All Chapters of 火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

沙夜は真衣を見つめる目に、ほんの少し痛ましさを滲ませた。真衣は高瀬家で何年も過ごすうちに、権力の恐ろしさも、人の本質もとうに見抜いていた。けれどただひとつ、礼央が自分を愛していないという事実だけは、ずっと見ようとせず、どこかで期待を捨てきれずにいた。何しろ、二人の間には、千咲という素直で可愛らしい娘がいる。そして真衣は、礼央の親友に託された翔太のことも、大切に育ててきた。いつかその誠意が礼央の心を動かすはずだと、そう信じていたのだ。けれど今では、真衣のすべての真心は、礼央の冷たい無関心の前にあまりにも空しく、滑稽でさえあるように思える。幾年にもわたる結婚生活は、終わってみればただの茶番だった。愛していない男に、どれほどの真心を尽くしたところで――その男は、一度たりともまっすぐに見てくれることはないのだ。――真衣が退勤間際になると、警備課から一本の電話がかかってきた。「寺原さん、正門にお迎えが来ています。ご主人様だと名乗っていますが……」眉をひそめかけた真衣は、思わず「夫なんていない」と言いかけて、ふと何かに気づいたように言葉を飲み込んだ。電話を切ると、そのまま足早に階下へ向かった。会社の正面玄関に着くと、礼央のマイバッハが木陰に静かに停まっているのが目に入った。真衣は唇を引き結び、ためらいながらも車に近づき、窓を軽くノックした。すぐに後部座席の窓が下り、無表情な男の顔が現れる。礼央は淡々と彼女を見つめながら言った。「乗って話そう」「何の用?」礼央は膝の上に手を添え、整えるようにスーツの襞を軽く撫でながら、落ち着いた口調で答えた。「お前が欲しがっていたものだ」礼央の言葉は簡潔で、余計なやりとりをする気はなさそうだった。真衣は一瞬だけ迷ったが、最終的にドアを開けて車に乗り込んだ。わざわざ車で迎えに来たということは、きっと本当にあれを持ってきたのだろう。でなければ、こんな無駄なことはしないはずだ。真衣が乗り込むと、前列の運転手は気を利かせて無言で車を降り、二人きりになるようにしてくれた。狭い車内に、残されたのはただ二人。静まり返った空間には、お互いの呼吸音さえ微かに響く。一席挟んでいるにもかかわらず、真衣は礼央の体からほのかに漂う香りを感じ取った。昔は、この香りが大好きだっ
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第82話

真衣はドアを開けて車を降りた。運転手がすぐに乗り込み、車はそのまま走り去っていった。真衣は視線を落とし、手の中のブローチを見つめる。小箱をぎゅっと握りしめる手に、重みがのしかかってくるようだった。胸のつかえがひとつ、これでようやく下りた気がした。ブローチを取り戻せたことは、自分の中で大きな区切りだった。そのまま階段を上がっていくと、沙夜が目を丸くした。「……え?もう渡してくれたの?」ずいぶん手際がいい。脅しの道具にでもしてくると思ってたのに――「そもそも、あの人たちにとっては、こんなものに価値なんてないのよ」真衣は淡々と言った。「持っていても意味はないし、私にしつこく絡まれるだけだから」真衣は冷笑した。わざわざ執拗にせがまれるくらいなら、最初から返してしまった方が早い――その方が手っ取り早いと、彼らは思ったのだろう。それにしても、萌寧の方は本当にあっさりだった。まさか礼央まで、こんなにもあっさり渡してくるとは思わなかった。昨日の礼央はあんなにも無関心そうだったのに――あの時の言葉なんて、てっきり右から左に聞き流されたと思っていた。「……順調すぎて、逆にちょっと気味が悪いよね」沙夜は身震いして言った。「二人ともどう見ても善人には見えないし、油断しない方がいいよ」それを聞いた真衣は、ふっと笑みを漏らした。「もうすぐ離婚するのよ。何が起きたって、私にはもう関係ないわ」萌寧だって、たぶん一日でも早く離婚したいはず。