火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

100 チャプター

第91話

「わぁ~ん!」礼央にきつく叱られた翔太は、堪えきれず大声で泣き出した。そのまま萌寧の胸に飛び込み、しゃくり上げながら訴える。「ママ……ママがいない間、こいつがずっと僕をいじめてた。今はパパまで、僕のこといじめるんだ……」萌寧は胸が締めつけられるような思いで、慌てて翔太の涙をぬぐった。そしてそっと、言い聞かせるように小声で囁く。「さっきのは翔太が悪かったのよ。おばさんに手をあげるなんて、そんなことしちゃだめでしょう?たしかにおばさんは実のママじゃないけど、四年間も育ててくれたのよ。恩を受けたら感謝しないといけない。ちゃんとおばさんに謝りなさい。わかった?」真衣は冷めた目で、そんな萌寧と翔太のやりとりを黙って見ていた。おばさん、ね。もうおばさんって呼ばせるんだ。翔太はというと、本当に萌寧の言うことを聞き入れたようだった。不満げな顔は隠しきれなかったが、それでも素直に、きちんと頭を下げて謝った。「ごめんなさい」彼の声は小さかった。「誰に?」萌寧がやさしく促す。翔太は唇をきゅっと噛みしめ、もう一度、声を絞り出した。「おばさん、ごめんなさい……」「そうこなくちゃ」萌寧は微笑みながら、翔太の涙をそっと拭った。「これからは、そんな悪い癖はやめようね。礼儀がなってないこと、わかってるでしょう?」「……うん」翔太は鼻をすすりながら、涙声でつぶやいた。「やっぱり……萌寧ママこそが本当のママだったんだね……」萌寧はぎゅっと翔太を抱きしめた。「よしよし、もう泣かないの。ママが帰ってきたから、もう誰にもいじめられないよ」まるで、四年も子どもを育ててきた真衣が、その間ずっと翔太をいじめていたかのような言い方だった。真衣の胸の奥が、ふわふわした綿でも詰まっているように、息が苦しくなる。「真衣さん、誤解しないでね」萌寧が、何かに気づいたように振り返る。「私、この子が泣いてるのを見ると放っておけないだけで……ただ宥めてただけなんだ」視線を真衣に向けながら、静かに続ける。「翔太はまだ子どもだから。どうか、怒らないであげて」真衣は静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。萌寧の一言一言が、まるで自分の居場所を奪い返すとでも言うように、主張を刻み込んでいた。真衣は視線を礼央に向ける。礼央は傍らに立ったまま、淡々とし
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第92話

まず、自分自身であること。そうでなければ、人を愛することなんてできない。自分を犠牲にしてまで人を愛する――そんな愛し方をしていたからこそ、自分は今、こんな結末を迎えることになった。そのとき、また礼央からの電話が鳴った。真衣は無言のまま画面を見つめ、冷たい表情でその番号をブロックした。離婚のことは、もう法律に任せよう。礼央はすでに、裁判所からの召喚状を受け取っている。それでもなお放置しているのだ。まだ、自分がわがままを言っていると思っているのか?礼央の中では、自分はいつまでも高瀬家の周りを回っている存在で、決して自ら離れることなどないと、そう思われているのかもしれない。考えてみれば本当に滑稽だ。彼がそんなふうに考えるのも無理はない。五年ものあいだ、真衣は愚かにも、彼にばかり尽くしていたのだから。真衣は目を閉じた。頭の中で渦巻いている思考を、必死に整理しようとする。離婚の手続きなど、礼央が今対応しなくても、いずれ裁判所が動くだろう。自分が心を煩わせる必要なんて、どこにもない。遅くとも、十五日以内には処理しなければならない。それまでには、真衣の覚悟が本物か、ただの気まぐれなのか、礼央にもはっきりわかるだろう。言葉ではなく、行動がすべてを物語る。――その日、真衣が家に戻ってきたとき、表情にははっきりと疲れがにじんでいた。けれど、千咲の前ではいつだって、穏やかで優しい顔を崩すことはなかった。千咲は理系分野において、目を見張るような才能を持っていた。今の暮らしがどれほど苦しくても、真衣は歯を食いしばって、オリンピック数学の塾に申し込んだ。放課後、千咲はそのクラスに通い始め、一週間も経たないうちに、見違えるほどの成長を見せていた。そんなある日、講師から電話がかかってきた。何か言いたげに言葉を濁しながら、やっとのことで本題に入る。「千咲は……もう、私には教えられません」真衣は眉をひそめた。「千咲に、何か問題でもありましたか?」「いえ、違います」講師の声が、受話器越しに続いた。「千咲は、並外れた才能を持っています。今のクラスでは物足りません。もっと上のレベルのクラスに進ませるべきです」思いがけない言葉に、真衣は一瞬ぽかんとした。そっと隣を見ると、千咲がこちらを見上げていた。つぶ
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第93話

