All Chapters of 火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

翔太はぱっと文彦の膝の上から飛び降りた。「曾おじいちゃん、今日は曾おじいちゃんの九十歳のお祝いに、僕から芸をプレゼントするよ!」「ほう?」文彦は目を細め、微笑を浮かべる。「では、うちの翔太がどんな芸を見せてくれるのか、楽しみにしておこうか」翔太はにこっと笑いながら言った。「詩の朗読を準備しました。曾おじいちゃんのこれからの毎日が、詩のように美しく楽しいものになりますように」たった数言の言葉で、文彦の顔は笑みでほころび、もう口元が閉じきらないほどだった。翔太は宴会場のステージにのぼり、マイクをしっかり握ると、感情を込めて一編の詩を朗読し始めた。朗読が終わると、会場には大きな拍手が鳴り響いた。客たちは口々に「さすがは高瀬家の坊ちゃん」と褒め称えた。「ありがとう」褒められた翔太の顔は、誇らしさに満ちていた。「翔太は本当に優秀だ。さすが高瀬家の男だな!」文彦は誇らしげに言いながら、萌寧へ目をやった。「やはり萌寧は子育てがうまい。翔太はお前と一緒にいて、どんどん成長している」その言葉の一つひとつが、暗に真衣を責める響きを帯びていた。真衣の精一杯の育て方が、まるで間違いであったかのように扱われていた。「やっぱり、息子と娘じゃ違うものね」友紀はちらりと真衣を見て言った。「息子はあんなに優秀なのに、娘のほうは何を用意してくれたのかしら?」千咲は、高瀬家ではもともと歓迎されていなかった。愛されることもなく、ただいるだけの存在だった。今、翔太の輝かしいパフォーマンスを前にして、誰もが彼の才を称賛するなか、千咲は比べられ、何の取り柄もないように見えてしまっていた。その時だった。千咲がすっと立ち上がって言った。「私も、曾おじいちゃんのために出し物を用意してきたの」真衣は思わず息を呑んだ。千咲が準備していたなんて。前世では、そんなそぶりすら見せなかった。いや、もしかすると、あのときも準備していたのに、誰にも言えずにいただけかもしれない。真衣は眉をひそめた。前世の自分は、娘に向けるべき目を、あまりにも持っていなかったのだ。友紀は薄笑いを浮かべ、千咲を一瞥して言った。「お兄ちゃんが準備したものを、あなたも真似するの?」そのまま真衣の方に顔を向け、淡々と言い放つ。「同じ出し物なら、翔太だけで十分よ。あれだけ立派に披露し
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第72話

千咲は翔太をじっと見つめた。翔太は千咲に向かって舌を出した。「真似っ子~」千咲は視線を外し、深く息を吸い込むと、翔太を無視してそのままステージに上がった。千咲はコンピューターの前に立ち、最近ママから習った簡単なプログラミングを使って、その場で一枚の絵を作ろうとした。彼女はプログラムで曾祖父・文彦のおおよその姿を描き出し、操作が進むにつれて、その人物像はどんどん鮮明に、明瞭になっていった。客席の来賓たちは目を見張り、信じられないという表情を浮かべた。こんなに小さな子が、プログラムでこんなにも精密な画像を操作するなんて……文彦も、思わずその瞳に賞賛の色をにじませた。友紀の表情は少しずつ曇っていった。いつこんなことを覚えたんだ?萌寧はさらに眉をひそめ、千咲の一挙手一投足をじっと見つめた。萌寧には、千咲が本当に操作しているのがわかった。でもこんなに小さい年で……ありえない?友紀は冷たい表情で、使用人を呼び寄せ、耳打ちをした。真衣もまた、スクリーンに映し出された映像に目を奪われ、千咲の吸収力に驚かされていた。絵に関しては、もともと天性のものがあった。学んだことはすぐに覚えてしまう子で、プログラムの扱いも、ほんの一、二度教えただけのはずなのに――まさか、ここまで身についているなんて。動きこそぎこちなく、少しゆっくりではあるが、それでも千咲は確かに、自分の力で操っていた。翔太が萌寧に顔を向けた。「ママ、あれって何の操作?