催促なんかしなくても、礼央は自分からとっとと手続きを進めるだろう。だって――自分の大切な女を、誰にも言えない愛人の立場にしておくなんて、我慢できるわけがない。「なに話してたの?」その時、安浩がコーヒーカップを片手に近づいてきて、真衣に視線を向けた。「今夜、取引先と会食がある。一緒に行かないか?技術面の確認の話で、何かあればすぐフィードバックできるように」真衣は頷いた。「……わかった。でも、まず千咲を迎えに行かないと」母親に頼むのは気が引けた。慧美は、自分のことでさえ手一杯のはずだから。沙夜が少し考えてから、静かに言った。「……これからも、そういう会食は増えるよ。条件が整ったら、いっそ千咲に家政婦を雇ったら?その方がいろいろ楽になると思う」職場は容赦がない。子どもを持つ女性にとっ
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第83話

会食が無事に進んでいく。安浩は真衣にあまり酒を飲ませなかったが、それでもかなり飲んでしまい、胸が重く、頭もぼんやりしてきて、部屋の中はますます息苦しく感じられた。久しぶりの酒だったせいで、すっかり酒に弱くなっていた。真衣はトイレに行くふりをして、個室の外に出て少し息をついた。今日の会には桃代だけでなく、九空テクノロジーの特許を目当てにした多くの提携先が顔を揃えていた。安浩としても、できる限り良い条件で売りたかった。売上があってこそ、会社の研究チームにも資金を投入できる。研究には金がかかる。真剣に取り組むのは当然だが、それと同時に資金源の確保も不可欠だった。第五一一研究所のように国からの予算があれば話は別だが、安浩は独立してやっている以上、相応の苦労が伴う。外は夜風がほんのり冷たかった。真衣は息を整え、少し気分が楽になった。「礼央、ダメよ。裏口から入ったなんて言われたくないもの」少し離れたところから、萌寧の声が聞こえてきた。真衣は空耳かと思った。目をやると、礼央たちの一行が堂々と入ってくるのが見えた。高史や中川知之(なかがわ ともゆき)も一緒だった。知之も礼央たちの友人だったが、普段は会社の業務で忙しく、こうした集まりにはあまり顔を出さない。高史が言った。「誰も萌寧がコネを使ったなんて言わないよ。クラウドウェイはいつだって萌寧を大歓迎するよ」萌寧は笑ったが、何も言わなかった。「ねぇ礼央、私が会社を立ち上げたらどう思う?」礼央は言った。「萌寧ならやれるさ」萌寧は腕をさすりながら呟いた。「初夏の夜って、案外冷えるのね」「風邪をひかないように」礼央は萌寧に上着をそっと掛けた。表情も声も穏やかだった。真衣は視線を引き戻し、そっと眉を伏せた。この光景は、かつて自分が夢見たものだった。自分もいつか礼央と他の恋人たちのように、親密になれると信じていた。礼央もきっと、自分に優しくしてくれるはずだと。何度も、冬の寒い日にわざと薄着で出かけ、「寒い」と口にしてみた。それでも礼央は一度たりとも気にかけてくれなかった。真衣は皮肉めいた笑みを浮かべた。ああ、わかっていて無視していただけ。優しさなんて人を選ぶ。相手が自分じゃなかっただけだ。顔を合わせる気になれず、真衣は踵を返して個室へと向
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第84話

「今晩、何が食べたい?」礼央は萌寧に静かに尋ねた。「先に個室で注文しよう」礼央と真衣の関係を知らなければ、まるで他人のようにしか見えない距離感だった。萌寧は微笑み、身に着けていた上着をきゅっと握った。「うん、いいわ」真衣も、まるで礼央のことを知らないかのように通り過ぎた。だがすれ違いざま、高史は真衣の身体から強い酒の匂いを感じ取ると、からかうように言った。「礼央と別れたと思ったら、今度はホステスかよ?」真衣の足が止まり、無表情のまま冷ややかな目を向けた。「今朝はトイレの水で歯でも磨いたの?口が臭いわね」安浩が何か言おうとしたが、真衣は相手にする気もなく、安浩がこの一行と揉めるのも望んでいなかったため、その腕を引いてその場を離れた。