千咲は、年齢のわりにとてもよく気がつく子だった。真衣はふと視線を伏せ、胸の奥に募るような申し訳なさを感じた。そっと千咲を見つめ、頭に手を伸ばす。やさしく撫でながら、微笑んで言った。「楽しく生きてくれたら、それでいいの。ほかのことは、何も気にしなくていいんだから」千咲を寝かしつけたあと、真衣は救急箱を取り出して、自分の手首を見た。前に病院で縫ってもらった傷口が、動きでまた裂けてしまっていた。明日、もう一度病院で診てもらわなければ。包帯を解いて傷を見つめると、うっすらと眉が寄る。けれど、そのまま見ているうちに、胸の奥がざわついた。ふいに、ある不安が頭をよぎる。真衣は迷わず立ち上がり、タクシーを呼んでそのまま病院へ向かった。今の仕事は、手先の安定が何より大事だ。測定制御システムの操作は、ミリ単位の精度が求められる。ロボットアームの操作にしても、わずかなブレが致命的なミスにつながる。多くの作業が機械に置き換わったとはいえ、それでもなお、手の安定が求められる仕事は少なくなかった。もし、この手首の傷がなかなか癒えなければ、その後の仕事に確実に支障が出るだろう。病院。真衣は救急診療の受付を済ませた。手首の状態を見た医師は、静かに口を開いた。「しっかり療養してください。手首はあまり動かさないように。幸い、腱や骨には傷は及んでいません。このまま順調に回復すれば、元通りになるでしょう。ただし、傷が何度も裂けるようなことがあれば、将来的に影響が残る可能性があります」真衣は黙って頷いた。処置が終わると、そのまま会計へ向かった。夜間窓口の前。真衣はふと、見覚えのある後ろ姿が目に入った。思わず立ち止まり、声をかけようとしたその瞬間――慧美が診療票を手に、足早に入院棟の方へと向かっていくのが見えた。真衣は軽く眉をひそめ、迷いながらも足を進めて後を追った。たどり着いたのは、呼吸器科の病室の前。「いつも本当にありがとう。会社のこともあるのに、俺のためにあちこち動いてくれて……最近、会社の調子はどう?」慧美はみかんの皮をむきながら、穏やかに答える。「大丈夫よ。明日、出資者に会いに行く予定。出資が決まれば、会社はすぐに立て直せるから。会社のことは考えなくていい。あなたは体のことだけ気にしてて」真衣は病室の入り口に立ち、母と叔
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第94話