僕もやってみたい!」千咲になんて負けていられない。――何をするにも、自分が一番じゃなきゃ気がすまない。萌寧はふと目を伏せ、柔らかく微笑んでから、翔太の頭を優しく撫でた。「いいわよ。今夜、家に帰ったら教えてあげる」翔太は勢いよく胸を叩いて宣言した。「絶対に千咲よりうまくなってみせる!パパ、そうだよね?」礼央は無表情のまま、じっとステージを見つめていた。その瞳には、熱も冷たさも宿っていない。息子の声に、礼央はゆっくりと視線を戻し、口元にかすかな笑みを浮かべた。「もちろんさ」――2分後。スクリーンが突然ふっと暗くなり、同時にステージの照明も消えた。停電により、コンピューターのネット接続が切断され、操作が不能になる。千咲は作業途中の画面を見つめ、ぽかんと固まった。会
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第73話

たとえ文彦が男の子を贔屓し、翔太を溺愛していたとしても――千咲の非凡な才能を前にすれば、やはり褒めずにはいられなかった。同席していた来賓たちも、口々に千咲の優秀さを讃えはじめる。萌寧の表情は微かに曇った。その隣で、翔太はむっつりとした顔で黙りこくり、心の中では納得がいかない様子だった。千咲なんか、いつだって自分の足元にも及ばないと思っていたのに。今、目の前で追い抜かれようとしている。絶対に、次は自分のほうが上手くやってみせる。そもそも、頭の良さでは千咲にだって負けていないのだから。千咲の出番が終わると、晩餐会は何事もなかったかのように続いていった。会場を行き交う賓客のなかには、取引先やビジネス関係者も多く混じっていた。そして、宴席に姿を見せていた萌寧にも、次々と盃を交わしに人が集まってきた。北城の航空展では萌寧が大きな注目を浴び、第五一一研究所の一般公開にも礼央に同行して表舞台に立った。この業界に関わる者であれば誰もが知っている――萌寧は注目株の若手であり、高瀬家との関係もきわめて良好だということを。そんな萌寧に取り入ろうとする人間が多いのも当然だった。萌寧はそれを拒まず、まるで月を囲む星のように人々に取り囲まれながらも、訪れる相手には一人ひとり丁寧に応じ、場慣れした様子を見せていた。礼央は、萌寧が杯を重ねる姿に気づくと、自らその手を取り、代わりに数杯を飲み干す。三杯を飲み終える頃には、唇にうっすら笑みを浮かべ、静かに場を収めた。「萌寧はあまり酒に強くない。俺の顔を立てて、これ以上はご勘弁を」「高瀬社長、なんと優しい……」誰もが察していた。萌寧は礼央に庇われる存在であり、いくら媚びを売りたい相手とはいえ、度を越せば逆効果になる。真衣は、礼央がためらいなく三杯の酒を飲み干す姿を、じっと見つめていた。その眼差しが向かう先――そこにあるのは、柔らかな笑みを浮かべた萌寧の横顔だった。そんな目で見つめられたことは、一度たりともない。礼央が真衣に向ける眼差しは、いつだって冷淡で、氷のようだった。もう礼央への想いは終わったと、自分では思っている。けれど――こうして目の前に広がる情景は、やはり胸を刺すように痛かった。かつて礼央のアシスタントをしていた頃、付き合いの席で限界まで酒を飲み、ついには胃から血を
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第74話

真衣はこの本宅にも、ちゃんと着替えを置いていた。ドアを閉めた瞬間、庭先を通りかかる雪乃と鉢合わせる。「真衣」大きな雨傘を差した雪乃が、門のほうへと歩み寄ってきた。「礼央は?一緒じゃないの?」真衣は、その口ぶりがわざとらしいからかいと挑発であることをすぐに察した。「礼央のことなら、直接電話すれば?」皮肉な笑みを浮かべてそう返すと、雪乃の目に映ったのは、まるで別人のように変わった真衣の姿だった。以前の真衣は、まるで腰巾着のように高瀬家の人間に気を遣い、媚びるような態度だった。それが今では、人が変わったかのように、どこか距離を置き、見下ろすような冷ややかさを漂わせている。