんだ。あのとき彼女の体から流れていた血は、夕日よりもさらに真紅だった。手術室の外で彼女を見かけたときも既に憔悴しきっていたが、再会した時の姿はさらに悲惨だった。たしか、かつて療養所で聞いた話では、彼女の家は商売をしていてお金には困っていないはずだった。なぜ今、あんなことに?そしてあんなに慌ただしく去っていったが、今はどうしているのか。利晴は箸を止め、窓の外へと目をやった。ガラス越しに、夜の闇が静かに広がっていた。……「アイタワー」マンションは、広々とした高級住宅街にあるワンフロア一戸のレジデンスだ。室内はメゾネット構造になっており、どの部屋に
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第58話

彼女は喉の痛みをこらえながら、言葉を継いだ。「あなたの言うとおりにした。今度は、あなたが約束を守る番だ」ソファに座った蓮は、冷ややかな声で吐き捨てた。「長野はお前に手を出していない」彼女は頷いた。「分かってる。私たちは三年間夫婦だったから、そういうことの後の身体の変化くらい分かる」病院で目を覚ましたとき、身体には異常がなかった。だから、長野正浦に触れられていないことはすぐに分かった。けれど、あの時確かに――正浦は本気で彼女の命を奪いかけていた。声は枯れ、普段のような柔らかさも軽やかさもなかった。「彼が私に手を出さなかったのは、私のせいじゃない。私は、あなたの指示どおりにやった。だから、兄と父を解放して」蓮はじっと彼女を見つめた。眼差しの奥の色が、さらに濃くなった。「俺が『解放する』って、いつ言った?」「そんな……」彼女は愕然とし、信じられないものを見るように顔を上げた。「あの別荘で、あなた、私に約束したじゃない……!」「はっきりさせておけ。泉国臣は保釈中の療養であって、俺が監禁してるわけじゃない」つまり、彼を釈放するかどうかは自分の一存ではない、ということだ。では、次兄は?彼女はすがるように問いかけた。「じゃあ、兄は……」「終わったら、会わせてやる」蓮は冷ややかに言い切った。美夜は凍りついた。大人である彼女には、「終わったら」という言葉の意味など、嫌でも分かっていた。彼が夜中に自分を呼び出した理由が、まさかそんな要求だとは……顔色はさらに蒼白になり、かすれた声で問いかけた。「でも、あなたには……もう彼女がいるでしょ?そんなことして、彼女に知られるのが怖くないの?」彼には、美しく成熟し、艶やかなモデルの唐沢青佳がいたはずだ。それなのに、なぜまだこんなことをするの?「お前に言う勇気があるのか?」蓮は冷たい目で彼女を見据えた。表情のないその顔には、恐ろしいほどの冷酷さがあった。「それとも、また『ミキ』に戻って売るか?」「なぜ、私がそれを怖がらないと!」「お前の家族全員の命が、俺の手の中にあるからだ」その唇から静かに落ちた言葉は、黄みがかったシャンデリアの光の下でもなお、鋭利な刃のように彼女の心を突き刺した。「俺は、いつでも約束を破棄できる
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第59話