高史の表情が一気に冷えた。背を向けて去っていく真衣たちの姿を見ながら、吐き捨てるように言った。「あの女、ほんと呆れるな。結婚中に浮気して、それを堂々とやってのけるなんて……これで俺たちが見かけたの、もう二度目だよな。礼央、黙ってていいのか?」高史がそう言っても、礼央は無表情のまま、何も答えなかった。ちょうどそのとき、桃代が荷物をまとめて個室から出てきた。萌寧は思わず目を見開いた。こんな場所で母娘が顔を合わせるとは思ってもみなかった。帰国してからというもの、萌寧は仕事の関係で、実家に帰って母と話をする時間もほとんどなかった。礼央たちは桃代を食事に誘ったが――「結構よ。さっき食べたから。萌寧と、少し話をさせて」礼央らはそれ以上余計な口を挟まず、先に個室に入って注文を始め、ふたりきりで話せる時間をつくった。桃代は、今回の会食の目的――九空テクノロジーとの商談について萌寧に伝えた。「九空って、ちょっと気位が高いのよ。応募したけど、あっさり断られちゃったわ」「えっ?そんな話、聞いてなかったけど?」桃代は娘を見つめて、穏やかな口調で言った。「でも心配いらないわ。あなたは礼央と仲がいいし、彼は人脈も豊富よ。あなたの実力なら、入りたい会社なんていくらでもあるわ。どうしても無理なら、うちの会社に戻ってくればいいのよ」萌寧はその言葉に首を振った。「今は自分の力でやってみたいの。誰かの力を借りるのは、まだしたくない」留学してダブルディグリーを取ったのも、萌寧自身の
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第85話

桃代の言い方は控えめだったが、言いたいことは十分に伝わっていた。萌寧は意味ありげに微笑んだだけで、何も答えなかった。桃代は、やっぱりそうなのだろうと心の中で確信した。すると萌寧は、さっと話題を切り替えた。「最近、投資を集めてるって聞いたけど……どうして九空と組むことにしたの?」桃代の表情が一瞬で冷え込んだ。「真衣の母・寺原慧美もその投資を狙ってるの。つまり、私たち競合ってわけ。ちょうどあなたに相談しようと思っていたの。あの出資者には、私も慧美もまだ一度も会えてないの。まるで神出鬼没で、姿を現さないのよね」萌寧は黙って聞いていたが、考えるように目を伏せた。表情に大きな変化はなかったが、静かに頷いた。「わかったわ。私の方でも手を打ってみる」桃代は、娘が優秀であり、商才もあることをよく分かっていた。「さ、早く中に入りなさい。礼央たちをあまり待たせちゃだめよ。あとでまた電話するから」――翌日。九空テクノロジー。安浩は契約書を手に、沙夜のもとへ更新の打ち合わせに向かった。九空は高瀬グループと業務提携しており、社内の一部システムには高瀬グループが持つ特許が使われている。その契約が切れるため、再契約の交渉に行く必要があった。仕事と私情は別だ。稼げる金を見逃すなんて馬鹿げている。何より、高瀬グループの特許は業界でも群を抜いて優秀なものだった。沙夜は眉をひそめた。「このこと、真衣に伝えなくて大丈夫?真衣が知ったら絶対に気にするわよ。私、今でもあのクズ男を殺したいくらいなんだから」「仕事は仕事、私情は私情。話すべきことは、ちゃんと話さなきゃ」真衣はドアを押してそのまま中に入り、二人のほうへ視線を向けた。「高瀬グループはこの分野でも事業展開していて、業界内での評価も高い。同じ業界にいる以上、いずれどこかで顔を合わせるのは避けられない。私のことで避け続けるなんて、現実的じゃないわ」沙夜は真衣を見つめ、眉を寄せた。「でも……」真衣は軽く眉を上げて、くすっと笑った。「私たち、もう子どもじゃないでしょ?こんなことで意地張る必要なんてないわ。お金のことになると、誰だって割り切るものよ」やるべき仕事はきちんとやる。稼げるチャンスをみすみす逃すなんて、ただの損だ。高瀬グループは業界でも一目置かれていて、独自の特許をいく