雪乃はその変化を、萌寧の優秀さに対して、真衣が感じた危機感だと受け取った。今夜の宴では、萌寧が十分に面目を保った。その一方で、高瀬家の妻である真衣はまるで見劣りし、人前に出すのも気恥ずかしいほどだった。「夫が帰ってこなくても、心配しないの?離婚されるかもって、不安にならない?」以前、真衣は雪乃の申し出をはっきりと断り、あまつさえ「離婚するつもりだから」と言い放った。まるでそれが誇らしいことかのように。でも結局、今になってしれっと戻ってきた。そのことが、雪乃の中ではいまだに腹の虫が治まらない。だから今、こうして皮肉を浴びせる好機を見逃すつもりもなかった。くだらない、と真衣は思った。取り合う価値もない。返す言葉すら無駄だった。けれど、雪乃はお構いなしに、さらに言葉を続ける。「礼央、萌寧を家まで送って行ったわよ。こんな雨の中でも、萌寧ったら『家に用事があるから』って帰ったの……礼央から、聞いてないの?」真衣の胸が、わずかに揺れた。ちくりと刺すような感覚が胸の奥に広がり、何か重たいもので包み込まれるように、息が詰まる気がした。真衣が礼央に送迎を頼めることなんて、一度もなかった。たとえば――あの年、千咲が夜中に体調が悪くなったとき、真衣自身もまた熱でふらふらだったのに、彼に「病院まで送ってほしい」と頼んだのだ。けれど、礼央の答えはただひと言。「仕事が忙しい。無理だ」だから、礼央が今夜、萌寧を送って行ったとしても、驚くことなんて何もなかった。ただ。どうしても胸に渦巻く思いが消せなかった。自分が何年もかけて、心を削って尽くしてきたことが、どれほ
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第75話

礼央は今夜、萌寧を家まで送って行ったきり、おそらくもう戻ってこないだろう。もともと礼央は、本宅で夜を明かすのを好まない。真衣は最近ずっと疲れていて、まともに休む暇もなかった。本宅ではあまり眠れないと思っていたのに、外から聞こえる雨音に包まれながら、思いがけず深く眠り込んでしまった。まどろみのなか、半分夢に沈んだ意識の奥で、ふと鼻先に馴染みのあるさわやかな香りがふわりと漂ってきた。彼女は寝返りを打って、そのまま再び眠りへ落ちた。――そして、目を覚ましたとき。真衣は、自分が礼央の腕のなかにいることに気づいた。礼央は彼女をしっかりと抱きしめ、まるで長年連れ添った恋人のような親密な姿勢だった。胸がどくんと揺れた。真衣の最初の反応は、礼央を突き放すことだった。そう思い、その通りに行動しようとした――が、熟睡していた礼央は、ほんのわずかに眉を寄せただけで、真衣の体をまた力強く抱き寄せた。そして、低くかすれた、甘い声で、気だるげに囁いた。「……動くな」はっきりとした言葉が一語一句、耳の奥まで染み込んでくる。真衣には、それがまるで青天の霹靂のように感じられた。結婚してからこれまで、礼央が一度でも自分をそんな甘い声で呼んだことがあっただろうか。ましてや、こんなふうに抱きしめて眠るなんて――あり得なかった。今の状況に辿り着く理由は、ひとつしか考えられない。礼央は、真衣を萌寧と間違えている。胸の奥が、棘でも刺さったかのように痛んだ。なるほど、あのふたりの関係とはこういうものだったのか。やはり、「愛している」か「愛していない」かの差は、残酷なまでに明確なのだ。真衣は深く息を吸い込んだ。そしてもう一度、力を込めて礼央を押しのけた。「……私が誰か、ちゃんと見て」礼央は夢のなかからぼんやりと目を開け、目の前の真衣を見て、眉をわずかにひそめた。その手は、すぐに真衣の体から離れていった。礼央が目を覚ました後の態度を見れば、先ほどの行動が何だったのかは、もう明白だった。――人違い。そうとしか思えない。真衣は静かにベッドを降り、距離を取った。その顔には、はっきりとした嫌悪が浮かんでいた。こんな状態が、彼女にとってどれほど不快か、彼は気づいていないのだろうか。礼央はゆっくりと身を起こし、無表情のまま彼女に視線を
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第76話