蓮の声は決して強くなかった。けれど、その一語一語には、息を詰まらせるほどの圧があった。美夜はその瞬間、呼吸すらままならなくなった。蓮はソファに腰掛け、バスローブ一枚をまとっていた。その足元に跪くということが、何を意味するのか――言葉にするまでもない。美夜は深く息を吸い込み、視線を落としたまま、低くつぶやいた。「できない」それは事実だった。経験がなかったのだ。三年の結婚生活の中で、夫婦としての関係は極めて希薄だった。最初の一年は、彼女の心に残る浩司の影が原因で、自ら踏み出すことができなかった。母を亡くした後、その喪失を埋めるように蓮の温もりを求めた彼女は、彼の触れ方や口づけに強く惹かれていることに気づいた。けれど、彼は、彼女の身体に興味を持っていないように見えた。その理由を、彼女はあれこれと考えた。事業が始まったばかりで忙しく、彼女自身も魅力的な存在とは言い難い。だから、仕方がないのだと。そう思うと、彼女はあらゆる手を尽くした。ネットで攻略サイトを検索し、ランジェリーを買い揃え、どうにかして彼を喜ばせようとした。さらに、羞恥心も自尊心も捨て、自ら膝をついて彼のベルトを外し、「奉仕」することで夫婦生活を円滑にしようとまでした。しかし、すべては徒労に終わった。冷たく突き放すように衣装部屋を後にし、その背中からは明らかな嫌悪感がにじんでいた。彼女は一人その場に取り残され、打ちひしがれ、涙がこぼれそうになったその時。蓮は戻ってきて、こう言った。「君のせいじゃない。俺が、そういうのが苦手なんだ」彼女はその言葉を信じた。だが今、彼は目の前で脚を開き、跪くよう求めている。なんという皮肉。「できないのか?」蓮が口元に冷笑を浮かべた。「あのときは乗り気だったくせに、今は嫌か?それとも他の男にしてやるほうがいいか?」彼女は思わず口を押さえた。吐き気が込み上げる。他の誰かにそんなことをする自分を想像しただけで、吐き気と恐怖が襲ってくる。「昇の渡したカード、一百万円しか入ってなかった。今夜のお代ってわけだ。二人が集中治療室で過ごすのに、ぎりぎりの額だな」彼女は手をおろし、ためらいながらも視線を上げ、彼を見つめた。「どうして……?以前、私がそうしようとしたとき、あなたは拒んだ。な
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第60話

どれほどの時間が経ったのか分からない。蓮がふと彼女を見上げたその瞬間、美夜は唐突に足を踏み出し、ソファに座る彼のもとへ向かった。ようやく気づいたのだった。蓮でいい、と。たとえ、跪いてでも彼を喜ばせることになっても。見せしめのように辱められ、無理やり酒を飲まされるくらいなら、蓮のほうがまだましだった。蓮は元夫だ。かつて関係を持ったこともある。だからこそ、他人よりはまだ耐えられるかもしれない、そう思った。ソファの上、蓮は均整の取れた脚を組まずに開いたまま、バスローブでかろうじて体を覆い、背にもたれて座っていた。だがその姿勢とは裏腹に、全身から放たれる空気は相変わらず冷ややかで緊張感に満ちていた。五メートルの距離など、すぐに詰まった。美夜は蓮の前まで来ると、視線を彼の黒い瞳に合わせることもなく、静かにうつむいて、その足元に跪いた。それからのことは、自分でもどうやって行動したのか、まるで記憶にない。魂が体を抜け出したように、ただ空っぽの殻だけがその場に残り、ぎこちなく、機械的に動いていた。初めてのことだったので、どうしても身体が受けつけず、何度もえずいた。やがて涙も溢れてきた。蓮がどんな表情だったのかは覚えていないただ、彼が自分の頭を押さえつけていたことだけが、かすかな記憶として残っている。最後には、ほとんど窒息しそうになった。長い時間が経った後。ようやく解放された彼女は、トイレに行く間もなく、ソファの横に置かれたゴミ箱に嘔吐した。込み上げてくるのは、吐き気と――どうしようもない屈辱。喉の痛みは増していた。父にいつ会わせてもらえるのか、蓮に尋ねようとしたが、声がまったく出なかった。かすれ声すら出せず、「あ……あ……」と、ただの音にならない声しか漏れず、まるで声を失った人間のようだった。「一百万円だ」黒いローテーブルの上に、札束が音もなく置かれた。「今後は昇から連絡が行く。呼ばれたら応じること。いわゆる「風俗嬢」の務めを果たせ。俺の気が向けば、泉国臣に会わせてやる」蓮の声はいつもと変わらぬ低く響く音だった。美夜は反応せず、蓮を見上げようともせず、うつむいたまま、まるで怯える小動物のように床に膝をつけていた。しばらく経ってようやく体に力が戻り、テーブルの上の金を手に取った。テーブ
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