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第86話

寛の視線があまりにも軽蔑的で熱く、真衣は無視できなかった。高瀬グループで働いていた頃、同僚たちが自分をまともに評価したことなど一度もなかった。だが、真衣は寛の態度や視線にいちいち反応しなかった。寛は、あたかも自分のことを知らないかのような真衣の様子に、内心で白い目を向けた。何をそんなに気取っているのかと。どうせ顔が少し整っているだけで、他に取り柄なんて何もないくせに。会議室内。真衣と安浩は席について待っていた。その時、萌寧がドアを開けて入ってきた。萌寧の姿を見て、真衣は一瞬だけ動きを止めた。「真衣さん?」萌寧は驚いた様子も見せずに言った。「さっきここに来る途中で、もしかしてあなたも常陸社長と一緒に来てるんじゃないかって思ってたけど……本当に一緒だったのね」萌寧は席につき、安浩のほうを見ながら、淡い笑みを浮かべた。「常陸社長、お越しいただきありがとうございます。本来なら技術チームの責任者が来てお話しすべきだったのですが、今日は出張中でして、業務全般は私が代理しております」安浩は彼女を見て尋ねた。「外山さん、今は高瀬グループで働いているのか?」「いえ、でも私は礼央と幼い頃から一緒に育ちました。彼のものは私のもので、私は決定権を持っています」真衣は口を挟まず、穏やかな表情のままだった。かつて会社にいた頃、礼央は一度も自分に核心プロジェクトを任せようとはしなかった。ましてや技術チームに関わらせるなんてもってのほかだった。それが今では、萌寧は入社すらしていないのに、高瀬グループを代表して彼らと直接交渉している。まるで堂々たる社長夫人の振る舞いだった。萌寧の仕事ぶりは終始事務的で、専門性も高く、きちんとした印象を与えていた。最終的に契約の更新は決まったが、契約書の署名は別の機会に行い、条項についても改めて確認することになった。萌寧は立ち上がり、安浩と握手を交わした。「常陸社長、私は以前から九空テクノロジーが素晴らしい会社だと思っていました。ですから、とても期待しています。私はすべてのことを仕事としてきちんと対応しています」萌寧はちらりと真衣に目をやり、含みを持たせた口調で続けた。「常陸社長も、今後はそうであってくださると嬉しいです」安浩が自分の入社を拒んだのは、真衣のせいだと萌寧は思っていた。
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第87話

安浩は真衣を見つめ、どこか痛ましげな表情を浮かべた。「あいつは……そんなふうに君に……」礼央は一度も真衣を振り返らず、堂々と別の女性と共に立ち去った。萌寧は高瀬グループの正式な社員ですらない。それでもこうして商談の場に出てこられるのは、社長夫人という立場以外に考えられなかった。安浩は、よくここまで耐えられるものだと真衣に感心していた。あのときの萌寧の傲慢さときたら、目に余るものがあった。本当に、愛されている者は、いつだって何も恐れずにいられる。真衣は静かに視線を戻し、淡々と口を開いた。「協力関係の話し合いなんて、本来こういうものよ。私と礼央が結婚しているってことを抜きに考えれば、先輩もそんなに腹は立たないんじゃない?私はもう礼央と離婚するつもり。今、彼が誰といようと、私には関係ないわ」――真衣は最近、研究に打ち込む毎日を送っていた。パソコンでひたすら計算を重ねては、チーム全体と会議を開いたりと、常に忙しく動いていた。高瀬グループから戻ってきてからも、変わらず研究に取り組み続けていた。仕事が終われば家に帰り、千咲の世話をする。そんなある日の夜九時、携帯の着信音が思考を遮った。礼央からの電話だった。真衣は最初、出るつもりはなかった。けれど、礼央から自分に電話をかけてくることなど滅多にない。わざわざ連絡してきたからには、何か話さなければならないことがあるのだろう。真衣は電話に出て、淡々とした声で言った。「何の用?」礼央の声が返ってきた。「翔太が熱を出した。病院に行って様子を見てやってくれ」「それが私に何の関係があるの?」