礼央は無表情のまま真衣に目を向けたが、その眼差しの奥にはどこか可笑しさを含んでいるようだった。きっと礼央自身も、こんな茶番を続けることに嫌気が差しているのだろう。だが、真衣はそんな礼央の態度など気にも留めなかった。すっと立ち上がり、千咲の手を取って、その場を後にする。事前に手配しておいたタクシーがすでに待っていた。礼央と同じ車で帰るなんて、真衣にとっては屈辱以外の何物でもなかった。「ママ、どうしちゃったの?そんなに怒っていて……」翔太はきょとんとした顔で、去っていく真衣の背中を見つめながら首を傾げた。礼央は何も答えず、淡々と視線を逸らしただけだった。「パパ、放課後に萌寧さんを呼んでもいい?昨日、千咲がやってたの、僕も教えてほしいの」礼央はナプキンを丁寧に畳み、静かに置いてから返した。「時間があるか、本人に電話して聞いてみなさい」――真衣は千咲を幼稚園へ送ったあと、聖也に電話をかけた。上訴の手続きは進んでいるだろうか――確認のためだった。受話器の向こう、聖也の声はいつものように穏やかで落ち着いていた。「すでに提出しています。受理されれば、通知が来ます。公式サイトで進捗状況を確認できますよ」その言葉を聞いて、真衣の胸の奥に重くのしかかっていた石が、すとんと落ちるように感じられた。たとえ手続きが煩雑で時間がかかっても、最終的に望む結果が得られるのであれば、それだけで十分だった。真衣は聖也に礼を述べつつ、訴訟にかかる弁護士費用について確認した。前回はつい話しそびれてしまい、聖也のほうからも特に言及はなかった。聖也のような一線級の弁護士ともなれば、依頼は常に引く手あまたで、その費用も破格だ。だが今回は、聖也が特別に友情価格として提示したのは――200万。支払いは、事件が終わってからでいい。そう告げられて、真衣は小さく息を吸い込んだ。高瀬家を出て以来、礼央からは一度も送金がなかった。仮に振り込まれたとしても、真衣はそれを使うつもりなどなかった。手元に残っていたわずかな貯金は、ほとんど慧美に渡し、自分の手元には生活費と家賃に充てるための100万だけを残した。これからの暮らしは、以前よりずっと切り詰めたものになるのは明らかだった。そこへきて、この高額な弁護士費用。どうやって捻出するか、考えるだけで頭
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第77話

真衣の胸の奥が、ずしりと沈んだ。礼央が自分の電話に出ないのは、今に始まったことではない。真衣は再び発信ボタンを押す。今度は……通話が繋がった。「もしもし?」受話器から萌寧の声が聞こえた。「どちら様ですか?」萌寧の声を聞いて、真衣思わず携帯を握る手に力を込め、指の関節まで白くなった。かつては、礼央のスマホに触れることすら許されなかった。なのに今は、萌寧がこうして電話に出る。どれほどの信頼と親密さがなければ、こんなことはできない。皮肉なものだ。真衣は目を伏せたまま、努めて感情を抑えた声で言った。「礼央に代わって」「あ、真衣さん?」萌寧がようやく状況を理解したように声を上げた。「すみません、礼央の携帯に登録されてなかったから、迷惑電話かと思って切っちゃって。今ちょっと忙しくて……何か伝えましょうか?」ブローチが萌寧の手にあることが、真衣にはどうしても引っかかっていた。けれどこれは、あくまで自分と礼央との問題だ。他人を巻き込むつもりは、ない。真衣は深く息を吸い込み、言った。「忙しいのが終わったら、折り返すよう伝えて」真衣の声は冷たく、距離を感じさせるものだった。萌寧は軽く笑いながらそう答えた。「ええ、きちんと伝えておくわ」電話を切ったあとも、真衣はずっとスマホの画面を気にしていた。けれど礼央からの連絡は、最後までなかった。終業時間が近づいた頃、安浩が一枚の書類を手に歩み寄ってきた。「これが君の雇用契約書だ。給与は最高基準で月200万、あと利益が出ればボーナスも加算される」その言葉に、真衣はわずかに手を止め、すぐに立ち上がって安浩の方を向いた。