真衣はさっさと起き上がり、パソコンを開いて新プロジェクトのシステム計算を続けた。九空の新しいプロジェクトは宇宙衛星で、宇宙用ロボットアームの精度が不十分なため、複雑な故障に対応できないことが多かった。この技術的な壁を突破し、衛星が軌道上でデータを探査する期間を延ばしたいと考えていた。真衣はそのまま朝まで作業を続けた。簡単に身支度を整え、鏡の前に立って初めて、最近の顔色がかなり憔悴していることに気づいた。そこで軽く化粧を施し、少しでも顔色を良く見せてから千咲を学校へ送り届けた。慧美に連絡して出資者と会うことにした。面会場所は、出資側が交渉の場としてよく利用する会員制の茶室だった。茶室は山の中腹にあり、慧美は車で現地に到着した。慧美は真衣の手を見て、少し不安そうに口を開いた。「手、大丈夫?もうだいぶ経つけど……」真衣は軽く首を振ってそう答えた。「たいしたことないよ」ふたりは約束の時間より三十分も早く到着し、茶室の前で待っていた。けれど中から応対に出てくる者は一向に現れず、中へ勝手に入るわけにもいかず、ただじっと立ち尽くすしかなかった。夏の日差しは容赦なく照りつけ、茶室の入口には日を避けるものもない。かといって車の中で待つのも失礼にあたるため、ふたりはその場で立ち続けていた。それから二時間が過ぎても、中からは何の音沙汰もなかった。真衣は頭がぼうっとしてきて、身体に熱がこもる感覚を覚え、どうやら軽い熱中症になりかけているようだった。慧美はそんな真衣を心配して言った。「車で少し休んできなさい。ここはお母さんが待ってるから」真衣は軽く首を振って答えた。「大丈夫よ」「お待たせして申し訳ありません。清水(しみず)社長は本日不在のため、本日はお引き取りいただけますでしょうか」清水社長のアシスタント、鈴木潤平(すずき じゅんぺい)が歩み出てきた。真衣は眉をひそめた。「こんなに待たせておいて、不在だなんて……」潤平はにこりともせず、淡々とした口調のまま言った。「誠に申し訳ございませんが、社長は本当に本日不在なのです」慧美が彼をじっと見つめながら口を開いた。「どこに行かれたの?こちらから伺います。長くはかかりませんから」「社長は本日、お客様とお会いする時間はございません」潤平はきっぱりと言い放った。慧美
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第95話

真衣は目を伏せながら、萌寧が礼央の腕に手を添えている様子を見下ろした。その仕草は、まるで自分こそが堂々と礼央の隣にいる女だと誇示しているかのようだった。思わず小さく鼻で笑い、心の中で「なるほど」と呟く。この女、なかなか面白い。三人きりの時には「真衣さん」と呼んでおきながら、大勢の人前ではわざわざ「寺原さん」と呼ぶ。小賢しい駆け引きを、実に器用に使い分けている。礼央の表情はいつものように冷静で淡々としていたが、萌寧にはどこか優しさと気遣いを見せていた。そんなふたりの親しげな様子を見て、慧美は眉間に深くしわを寄せ、顔を険しく曇らせた。あの気持ちは痛いほどよくわかっていた。まさか、娘の真衣までが同じ思いをするとは思ってもいなかった。慧美は何か言おうとして一歩前に出ようとしたその瞬間、真衣がそっとその手を取って引き留めた。真衣は静かな声で、慧美の耳元に囁いた。「今日ここに来た目的、忘れないで。無駄な衝突は避けて。出資者に良い印象を与えることが大事なの」萌寧の態度は、どう見ても意図的な挑発だった。こちらに醜態を晒させようという魂胆が見え見えだった。けれど、真衣にとってもはやそんなことはどうでもよかった。彼らがどう振る舞おうと、もう心は一切揺さぶられなかった。真衣は萌寧を一瞥することもなく、視線を潤平に向けたまま、落ち着いた声で言った。「もし今日、清水社長がお会いくださらないのなら、こちらはお会いしていただけるまで、ここで待たせてもらいます」小柄な体つきでありながら、その背筋は凛として真っ直ぐに伸びていた。今日ここで会えないのなら、本当に帰らないつもりだった。真衣は萌寧の存在をまるで空気のように扱っていた。萌寧は唇を軽く引き結び、笑みを浮かべながら潤平の方を見た。「今日は清水社長、他の方ともお約束があったんですか?」言葉の裏に込められた意図は明白だった。潤平も、誰が優先されるべきかは十分に理解している。礼央のような地位にある人物を粗略に扱えるわけがなかった。もともと今回の話は、同じプロジェクトへの投資案件だった。清水社長が多忙のため、意向を持つ二組を同時に呼び寄せたにすぎない。ただ、誰も礼央が自ら現れるとは想定していなかった。礼央が来なければ、合同で話を進めることもできただろう。けれど、いざその姿を見れば、
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第96話