真衣は冷たく言い放った。「真衣」礼央の声色が少し低くなる。「翔太はお前が育ててきた息子だ。子どもの発熱は軽いことじゃない。こんな時に感情をぶつけるな」その言葉に、真衣は思わず震え、胸がきゅっと締めつけられた。どの言葉も、耳に刺さるように痛かった。子どもの熱が大事だってこと、礼央はちゃんとわかってるんじゃない。前世で、千咲が熱を出した時、礼央は一体どこにいた?病院に来ると言っておきながら、結局は約束を破って、萌寧のそばにいたくせに。真衣の目頭が熱くなった。深く息を吸い込み、視線を窓の外へと向ける。「軽視できないと思うなら、自分で行きなさい」「萌寧と地方に出
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第88話

「お医者さんが解熱剤を打っても熱が下がらないんです……このままじゃ脳に障害でも出たらどうしようって……」大橋は不安そうに声を震わせた。もし坊ちゃんに万が一のことがあったら――旦那様に責められたら、自分はどうすればいいのか……そんな恐怖が頭をよぎる。「アルコールを持ってきて。それから医者にもう一種類、薬を追加してもらって」真衣は落ち着いた声でそう指示し、具体的な薬の名前も告げた。翔太が熱を出すたびに必要になる薬だった。真衣がこれまで育ててきた経験から、そう判断していた。翔太は早産で生まれたこともあり、幼い頃から体が弱く、つい甘やかされて育ってきた。食べ物によるアレルギーが重症化すると、高熱を引き起こす体質だった。そんなときには抗アレルギー薬が効かなければ、熱は下がらない。大橋は、真衣がアルコールを使って翔太の体を丁寧に拭く姿をじっと見つめていた。そのあと薬も飲ませ、十分ほどしてから再び体温を測ると、翔太の熱は、ゆっくりとではあるが確かに下がり始めていた。大橋はほっと胸を撫で下ろした。子どもが熱を出して病院に行っても、医者は経験をもとに薬を処方するだけだ。けれど、本当に子どもの体質を分かっているのは、やはり親のほうだった。真衣は静かに、ベッドに横たわる翔太を見つめていた。胸の奥には、言葉にしきれないほど複雑な思いが渦巻いていた。翔太に対して、決して愛情がなかったわけじゃない。むしろ、生まれたての授乳期から「ママ」と口にするようになるまで、今までずっと自分の手で育ててきた。心を鬼にして、何もかも切り捨てるなんて、そう簡単にはできない。血がつながっていない。ただそれだけの違い。翔太に向けてきた気持ちは、実の子どもと何ら変わりなかった。むしろ病弱な翔太のほうに、千咲以上の気を配ってきた。もしあの夜、真衣が来ていなければ、翔太は本当に、脳に後遺症が残っていたかもしれない。その夜、真衣は病院から離れなかった。夜が明けるころ。翔太が目を覚ますと、真衣がベッドのそばでうつ伏せに眠っていた。小さな手がそっと彼女の袖を引っ張り、かすれた声で言う。「ママ……喉が渇いた」真衣は目を開け、翔太が起きているのに気づくと、水を注ぎながらやさしく声をかけた。「他に、どこか調子が悪いところはある?」翔太は弱々し
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第89話

翔太の目には、すべての過ちは母親である真衣のせいだと映っていた。もし以前から海鮮を食べさせてくれていたら、アレルギーなんて起こらなかった。真衣は静かに翔太を見つめ、唇の端にうっすらと皮肉な笑みを浮かべた。言うだけ無駄だった。5年も育てた息子が、これほどまでに恩知らずだとは。もう、誰かを救おうなんて思わなくていい。他人の人生には、ただ黙って距離を置けばいい。「食べたいなら、食べればいいわ」真衣は視線を外し、そのまま背を向けて病室を出ていった。その場にいた誰ひとりとして、彼女が出て行くのを気に留めなかった。ましてや、彼女の気持ちを思いやる者などいない。「パパ……」翔太は切なげな表情で礼央を見上げ、萌寧をかばうように言った。「萌寧ママを怒らないで。