「……給料が高すぎるよ。まだ何の成果も出していないし、ボーナスなんてとんでもない」そんな彼女に、安浩は静かに、だが確かな目で言った。「寺原さん、君の力は僕が一番わかってる。200万なんて、君の価値に比べれば安すぎるくらいだ。それに君、自分で言ってただろ?技術出資でまず働いて、稼げるようになったら資金出資に切り替えるって。まさか、本気で九空でやっていく気がないってことは、ないよな?」もちろん、真衣にそんなつもりはなかった。ただ長年この業界から離れていた自分が、戻ってきたばかりでいきなりこんな厚遇を受けるのは、さすがに申し訳ないと思っただけだ。真衣はそっ
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第78話

真衣は、心の奥でひそやかに嘲笑った。パスワードなんて、とっくの昔に変えられている。今さら戻ってきたところで、それはただ、自ら恥をさらしに来たようなものだ。まだ離婚はしていない。それでも、もはやこの家では、自分は「よそ者」だった。「……うん」大橋に何を説明するでもなく、真衣は本題に入った。「礼央は、帰ってる?」「旦那様はまだお戻りではありません。今夜は残業とのことで、帰られるかどうか……」「ママ、帰ってきたの?」翔太が階段を駆け下りてくる。真衣が帰ってきたのを見て、翔太は少し嬉しかった。ママは久しぶりに帰宅した。認めたくはなかったが、本当に少し寂しかったのだ。特に、ママの手料理。あの味が恋しくて、何度思い出したことか。翔太は、かつてのように勢いよく真衣の胸元に飛び込んできた。「ママ、明日学校に送ってよ。朝ごはん、ママの作ったエビが食べたい」他の人が作ったエビは、食べるとすぐにアレルギーを起こす。でも、ママの作るエビだけは平気だった。しかも、すごく美味しい。翔太は真衣の胸元に顔をうずめ、甘えるように身体を預けてきた。真衣は、一瞬ぼんやりとした。まるで前の人生に戻ったかのようだった。翔太は、まるで千咲のように素直で、あんな刺々しさはなかった。たしかに、時おり困った癖もあったけれど、ちゃんと教えればきちんと直った。五年もの間、心を込めて育ててきた子だ。何の情もないはずがない。けれど、翔太が最終的に実の母親に懐いていったのも、責めることはできない。翔太はまだ、萌寧が実の母親だとは知らない。それでも萌寧のために、何度も自分に向かって辛辣な言葉を投げつけてきた。そして、翔太の姿は少しずつ――真衣の知らないものへと変わっていった。真衣は深く息を吸い込み、そしてそっと翔太を突き放した。「……そのエビなら、新しいママに作ってもらいなさい」翔太の身体が、わずかにこわばった。「ママ、まだ僕のこと……怒ってるの?」無邪気な瞳で真衣を見上げながら、彼はぽつりと続けた。「だって……パパも、萌寧さんのことママって呼んでいいって言ったんだよ。パパはね、僕にはママが二人いるって」そう言って、翔太は今にも泣き出しそうな目で真衣を見つめた。「ママは……本当に僕のこと、いらないの?」パパが言っていた。『ママは、翔
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第79話

萌寧の動きが、ぴたりと止まった。すぐに振り返ると、リビングの奥に立つ真衣の姿が目に入った。自分の「夫」が、他の女とこれほど親しげな様子を目の前で見せている――その光景を見ながら、真衣は自分の胸に渦巻く感情に、言葉を与えることができなかった。ただ、心の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。針で刺されたかのような鈍痛が広がり、喉の奥には何かが詰まったようで、声が出ない。次の瞬間――真衣はそっと、深く息を吸い込んだ。もう、彼らがどうなろうと、自分には関係のないことだ。萌寧は真衣の存在に気づいても、なお礼央の腕を離そうとしなかった。そして、まるで自然なことのように口元に笑みを浮かべて言った。「まあ、真衣さん、家にいるんだ?