「そうですか?」萌寧は柔らかく笑いながら言った。「では、次はぜひ清水社長のところでお世話になりますね」潤平がすぐに席を整えた。萌寧は当然のように礼央の隣に腰を下ろした。ようやく清水社長が慧美の方へ視線を向けた。「どうぞ、寺原社長もおかけください。こちらの方は……」そう言って、真衣の方を見て問いかける。真衣はにこやかに微笑んで言った。「清水社長、初めまして。寺原社長の秘書をしております、寺原真衣と申します」清水社長はその言葉に少しだけ動きを止め、もう一度真衣に目を向けた。先ほど慧美は何かを紹介しようとしていたが、真衣がそれをさりげなく遮ったのがはっきりと伝わってきた。公の場で血縁や立場を強調しないその姿勢に、清水社長は思わず注意を向けた。実力はさておき、少なくとも真衣の仕事に向き合う態度は誠実で、実にプロフェッショナルだった。全員が着席した後。萌寧は遠慮せずに両社一緒に企画案を話し合うよう提案した。真衣は提案にうなずいた。その様子を見て、桃代は鼻先で笑い、真衣と慧美が本気で自分たちと張り合うつもりなのかと呆れたように思った。慧美の会社など、今や中身のない空っぽの殻も同然だった。社員はほとんど辞めていき、企画部にはほとんど人が残っていない。そんな状況で、まともな企画案など出せるはずがない――桃代にはそうとしか思えなかった。桃代の会社とは、そもそも土俵が違う。そして、礼央にも見せてやりたかったのだ。真衣たちが、いかに無力で役立たずかということを。無能な母娘に、いったい何ができるというのか。真衣のような女を高瀬家に迎え入れるなど、どう考えても間違いだった。打ち合わせはごく普通に進んでいた。その間、礼央は終始無言で黙って席に座っていた。桃代が自社の企画案と、今後の展望についてひととおり説明を終えると、清水社長は満足げに何度も頷いていた。そして、いよいよ真衣の番が回ってきた。真衣は静かに席を立ち、カバンの中からノートパソコンを取り出すと、事前に用意していた3Dモデルのプレゼン画面を開き、清水社長の前へと差し出した。今後の方向性はより明確で、企画案自体も整然とした構成になっていた。何より目を引いたのは、両者の企画案にそれぞれ強みがあったものの、真衣の案にはアニメーションによる解説が盛り
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第97話

茶室を出た慧美は、胸の奥に怒りがどす黒く澱んでいた。あからさまな侮辱を受けたというのに、何ひとつ言い返すこともできなかった。「礼央があんたにあんな仕打ちをするなんて、思いもしなかった。もし分かってたら……あんな辛い思い、絶対にさせなかったのに!」その声を聞きながら、真衣の顔色はさらに青ざめ、額には細かい汗が浮かんでいた。彼女はかすかに首を振り、弱々しい声で言った。「大丈夫……もう、終わったことだから」人は、前を向いて歩いていかなければならない。午後の陽射しは容赦がなく、照り返しが肌を刺すように強かった。慧美は真衣の様子が明らかにおかしいことに気づき、声をひそめて言った。「……熱中症じゃないの?」そう言いながら眉をひそめ、真剣な眼差しで真衣を見つめた。「ここで少しだけ待ってて。車を回してくるから、病院に連れて行くわ」車はすぐ近くの駐車場に停めてあったが、そこまで行くには直射日光の下を歩くことになる。真衣は目の前がふわりと揺れるような眩暈を覚え、ドア枠に身体を預けながら、かすかに頷いた。慧美は車を取りにその場を離れた。このとき、真衣は手首に鋭い痛みを感じた。昨夜、3Dモデルの解説資料を仕上げるのに長時間かかり、手首を酷使したせいだろう。そっと腕を持ち上げ、包帯の上から確認すると、白いガーゼの隙間から、うっすらと赤い血がにじみ出ていた。真衣は表情を変えず、ほんの少しだけ眉をひそめた。後で、もう一度病院に行こう。昨夜の準備は、自分の身体を削るような無理をさせた。今日の投資は結局実らなかったが、無駄ではない。この企画書は十分に通用する。今度は別の投資元を探せばいい。「まだ治ってないのか」すぐ隣から、冷えた男の声が落ちてきた。横目でそちらを見やると、礼央が無表情のまま、真衣の手首を淡々と一瞥していた。礼央はひとりで外へ出てきた。どうやら中では、萌寧と桃代がまだ残って、清水社長と具体的な契約内容の詰めに入っているのだろう。さきほどのひと言――それは礼央にとっては何気ない、口をついて出た程度のものだった。そんな彼の態度には、真衣ももう慣れていた。真衣は返事をしなかった。言葉を返す気力すら、今の彼女には残っていなかった。そうして、ふたりのあいだに静かな沈黙が落ちた。やがて、湊が車を入り口前までつけ
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第98話