僕が体弱いから、病気になっただけなんだ」萌寧は眉を寄せ、翔太をそっとなだめた。そのあと、礼央を廊下に呼び出して話す。廊下で立ち止まった萌寧は、少し視線を落としながら口を開いた。「礼央……私はずっと海外にいたから、子どもの扱いに慣れてなくて……ちゃんと接するのも初めてで、どうしたらいいか全然わからなかったの。それに私、性格ががさつで……男っぽいところがあって、あんまり細かい気遣いとかできないの。翔太は私の息子だけど、どう育てればいいのか、本当にわからないのよ……」自分の未熟さを痛感しながら、萌寧はそう打ち明けた。礼央は静かな視線で萌寧を見つめた。「誰だって、何もかも完璧にできるわけじゃない。そんなに自分を責めなくていい」萌寧はそっと顔を上げ、まつげを微かに震わせながら唇を噛んだ。「でも……母親として、ちゃんと責任を果たしたいの。もう何年も逃げてきたから、これ以上間違いたくない」萌寧は翔太を取り戻したかった。礼央は翔太を実の子のように大切にしている。けれど、千咲には冷たい。明らかに千咲を嫌っており、父親と呼ぶことすら許さないほどに。「だから……」萌寧は少し言葉を選びながら、慎重に続けた。「子育てのことに関しては、真衣さんを本当に尊敬してるの。ふたりの子を、ちゃんと立派に育ててるし……どうか私にも、育て方を教えてくれないかな。この前、千咲が幼稚園の競技で第一位を取った時、本当に真衣さんの育て方ってすごいなって思いました。ぜひ秘訣を教えてほしいの」
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第90話

萌寧のこの言葉には、実に意味深なものがある。夫婦の関係を気遣うような口ぶりだが、そもそも、自分と礼央は名ばかりの夫婦じゃないか?真衣はかつて、礼央のことを少しだけ感心していた。彼はかつて、翔太は亡くなった友人・野村尚希(のむら なおき)の子で、自分はその友人に代わって責任を果たすつもりだと言っていた。礼央と尚希が幼い頃からの親友で、生死を共にするほどの間柄だということも、真衣は知っていた。尚希が孤児だった。そのため、ひとりぼっちの翔太を放っておけなかった。だからこそ、真衣も翔太に特別な思いを抱き、わが子のように大切にしてきた。だがその翔太が、実は萌寧の子どもだったと知ったとき、真衣は礼央と激しく衝突した。礼央・萌寧・尚希の三人は、北城では有名な仲良し三人組。まるで兄弟のような絆で結ばれた間柄だった。礼央は言った。翔太は尚希と萌寧の間に生まれた子だと。真衣はその言葉を、何の疑いもなく信じてしまった。けれど今となっては、愚かだったとしか思えない。翔太は間違いなく、礼央と萌寧の実の子だ。なのに、礼央はそれを隠し、真衣に五年ものあいだ、平然と育てさせた。そうでなければ、なぜ翔太は彼のことを「パパ」と呼び、千咲には一度もそう呼ばせようとしないのか。礼央は萌寧を海外に送り出して、華やかな肩書きと経験を積ませる一方で、真衣には高瀬家で五年間、家政婦同然の日々を過ごさせていたのだ。実に面白い。今や萌寧は帰国し、子どもも、キャリアも、すべてを手に入れている。前世の真衣は何も知らず、ただひたすら振り回されていただけだったが、今では、すべてがはっきりと見えている。「その演技、もうやめなさい」真衣は冷たい表情のまま、萌寧をまっすぐに見つめた。その声は嘲りに満ち、言葉は鋭く刺さる。「得手勝手な態度が、見ていて吐き気がするわ」萌寧はその場で硬直し、顔色がみるみるうちに青ざめていった。「真衣さん……どうしてそんなことを……翔太を育ててくれたこと、私は本当に感謝してるの……」そんなやり取りの間、礼央は静かな目で真衣を見据えた。「もういいだろ。いい加減にしろ」その言葉は、誰がどう聞いても萌寧をかばうものだった。真衣がこの数年、どれほど手を尽くしてきたか――そんなことは何ひとつ目にも入らず、あたかも翔太を育てたからといって、真衣が
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