じゃあ、お風呂のお湯、張ってもらえる?礼央の身体は、私が拭いてあげるから」その言葉に、真衣は一瞬、耳を疑った。自分に風呂の支度をさせて、あの女が礼央の体を拭く?それが、正気で言えることなのか?これが、「愛される者は図に乗る」ということなのだと、真衣はようやく理解した。他人の妻が見ている前で、夫の体を平然と拭こうとする女。それを許しているという事実が、礼央がその女にどれほどの「許可」を与えているかを如実に物語っていた。こんなこと、私の知らないところで、何度あったのだろう?そう思うと、胸の奥がひどく冷えた。「邪魔はしないわ」嘲るように笑みを浮かべ、真衣は静かにそう言った。その言葉が落ちた瞬間、萌寧のスマートフォンが鳴った。着信画面を見た萌寧は、ほんの少し眉をひそめた。礼央がよろけずに立っているのを確認すると、萌寧は真衣の方を見て軽く言った。「真衣さん、礼央のこと、お願いできる?」そのまま萌寧は何事もなかったように踵を返し、電話を取りに外へと出ていった。真衣は鼻先で笑い、あからさまに白い目を向けた。もとより面倒を見るつもりなど一切ない。さっさと自分もその場を離れ、外へと歩き出した。礼央の意識ははっきりしていないようだった。今日は何を問いただしても、どうせ無駄だ。彼らの「逢瀬」を邪魔するだけだし、こんな場所で時間を浪費する気もなかった。歩き出そうとしたその瞬間だった。ふらつく足取りで近づいてくる礼央の姿が目に入り、次の瞬間には、その重たい体が勢いよく真衣に倒れかかってきた。鼻先をかす
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第80話

礼央はこめかみを軽く揉みながら、まるで当然のことのように口を開いた。「風呂、湯を張っておいてくれ。あと、水も頼む」真衣は彼を見つめた。その瞳の奥には、冷ややかで乾いた嘲りが宿っていた。自分を何だと思っているのだろう。無料の家政婦。子供を産み、家を守るだけの安い労働力。昔の自分なら、礼央がそんなことを言わずとも、真っ先に立ち上がり、手際よく世話を焼いていた。彼の眉がわずかに動くたび、不快がないかと気を配っていた。だが今、真衣は滑稽に思えた。酔って意識が朦朧としている時でさえ、礼央は自分を家政婦のように扱い、適当に済ませようとする。そんな男を、自分は何年も愛していたのだ。あの頃の自分は――ただの盲目で、愚かだった。真衣は嘲るように冷笑した。「あなたの大事な萌寧に洗わせたらどう?」真衣が別荘を出ると、ちょうど電話を終えて戻ってきた萌寧と鉢合わせた。「真衣さん、お風呂の準備はできたの?」真衣は嘲るように唇を引き、何も言わずその場を離れた。萌寧はしばらくその背中を無言で見送っていたが、やがて踵を返し、再び屋内へと消えていった。別荘地を抜け出した真衣は、大きく息を吸い込む。外の空気はひんやりと澄んでいて、さっきまでの胸のつかえが、ほんの少し和らいだような気がした。もし明日、ブローチが戻らなければ。その時は、別のやり方で取り返すだけのことだ。翌日。真衣のスマートフォンに、ひとつのメッセージが届いた。上訴申請が正式に受理され、すでに案件として立件されたという。関連書類も発送済みとのことだった。今回は同じ市内からの速達便だ。順調ならば、礼央のもとに今日中には届くはず。その通知を見た瞬間、胸の奥にずっと引っかかっていた重たい石が、少しだけ静かに落ちた気がした。――礼央は、ひどい二日酔いに襲われていた。頭の芯がじんじんと痛み、目の奥までズキズキと響く。階下へ降りる途中、いつもの癖で真衣に牛乳を頼もうとして声をかけた。だがそれに応えたのは、台所から慌てて出てきた大橋だった。「旦那様、奥様は今日もご不在です。牛乳、お持ちしますね」その言葉で、礼央はようやく思い出す――真衣は帰ってこなかったのだ。礼央は無言で頷くと、何事もなかったかのように着替えに向かった。会社に到着すると、アシスタントが簡潔にその
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