「先に彼女たちを山から下ろしてやってくれ」礼央は淡々とした口調でそう告げた。真衣には分かっていた。礼央が、萌寧の顔を潰すようなことは決してしない。萌寧が言い出せば、礼央はほとんどの場合、頷く。湊は静かに頷いた。車に乗り込むと、ハンドルを握りながら尋ねた。「奥様、行き先は?」真衣はシートにもたれながら答えた。「最寄りの病院で」湊は一瞬きょとんとしたが、それ以上の詮索は無粋だと判断し、何も言わず車を走らせた。故障した車は、あとで修理の担当者に任せて引き取らせればいい。真衣はいつだって、自分を無理に追い込まない。使える車があるなら、当然それに乗る。その潔さに、慧美でさえ少し驚いたほどだった。まさか、あれほど迷いなく車に乗り込むとは。病院に到着すると、湊は自然な流れで礼央に電話をかけ、ふたりを無事に送り届けたことを報告した。電話の向こうの礼央は、特に何の感情も見せず、ただ静かにひと言だけ返した。「わかった」医師は真衣に軽い熱中症だと診断し、薬を処方してくれた。あとはしっかり休むこと。慧美はそんな真衣を見つめながら、ふとつぶやいた。「最近ますます痩せてるし、身体も弱ってきてるわ。ちゃんと養生しないと……もしかして、礼央のせいなんじゃないの?」「違うわ」真衣は言った。「ただ最近、忙しすぎて。身体のことまで気が回らなかっただけよ」真衣は確かに忙しすぎた。お金を稼ぐことに、そして自分の手からこぼれ落ちた、すべてのものを取り戻すことに。「まずは帰ってゆっくり休みなさい。今夜は私が千咲を迎えに行くから」慧美の言葉に、真衣は小さく頷いた。本当に、今日は無理をしたくない気分だった。「会社の投資のことは……心配しないで。何とかするから」――真衣は帰宅すると、軽くシャワーを浴びた。そのあとで、礼央から渡された輸入薬を取り出し、包帯を外して傷口に丁寧に塗り込んだ。塗り終えると、そのままベッドに倒れ込んだ。気づけば眠りは深く、時間は夜の八時を過ぎていた。彼女を起こしたのは、富子からの電話だった。「真衣、礼央に頼んで雲城のリゾート山荘へ連れて行ってもらったのよね?どうだった?楽しかった?」真衣は、ふと動きを止めた。そしてすぐに、鼻先で笑みを漏らした。なるほど――それは富子から下された任務だったのか。それを
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第99話

真衣は簡潔に、そのプロジェクトの内容を安浩に説明した。話を聞きながら、安浩は手にしていた箸をゆっくりと置き、ふっと笑った。「そんなやり方じゃ、投資家にはまず辿りつけないよ」そんなこと、真衣自身も分かっていた。本気で繋がりたいのなら、正式に企業へアポイントを取らなければならない。それでも仕事の合間、手を止めたくなかった。できることは何でもやっておきたい。情報を集めておいて、損はないと思っていた。「ニュースで見たんだけど、来月、市主催の企業家会議が開かれるって。新旧産業の方向性とか、革新について話し合うらしい。もし計画が実現性のあるものなら、政府から強力な支援が得られるそうよ。私も、できれば行ってみたい。でも……さすがにあの参加枠は無理ね」その枠は、並大抵のことでは手に入らない。たとえ実力のある企業家でも、簡単に入れるものではないのだ。安浩はそんな真衣を見て、口元に淡い笑みを浮かべた。「まあ、確かに。その道は、今の段階じゃ考えないほうがいい」今の自分たちには、まだその資格がない。「市の会議には手を貸せないけど……明後日、常陸グループ主催の業界サミットなら参加できる」その一言に、真衣は思わず動きを止めた。常陸グループは、航空宇宙分野における重鎮的存在だった。業界内での影響力は抜きん出ており、その名を知らぬ者はいない。常陸グループが主催する業界サミットには、専門分野の企業家や研究者はもちろん、関係省庁の官僚までもが招かれる。規模だけを見れば、市主催の会議には及ばない。だが、業界内では十分すぎるほどにハイレベルな場だった。そこに集まるのは、いずれも実力も影響力も兼ね備えた、いわば業界を動かす大物たちばかり。このサミットに参加できれば、真衣にも投資家たちと直接顔を合わせる機会が生まれる。安浩の実家は、誰もが知る名門で、その財力もまた桁違いだった。世間では御曹司などと言われてきたが、彼自身はそのレッテルに甘んじなかった。家からの資金援助を一切受けず、自らの手で立ち上げた九空テクノロジー。それを、いまや業界の新たなダークホースとして台頭させているのだ。真衣は、そんな安浩を見つめながら、何と言って感謝を伝えればよいのか分からなかった。言葉がいくつも喉の奥までこみ上げたが、最後に出たのは、ただひとつの誠実な言葉だった。「…
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第100話

萌寧は礼央に電話をかけ、自分が直面している問題を訴えた。「私はただ、業界の勉強と交流のために参加したいだけなの。でも、以前は真衣さんのせいで九空テクノロジーへの入社を拒まれて、今回もまた……あまりにも不公平すぎるわ」電話口の男は、数秒間黙った。何か作業中だったのか、少し間を置いてから静かに答えた。「心配するな。俺が何とかする」――その日の真衣は、残業続きだった。九空テクノロジーの新システムテストが走っており、データ解析に追われて、夜遅くまで会社を出られなかった。部屋の中では、千咲がひとりおとなしく宿題に取り組んでいた。ただしその内容は、幼稚園の課題ではなく、すでに奥深い数学オリンピックの問題ばかり。幼稚園で出されるような簡単な宿題は、今の彼女には物足りなさすぎたのだ。インターホンが鳴った瞬間、千咲は小さく身体をこわばらせた。手にしていたペンをそっと置き、ドアへと歩み寄る。すぐには開けず、まずはモニターで来訪者を確認する。ドアの前に立つ男の姿を見た瞬間、千咲の手がわずかにこわばり、心臓がどきりと跳ねた。黒い服を着た礼央が無表情でドアの前に立っていた。父親の姿を見て、千咲の胸はどうしても高鳴ってしまう。……パパ、もしかしてママを迎えに来たのかな?千咲は唇をきゅっと引き結び、ドアを開けた。「おじさん……」「……ああ」礼央は淡々と返した。「ママは?」「残業してて、まだ帰ってこないの」礼央は何も言わず、長い足を一歩踏み出して、そのままソファに腰を下ろした。千咲はお湯を一杯差し出したが、彼は手を伸ばすこともなかった。千咲との会話も一切なかった。千咲は机に戻って座ったが、もう数学の問題を解く気にはなれず、何度も礼央のほうをちらちらと見やった。机の上に置かれたコップの水は、最初からまったく動かされなかった。パパは、彼女が差し出した水には口をつけないのに、翔太が何かを渡せば、笑顔で受け取ってくれる。「おじさん」千咲が口を開いた。「その水、ちゃんときれいだよ」言外の意味は、それは飲める水で、不潔だと思わなくてもいいということだった。礼央は、手元のスマートフォンを見つめたまま、まぶたすら動かさずに、淡々と一言だけ返した。「……ああ」小さい頃から、千咲はどうにかして礼央に近づこうと、
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